第2章 始まり


 また、女になった夢を見た。しかも、やっぱりセックスしている場面なのだ。大竹は、ベッドの中で茫然としていた。
 どうしてこんな夢を見るのだろうか? 俺は女になりたいと思っているのだろうか? イヤ、そんなことは絶対にない。金輪際ない! 俺は男だ。女をよがらせることに生き甲斐を感じている。それなのに、どうしたことだ!? 大竹は、自分の見た夢が納得できないでいた。
 夢はともかく、ひどい頭痛がする。大竹はゆっくりベッドの上に起き上がり、キッチンにいる妻に向かって呼びかけた。
 「おおい。寿代。頭痛薬を持ってきてくれないか? おおい、寿代。聞こえないのか?」
 「どうされたんですか? あなた」
 エプロンで手を拭きながら、寿代がベッドルームに顔を覗かせた。
 「頭が痛いんだ。薬を頼む」
 「頭痛薬ですか? ちょっとお待ちになって」
 しばらくして、寿代が大竹に、薬と水の入ったコップを持ってベッドルームへやって来た。
 「早くお帰りにならないから」
 寿代は口を尖らせて、そう小言を言う。
 「そんなに飲んだ訳じゃないさ」
 「じゃあ、どうして頭痛がするんですか?」
 寿代の機嫌はかなり悪い。約束より遅く帰ってきた所為もあるが、何とか機嫌を直そうとして寿代に挑み、うまくいかなかった所為でもある。
 いったんは勃起させることはできたのだが、途中で萎えてしまったのだ。中途半端で終わってしまったから、初めからしない方がむしろ良かったのではないかと大竹は思う。しかし、もう後の祭りだ。終わってしまったことをくよくよしても仕方がない。
 「わからん。とにかく頭の芯が痛い」
 「やっぱり飲みすぎですよ」
 「そんなことはない!」
 大きな声を出すと、余計に頭が痛んだ。大竹は顔を顰める。
 「早くお飲みになって。お食事はどうなさいます?」
 「食べるよ。胃の調子は悪くないんだ」
 「そう・・・・」
 飲み過ぎた翌日は、ほとんど食べられないことが多い。今朝は頭痛はするのに、食欲は普段通りだ。この頭痛は、酒の所為じゃない。大竹は漠然とそう思っていた。


 昨日と同じように背の高い格好いい王子様になった夢を見て、気分はいいのに、頭が割れるように痛かった。菜摘は、ベッドから起きあがれずにいた。
 「ちょっとワインを飲み過ぎちゃったかな?」
 枕元に置かれた時計は、まだ午前6時前を回ったところだ。天井を見つめながら、菜摘は仕事に出ようか休もうか迷う。
 「たまには、有休を取ろうかな?」
 そう独り言を言う。30分ほどベッドの中でぐずぐずと迷って、結局菜摘はベッドから起きだした。
 「セデス、セデス」
 いつも生理痛の時に飲むセデスを探して一服飲むと、歯を磨いて顔を洗う頃には頭痛はかなり治まってきた。
 「今日もウエイトレスしに行くか」
 冷蔵庫から野菜ジュースの缶を取り出してグッと飲み干し、着替えて化粧すると、菜摘は慌ただしくアパートを飛び出していった。


 車のクラクションや踏切の警報音が頭の中にガンガン響いてくる。大竹は、信号が変わるわずかな間も頭を抱えていた。
 休めばよかった。そう思ったが、学校はもう目の前だ。歩道を歩く生徒たちに姿を見られていた。今更引き返すわけには行かない。大竹はともかく学校へ顔を出そうと決めて、アクセルをふかした。今日が雨でなくてよかった。昨日のような雨だったら、学校へたどり着けないところだ。


