第9章 寿代の提案


 目が醒めると既に朝だった。ベッドの中に寿代はおらず、隣のベッドにもいなかった。キッチンから、昨日と同じように朝食を作る物音が聞こえてきた。
 セックスって気持ちがいいんだ。女だったらどうなんだろうかと考える。元に戻れば、そのチャンスがあるんだろうけれど・・・・。
 「あなた。そろそろ、お起きになる時間ですよ」
 機嫌の良さそうな寿代がベッドルームに顔を出した。
 「あ、すぐに起きます」

 歯を磨いて顔を洗って髭を剃り、着替えをしてテーブルに付く。昨日と変わらず、美味い朝食に舌鼓を打つ。
 この日も寿代に学校まで送ってもらった。
 「先生、車、どうしたの?」
 「車か? ちょっと故障で修理中なんだ」
 と誤魔化すが、いつまで誤魔化し通せるものだろうか?

 授業の予定表通りに授業を進める。このノートがなかったら、かなり苦労したことだろうなと思う。

 伊藤は、別の同僚を誘って飲みに行くらしい。電話をかけて寿代に迎えに来て貰った。車の運転をどこかで習わなければと思う。事情を知っている伊藤に教えて貰うのが、手っ取り早いかも知れない。
 教師としての仕事は何とかこなしているものの、問題はまだ多い。

 今晩は、寿代はベッドの中に入ってこなかった。残念なような、ホッとしたような複雑な気分だ。寿代を抱くことはできる。しかし、いけないことをしているような気分で、自分から寿代のベッドに入っていくことなんてできそうもない。


 「化粧はまあまあだけど、歩き方に気を付けた方がいいわ。まるで男よ」
 椎原千絵に朝から怒られる。まあ、彼女のおかげで何とかやれているのだから、感謝こそすれ、恨み言を言うのは的はずれだろう。

 昼休み前、大竹寿代が相良菜摘に会いにやってきた。
 「あなた。うまくやれてます?」
 「なんとか・・・・」
 「大変でしょうね」
 「うん」
 「早く元に戻ってくださいね」
 寿代が相良菜摘の胸に顔を埋める。事情を知らない他人が見たらどう思うだろうかなと少し不安になる。
 「できれば、そうなって欲しい・・・・」
 「愛してるわ」
 「俺も」
 寿代とキスしてしまった。妙な感じだ。


 土曜日曜と連休だったので、家にいてごろごろしていた。ずっと休みだったらいいなと思うが、そんなわけにも行かないだろう。
 大竹実は、休みの日にはほとんどゴルフに行っていたようだが、ゴルフクラブなど握ったこともないので、誘われた同僚には、体調が悪いし、期末考査の問題ができあがっていないからと言い訳して断った。こんな言い訳がいつまで使えるのだろうか?
 期末考査の間は、体育の授業がないから、テストの監督だけでいい。楽なものだ。

 「伊藤先生。ちょっといいですか?」
 金曜日の夕方、大竹実は伊藤に声をかけた。
 「なんですか? 何か困ったことでも?」
 「車の運転なんですけどね」
 「免許は持ってるでしょう?」
 「持ってるけど、・・・・実際には運転できないから」
 「運転したことがなかったんですか?」
 「いや。免許そのものを持ってなかったんです」
 「今どき、珍しい」
 「免許証があるのに、運転を習いに行くのはおかしいから、教えて貰えないかと思って・・・・」
 「あ、そう言うこと。いいですよ。教えてあげましょう。どこでやりましょうか?」
 「大分川の河川敷じゃどうでしょうか?」
 「ああ、あそこ。あそこならいいでしょう。で、いつから?」
 「先生の都合でいいです」
 「じゃあ、明日にでも」
 「時間は?」
 「そうですね。10時に。いいですか?」
 「すみません。無理を言って」
 「いいですよ。先生とぼくの仲ですから」
 「申し訳ないです」
 と言うことで、伊藤に車の運転を習うことになった。

 「先生。今日は奥さんに送ってもらわないんですか?」
 「車がやっとなおったからな」
 伊藤のお蔭で、自分で車を運転して通勤できるようになった。これだけでかなり自由が利くようになった。しかし、家と学校の間を往復するだけだから、それほど大きなメリットはないのかも知れない。


