目を開けると、黄色くなった銀杏の葉がまばらについた枝が見えた。その枝から、銀杏の葉がはらり、はらりと落ちてくる。あとからあとから落ちてくる。枝の間から見える雲ひとつない空は、赤みがかった濃紺に染まっていた。
頭を上げて視線を降ろしていくと、山の稜線にオレンジ色の太陽がゆっくり沈んでいくところだった。ゆっくり? そうではなかった。オレンジ色の太陽は、見る見るうちに山の向こうへと吸い込まれていった。昇ってから沈むまで十二時間あまりかかるとは、とても思えないような速さで太陽は沈んでいく。太陽が沈んでしまうと、急にあたりが暗くなってきた。
カラスがカア、カアと鳴きながら何処かへ飛んでいく。
カラス、何故鳴くの?
カラスは山に
可愛い七つの子があるからよ
不意にそんな童謡が頭に浮かんだ。
さらに視線を降ろすと、小さな社(やしろ)が目に入った。社の前には小さな狛犬が二匹、向かい合って座っている。地面は銀杏の葉で被われていた。小さな鳥居まで続く石畳。その上にも銀杏の葉が落ちていた。ここは参拝する人もいないような小さな鎮守らしい。鳥居の向こうに、石ころがごつごつ見える舗装されていない道があり、さらにその向こうには、薄暗い田圃が広がっていた。田圃にはもう稲穂はない。取り入れがすんでいるようだ。
それらの景色も次第に闇の中にとけ込もうとしていた。
キイ、キイと何かの音がゆっくり近づいてきた。キイ、キイ、キイ。その音は次第に大きくなってくる。キイッと高い音がして、わたしのすぐそばで何かが停まった。
その何かの方に視線を移すと、眩しい光が飛び込んできた。わたしは思わず、手を挙げて光を遮った。光が下へ向き、再びわたしの顔を照らした。眩しい!
「こ、こんなところで、何をやっているんだ?」
男の声だ。男が懐中電灯でわたしを照らしているのだ。わたしが眩しそうにしているのに気づいたのか、男は懐中電灯の光を地面に下げた。男の輪郭が少し見える。自転車にまたがった男の姿が暗闇に浮かんでいた。あの音は自転車の、そう、自転車の音だった。
男は自転車から降りて、スタンドを立て、わたしに近寄ってきた。男の顔はよく見えない。帽子をかぶっている。そして、黒っぽい制服の上にやはり黒っぽいコートを羽織っている。ボタンを掛けていないコートの隙間から、左の腰にぶら下げた長い棒が見える。右の腰には皮のケース。男は・・・・警察官のようだ。
「どうしたんだ? そんな格好で。男にでも襲われたのか?」
そう言われて、自分の姿を見た。わたしは銀杏の木の根元に凭れるようにして寝ていた。白いブラジャーが見えた。ゆるりと起きあがってみると、ブラジャーの他には、わたしはショーツしか身につけていなかった。靴も履いていない。素足のままだ。
自分が裸同然の格好をしていることに気づいたとたん、急に寒くなって震え始めた。
「服はどうしたんだ? 靴は?」
「・・・・」
「口が利けないのか? おい」
「・・・・寒い」
「そんな格好じゃあ、寒かろう。さあ、立って!」
警察官に促されるままに、わたしはのろのろと立ち上がって、体の土を払った。下を向くと長い髪の毛が胸に落ちてきた。警察官は、コートを脱いで、わたしの肩に掛けてくれる。警察官は五十過ぎくらいに見えた。帽子からのぞく髪の毛に白いものが目立つ。警察官とは思えない優しそうな顔をしていた。
「事情は駐在所で聞こう。いいな」
わたしは、黙って頷く。そうするしかなかった。銀杏の落ち葉の上を、逮捕された容疑者のように、警察官についてとぼとぼと歩いてゆく。土塊の上の石ころが足に触って痛い。
「裸足じゃ、足の裏が痛いだろう。後ろに乗りなさい」
警察官は、鳥居をくぐって石ころだらけの道に出ると、押していた自転車を停めて、後部の荷台へわたしを乗せた。
