第三章 大森智嗣との出会い

 正月が迫ったある日、わたしは、園田に呼ばれた。客間に入ると、テーブルの上に桐の箱が置かれていた。
 「早苗、おまえのために買ったんだ。気に入ってくれるかな」
 桐の箱を開けてみると、振り袖が入っていた。着物に手を触れた瞬間、これはかなりするなと思った。
 「こんな高いものを頂いて、いいのですか?」
 「早苗は、わたしの本当の娘だと思っている。娘が喜ぶことをしてやるのが親というものだろう?」
 「でも・・・・」
 「そう高いものじゃない。心配しないでいいから、着てくれ。いいだろう?」
 そう高いものじゃないというのは嘘だと、わたしには分かっていた。けれど、断っても、園田は、わたしが受け取るまで、頑張るに違いない。素直に受け取ることにした。
 「分かりました。ありがたく頂きます」
 大晦日の夜、その振り袖を着て、園田と一緒に車で三十分ほどにある神社へ、初詣に出かけた。
 「早苗、よく似合ってるよ」
 園田は、ベンツのハンドルを握って、にこにこしながら、わたしに話しかけた。
 「誰に着せて貰ったんだ? お喜久さんか?」
 「自分で着たのよ」
 「えっ、ひとりで着られたのか?」
 「ええ、わたし、ひとりで着物が着られるみたい」
 「早苗は、ほんとに何でもできるんだなあ。信じられないよ」
 それはわたしも同じ思いだ。
 園田と並んで、手を合わせた。わたしは、早く記憶が戻りますようにと祈りながら、このまま戻らないでもいいとも祈っていた。

 平成八年の元旦が開けた。わたしは、暮れにお喜久さんと一緒に作ったお節料理が並べられたテーブルの前に座って、正月も外泊できなかった患者さんを見回りに行った園田を待っていた。わたしは、初詣から帰って、いったん脱いだ振り袖を再び着ていた。
 「お父さん、明けましておめでとうございます」
 「おめでとう、早苗」
 「今年もよろしくお願いいたします」
 園田と出会って、まだ二ヶ月もならないのに、何だかおかしな挨拶だなと自分でも思う。
 「早苗」
 「はい、何でしょう? お父さん」
 「記憶が戻っても、ここにいてくれないか?」
 「お父さんが、そうお望むのでしたら、喜んで」
 わたしは即座にそう答えた。わたしを必要としている人が、他にもいるかもしれない。けれど、今はそんなことは考えないようにした。今、わたしの目の前には、わたしを必要としている人がいる。
 「良かった」
 園田はそう言って、言葉を詰まらせた。

 午後になって、ひとりの青年が訪れた。園田によく似た好青年だった。園田の甥だろうか? そう思った。
 「早苗、紹介するよ。息子の智嗣だ」
 「初めまして、早苗さん。智嗣です。父さんに聞いていたけれど、ほんと、死んだ早苗姉さんの若い頃にそっくりですね」
 「ああっ、は、初めまして。早苗です」
 園田に息子がいるなんてことは聞いていなかった。園田はひとりぼっちだといっていたのに・・・・。
 「驚いたかい? 智嗣は、死んだ早苗の腹違いの弟なんだ」
 「腹違いの弟さん!?」
 そう言えば、智嗣は、男に性転換した早苗の写真に、よく似ている。
 「死んだ妻は、早苗を産んだあと、二度と子供を産めない体になってしまったんだ。どうしても男の子が欲しかったわたしは、妻と結婚する前に付き合っていた女性に頼んで、子供を産んで貰った。その子が智嗣だ」
 「その女性は、智嗣さんのお母さんはどうなったのですか?」
 「智嗣を産むとすぐに亡くなった。産褥熱でね。智嗣を引き取りたかったが、妻がどうしても許してくれなくてね。やむ終えず、祖父母に育てて貰ったんだ。もちろん養育費はわたしが出した。妻が死んでから、わたしの息子として認知したんだ。姓は大森を名乗っているがね。智嗣は、今は大阪の銀行に勤めているが、ゆくゆくは、この病院を経営して貰おうと思っている」
 「そうなんですか」
 「智嗣は盆と正月しかここに来られないから、来たときは、一緒にとことん飲むんだ。早苗も付き合ってくれるだろう?」
 「はい、分かりました。すぐにお酒を準備します」
 準備をしながら思った。素敵な人だなあと。智嗣のことを思うと胸がどきどきする。一目惚れ? そうかもしれない。だけど、わたしはどこの誰とも知れない女だ。そんなことを思っちゃいけないのだ。