 小姑のような椎原千絵のお蔭で、相良菜摘は女としての生活になれてきた。料理や洗濯、掃除も無難にこなしている。しかしそれでも、時々女らしくないと怒られる。
 毎日、ベッドに入ると、元に戻れと願いながら眠るのだけれど、願いは叶わない。毎朝溜息をつく毎日だ。
 「もう元には戻らないみたいね」
 「恐ろしいことを簡単に言ってくれるじゃないの」
 「でも、そうでしょう? 元に戻るのなら、あの日の翌日には戻ったんじゃないかな? 一週間経っても、一ヶ月経っても戻らないって事は、一生戻らないって事よ」
 相良菜摘は項垂れる。反論しようにも、何も根拠がないのだ。
 「女はイヤなの?」
 「イヤって事はないけど・・・・」
 朝起きて、食事をして仕事をして、また食事をして寝る。男であったときも同じだった。一般の教師なら、子どもたちの成長が楽しみだが、体育の教師は、それほどのことはない。あまり変わらないと思う。
 違うのは、配偶者がいるかどうかと言うことだけだろうか? 大竹実には妻がいた。何でもやってくれる妻が。今は独り暮らし。何でも自分でやらなければならない。
 女は結婚しても、仕事が増えるだけだと思うと、結婚する気にもならない。結婚!! 時々訪ねてくる寿代以外とはキスもしたことがないのに、今の段階ではとてもそんなことは考えられない。
 「男の人に尽くすって言うのも、女として嬉しいものよ」
 そんな千絵の言葉に、実感は沸かない。


 あれ以来、寿代は大竹実に迫ることはしなかった。姿は夫でも、人格が違うと思うと、他人に抱かれるようで、イヤだったからだ。
 大竹実の方も、寿代に迫ってくることはなかった。大竹実の人格は女だから、寿代を抱くという気持ちが起きないのは仕方のないことだ。そう思って、寿代は諦めていた。
 しかし、体のうずきは押さえられなかった。夫が寝てしまった深夜。自分で自分を慰めて、火照りを沈めていた。
 元に戻ればと思って、相良菜摘の人格を持つ夫を支えてきた。しかし、3ヶ月を過ぎても、元に戻る気配は全くなかった。
 夫と同じ顔をした他人と暮らすなんて、もうこれ以上耐えられそうもない。寿代は、ある決心をした。