「しっかり掴まっていろよ」
自転車はよろよろと、でこぼこ道を走っていく。わたしは必死で警察官の腰にしがみついた。自転車が小さな窪みにはまるたびに、荷台の金属が尾てい骨を打つ。痛くて堪らないが、裸足でこの道を歩くよりはましかなと思って我慢していた。
暗い夜道を自転車は、警察官とわたしを乗せて、キイ、キイと音を立てながら走った。遠くに民家らしい明かりが見えるが、ほとんど真っ暗だ。自転車の明かりだけが、ふらふらと左右に揺れながら夜道を照らす。
1キロほど走っただろうか? 明かりの点いた家の前に辿り着いた。鬼瀬村駐在所と書かれた看板の掛かったその駐在所は、想像していた古い木造の家ではなく、近代的な造りの平屋の大きな家だった。庭も広そうだ。
「おおい、今帰ったぞ」
「お帰りなさい、あなた」
警察官がドアを開けて、中に声を掛けると、奥から人の良さそうなまるまると太った女性が出てきた。わたしは、警察官の肩越しにその女性を見つめた。四十代後半かなと思う。
「あら、そのお嬢さんは?」
「村外れに鎮守があるだろう。あそこの銀杏の木の下で拾ったんだ」
「鎮守の銀杏の木の下で?」
「そうだよ」
そう言って、警察官は自転車を降りた。わたしの姿が警察官の奥さんの目に触れる。
「まあ、下着だけじゃないの。そんな格好で、どうしたの?」
「何も言わないんだ。風呂は沸いているか?」
「沸いているわ」
「寒くて震えているから、風呂に入れてやってくれ」
「分かりましたわ。足を拭かないとね。お嬢さん、ちょっとお待ちになってね。足を拭くものを持ってきますからね」
警察官の奥さんは、しばらくすると、真新しい雑巾を持って戻ってきた。そして、わたしを椅子に座らせると、わたしの足を丁寧に拭いてくれた。
「さあ、綺麗になったわ。お風呂に案内するわ。ついていらっしゃい」
部屋の中は随分暖かい。コートを脱いで、下着だけでも寒くはないようだが、コートを羽織ったまま、警察官の奥さんについていった。長い廊下を歩いていくと、警察官の奥さんは、一番奥にある引き戸を開けた。左手にガラス戸があった。そこが浴室らしい。
「そこの籠に脱いだものを入れておいてね。何か着るものを持ってきてあげるわ。髪が濡れないようにシャワーキャップは棚の上にあるからね」
わたしはこくりと頷いた。脱衣場はかなり広い。しかし、部屋の中はかなり暖かい。脱衣場なんて寒いのが相場だが、こんなところまで暖房が利いているとは。建物全体も大きいようだし、贅沢な造りの駐在所のようだ。
わたしは、言われたとおりに脱いだものを籠に放り込み、シャワーキャップを被って、浴室へ入っていった。四畳半くらいはある大きな浴室だ。
湯船のお湯は、少し熱めだ。四十二度くらいだろうか? お湯をかぶってから、湯船に体を沈めた。冷たい手足がゆっくりと暖かくなっていくのを感じる。
体を洗っていると、ガラガラと外の引き戸が開けられた。
「着るものをここに置いておきますからね。気に入らないかもしれないけど、とりあえず、これしかないから我慢してね」
そう言うと、わたしの返事待たずに、警察官の奥さんは引き戸を閉めて出ていった。
もう一度湯船に浸かって充分体を温めてから、浴室を出た。籠の中には、わたしの脱いだ下着はなくなって、バスタオルが置かれていた。バスタオルの下に着替えが置かれている。ショーツとスリーマー、それに白の上下のジャージだ。
体を拭いて、ショーツを穿いた。あの奥さんがこんなショーツを穿いているのだろうか? そんなはずはないな。今わたしが穿いたショーツは、あの奥さんが穿くには随分小さい。それに小さな花の刺繍が入っている。誰のものだろう? ふたりの娘か誰かのものなのだろうか?