 園田も智嗣も凄くお酒が強い。清酒の瓶がすぐに一本空いて、洋酒の二本目の封が切られた。わたしは、自分がどれくらい飲めるのか分からないから、遠慮して飲んでいたのだけれど、少しくらいのお酒では酔いそうもなかった。清酒を二合、ウイスキーの水割りをあっという間に五杯飲んでいた。
 「早苗さん、随分強いんですね」
 智嗣が、むしろ少し青ざめた顔をしてわたしに言った。
 「そのようね。ぜんぜんどうもないわ」
 「それだけ飲んでどうもないの?」
 「ええ、まったく」
 「へええ。じゃあ、飲ませて、誘うってのは無理だね」
 「えっ!? 何ですって?」
 「冗談だよ、冗談」
 そう言った智嗣の目は、冗談を言っているようには見えなかった。
 「その着物、よく似合ってますよ」
 智嗣は、てらいを隠すように話題を変えた。
 「ありがとう、智嗣さん。お父さんが誂えてくれたのよ」
 「父さん、趣味がいいよ」
 「当たり前だろう。おまえの父親だからな」
 「なに、それ。訳がわかんないよ」
 「はははは」
 結局、ふたりが酔いつぶれるまでに、清酒が二本と、ウイスキーが三本空いてしまった。わたしもかなり飲んだのに、ほろ酔い加減にもならなかった。清酒一本をいっぺんに飲み干しても、どうもないような気がした。

 翌日、朝食の準備をしていると、智嗣が起きてきた。髪はぼさぼさ、目は真っ赤だ。
 「早苗さん、水一杯貰えるかなあ」
 「ハイ、どうぞ」
 「早苗さん、君はあれだけ飲んで、どうもないの?」
 「平気よ。普段と変わらないわ」
 「信じられない。君みたいにアルコールに強い女の子は初めてだよ」
 「きっと鈍いのよ」
 「早苗さん」
 「えっ、何?」
 突然、智嗣はわたしを抱きしめ、唇を奪った。拒否しようとしたのに、体の芯がジンと痺れて、力が入らなかった。
 「止めてください、智嗣さん」
 「早苗さん、君が好きだ」
 「何を言い出すの? わたし達、出会ってからまだ丸一日も経っていないのよ」
 「男女の出会いに、時間なんて関係ないよ。ぼくのことが嫌いなのかい?」
 「智嗣さんはいい人だとは思うわ。だけど、お父さんから聞いているでしょう? わたしには記憶がないのよ。自分が誰なのか、どこで何をしていたのかも分からないのに・・・・」
 「そのことは聞いてるよ。だけどそんなことは関係ないよ。ぼくは早苗さんに一目惚れなんだ」
 「わたしは、人妻かも知れないのよ」
 「早苗さんが人妻のはずがないじゃないか。結婚しているのなら、早苗さんみたいに、美人で、何でもできる人を放って置くわけがないだろう?」
 「公にわたしのことを探せないのかも知れないわ」
 「早苗さんは、自分が日陰者だと言いたいのか?」
 「・・・・そうよ。誰かの妾とか」
 「早苗さんのことを大切にできないやつなんか、こちらから願い下げにしてやればいいんだ。そうだろう?」
 「そうかもしれないけれど、わたしはあなたに愛される資格なんてないわ」
 「早苗さんは、過去に拘りすぎだよ。何も分からない過去に怯えているだけだよ。大切なのは今だよ。今をどう生きるか? そして何をするかが大事だと思うんだ。ぼくと一緒に未来を作って欲しいんだ」
 「・・・・」
 「一年待つよ」
 「えっ!?」
 「一年経って、早苗さんの記憶が戻らなかったら、いや、もし、記憶が戻ったとしても、早苗さんを必要とする人がいなかったら、ぼくと結婚してくれ。いいだろう?」
 「結婚ですって?」
 「そうだよ」
 「わたし、処女じゃないのよ。結婚なんて」
 「今どき、処女じゃなければ結婚できないなんて言ってたら、誰も結婚できなくなってしまうよ。ぼくはそんなこと気にしないから。ねっ、だから、お願いだよ」
 智嗣はじっとわたしを見つめている。智嗣は、ああ言ったが、わたしの失われた過去が、ほんとに人に言えないようなものだったときのことを考えると、即答できなかった。
 「・・・・少し、少し考えさせて」
 「いい返事を待っているから」
 そう言い残して、智嗣は居間へ戻っていった。智嗣の後ろ姿を身ながら、わたしは智嗣と結婚することになる。そんな漠然とした予感がした。
 智嗣は、父親の前では、わたしに求婚したことなど素振りも見せずに、一月三日の午後、大阪へと帰っていった。