第一章 ぼくはバイトで暮らす貧乏学生

 梅雨だというのに、いい天気だな。ぼくは、まるで真夏のように晴れ渡った青空を見上げて、そう呟いた。今日はいいドライブになるぞ。
 ぼくは、セルを回して、バイクのエンジンをかけた。ギアをローに入れて、スロットルを回しながら、クラッチを離す。バイクは、すっと走り出した。やっぱり違うな、400は。

 昨日まで、ぼくはゼロハンに乗っていた。パタパタと頼りない音で、いくらふかしても、前に進まなかった。ギアを上げトップに入れる。全くストレスがない。金が貯まったら、今度は免許を取って、ナナハンだなと思いながら、ぼくは国道を北上していった。
 腕時計は、午後4時40分を指していた。この時間、市外へ向かう車は、そう多くない。車の間を縫って、ぼくは飛ばしていく。時速90キロ。まだまだ出るけど、あんまり廻すとエンジンに負担が掛かるから、少し押さえている。今日は慣らし運転も兼ねているからだ。それにしても、気持ちいいなあ。最高だ。

 大口径のマフラーをつけて、シャコタンにしたRX7が、轟音を立ててぼくのバイクを追い抜いて行った。
 助手席に、お世辞にも可愛いとは言えない女を乗せていた。ブスって言葉は、差別用語かも知れないけれど、それがぴったりの女だ。真っ黄色に染めたマッシュルームのような髪型。まるでパンダのようなアイシャドウ。着色された安物のたらこのように真っ赤に塗られた唇。土台がひどい上に、化粧の仕方もなってない。
 男の方はと言えば、色黒の痩せた男で、ボサボサの茶髪に、ピアスをしていた。この男も、とてももてそうにない。似合いのカップルと言えば、そうかもしれない。
 ついさっき、信号で停まった時、あのRX7が横に停まっていた。バイクに敵うはずがないのに、信号グランプリを仕掛けてきた。見かけ通り、頭の中が空っぽの馬鹿な男だ。頭を振ったら、カラカラと音がするだろうなと思った。当然、ぼくの方がぶっちぎってやった。ぼくがスピードをそれほど上げないで走っていたから、遅ればせながら、追い抜いて行ったと言うわけだ。
 もう一度、抜き返してやろうかなと思った時、おもちゃのバンバンの大きな看板が目に入った。ぼくは、開きかけたスロットルを慌てて緩めた。危ない、危ない。この先には、いつもネズミ取りがいる。こんなスピードで走っていたら、即、免停だ。
 指定速度は60キロ。ぼくは、65キロ付近まで、ゆっくりとスピードを落とした。
 500メートルほど先の植え込みの陰から、赤い旗を持った警察官が躍り出てきて、RX7を停めた。あのスピードだったら、一発免停間違いなしだ。
 ぼくのバイクが、RX7の横を走り抜けるとき、ピアス男が、悔しそうな顔をしてぼくを見た。ぼくは心の中で、ざまあ見ろと笑った。他人の不幸は、密の味だ。

 そこから1キロほど走って、ぼくはウインカーを出し、左折して国道を離れた。すぐに町並みが消え、山道へと入った。中央線のないアスファルト道を昇って行った。途中に、工事車両出入り口と書かれた看板があって、大きなダンプが出てきた。この先には、一戸建て用の大きな団地ができるらしい。
 ガードマンに制止され、ぼくはダンプが出て行くのを待っていた。出てきたダンプの運転席をふと見ると、ダンプを運転していたのは、えっ! こんな人がダンプの運転してるの!? と驚くくらいの、髪の長い、美形の若い女だった。思わず口笛を吹きたくなるような女だ。最近の女も変わったなと思った。ぼくは、土煙をあげながら道を下って行くダンプをしばらく見送っていた。
 ピピッと笛が鳴り、ガードマンが、ぼくに行ってもいいよと合図をして、頭を下げた。ぼくは再び走り始めた。

 しばらく走ると、ぼくはもう一度左折した。ここからは、舗装されていないでこぼこ道なので、ぼくはスピードを落として、慎重に運転する。新車を台無しにしては大変だ。頭金を入れただけで、まだほとんど支払いが済んでいないのだ。
 雑木林の中を抜け、しばらく走って、今度は右折した。曲がり角に、円城寺家入り口と書かれた、その気で見ないと見逃してしまうように小さな矢印が出ている。もうすぐ目的地だ。
 目的地は、矢印が示す円城寺家で、この道が途切れた突き当たりにある。ぼくは、家庭教師をするために円城寺家へと向かっている。円城寺家は、高い塀で囲まれた、広大な土地の中に建つ、大きな洋館風の建物だ。親が何をしているのか、聞いたことはないけれど、かなりの金持ちらしいことは確かだ。