ふと見ると、向かいに洗面台があった。鏡がある。その鏡に裸の女の姿が映っていた。近寄ってみる。鏡に映った女は、ビックリするくらいの美人だ。二重眼瞼の大きな瞳。すっと通った鼻筋。小さく可愛い唇。右手を顔にやってみると、その女は左手を顔にやった。鏡に映った女はわたしだ。わたしはこんなに美人なのか。長い髪は艶やかで、スタイルもいい。由美かおるの均整の取れたヌードを思い出した。あの姿を見ているようだ。
服を着ていると、警察官夫婦の話し声が聞こえてきた。
「あなた、あのお嬢さん、あんな格好で鎮守にいたの?」
「そうなんだ」
「服はどうしたのかしら?」
「よく探していないが、どこにもなかったようだな」
「靴も?」
「靴も履いてなかった」
「村の不良どもにでも襲われたのかしら?」
「いや、怪我もしてないし、それらしくないんだ」
「じゃあ、何してたんでしょうね?」
「何も言わないんだ。初めは口が利けないのかと思ったくらいだ」
「そう言えば、あの子、ここに来てからひと言も口を利いていないわね」
「そうだな。俺も寒いというひと言しか聞いていないがなあ。風呂から上がったら、事情を聞いてみようと思っているんだ。しかし、どこから来たんだろう?」
「えっ!?」
「さっきヒロ爺さんのところへ行くときに、鎮守の前を通ったんだが、その時には、あそこには誰もいなかったんだ。ところが、帰り道にふと見ると、銀杏の根元に人影が見えるんだ」
「長井さんはどうだったの?」
「ヒロ爺さんかい? いつもの痴話喧嘩さ。時間の無駄だったよ。だけど、お蔭で若い娘の裸を見られたけどな」
「まあ、何言ってんのよ。・・・・でも、確かに美人で、スタイルもいいわね」
「おまえも昔はスタイルが良かったのになあ」
「デブになって、悪うございました。それで、銀杏の根元に座っていたの?」
「いや、仰向けに横たわっていた。初めはマネキン人形でも放置してあるのかと思ったんだ。近寄って、懐中電灯で照らしてみたら、手を動かしたんで、こっちが肝を冷やしたよ」
「若くて美人なのに?」
「人形だと思ったのが動いたんだ。ビックリもするさ。色は白いし、顔色も青白かったから、幽霊かと思ってしまったよ」
「なるほどね」
「あの通り、裸足だろう? 連れてくるとき、足が痛むらしくて満足に歩けなかったんだ。だから、歩いてきたわけじゃあなさそうだし、それに、いくら人通りがないからと言って、若い女があんな格好でふらふら歩き回るなんて考えられんよ。車が走った形跡もない。ヒロ爺さんの家から、あそこは見通せるからな。どこから降ってわいたんだろう? まったく訳がわからん」
「本人に聞いてみるしかないでしょうね。案外答は簡単だったりして」
「そうかもしれないな」
わたしは、ドアをガラガラと開けて廊下へ出た。警察官の奥さんが、向かいの部屋から襖を開けて出てきた。
「あら、もうあがったの? 暖まりました?」
「はい」
「そのジャージ、少し丈が短いみたいね。でも、あなたが着られるようなものはそれしかないの。ごめんなさいね」
「いえ、着られる服があるだけで充分です。ありがとうございます」
「主人が、居間で待っているわ。事情を聞きたいって」
「分かりました」
奥さんが出てきた部屋が居間らしい。部屋に入ると、先ほどの警察官が、制服のままお茶を飲んでいた。帽子を脱いだ頭は禿げ上がっていて、初めに見たときよりもかなり老けて見えた。
「良く暖まったかな?」
「はい」
「事情を聞きたいところだが、わしも体が冷えたから、先に風呂に入ってくる。お茶でも飲んでいてくれ。おい、和子。お嬢さんにお茶を入れてくれ」
「はい、はい。すぐ入れます」
警察官の奥さんが入れてくれたお茶を飲みながら、ぼんやりと待っていた。浴室から警察官の大きな歌声が聞こえてくる。
吹けば飛ぶような将棋の駒に
懸けた命を笑わば笑え
