目を開けると、部屋は既に暗くなっていた。相良菜摘はベッドから起き上がって、蛍光灯のスイッチを入れた。
「もう7時か・・・・。腹が減ったな」
ダイニングキッチンへ行き、冷蔵庫を開けてみる。冷凍食品がいくつか入っていた。
「こんなものしかないのか。家にいたら、寿代が作ってくれるのに。毎日、食事の心配をしなければいけない。参るな」
相良菜摘は、洋服ダンスから、ジャケットを取り出して羽織ると、財布の入ったバッグを手に、部屋を出た。
「すぐ近くにラーメン屋があったな」
相良菜摘の住むアパートの、道を挟んで向かい側にラーメン屋があった。そこへ顔を出した。
「いらっしゃい。何に致しましょう?」
「ラーメンライスを」
「へい。ラーメンライス、一丁」
たのんでしまってから、若い女がラーメンライスなんて注文するのかなと思う。チャンポンか何かにすれば良かったかなと思ったが、注文し直すのが面倒で、そのままスポーツ新聞を広げて読み始めた。
「はい、お待ち」
そう言って、店員がラーメンと飯の入った茶碗を置いていった。ふと店員を見上げると、ちょっと妙な顔をしている。何かおかしな事をしたかなと、首を傾げる。
首を傾げながら気付く。そうか。若い女は、スポーツ新聞なんて広げないし、まして今見ているのは、女性のヌード写真の入ったセックス関連の記事なのだ。気を付けないといけないと、相良菜摘は思う。
ラーメンライスは失敗だった。男なら簡単に入る量なのに、半分も食べると腹一杯になってしまったのだ。自分が女であることを自覚させられた相良菜摘であった。
「お手伝いします」
「いいですから、テレビでも見ていてください」
夕食の準備をする寿代に声をかけると、そう言って断られ、大竹実は、やむなくソファーに座ってテレビの画面に目を移した。食事を作ってもらうなんて、高校時代以来だなと思いながら。
「美味しいです」
寿代の作ってくれた料理を食べながら、大竹実は感嘆の声を上げた。
「そんなこと言われたことがないわ」
「ホントに?」
「いつも黙って食べるばかりで、美味しいって言われるのは、年に1回か2回だわ」
「まあ、ひどい。こんなに美味しいのに」
「あなたって優しいのね。ずっとこのままでいてくれないかしら?」
「えっ!? でも亭主関白がいいんでしょう?」
「程度問題だわ。時には優しくしてくれないと・・・・」
「それもそうですね。元に戻ったら、ご主人に言っておきます」
「そんなこと言ったら、怒りますわ」
「大丈夫ですよ。今回のことで、少しは反省してるんじゃないですか? 女は大変だって分かって」
「そうかしら?」
「そうですよ」
寿代は、嬉しそうな顔をして、夫である大竹実に微笑んだ。
相良菜摘は、ラーメン屋からの帰り道、自動販売機でビールを買い込んでぶら下げて部屋に戻った。鍵を開けて入る部屋には、待つものがいない。相良菜摘は溜息をつく。
冷蔵庫に二本の缶ビールをしまうと、バスルームに入ってお湯を溜め始めた。全自動じゃないから、お湯が溢れないように気を付けなければならないなと思いながら、奥の部屋に戻ってテレビのスイッチを入れた。
点けたチャンネルで、巨人・ヤクルト戦をやっていた。相良菜摘は、あぐらをかいてテレビを見始めた。
テレビの画面に夢中になっていた。しばらくして、ザアザアと言う音に気付いて、慌ててバスルームへ飛んでいく。
「あああ。勿体ないことしちゃった」
お湯が溢れて流れ出していた。
「ま、いいか。俺が水道代を払う訳じゃない」
そう呟く。しかし、ずっとこのままだったら、水道代を払うのは俺だなと気付く。次からは気を付けなくちゃと、反省する相良菜摘であった。
タンスの中から、ショーツとパジャマを探し出して脱衣籠の端に置いて、着ていたものを着替えの反対側に放り込む。
狭くて、何となく汚らしい感じだなと思いながら、体をお湯で流して湯船の中に沈んだ。菜摘がきちんとした性格じゃなかったら、このバスの中にはとても入れそうもないとバスルームの天井を見ながら、菜摘はぼんやり思う。
病院の風呂は共同風呂のように患者さんが一緒に入る。他の女性と一緒に入るのは、何となく気恥ずかしくて、結局一回も入らず、蒸しタオルで体を拭いただけだった。だから、こうなってしまってから入浴するのは初めてだった。
湯船に浮かんだ、まずますの大きさの乳房を見つめる。そっと両手で触ってみた。病院にいるときは、個室と言っても看護婦が突然入ってくることがある。だからそんな風にしたことがなかった。いい感じだ。湯船から上がって体を洗うと、体がすっきりした。
体を拭いてバスルームを出て、ショーツを穿くと、冷蔵庫に缶ビールを取りに行く。リングを引いて、ぐっと一口飲み込んだ。
「美味い!」
男は、トランクス一丁で、そう言うことをよくするが、ショーツ一丁で、缶ビールを飲む若い女なんているのだろうか?
