第4章 気が狂った?


 長椅子に座ってじっと俯いていた。膝小僧が見えた。ブルーのワンピースがまくれ上がって太股が半分ほど覗いている。
 「どうしてこんな短いワンピースを着なければならないんだ」
 涙がこぼれた。
 「俺は男なのに・・・・」
 そう思っていたのだが、今の自分の姿を思い出すと、この短いワンピースが相応しいのかもしれないなとも思っていた。
 椎原千絵に連れられて、市民病院の2階にある精神科の待合室にある長椅子に座っていた。
 そっと見回すと、気がふれたようには見えない普通の男女が、自分と同じように長椅子に座って順番を待っていた。
 窓口を見ると、精神科という標榜の隣に、心療内科という標榜もあった。心療内科? 首を傾げていると、
 「心療内科っていうのは、精神的ストレスなどが体に影響する病気を扱っているのよ」
 椎原千絵が、そう説明した。よくは分からないけれど、精神科よりは取っつきやすいような気がした。

 待っている患者はそんなに多くはないのに、気が遠くなるほど待たされた。と思ったが、実際に待った時間は1時間ほどだった。
 「相良菜摘さん。診察室2番へどうぞ」
 「ほら、菜摘! あなたの番よ」
 隣に座っていた椎原千絵が肩を叩いた。
 「俺は菜摘じゃない!」
 「分かった。分かった。分かってるけど、見て貰わなければだめよ」
 「やっぱり、いやだ。俺は気が狂ってなんかいない!」
 抵抗したが、引っ張られて診察に入った。抵抗したと言っても、それほどじゃない。何しろ今は間違いなく女で(病院に来る前に、トイレに行ってもう一度確かめたから、それは間違いのない事実だ)、決して男の体育教師ではないことが分かっていたからだ。自分は大竹実じゃなくて相良菜摘で、気が狂っていて、大竹実と言う男だと思いこんでいるのかも知れないと考えて始めていた。