あの歌は、村田英雄の『王将』だったかな? そう思いながら、警察官の歌声をぼんやり聞いていた。
「あら、あら。ご機嫌なことで。あなたみたいな若いお嬢さんがここに来る事なんて滅多にないから、嬉しくて堪らないみたいね」
何と答えていいものやら分からなかった。
しばらくすると、着物に着替えた警察官が居間へ戻ってきた。制服を脱ぐと、ただの人の良さそうな小父さんに見える。
「腹減っているだろう? ついでに飯も食って行け。和子、いいだろうな」
「そう言うだろうと思って、用意していますわ」
「気が利くな。ところで、お嬢さん。名前は何と言うんだ」
そう問われて、はたと困った。名前、名前。わたしの名前は・・・・。思い・・・・出せない。わたしの名前は何というのだろう? 由美かおるも村田英雄も思い出せたのに、自分の名前が思い出せない。
「どうした。自分の名前を忘れたのか?」
分からない。どうしても思い出せなかった。わたしは、ただ俯いていた。
「年はいくつだ?」
年齢? それも思い出せない。鏡に映った自分の顔を思い出す。いくつだろう? いくつに見えるのだろう? そう言えば、わたしは、さっき鏡で見た自分の顔すらも覚えていなかった。わたしは一体誰なんだろう? 分からない・・・・。
「どこから来た? どうしてあそこにいたんだ?」
何もかも分からない。思い出そうとすればするほど、分からなくなる。わたしは、とうとう泣き出してしまった。
「言いたくないのなら、仕方がないな。落ち着いたら、聞かせてくれ。さあ、涙を拭いて、飯を食え。大したものはないが、腹の足しにはなるだろう」
警察官は、黙って箸を進め始めた。警察官の奥さんは、心配そうな顔をしてわたしを見ている。
「思い出せないんです。わたしが誰なのか。どこから来たのか。どうしてあんなところにいたのか」
警察官は箸を止めて、ビックリしたような顔でわたしを見た。
「そうか。記憶喪失という訳か。まあ、いい。とにかく飯を食え。話しはその後だ」
記憶喪失。そうかもしれない。自分のことを何ひとつ思い出せない。わたしは記憶喪失に違いない。
わたしは箸を取り、出されたものを食べ始めた。空腹感はなかったのに、出されたものを全部食べてしまった。
「で、名前は何と言うんだ?」
食事がすんで、お茶を飲みながら、警察官がまた聞いてきた。
「思い出せないんです」
「嘘言ってるんじゃないな。ほんとに思い出せないんだな」
「ほんとです」
わたしは、また泣き出してしまった。
「あなた、ほんとみたいですよ。ほんとに記憶喪失じゃないんですか?」
「ううん」
「よっぽどショックが大きかったんじゃないの? 明日になったら、思い出すかもしれないわよ。もう休ませましょうよ」
「・・・・そうだな。じゃあ、お嬢さん。少し早いが、もう横になりなさい。明日また事情を聞こう。いいね」
わたしは頷くしかなかった。明日になっても思い出すとは思えなかったけれど・・・・。
「何かショックを受けたのよね。ぐっすり休めば思い出すわ。じゃあ、電気消すからね」
そう言って、奥さんは部屋を出ていった。わたしが寝かされた部屋は客間のようだ。八畳ほどある広い部屋の中で、わたしは自分が誰であるのか分からない苛立ちと、訳の分からない恐怖感で眠れずにいた。
どれくらい経っただろうか? わたしは急に眠気を催した。それから10分ほどして、何処か遠くで、時計が午前0時の時報を告げ始めた。六つまで数えたとき、わたしは急速に深い眠りへと落ちていった。
目を覚ました。部屋の中はまだ薄暗い。時計の音がぽんとひとつ鳴った。わたしは寝床を起き出して廊下へ出た。昨夜よりは暖房は利いていないが、ジャージひとつでも少しも寒くはない。警察官の奥さんが、もう起きているようだ。飯の炊ける香りがする。