 ぼくは、門の前にバイクを停め、インターフォンのスイッチを押した。しばらくして中から、女の声がした。
 「はい、どなた?」
 「森です。家庭教師の」
 「ああ、いらっしゃい。ちょっと、お待ちになって」
 その声は、円城寺家のお手伝いさん、お民さんの声だ。お民さんは、50くらいの色白の太ったおばさんで、円城寺家には、30年以上前から、住み込みでお手伝いをしていると聞いた。本名は、たしか原口民子って言ったかな。お民さんのご主人も、この屋敷で雑用係として働いていると聞いたが、顔を見たことがない。この広大な円城寺家の庭の世話が主な仕事だと言うことだ。
 門がゆっくりと屋敷側に開いていく。まるで、外国映画を見ているような、電動で開閉する門だ。電動で開閉する門なんて、日本に何カ所くらいあるだろうか?
 玄関まで、アスファルトで舗装された道を進む。玄関前にはロータリーがある。ロータリーの真ん中には、大きな蘇鉄が植えられている。
 ぼくは、バイクを玄関横の空き地に停めた。お民さんが玄関から出てきて、いつものようにぼくに声をかけた。
 「森先生、いつもお疲れさま。お嬢様がお待ちですよ」
 「はい、すぐあがります」
 「あら、バイク、買い換えたの?」
 お民さんは、玄関から出てきて、ぼくのバイクを興味深げに眺めた。
 「はい。今日が試運転なんです」
 「乗り心地はどう?」
 「最高ですよ」
 「わたしも、乗ってみたいな」
 お民さんは、ぼくのバイクを、犬か猫のように撫で回している。
 「えっ!? 乗ってみたいって、後ろにですか? それとも、お民さん、運転できるんですか?」
 「バイクの運転くらいできるわよ。こう見えても、わたし、昔はナナハンに乗っていたのよ」
 「ええっ!? ナナハンにですか?」
 ぼくは、目を丸くした。お民さんは、にこりと笑って、自慢げに言った。
 「そうよ。当時、このあたりでは、一番大きなバイクに乗っていたから、有名人だったのよ」
 「へええ、知らなかった」
 お民さんの、今の体格からすると、とてもそんな風には見えない。おばんバイクが一番似合いそうだが・・・・。そんなことは口に出して言えないけど。
 お民さんは、ぼくのバイクをなめるように見ていた。あの目つきは、確かに好き者の目だ。
 「じゃあ、上がりますから」
 お民さんは、ぼくのバイクに夢中で、返事もしない。玄関に揃えられていたスリッパを履いて、階段を昇りながら振り返ると、お民さんは、まだバイクをしげしげと眺めている。

 ぼくは、二階の『お嬢様』の部屋に昇っていった。『お嬢様』の名前は、円城寺沙也佳。年齢は、16歳。来月17歳になると聞いた。高校には行っておらず、家庭教師が教えている。ぼくは、英語と数学。ぼく以外に、国語関係を教えている家庭教師と、化学生物関係を教えている家庭教師がそれぞれいると聞いている。
 家庭教師を雇うより、高校に行った方が安上がりだし、きちんとした勉強ができるんじゃないかなと思う。
 『お嬢様』の部屋のドアをノックした。間髪を入れず、可愛い声が帰ってきた。
 「はあい、どうぞ」
 部屋に入ると、『お嬢様』が畏まって待っていた。
 「こんにちわ。沙也佳ちゃん」
 「森先生、こんにちわ。お願いします」
 「今日から、微積分だったね」
 「はい」
 「じゃあ、始めよう」