誰も見ていないから大丈夫だよな。そう思いながら奥の部屋に戻って、ベッドの上にあぐらをかき、ビールを飲みながら野球の観戦を続けた。
松井が打ち、高橋が打つと歓声を上げた。体の持ち主の相良菜摘が、巨人ファンかどうかは知らないけれど、今は完全な巨人ファンである。
すぐに一本目が開いてしまった。相良菜摘は、キッチンに行って冷蔵庫から2本目の缶ビールを取り出す。
こんなに飲んでもいいのかな? と思ったときには、リングを引いて飲んでいた。2本目を飲み終わる頃、巨人の圧勝で試合が終わり、相良菜摘はそのままベッドの上に倒れてしまった。
この体は、酒にはあんまり強くないみたいだなあと思いながら、相良菜摘は眠りに落ちていった。
夕食がすんで、大竹寿代は台所で片づけをしている。大竹実の方は、バスルームへと追いやられた。
この家に戻ってきてから着替えた部屋着を脱いでバスルームへ入った。大竹実もまた、入浴は久しぶりだ。
入院中、一度だけ入浴するために浴室へ行ったことがある。浴室のドアを開いて中に入ると、前も隠さずにぶらぶらさせて歩く男の患者たちに、大竹実はどぎまぎした。
幼い頃、父親が風呂から上がって、ぶらぶらさせながら部屋の中を動き回り、母に怒られていた記憶がある。
あの時は、わたしにもあれが欲しいなと思っていただけだが、大人になって男と女のセックスについて知るようになったとき、あんなものが女の中に入ると思うと、怖くてならなかった。見たくもなかった。だから、大竹実は入浴せずに浴室から飛び出して部屋に戻ったのだった。
浴室に入って体を洗うとき、そのぶらぶらしたものに目がいった。体がぶるっと震えた。あんなに男になりたいと思っていたのに、汚らしいものが付いているようでイヤだった。
イヤだイヤだ。早く元に戻りたいよ。見ないようにして体を洗うと、湯船に入って暖まった。
浴室を出ると、下着とパジャマが揃えられていた。妻がいる男もいいものだなと大竹実は思う。元に戻って結婚したら、自分はこんな風にやれるのだろうかなとも思う。
「わたしもお風呂に入ってきますから、あなたは、ビールでも飲んでいらして」
そう言って、大竹寿代は、コップにビールを注ぐと浴室へ消えていった。大竹実は、ビールの入ったコップをじっと眺める。風呂上がりはいつもポカリスエットなんだけど、どうしよう? お酒が強そうな顔をしているから、飲んでみようかな。そんな風に考え、ビールをぐっと飲み干した。
「美味しい!!」
風呂上がりのビールがこんなに美味しいとは思わなかった。体が違う所為だろうか? 大竹実は瓶からコップにビールを注いで飲み続けた。あっという間に一本空いてしまった。
キッチンへ向かい、ビールの瓶を取り出して、さらに飲み続けた。ちょっと自制が利かなくなっているみたいだなと大竹実は思った。
「あら? ご自分でお出しになったんですか?」
「あ、ああ。湯上がりのビールがこんなに美味いなんて知らなかったものだから、つい・・・・」
「いいですわよ。いつもそうでしたから」
そう言われて、大竹実は少し安心した。
「わたしにもいっぱいいただけます?」
大竹実の横に座って、寿代がコップを差し出す。
「いつもこうやって飲むんですか?」
「ときどきね」
「そうですか」
ビールを注いでやると、寿代は美味そうな顔をして飲み干した。
「ああ、美味しい。毎日、こんな風に一緒に飲めるといいわね」
「元に戻るまでは、毎日でも付き合いますよ」
「嬉しいわ」
そう言って、寿代が大竹実にもたれかかってきた。大竹実は、どうしていいのか分からず、体を固くしていた。目の前のテレビの画面も目に入らなかった。
11時のニュースが始まる頃、寿代がゆっくり立ち上がった。
「そろそろ寝ましょうか?」
大竹実はどきりとする。寿代とは夫婦だよね。まさか・・・・。まだしたことないのに・・・・。
寝室はツインだった。寿代は、さっさとベッドの中に潜り込んでいった。大竹実はホッとする。隣のベッドに潜り込んで寿代に背中を向けた。
何だか寝付かれなかった。眠りについたのは、午前2時過ぎだっただろうか?