 「相良菜摘さんですね」
 下駄のような顔をして、黒縁の眼鏡をかけた50前後のドクターが、カルテを見ながら尋ねた。
 「わたし・・・・、そう言う名前かも知れませんけど、わたしが自覚しているのは、その名前じゃありません」
 『俺』と言いたかったが、今の大竹には、『わたし』の方が相応しいと思った。
 「じゃあ、何という名前なの?」
 ドクターはくるりと椅子を回して、優しそうな笑顔を浮かべて聞き直した。
 「大竹実です」
 「大竹実というと、男の名前だよね」
 「はい。わたしは男です」
 「どう見ても、あなたは男には見えないけれどね」
 「わたし、先生がおっしゃるように体は女です。でも、わたしは大竹実なんです」
 「そうか・・・・」
 ドクターは、カルテに何やら書き込んでいる。
 「それじゃあ、大竹実さんと言うことにしておこう。で、生年月日は?」
 「昭和46年8月16日です」
 「昭和46年8月16日と・・・・。干支は?」
 「干支ですか?」
 「そう。干支。わたしは卯年だが、あなたの干支は何ですか?」
 「イノシシです。猪突猛進のイノシシなんです」
 そう即座に答えた。
 「イノシシと・・・・」
 カルテを書きながら、ドクターはノートを広げて生年月日と干支が一致しているかどうか調べている。
 「ふん。間違いない・・・・。住所は?」
 「田尻グリーンピア東区20の2です」
 「電話番号は?」
 「569の××××です」
 「なるほど、なるほど」
 ドクターは、頭のおかしい患者をみつけているのだろう。顔色も変えずにカルテを書き進んでいった。
 「生まれたのはどこ?」
 「別府市です。別府の浜町で生まれました」
 そんな大竹の言葉を聞くと、ドクターは嬉しそうな顔をして見た。
 「ほう、浜町ねえ。わたしは、浜脇でねえ。浜町には同級生がいるよ」
 「なんと言う名前ですか?」
 「下田って言うんだ。八百屋をやっていたが、両親がなくなって、今はやっていないと聞いている」
 「ああ、郵便局の隣の八百屋さんでしょう?」
 「・・・・そうだったね」
 ドクターが自分の言うことを信じてくれそうな気がした。
 「すると、小学校は南小学校だな」
 「はい。中学は浜脇中学でした」
 ドクターは頷きながら、カルテに記載を続けている。
 「高校は?」
 「鶴見が丘高校です」
 「優秀なんだな」
 「先生の時代は、鶴見が丘が別府では一番だったでしょうけれど、わたしの時代には、地に落ちてましたよ」
 「そうか。46年生まれだったね」
 「はい」
 「大学は?」
 「東洋体育大学です」
 「体育大学か」
 「はい。だから、体育の教師をしています」
 「あなたは、今は体育の教師だと言うんだね」
 「はい。県立明野高校に勤めています」
 「明野のお山の上にある高校だね」
 「はい。そうです」
 「いつから、自分は大竹実だと?」
 「わたしは、生まれたときから大竹実です」
 「でも、あなたは女でしょう?」
 「はい。確かに今は、わたしは女です。だけど、今朝までは、わたしはれっきとした男でした。それが、突然女になってしまったのです」
 「はっ? よく分からないな。よく説明してくれるかな?」
 「さっきも言いましたけど、わたしは県立明野高校に勤める体育教師で、今朝、車で家を出て高校へ向かいました。昨日から、頭痛がしていて、体がふわふわした感じだったんです。1時間目は授業がなくて、来週から始まる期末考査の問題作りをしていました」
 「ふんふん」
 「30分ほど机に座っていたんですが、急にトイレに行きたくなって、職員室を出て、トイレのドアに手をかけたとたん、今の姿に変わっていたんです」
 「・・・・と言うと、あなたは大竹実さんだったのに、突然相良菜摘さんになってしまったというのですね」
 「はい。そうです」
 「大竹実さんは実在の人物だと言うんですね」
 「勿論です」
 「じゃあ、つまり・・・・、大竹実さんと相良菜摘さんが入れ替わったと言うことですかね?」
 「入れ替わった!? そ、そう。そうですよ、先生。きっとそうに違いありません」
 「そうなると、相良菜摘さんの心を持った大竹実さんがいると言うことになりますね」
 「そうです。きっと彼女も困っているでしょう。連絡してみていただけませんか?」
 「分かりました。じゃあ、隣の部屋で休んで待っていてくれますか?」
 「はい。よろしくお願いいたします」
 「注射をしますがいいですか?」
 「注射ですか?」
 「軽いやつです。もしかすると、眠っている間に元に戻るかもしれないからね」
 「そうですね。やってください」
 「じゃあ。しばらく、ぐっすり休みましょう」


 木村健市は、大竹実と名乗る若い女性、相良菜摘を診察室の隣にあるベッドに寝かせて、看護婦に鎮静剤を打つように指示した。
 廊下に出ると、心配そうな顔をした相良菜摘の付き添いらしい同年代の女性が、木村に詰め寄ってきた。
 「先生。菜摘はどうですか?」
 「自分は大竹実だと名乗っているよ」
 「まだ、そんなことを・・・・」
 「簡単な質問をしてみたが、辻褄が合っている」
 「辻褄が合っているって?」
 「別府市の浜町出身で、小学校は南小学校、中学は浜脇中学。高校は鶴見が丘高校だと、すらすらと答えたよ」
 「菜摘は、大分市出身ですよ。小学校も中学校も付属だし、高校はわたしと同じ舞鶴高校です」
 「完全に別人の記憶を持っているようだな」
 「そんなことってあるんですか?」
 「あるよ」
 木村はこともなげに答える。
 「本人は、大竹実と相良菜摘の人格が入れ替わったかのように言っていたが、そんなことはあり得ないから、わたしの今の考えとしては、彼女は二重人格なんだろうと思う」
 「二重人格!? それって、気が狂ってるってことですか?」
 「気が狂っているという言い方は正確ではないが、まあ、おかしいと言えばおかしいのかもしれないね」
 「そんな・・・・」
 「幼い頃の、精神的トラウマが、男の人格を作り出したんだろう」
 「わたし、菜摘とつきあいは短い方じゃないですけど、そんな人格に出会ったのは初めてです」
 「一度もなかったのかね?」
 「高校3年、短大2年、就職してから3年になりますけど、その間には、こんなことはありませんでした。男の人格が菜摘の中にあったなんて、とても信じられません」
 「ずっと隠れていて、最近何らかのきっかけがあって出てきたんだろうね」
 「どうしても、信じられません・・・・」
 「ま、もう少しよく調べてみましょう」
 「お願いします」
 彼女は、ホントに相良菜摘のことを心配しているようだ。泣き出しそうな顔をして木村にぺこりと頭を下げた。