まな板の音がする方へ行くと、これもまた広い台所で、警察官の奥さんが何かをきざんでいた。わたしの気配に気づいたのか、振り向いてにこりと笑った。
「あら、もう起きたの? もう少し寝ていて良かったのよ」
「いえ、もう充分寝ましたから」
「何か思い出しました?」
そう言われて、何も思い出していないことに気づく。わたしの心の中を冷たい風が吹き抜けてゆく。わたしは誰なんだ。わたしは項垂れたまま、その場に立ちつくした。
「そう、まだ思い出せないのね。そこに座って。今、お茶を入れてあげるわ」
わたしは力無く椅子に腰を下ろした。入れてくれたお茶には、茶柱が立っていた。今日は何かいいことがありそうだ。・・・・そんな気がする。
顔を上げて壁に掛かった時計を見てみると、六時三十五分を指していた。ちょうど六時間半眠ったことになる。
「お嬢さん、もう起きたのか。どうだ? 何か思いだしたかな?」
制服に着替えた警察官が、台所の入り口に立っていた。わたしは下を向いて首を横に振った。また、涙がこぼれた。
「あなた、だめみたいよ。これ以上聞いても無駄のようだから、朝ご飯がすんだら、園田先生に診ていただいたら、どうでしょうね」
「そうだな。そうするか。飯はいつできる?」
「もう、十五分くらいで、できるわ」
「じゃあ、ちょっと鎮守に行って来る。お嬢さんの服と靴を探してみる」
「見つかるといいわね。気を付けて行ってらっしゃい」
「わたしも行きます」
「お嬢さんはいいよ。外は寒いから、そんな格好じゃあ行けないよ」
「でも・・・・」
「いいから、顔でも洗って待ってなさい。じゃあ、行って来る」
警察官はそう言い残すと、玄関を出ていった。台所の窓から、自転車を一生懸命にこぐ警察官の後ろ姿が見えた。
「はい、歯刷子。洗面所は分かるわね。歯磨き粉は洗面所の何処かに転がっているはずよ。左の棚に洗顔クリームとフェイスクリームが入っているわ。右の棚にタオルが入っているから適当に取り出して使ってね。わたし、化粧しないから、化粧品は何もないけど、あなた、化粧してないみたいだからいいわよね」
そう言われれば、わたしは化粧をしていないようだ。真新しい歯刷子を受け取ると、わたしは洗面所へ向かった。
洗面所の鏡で自分の顔をもう一度じっと見てみる。おまえは誰なんだ。・・・・まったく思い出せない。
顔を洗って、戻ろうとしたら、居間の前で、奥さんに声を掛けられた。
「中に入って、これを着てみて」
居間の畳の上に、白のブラウスと薄いピンクのセーター、ベージュのフレアスカート、袋に入った新品のパンストが置かれていた。
「嫁に行った娘のものなの。娘はあなたより、少し太っていて、背が低いから、合わないかもしれないけど、そのジャージよりはいいでしょう?」
「すみません。何から何までご迷惑をおかけして」
「いいのよ、気にしなくて。困っている人を助けるのが、警察のつとめですからね」
畳の上の服を着てみた。少し大きいけれど、おかしくはない。おかしくはないが、何故か違和感を覚える。この違和感は何だろうか? それも分からない。
「おおい、帰ったぞ」
玄関のドアが開いて、警察官が戻ってきた。手には何も持っていない。わたしの服はなかったようだ。
「お帰りなさい、あなた。やっぱりなかったの?」
「だいぶ探してみたんだが、どこにもない」
「じゃあ、仕方ないわね」
「おっ、和美の服を着せたのか。いいじゃないか。女の子は、あんなジャージよりは、やっぱりスカートがいいな」
わたしのスカート姿を見つけて、警察官はにやにやしながらそう言った。
「あなた!! 若い女の子を見るといつもこうなんだから」
「分かった。分かった。めしはもう食えるのか?」
「できてますよ。さっさと椅子にお座りになって! お嬢さんも、さあ座って」
朝食を食べながら考えた。わたしの服はどこにあるんだろう? 下着姿のまま、どこからか飛び出してきたというのだろうか?