目が覚めて時計を見ると10時を回っていた。頭がガンガンした。缶ビール二本は、この体にはちょっと多すぎたみたいだなと思う。
起きあがってみると、ショーツだけで毛布にくるまっていた。ビールを飲んでパジャマを着ないで寝てしまったんだっけ。寒くなって、寝ている間に毛布を引き寄せたみたいだ。
めんどくさいので、昨日引っぱり出したブラウスとパンツを着ることにした。ブラジャーしないといけないんだろうな。そう思って、タンスからブラジャーを取り出す。
入院したときにはブラジャーをしていたけれど、翌日外してからはしていなかった。どうやって付けるんだろうか? 肩紐?を通して、カップを胸に当て、後ろ手にホックをかけてみた。うまくいったようだったが、気持ち悪い。鏡に映してみると、ホックがずれているのだった。
一度外してやり直す。今度はうまくいった。ブラジャーって言うのは、身に着けると気持ちのいいものだなと思った。
腹がクウとなった。キッチンに行って食べ物を探す。朝食になりそうなものはない。買い出しに行かなければならないようだ。配偶者がいれば・・・・。また溜息がでた。
服を着て、買い物に出かけることにする。バッグと鍵を持ったとき、鍵の束の中に自転車の鍵らしいものを発見した。車の免許は持っていないが、自転車には乗れるようだ。
階段を駆け下りて、自転車を探す。自転車置き場に置かれている自転車を端から調べて回った。
しばらく調べていると、妙な顔をして相良菜摘を見ている女性がいる。自転車泥棒と間違えられたかな? そう思っていると、相良と書かれた自転車が見つかった。
鍵を入れてみるとカチンと開いた。自転車には、高校卒業以来乗ったことがない。しかし、自転車なんてものは、体が乗り方を覚えているものだ。そう考えて、自転車を道路に引っぱり出して、サドルに跨りペダルを踏んだ。上手く乗れた。
国道10号線を、大分駅方向へ走る。5分もしないうちにコンビニが見えてきた。相良菜摘は店の前に自転車を停め、食パンと牛乳、インスタントラーメンを買い込んだ。
自転車の前の籠に買ったものを放り込んでアパートに戻った。往復10分も自転車に乗っていないのに、息が上がった。普段よほど運動していないようだ。このままこの体でいるようだったら、少しは鍛えないといけないなと相良菜摘は思う。
トーストを二枚焼いて牛乳を飲みながら食べたのだが、一枚食べたところで腹一杯になってしまった。胃が小さいな。変な感慨に耽る。
『笑っていいとも』をげらげら笑いながら見た。笑いながらふと思い出す。仕事ではミニスカートを穿かなければならない。練習して置いた方がいいなと。
タンスの中を探して、ふとももの中程ほどしかないミニスカートを取り出して着替えた。すごく恥ずかしい。恥ずかしいけれど、慣れるためだと自分に言い聞かせる。
ドレッサーの前を行ったり来たりして、女らしく見えるかどうか点検する。二時間あまり、そうしていた。疲れてベッドの上にばたりと横になった。早く元に戻らないかなあ・・・・。
目覚めて隣のベッドを見ると、大竹寿代の姿はなかった。キッチンの方から物音がする。朝食の支度をしているようだ。大竹実は起きあがって、スリッパを履くとベッドルームを出た。
「あら? もう少し寝てらしてよかったのに」
「いえ、そんなわけには・・・・」
「いいんですよ。あなたは、この家の中ではご主人様ですから、もっと堂々としてらしていいんです」
「そんなのおかしいと思いにならないんですか?」
「えっ!? どうしてでしょうか?」
「まるであなたは男の奴隷みたいじゃないですか? 男女平等の今の世の中にそぐわないんじゃないですか?」
「奴隷だなんて思ってませんわ。これがわたしの役目だと思ってます。あなたは働いて、生活費を稼ぐのが役目。わたしは、家庭にいてそのあなたを支えるのが役目。男女で同じことをするのが平等だとは思いませんわ」
そう言う考え方もあるのかと大竹実は納得する。
「お茶、入れましたわ。さあ、お飲みになって」
「ありがとうございます」
「もっと気楽にされていいですわよ。こんな生活にも慣れていただかないといけませんから」
「・・・・そうですね」