 ぼくの名前は、森敬一郎。某大学の理学部2回生だ。理学部に入ったのは、別に理由や目的があったわけではない。ぼくは、大学には、学歴を取るためにやってきた。別にどこの学部でも良かった。ネームバリューのある大学で、ぼくの成績で入れるところが、たまたま、この大学の理学部だっただけだ。卒業証書さえ手に入れば良かったから、ぼくは、卒業に必要な単位を取る以上のことは全くしておらず、代返の効くところは、すべて代返してもらっていた。つまり、ほとんど、遊びで大学に通っているようなものだった。親に生活費を送ってもらって、優雅な学生生活をしていた。
 転機が訪れたのは、去年の秋のことだった。大学に入って初めての前期試験が終わって、両親が慰労を兼ねて、ぼくに会いに来る予定だった。その途中、事故にあって、二人とも死んでしまったのだ。
 普通なら、大学を辞めなければならなかったところだったのだけど、親が死んでも大学4年間の学費が出るという保険に入っていたため、ぼくは退学を免れた。
 ただ、生活費は稼がなければならないから、遊び呆けているわけにはいかずに、こうして家庭教師をしているという訳なのだ。

 円城寺沙也佳は、『お嬢様』と呼ばれているけれど、ごく普通の女の子だ。髪の毛が非常に長い。ざっくりと三つ編みにした髪の毛が、お尻まで届いている。生まれたときから、一度も切っていないのではないかと思う。前髪だけは、目の高さに揃えている。勿論、今流行の茶髪なんてことはない。カラスの濡れ羽色という表現がぴったりの真っ黒な髪だ。
 シミもそばかすもない肌は真っ白で、まるで磁器のようになめらかだ。目はぱっちりとしていて、鼻筋が通っている。口は小さく、唇だけが、異様に赤い。うまく表現できないけど、要するに美人だと言うことだ。あと、4,5年もしたら、すっごい美人になるだろうなと思う。
 家庭教師をしている時間だけしか分からないけど、性格はいい方だと思う。『お嬢様』の割には、気取ったところがなく、我が儘を言うのを聞いたことがない。
 ガードは堅い。滅法堅い。ブラジャーが透けて見えるようなブラウスを着ているのを見たことがないし、スカートも膝下まである。
 家庭教師をしている時間、勉強以外のことは一言も喋らない。別のことを喋ろうという雰囲気にならないのだ。家庭教師と教え子の不浄な関係なんてのには、全く無縁だ。
 うまく取り入って、逆玉なんて、とても無理な話だ。

 「じゃあ、今日はここまでにしようか。来週までに、こことここを解いておいて」
 「分かりました」
 言い忘れたけど、円城寺沙也佳は、頭もいい。一度教えたら、二度と忘れない。天は二物を与えないと言うけれど、円城寺沙也佳はその例外だ。きちんと勉強したら、すごい学者になるなと思う。女性もこのごろは、男と変わらないくらい頑張っているからな。ぼくなんて、そう言う意味では、円城寺沙也佳以下だ。
 「じゃあ、今度は金曜日ね」
 「はい、お願いします」

 円城寺沙也佳の部屋を出て、階段を降りると、お民さんの顔が見えた。
 「終わりました?」
 「はい」
 「食堂へどうぞ。用意ができていますよ」
 時計は午後7時10分を指していた。ぼくは、午後5時にこの屋敷にやってくる。それから、2時間勉強を教える。そして、夕食をご馳走になって帰るのだ。夕食は、契約には入っていない。円城寺家が、好意で用意してくれている。
 夕食を食べに行く時間が節約できるし、金銭的にも助かる。それにお民さんが作る料理は、みんな美味い。ぼくは出されたものを、ほとんど全部平らげて帰る。お民さんは、ぼくの食べっぷりがいいものだから、ますますいろいろなものを、たくさん用意してくれる。有り難い話しだ。
 今晩の料理は、肉じゃがに、イサキの煮物、野菜の天ぷら、酢の物、野菜サラダ。勿論、ご飯とみそ汁付き。これを外で食べたら、いくらするかなと、いつも思う。
 ぼくは、今日も、むしゃむしゃ、ガツガツと料理を端から片づけていった。そんな様子を、お民さんは、ニコニコしながら見ている。
 「ごちそうさまでした」
 「お粗末様でした。はい、お茶どうぞ」
 「お民さんの料理は、いつも美味しいです」
 「あら、ほんと? 良かったわ。森先生は、食べっぷりがいいから、作り甲斐があるわ」
 「普段、ろくな食生活してないものですから」
 「あら、おなかが減ってるから、美味しいって言う意味?」
 お民さんは、ちょっと意地悪そうな目でぼくを見た。
 「い、いえ。トンでもないです。ほんと、美味しいですよ」
 ぼくは、お茶をすする。
 「金曜日も、美味しいもの、用意しておきますからね」
 「いつもすみません」
 ぼくの家の食堂には、テレビが置いてあって、いつもテレビを見ながら食事した。あんまりテレビばかり見ていて、母によく怒られたものだ。円城寺家の食堂には、テレビはない。ここは、そんな雰囲気の場所ではないのだ。ただ、食事するだけの場所。そう言った雰囲気の場所だ。ここで、家族が集まって、一言もものを言わずに、黙々と食事をする。それが似合いの食堂だ。
 「じゃあ、失礼します」
 「暗くなってきたから、気をつけて帰るのよ」
 「はい」
 既に日は落ちて、外はしだいに暗くなり始めていた。ぼくは、バイクにまたがり、スタートさせた。お民さんが、玄関先まで出てきて、手を振ってくれる。ほんとにいい人だなと思う。ぼくが門を出ていくと、鉄の扉がゆっくり閉まっていくのが、ミラーから見えた。