 伊藤誠次は、めそめそと泣き続けている大竹実を引っ張って、明野東診療所へやってきた。
 「何だって? 自分は女だと言ってるの?」
 診療所の若い医師が、さも迷惑そうに伊藤に言う。
 「ぼくは、ただの内科だからねえ。精神科の患者は精神科に行って貰わないと」
 「ま、そうおしゃらずに、ちょっと見てやってくださいよ。ふざけているだけかもしれませんから」
 「ふざけているのなら、なおのこと、うちじゃない」
 「ともかく、診察だけでもしてくださいよ。先生は、うちの校医なんですから」
 「分かった。見るだけだよ」
 さも迷惑そうに校医であるその医者は、ドクターチェアに座った。

 がっしりと体格のいい大竹が、まるで女のように内股で、医師の前の丸椅子に腰掛けている姿は、滑稽としか言えなかった。
 「大竹さん。どうされました?」
 「わたし・・・・、わたし、大竹じゃありません」
 「そう。じゃあ、名前はなんて言うんですか?」
 「相良です。相良菜摘って言います」
 「相良菜摘さんですね。もしかして、女の方ですか?」
 「こんな姿してるから、変に思うでしょうけど、わたし、女だったんです」
 「いつから男に?」
 「今朝の10時前くらいから・・・・」
 「じゃあ、それまでは、あなたは女だったと言うんですか?」
 「はい。大分トヨタ西営業所のショールームに勤めています」
 えらい具体的な名前が出てきたなと、伊藤は少しビックリする。
 「大分トヨタ西営業所のショールームですね」
 「はい」
 医師は首を傾げて考え込む。
 「わたしには、あなたは男に見える。女だと思いこんでいるだけではないですかね?」
 「違います。わたしは、相良菜摘です」
 「ふん。・・・・その相良菜摘という名前の女性が実在すると?」
 「当たり前です。今朝まで、わたしは相良菜摘だったんですから」
 「相良菜摘さんって言う女性が、トヨタの西営業所に勤めていると言うんですね」
 「はい。働き始めて3年になります」
 「じゃあ、トヨタに電話して、相良菜摘さんと言う女性が勤めているかどうか、尋ねてみましょう」
 「そうしてください。そうしたら、わたしの言ってることを信用してもらえます」
 自分は相良菜摘だと真剣に主張する大竹がいる。その大竹という男は頭がおかしいと思っている医師が両手を大きく広げた。医師の判断は正しいだろうと思いながら、大竹を哀れむように伊藤は見つめた。


 春川茂は、そばに立っていた看護婦に、大分トヨタ西営業所の電話番号を調べるように命じた。
 いくら校医だからと言っても、この診療所は内科が専門だ。頭の狂った患者を連れてくるなんてどうかしている。そう思いながら、ボールペンの頭で机をとんとんと叩いた。こんな動作をするのは、春川がイライラしている証拠だ。
 しばらくして、看護婦が電話番号を書いたメモを春川の机の上に差し出した。相良菜摘などと言う女性がいるはずはない。そう思いながら、受話器を取って、メモに書かれた番号をプッシュした。
 「はい。大分トヨタ西営業所でございます」
 若く、透き通った女性の声が受話器から漏れてきた。声はいいが、顔はどうなんだろうかなと言う思いが春川の脳裏に浮かぶ。
 「あ、わたくし、明野にあります、明野東診療所の春川と言います」
 「明野東診療所の春川様? ご用件は何でしょうか?」
 「あ、いえ。ちょっとお聞きしたいことがありまして・・・・」
 「お車のことでしょうか?」
 「いえ。お宅の従業員について、お聞きしたいことがあるんですが」
 「従業員とおっしゃいますと、何という社員でしょうか?」
 「えっとですねえ・・・・、ショールームに、相良菜摘と言う女性はお勤めでしょうか?」
 「はい。勤めておりますが、何か・・・・」
 いないと言う返事を予想していたのに、意外な返事が戻ってきて、春川はどぎまぎする。
 「い、いるんですね!?」
 「はい。それが何か?」
 「ちょっと、お聞きしたいことがあるんですが、電話に出ていただけますか?」
 春川は、電話の向こうで、おかしな動きがあるように感じた。
 「相良は、本日は早退しておりますが・・・・」
 「早退・・・・。すみませんが、自宅の電話番号をお教え願えますか?」
 「あのう。どう言うご用件で?」
 ショールームに勤めている女性と言えば、若い女性に決まっている。いくら医者だと名乗っても、電話では何の証拠もない。最近はストーカー事件も多いから、自宅の電話番号を迂闊に教えてくれるはずはないのだ。春川は、ちょっとした嘘を付くことにした。医者は嘘を付くのには慣れている。
 「今、わたしの診療所に患者さんが見えられていてですね。相良さんに連絡を取ってくれと言ってるんですよ。かなり親しいお友達のようです」
 「・・・・そうですか。相良は、まだ自宅じゃないと思います」
 「えっ!? じゃあ、どちらに?」
 「体の具合が悪いと言うことで、市民病院へ行っているはずですが・・・・」
 「市民病院ですね。分かりました。電話してみましょう。ありがとうございました」
 「失礼いたします」
 相良菜摘は実在する。体の具合が悪い? 春川は妙な予感がして、首を傾げた。