寿代の作った朝食も美味しかった。妻のいる男はホントにいいものだ。女に戻れても、こんな風に食事を作ったり、身の回りの世話をしてくれる人がいればいいななんて思う自分がおかしい。
「主人は体育の教師ですけれど、あなた、運動はさっぱりだとおっしゃってましたね」
「ええ。体育はずっと2でした」
「お仕事やっていけるかしら?」
それは、大竹実が最も心配していることだった。
「何かいい方法はありませんか?」
「わたくし、主人が学校でどんなことをしているか知りませんから、何ともお答えしようがありませんわ」
「そうですか・・・・」
大竹実は困り果てる。
「昨日も話したでしょう? 自分で運動や競技をする訳じゃない、指導するだけだからなんとかなるだろうって」
「そうでした」
少し安心する。寿代が笑顔を大竹実に向けてきた。
大竹実は、書斎に入っていった。体育の教師をするための情報があるのではと、寿代に言われたためだ。
入って右手に本棚がふたつあって、窓にある机に近い方に運動関係の書籍が列んでいた。バレーボール、サッカー、テニスなどの教本。体力作りの基本を書いた本などなど。
入り口のドアに近い方には、体育の教師らしからぬ文学書が列んでいた。その一つを取ってみると読んだ跡があった。単なる飾りじゃないようだ。推理小説も少しだけ列んでいた。
机の上に視線をやる。部屋に入ったときから気付いていた。机の上にデスクトップのコンピューターが置かれていた。富士通製で、液晶のモニターが付いていた。
「最近、それでインターネットをやってましたわ」
そんな声に振り向くと、寿代が紅茶らしい飲み物を入れたカップを盆に乗せて立っていた。
「インターネットですか」
「あなたはやりますか?」
「やらないことはないですけど・・・・」
「主人は、のめり込んでしまって、帰宅すると寝るまでずっとやってたんですよ」
「何時間も?」
「そう。少なくとも3時間。ひどいときには5時間あまりもやってましたわ」
「そうですか」
寿代は、カップを机の上に置く。
「最近は、こうやってゆっくり話すこともなかったんです」
「それはいけないわ」
「そう思うでしょう?」
「はい」
「少しは反省してくれるかしら?」
「すると思いますよ」
「そうだと嬉しいわ」
「元に戻ればいいですけど」
「それもそうですね」
「元に戻らなかったら、わたし、うんとお話しいたします」
「・・・・お願いします」
と答えた寿代の目は悲しそうだった。目の前にいる大竹実は、姿は夫でも、人格が違うのだ。やっぱり元に戻って欲しいに決まっている。
料理なんてしたことがない。しかし、夕食は取らなければならない。毎日外食するわけにも行かないだろうと考え、相良菜摘は夕食作りを始めた。
中学の時、キャンプに行ってカレーを作ったことがある。うまく行くかどうか分からないけれど、作ってみるしかないのだ。
カレールーの箱の裏に書かれていたレシピに従って料理してみた。味見してみると、何とか食べられそうだ。
カレーができあがってから、飯を炊いていないのに気付く。ガックリと肩を落とす。米は研ぐんだったけな。と思い出しながら、2合ほど米を研いで炊飯器に入れた。水の量は炊飯器の目盛りに合わせて置いた。
飯が炊けるまで、テレビを点けて夕方のニュースを眺める。慣れない独り暮らしはたまらんなあと溜息をつく。溜息をついたのは何度目かだろうか?
30分ほどして、米のいい匂いがし始め炊きあがった。ふたを開けてみると、べちゃべちゃの飯だった。まるでお粥だ。お粥にカレーをかけるのか? 飯を炊き直すのは面倒だから、結局べちゃべちゃの飯を皿に注いでカレーをかけて食べた。
「カレーはよかったのに、飯が最悪!!」
テレビ画面のウッチャンに嘆いた。
高校で体育教師をするために必要な情報は何一つなかった。
「困った・・・・」
「こうなったら、ぶっつけ本番でやるしかないでしょうね」
「そうですね」
「ともかく、できるだけ頑張ってくださいな」
「・・・・はい」
逃げ出したいけれど、相良菜摘のほうも頑張っているだろうから、自分だけ逃げ出すわけには行かない。やるしかないのだ。そう心に決める大竹実である。