「病院が開くまで、まだ時間があるから、居間でテレビでも見ていらっしゃい。時間になったら呼んであげますからね」
そう言われて、居間の畳の上に座って、ぼんやりとテレビの画面を眺めた。わたしは誰だろう? どうしてこんなところにいるのだろう? いつまでもその疑問が脳裏を駆け巡っていた。
「まさか、先生のところから逃げ出して来たんじゃないでしょうね」
台所の方から、奥さんの声が聞こえてくる。
「違うだろう。あんなにスタイルが良くて美人の患者は、先生のところじゃあ見たことがないよ」
「それもそうね」
病院というのは、まさか精神科では? そんな疑問が持ち上がる。記憶喪失らしい女を連れていく病院と言えば、そうなのかもしれない。わたしは精神病院から逃げ出してきた患者なのか? それならば、下着姿も納得できるし、記憶がないのも説明ができる。だけど、わたしはまともだ。気が狂ってなんかいない。
「そろそろ、病院が開く頃だ。おい、お嬢さん。ぼつぼつ行こうか」
一時間ほどして、警察官に声を掛けられた。玄関に出ると、警察官がパジェロを裏から回してきた。行き先が精神病院だったらどうしよう。わたしがそこから逃げ出した患者だたらどうしよう。わたしは小さくなって震えていた。
「わたしの名前を言ってなかったな。大井耕平だ。大きいに、井戸の井、耕すに平らと書く」
「何科の先生なんですか」
「えっ!? 何だって?」
「今から行く病院は、何科なんですか?」
「何科だったけなあ。内科が主だが、外科もやってるな」
わたしはほっと安心した。けれど、大井が嘘を言っているのかもしれない。精神科から逃げ出したのかもしれない女に、本当のことを言うはずがない。
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「・・・・何でもないです」
病院は、駐在所から二キロばかりの田圃のど真ん中にあった。周りには、一軒の民家もない。こんなところで商売になるのだろうか?
玄関の脇に看板が出ていた。園田医院。外科、内科、整形外科、婦人科、泌尿器科などなど。典型的な何でも屋の田舎の病院らしい。精神科は標榜されていなかった。大井の言っていたことが嘘でないと分かって、わたしはほっと胸を撫で下ろす。
「さっちゃん、先生はもう出ているかい?」
「今病棟にいると思いますけど・・・・」
「ひとり、診て貰いたい人を連れてきたんだ。ちょっと呼んでくれないか?」
「はあい」
さっちゃんと呼ばれた二十歳過ぎくらいの若い看護婦は、机の上の電話を取って、ボタンを押している。
「・・・・はい、分かりました。そう、お伝えしておきます。大井さん、ちょっと待ってくれって。入院患者さんの付け替えしているからって」
「分かった。じゃあ、ここで待たして貰うから」
「カルテ、作っておきましょうか?」
「いや、いいよ。ちょっと事情があってね」
それはそうだろう。保険がなくてもカルテは作れる。しかし、カルテを作るには絶対名前がいる。わたしには・・・・名前が・・・・ない。
十五分くらい待っただろうか? 待合いの奥のドアが開いて、背の高い、白髪をきっちり七三に分けた白衣の男性が出てきた。六十前くらいだろうか?