 「木村先生。明野東診療所から、電話が入ってます」
 「明野東診療所? なんだろう?」
 訝りながら、木村は受話器を取った。
 「木村先生でしょうか? いつもお世話になります。明野東診療所の春川です」
 「春川先生? ああ、糸永先生の娘婿の」
 「はい。そうです。半年前くらいに、ゴルフをご一緒させていただきました」
 木村は、春川医師の顔を思い出す。確か三つ年下だが、見かけはさらに若く見える。非常に腰が低く、好感の持てる男だと思った記憶がある。ただ、患者には、少し横柄なところがあるという噂も耳にしていた。
 「よく覚えていますよ。で、何でしょうか?」
 「ある女性を捜しているんですが、受付に電話したら、先生に掛かっているというので、お電話した次第で・・・・」
 「ある女性?」
 「はあ。相良菜摘という女性なんですが・・・・」
 「相良菜摘なら、今診察中だよ。彼女がどうしたんだ?」
 春川がちょっと口ごもった。木村は、春川が次ぎに発する言葉をすでに聞いたような気がしていた。
 「今、うちの診療所に、相良菜摘だと名乗る男が来ているんです」
 まさか。まさかとの言葉が木村の頭の中に木霊する。
 「まさか、その男の名前は、大竹実とは言わないか?」
 「どうして、それをご存じで・・・・」
 予想した返事が返ってきて、木村は混乱する。馬鹿な・・・・。


 「実は、今診ている相良菜摘が、自分は大竹実だと主張しているんだ」
 そんな木村の声を聞いて、春川は唖然とした。そんな馬鹿なことが・・・・。
 「先生。まさか、ふたりが入れ替わっているなんてこと・・・・」
 「そんなことはあり得ない。あり得ないが、うちのいる相良菜摘が大竹実だと言い、お宅にいる大竹実が相良菜摘だと言うからには、その可能性も否定できない」
 「絶対あり得ないですよ」
 「わたしもそう思う。そう思うが、よく調べてみないと・・・・」
 「そうですね」
 「すまないが、そっちの患者をこちらへ連れてきてくれないか? わたしの方で調べてみたい。いいだろう?」
 「勿論ですとも。先生の方が、ご専門でしょうから」
 「じゃあ、頼むよ」
 「分かりました。すぐに、そちらへ行かせます」
 電話が切れた後も、春川は信じられない気持ちだった。精神の入れ替わり? そんなことが起こるはずがない。ともかく、市民病院へ連れていこう。

 「相良菜摘さんは、実在します」
 相良菜摘だと主張する大竹実にそう言うと、彼はにっこり笑った。
 「そうでしょう?」
 「先生! ホントなんですか?」
 伊藤という、一緒に来た男がビックリしたような声を上げた。
 「市民病院にいるらしい。向こうの先生が、すぐに連れてきて欲しいと言っている」
 「どうして?」
 「行ってみれば分かるよ。わたしも一緒に行こう」
 春川は、白衣を脱いでスーツの上着を羽織ると、ふたりの男と共に市民病院へ向かった。