 相良菜摘は、大竹寿代からの呼び出しの電話を受け、田尻グリーンピアにある大竹の家を訪ねた。あの日、この家を出てから、3ヶ月ぶりの戻る家に懐かしさを覚えていた。
 「ごめんください」
 「いらっしゃい。どうぞお上がりになって」
 大竹寿代が、笑顔で相良菜摘を迎えた。
 「大竹も奥で待っていますわ」
 「お邪魔します」
 自分の家だったところに、こんな風に挨拶して上がるとは思ってもみなかった。ハイヒールを脱いで、寿代が揃えたスリッパを履いて、応接室へ進んでいった。
 「やあ、お久しぶり」
 応接間のソファに大竹実が深々と腰掛けて、相良菜摘に片手をあげて挨拶した。
 「ご無沙汰しています」
 「そのワンピース、よく似合うね。買った覚えがないけど、自分で買ったの?」
 「ええ、先週、トキワで」
 「センスがいいんだね」
 「スタイルがいいから、何でも似合うんです」
 これは、元の体の持ち主である大竹実に対しての誉め言葉として言ったことなのだが、こんな会話、他人が聞いたらおかしく思うだろう。
 「うん、よく似合ってるよ」
 大竹実は、満面に笑顔を相良菜摘に向けた。
 「今日はどうしてまたここへ?」
 「えっ!? わたし、寿代に、いえ、奥様に呼ばれたんですけれど・・・・」
 「寿代に? 何の用だろう?」
 顔を見合わせながら、首を傾げるふたりの前に寿代が、コーヒーの入ったカップを盆に乗せて現れた。
 「さあ、めしあがって」
 「寿代。どうして、相良さんを呼んだんだい?」
 寿代は、大竹実から少し離れた場所に座ってふたりを見ながら話し始めた。
 「わたし、大竹を愛してます」
 「何を突然言うんだ?」
 「黙ってわたしの話しを聞いて」
 大竹実は黙り込む。
 「あなたは、大竹の姿をしています。だけど・・・・、だけど、あなたは大竹ではありません」
 「・・・・そうだな」
 「わたしの愛する大竹はそこにいるのに、愛しあうことができません」
 寿代が相良菜摘を見つめる。
 「すぐに元に戻るだろうと思って、今まで我慢してきました。だけど、もう元に戻りそうもありません」
 「そんなことないよ。もうすぐ元に戻るよ」
 「いつ? いつ元に戻るの?」
 大竹実は再び黙り込む。
 「今日か、今日かと待ちました。わたし、疲れました。もうこんな生活はイヤです」
 「どうすればいいとおっしゃるんですか?」
 「離婚してください」
 「ええっ!?」
 大竹実と相良菜摘が同時に声を上げた。
 「夫と同じ顔をした他人と結婚を維持するのは無理です」
 「そんなことをしたら、元に戻ったとき困るわ」
 「だから、いつ元に戻るって言うんですか?」
 寿代が、相良菜摘をきっと睨み付ける。
 「わたしには、分かる。このまま一生元には戻らないわ」
 「それがどうして分かる?」
 「女の勘よ」
 「勘だけで、こんな重要な問題の決着を付けようと言うんですか?」
 「元に戻る保証があれば、何もこんな事は言い出さないわ。そうでしょう?」
 ふたりとも何も言えない。
 「わたしと離婚して、あなた達ふたりが結婚すればいいのよ。そう、それがいいわ」
 「そんなこと・・・・」
 「そんなことできないよ。俺たちは、何の縁もゆかりもないんだから」
 「でも、考えても見て。あなた達、自分のことはまだ良く知らないかも知れないけれど、相手のことは一番良く知っているのよ。もし結婚したら、一番理解し合えるでしょう? それに、今気付いたんだけど、先になって元に戻ったとしても、夫婦で入れ替わるのなら、何の問題も起きないんじゃないの?」
 「・・・・それはそうだが・・・・」
 「今のままで、例えば、相良菜摘さんに好きな人ができて結婚したとするわ」
 「そんなことは起こらないわ」
 相良菜摘は言下に否定した。
 「たとえばの話しよ。黙って聞いて」
 「はい」
 相良菜摘は黙り込む。
 「結婚した後に元に戻ったら、菜摘さんは、どこの誰とも知れない人に抱かれることになるんじゃないかしら。それでもいいの?」
 「そんなの困るよ」
 大竹実がそう呟いた。
 「そうでしょう? だから、わたしと別れて、相良さんと結婚するのよ。それがいいわ」
 ふたりは顔を見合わせてから、黙って下を向いて考える。
 「どうするの?」
 「すぐに結論を出さなきゃだめか?」
 「待ったって、同じでしょう?」
 「それもそうだね。今この瞬間に元に戻らない限りは」
 「さあ、決断して」
 「どうする?」
 大竹実が相良菜摘に尋ねる。
 「寿代さんの言うとおりかもしれないわね」
 「そうでしょう?」
 「慰謝料とかはどうする?」
 「そうね。この離婚は、あなたの所為でもわたしの所為でもないから、わたしの方としては、当座の生活ができればいいわ」
 「具体的には?」
 「お義父さんからの生前贈与のお金が、2000万ほどあるわ」
 「もうそんなになったのか?」
 相良菜摘がそう言う。
 「ええ。半分いただければ充分だわ」
 「それでいいのか?」
 寿代は頷く。
 「大竹さん、どうします? それでいいですか?」
 相良菜摘が大竹実に聞く。
 「離婚はともかく、結婚というのは・・・・」
 「わたしとじゃイヤだとおっしゃるんですか?」
 「・・・・自分自身と結婚するんだから、いいと言えばいいんですけど、元に戻った場合を考えると・・・・」
 「大竹実という男が好きになれないとでも? 今は自分自身なのに?」
 相良菜摘が詰め寄る。
 「あ、・・・・そうするのが一番いいんですかねえ」
 「選択枝は他にないと思うんですよ」
 「・・・・分かった。寿代の言うとおりにしよう。それが一番だろう」
 「そうおっしゃると思っていましたわ。話がまとまったところでお昼にしましょう」
 寿代はにっこり笑って立ち上がり、キッチンへ消えた。

 昼食がすむと、寿代は既に準備していた離婚届を大竹実の前に差し出した。
 「準備がいいんだね」
 「他に選択枝はないんですから、きっと承諾していただけると思ってましたから」
 「そうだね」
 大竹実がサインを入れると、今度は婚姻届を差し出す。
 「これは今日でなくても・・・・」
 「善は急げよ」
 大竹実と相良菜摘は、顔を見合わせ、それぞれサインを入れて判を押した。
 「慰謝料はどうする?」
 「わたしの口座を作って、振り込んで置いたわ。ほらね」
 「準備のいいことだ。俺たちが同意しなかったら、どうするつもりだったんだ?」
 「同意しないはずがないでしょう?」
 「それもそうか・・・・」
 「わたし、明日にはこの家を出ていきますから、相良さん、あなたは来週にでも引っ越してきていいわよ」
 「こんな事になって、何と言っていいのか・・・・」
 「誰の所為でもないわ。だから、いいのよ」
 3人揃って、市役所に行き、離婚届と婚姻届を提出した。大竹実と相良菜摘は複雑な表情を浮かべ、寿代はさばさばとした表情をしている。
 「さあ、早く帰って引っ越しの準備をしなきゃ」
 寿代の嬉しそうな態度が気になる大竹実と相良菜摘だった。