「やあ、大井さん。久しぶりだねえ」
「そうですね。この前、風邪で診て貰って以来ですかね」
「もう二ヶ月も前じゃないか。ところで、患者を連れてきたって?」
「患者というわけじゃないんですけどね。ちょっと先生に相談に乗って貰おうと思いまして」
「いいよ。どういう相談だい?」
「この子なんですけどね」
医者はわたしの顔を見て、ほんの一瞬驚きの表情を見せた。しかし、すぐに元の表情に戻った。わたしを知っているのだろうか?
「ほう、美人だねえ。それで?」
「昨日の夕方、鎮守の銀杏の木の下にいたのを拾ったんですよ」
「ああ、あそこの銀杏の木ね。で?」
「自分の名前も、どうしてあそこにいたのか分からないと言うんですよ」
「ほっほう。記憶喪失ですか」
医者は、わたしを興味深げに見た。この表情からすると、医者がわたしのことを知っているかも知れないと思ったのは、思い違いのようだ。
「大井さん、ここじゃあ、なんだから、処置室で話を聞こう」
わたしたちは、診察室の隣にある、処置室へ入った。この部屋は、注射をしたり、電気治療をしたりする部屋のようだ。
「先生のところの患者じゃないでしょう?」
「こんな美人は、今はいないよ」
「ブラジャーとパンティーだけだったから、もしかしてここから逃げ出したんじゃないかと思ってですね」
大井は、看護婦に聞かれないように声を落としてそう言った。
「ブラジャーとパンティーだけ!?」
「そうなんですよ」
「じゃあ、遠くから来たんじゃないな」
「それらしい情報は入ってないんですよ。今朝起き抜けに本庁に連絡してみたんですけど、家出人の捜索願も出ていないしですね」
「まだ、九時半だよ。今頃いなくなったって、騒いでいる頃じゃないのか?」
「そうかもしれませんね。でもね、園田先生。わたしが知ってる範囲では、この村に、こんな美人の親戚縁者がいませんね」
「そうか。じゃあ、車であそこまで連れてこられて、放り出されたってことは?」
「この子を見つける三十分前くらいに、鎮守の前を通ったんです。その時この子はいなかったし、その三十分間に車は一台も来なかった。それは確かですよ」
「じゃあ、どこから降って沸いたんだ?」
「それは、わたしには分かりませんよ。本人から聞こうと思ったんですけど、記憶がないというもんですから、ここへ連れて来たんですよ」
「記憶喪失は専門じゃあないからなあ」
「じゃあ、どうしましょうか?」
「二,三日、捜索願が出るまで待ってみたらどうだ?」
「ううん、・・・・そうですね」
「もし、身元が分からなかったら、再来週の火曜日の午後、大学に行く予定があるから、連れていって診て貰おう。それでいいかい?」
「お願いします。でも、それまでの間どうしましょうか?」
「うちは今一杯だしね。大井さんのところに置いておいたらどうです?」
それから園田は声を潜めていった。
「若い美人の女が同じ家の中にいるというのも、いいもんでしょう?」
「な、何を馬鹿な。本官は公僕ですぞ。淫らな考えはありませんぞ。妻がそばにいることですし」
「はっ、はっ、はっ。冗談ですよ。あんまり遠くから来たんじゃなさそうだから、本庁に連れて行くよりも、とりあえず、大井さんのところでしょう?」
「それもそうですね。じゃあ、再来週の月曜日の夕方にでも先生に連絡しますので、よろしくお願いします」
「分かったよ。・・・・一応診察だけしておこうか?」
「そうですね」
「おい、さっちゃん。血圧測って」
血圧を測って、記憶喪失のどこが分かるのだろうか? わたしはそう思いながらも、黙って血圧を測らせた。
「あれっ!?」
「どうした?」
看護婦は、わたしの腕に顔を近づけて、指先で脈を探していた。
「いえ、ありました。さっき脈が触れなかったものだから」
「さっちゃん、しっかりしてくれよ。看護婦の免許持ってんだろう?」