 円城寺家の周りには、人家がない。鬱蒼とした林の中を下っていく。夏はいいが、冬になったら、この山道をヘッドライトの明かりだけで下るのは、あまり良いものじゃない。ぼくは幽霊の存在は信じないけれど、背中がぞくっとすることがある。このまま、誰もいないところへ吸い込まれてしまうような気がするのだ。
 団地造成中の道路の入り口には、ガードマンはもういない。仕事を終えて、みんな帰ったあとだ。
 ようやく、国道に入った。市内向けはそう混んでいない。市外向けは、家路を急ぐ車で混雑していた。午後8時に近いというのに、みんな遅くまで働いているんだなあと、感心する。
 スロットルを開けかけて、今日は、まだやってるかもしれないなと思い、スピードを緩めた。いた、いた。スチールの椅子に腰掛けた警察官らしい男が、無線で話しをしていた。50メートルほどいくと、捕まった車が数台停まっていた。

 ネズミ取りというのは、どうも不合理に感じる。その場所さえ、捕まらないスピードでいけばいいわけだ。捕まった方は、運が悪かったとしか思わない。ほんとは、制限速度をオーバーしているわけだから、捕まった方が悪いのだけど、スピード出し過ぎて反省してますなんて人は、まずいないだろう。
 スピードの出し過ぎが、死亡事故の大きな原因だとは分かっている。しかし、ネズミ取りは、取り締まりのためだけにやっているように見える。その日の目標の台数を摘発したら、取り締まりを止めるという話を聞いたことがある。全くおかしな話しだ。

 ぼくの住むアパートが見えてきた。両親が死ぬ前までは、ぼくは、1Kのバストイレ付き学生マンションに住んでいた。家賃が5万円。その他共益費や電気代を入れると、月6万を越えていた。
 いま、ぼくは光アパートという小汚いアパートの一室に住んでいる。6畳一間に、押入がついただけの部屋だ。トイレ、炊事場は共同。風呂はない。近所の共同浴場まで出かけていく。今どきの学生で、こんなアパートに住んでいる学生は、ぼくを含めて何人いるだろうか? まあ、大学を辞めなくてすんだのだから、良しとしようと思って、我慢している。
 このアパートが便利なのは、大学の裏門まで、歩いて5分の距離にあること。そして、アパートのすぐ斜向かいに、セブンイレブンがあることだ。ぼくは、バイクをアパートの前に停めると、缶ジュースと、翌日の朝食用の食パンを買いに行った。
 ぼくが買い物をしている間、学生たちがひっきりなしにやってくる。この店は、かなり儲かっているんだろうな。コンビニの経営も結構いいかななんて思う。

 「森君、すき焼き食べてかない?」
 アパートに帰り着くなり、1号室の川本さんに声をかけられた。川本さんは、50ちょっと前の一人暮らしの女性だ。2年ほど前、夫も子供も捨てて駆け落ちしたのに、相手の男に捨てられたらしい。ぼくなら、とても駆け落ちしたいとは思わないようなおばさんだ。まあ、人の好みは千差万別だし、笑顔が可愛いと言えば、可愛いかもしれないなと思う。
 川本さんは、去年の冬からこのアパートに住んでいる。何して暮らしてるのかは知らないけれど、毎日夕方になったら出かけていく。噂によれば、売春しているらしいとのことだ。あんなおばさんを抱く男がいるのかなと不思議に思う。
 その川本さん、なぜかよくぼくに声をかけてくる。別に自分を買ってくれというわけではなさそうだ。どうもよく分からない。一度、その訳を聞いてみようと思うのだけど、いつも聞きそびれる。
 「ねえ、少し多めに作っちゃって、一緒にどう? 卵もビールもあるわよ」
 「すみません、バイト先でご馳走になってきましたから。お腹いっぱいなんです」
 「そう、それは残念ね。おいしくできたのに・・・・」

 そんな話しをしていると、3号室の北山さんが、アパートに戻ってきた。川本さんは、北山さんの顔を見ると、ドアをばたんと閉めた。
 ??? どういうことだ? すき焼きが余っているんじゃないのか? 川本さんは、ぼくに食べさせようとしたのか? ぼくを部屋に呼んで、すき焼きを食べさせ、何をするつもりだったのだろうか? あんまり近寄らない方がいいかな? それにしても、この蒸し暑いのに、すき焼きだなんて・・・・。
 「おい、森。明日の生化学、代返しておいてくれないか?」
 「えっ!? 北山さんがサボるなんて、珍しいね」
 「ちょっと、野暮用でね」
 「分かりました。いつも代返してもらってるから、たまにはお返ししないと」
 「頼んだよ」
 「はい」
 北山さんは、同級生だが、浪人してたから、ふたつ年上だ。だから、ぼくは北山さんに対してはいつも敬語を使う。糞が付くくらい真面目な人で、これまで一度も講義をさぼったことがないはずだが、余程の用事だろうなと思う。

 2号室の大矢さんは、仕事に出かけて、いないようだ。大矢さんは、確か32歳だと聞いた。ランジェリークラブの呼び込みをやっている。安くしてやるから、来いよと言われているけれど、そう言われて、すぐには行けない。それに、そんなことに使うようなお金もない。
 この大矢さん、このあたりでは、ちょっと有名人だ。しばしば、裸の上にコ−トだけ羽織って、若い女が来ると、見せちゃうのだ。そう、露出狂なのだ。先月こそ、近くの女子校前でそれをやって、猥褻物陳列罪で、一週間ほど、豚箱に入っていた。
 ぼくは、直接見たことはないけど、かなりでかい一物がぶら下がっているとのことだ。そうだろうな。でかくなければ、そうそう見せられないもの。

 「お帰りなさい」
 4号室の谷口さんが、ぼくと北山さんの声を聞きつけて、部屋から顔を出した。この人は、川本さんがぼくだけに挨拶するのと対照的に、北山さんにばかり声をかける。
 「北山さん、ちょっとお願いがあるの」
 「なんだい?」
 「お部屋の模様替えしたいんだけど、手伝って貰えないかしら?」
 「いいよ」
 「あのう、ぼくも手伝いましょうか?」
 ぼくは、行きがかり上、そう声をかけた。
 「ありがとう。でも、ベッドの位置を変えるだけだから、ふたりでいいわ」
 「そうですか。もし、手がいるようだったら、声をかけてください」
 「ええ、その時はお願いするわ」
 北山さんは、谷口さんの部屋に入って行った。

 北山さんは隠しているが、半年ばかり前から谷口さんと付き合っている。ただ、谷口さんは、ニューハーフ、つまり男らしいと言うことだ。
 つい2ヶ月ばかり前、同級生に、お前の隣の部屋にニューハーフが住んでいるんだってなと言われた。ぼくの隣の部屋というと、谷口さんしかいない。谷口さんは、身長が160位しかなくて、華奢だし、結構美人だ。ぼくには、とても信じられない。
 まさかと思っているのだけど、どうも本当のようにも思える。つい先週の話しだけど、化粧していない谷口さんの素顔を初めて見た。あの顔は、確かに男の顔だ。・・・・と思う。因みに、谷口さんは、22歳。北山さんよりひとつ年上で、つまりぼくより三つ年上という事になる。
 もし、谷口さんがニューハーフと言うことが本当なら、ニューハーフと付き合うって事は、北山さんは、ホモだって事だ。北山さんも、谷口さんも、別々に見かけるときはそうでもないのだけど、一緒にいるところを見ると、ふたりがどんなことをやっているのだろうかと想像して、変な気分になる。
 しかし、谷口さんがニューハーフだというのは間違いで、ほんとは女で、ふつうの男女の関係かもしれない。まあ、ふたりがどんな関係で、どんなことをしようと、ぼくには関係ないと言えば、関係ないのだが・・・・。

 そう言うわけで、ぼくはかなり妙なアパートに住んでいると言うことだ。しかし、そんなことを除けば、大学にもコンビニにも近いし、家賃は安いから、ぼくとしては、満足している。