「ちゃんと持ってます。ふんだ。大井さんなんて嫌いだよ」
「大井さん、さっちゃんを虐めないでくれよ。彼女に辞められたら困るんだから」
「あれえ!?」
「どうしたんだ? また何かあったのか?」
看護婦は、一度下げた水銀柱を、もう一度しゅぽしゅぽしゅぽと上げている。
「おかしいなあ。ぜんぜん聞こえないよ」
「そんな馬鹿な。さっちゃん、耳が悪くなったんじゃないか?」
「うん、もう。先生まで! だったら、聞いてみてよ」
「どれどれ」
看護婦を押しのけて、園田がわたしの血圧を測り始めた。
「ちゃんと測れるじゃないか。120の70」
「ほんと? 先生。おかしいなあ」
看護婦が、もう一度わたしの血圧を測り始めた。
「ほんとだ。今度は聞こえる。120の70だわ」
「さっちゃん、調子が悪いみたいだねえ。今日は生理と違うのかい?」
大井が血圧計を覗き込みながらそう言う。
「大井さん、セクハラで訴えるわよ」
「悪い、悪い」
大井はぺろりと舌を出した。
「君、診察室に入って。大井さんは外で待っていてくれ」
園田は、診察という明目で、わたしを裸にしてみたいらしい。嫌だと言っても仕方がない。変に機嫌を損ねたら、あとで困るかもしれない。わたしは、言われるままに診察室に入って、上半身裸になった。
わたしの胸を聴診しながら、園田はちょっと首を傾げた。それから、ほっとした顔になった。理由は分からない。
「聴診器の具合が悪いのかな。聞こえ難いな。ああ、君。もう着ていいよ」
わたしが服を着ている間、園田はカルテに何か書いているようだった。名前のないカルテに。
「大井さん、婦人科の診察は、どうしようか?」
園田が、診察室の外にいる、大井に向かってそう叫んだ。わたしは、えっと言う思いだった。どうしてそこまでやらなきゃいけないの?
「お願いします。強姦されて、そのショックで記憶が無くなったとも考えられないこともないですから」
強姦! まさか、そんな!
「じゃあ、君。向こうの診察台に乗ってくれないか」
「診察しないとだめですか?」
「もし、大井さんの言うとおりだったら、証拠を残しておかないと、訴えられないからね」
園田は、医者という特権で、わたしの隅から隅までを観察しようとしている。そうに違いない。嫌だったけど、わたしは渋々承諾した。
看護婦に言われて、パンストとショーツを脱いだ。それらを籠に入れて、診察台に昇った。あぶみに足をかけて仰向けに横たわる。スカートがまくり上げられた。園田がわたしの股間を覗いている場面を想像したら、恥ずかしくて顔がかっと熱くなった。わたしの目の前にはベージュ色の化繊のカーテンが下がっているから、園田の顔は見えない。見えたら恥ずかしさは倍増するだろう。
ぐっと押し広げられるような痛みと違和感があって、かちゃかちゃと音がしている。園田が、わたしの中に器具を入れて調べているのだ。
「大丈夫だ。君は犯されていないよ」
何と返事をしていいものやら分からなかった。犯されていないよか。記憶のないわたしにとっては、たった今、園田に犯されたようなものだ。
わたしが下着を着ている間に、園田は大井に話しをしている。
「大井さん、性交のあとはないね」
それから、少し声を潜めていった。
「処女じゃないけどね、彼女は」
わたしの顔は、またかっと熱くなった。わたしは処女じゃない。誰かとセックスをしたことがある。その相手が誰かも思い出せないけれど・・・・。
「先生、ありがとうございました」
「大井さん、身元が分かっても分からなくても、記憶が戻っても戻らなくても、再来週の月曜日の夕方には連絡を入れてくれるかな?」
「分かりました。じゃあ、失礼します。君、帰るよ」
わたしは言い知れぬ屈辱感を覚えながら、大井のパジェロに乗り込んだ。逃げ出したい気持ちもあるが、逃げ出したところで、どうしようもないのだ。記憶もお金もないのだから・・・・。