 バス停で待っている人の群を見ていると、頭痛が増してきたような気がした。菜摘は、ちょうど通りかかったタクシーを停めて、座席に深々と腰を下ろした。
 「どちらまで?」
 「大分トヨタの西営業所までお願いします」
 運転手は返事をせずに車をスタートさせた。助手席の前に掲げられた免許証に、性格明朗と書いてある。嘘ばっかり。菜摘は心の中でそう呟いた。
 「トヨタにお勤めですか?」
 しばらくして、運転手が菜摘に話しかけてきた。いつもなら、話しに乗る菜摘だが、今朝はそんな気分じゃなかった。しかし、ぶすっとしているのも気が引けた。
 「ええ」
 「綺麗どころを揃えているから、車を見に行くのが楽しいよ」
 綺麗どころって言うと、菜摘のことを誉めているようだ。菜摘はちょっと嬉しくなった。
 「綺麗どころなんて・・・・」
 「イヤ、朝から美人を乗せられて嬉しいよ」
 女というものは、美人だと言われれば嬉しいものだ。菜摘はバックミラーの中の運転手に向かって、にっこり微笑んだ。
 「プリウスってのは、お宅の会社だったね」
 「はい。そうです」
 「燃費がいいんだろう?」
 「ええ」
 「ハイブリッドカーとか言ってたね」
 「はい。電気とガソリンの両方を使います」
 「スタイルがよかったら、即買いなんだけどなあ」
 そう。プリウスはスタイルで買う車ではない。菜摘もそう思う。しかし、自分の勤める会社で売っている車の悪口は言えない。
 「燃料電池を搭載する関係で、あんな形になったと聞いています」
 「そうかい。それにしても何とかならないのかねえ」
 「もうしばらくすると、エミーナのハイブリッド版が出ますけど・・・・」
 「エミーナねえ。あれもいいねえ。あいつのハイブリッドが出たら買うかねえ」
 「是非お願いします」
 「さあ、着きましたよ。1480円也」
 「試乗会には、是非いらしてくださいね」
 そう言いながら、菜摘は千円札を二枚運転手に手渡した。
 「伺うよ。はい、お釣り。ありがとうございました」
 「ありがとう」
 やっぱり性格明朗だったかな。そう思いながら、菜摘はロッカールームへと向かった。


 「大竹先生、どうしたんですか?」
 机に座って頭を抱えていると、伊藤が声をかけてきた。
 「ちょっと頭が痛くてねえ」
 「そんなに飲みましたっけ」
 「酒の所為じゃないと思うが・・・・」
 「風邪が流行ってますから、引いたんじゃないですか?」
 「そうかもしれんな。午後は授業がないから、早引きさせて貰おう。薬を飲んでくる」
 「それがいいですよ」
 心配そうにしている伊藤を置いて、大竹は職員室の隅にある給湯室へ向かった。職員室の窓から、1時間目の授業の予定である1年3組の生徒たちが、体操服に着替えて走り回っているのが見えた。

 視線を給湯室にある鏡に向けたとたん、軽い目眩がして目の前が真っ暗になった。大竹は、慌ててテーブルの端を掴んだ。
 「相良君、どうした?」
 聞き覚えのない声がした。その人物は、大竹の左の肩に手を当てて、大竹の顔を覗き込んできた。顔にも覚えがない。誰だろう? それに、大竹に向かって、相良君と声をかけた。この男、人間違いをしているようだ。そう思ったが、この職員室で何をしているんだ? 大竹は疑問に思う。
 「大丈夫か?」
 男がもう一度大竹に尋ねる。その声は、エコーがかかったように頭の中に響く。ズキッとひどい頭痛がした。大竹は視線を鏡に戻した。
 大竹ははっと目を見開く。鏡に映ったのは、女の顔だ。ポカンと口を開け、ビックリしたような表情をした女の顔が鏡に映っていた。
 下を向いて目をギュッと瞑り、目を開けて鏡をもう一度見た。結果は同じだった。同じだったが、慌ててもう一度下を見た。
 ピンクのハイヒールを履いていた。ストッキングを穿いた細い足。同じくピンク色のミニスカート。白のブラウスに、スカートと同じ色の上着。
 一体これはどうしたことだ!? 俺は夢を見ているのか? 大竹は大声で叫び出したくなるのをやっとのことで堪えた。

 大竹はもう一度目をギュッと瞑り、目を開いた。目に入ったのは、いつも着ている紺色のジャージだった。鏡を見た。いつもの自分の顔をが映っていた。大竹はホッと胸をなで下ろす。
 「大竹先生。どうかしましたか?」
 「あ、イヤ、何でもない。・・・・伊藤先生、今、誰かが俺に相良君って、声をかけなかったかな?」
 「相良君!? ぼく以外には誰もいませんけど、ぼくはそんなこと言ってませんよ。誰です? 相良って・・・・」
 「イヤ、空耳だろう。忘れてくれ」
 「空耳ですか・・・・」
 伊藤は妙な顔をしながら、職員室を出ていった。白昼夢だろうか? 頭痛の所為に違いない。やっぱり今日は早退しよう。大竹はそう心に決めて、薬を飲み込むと、運動場へ走り出ていった。


 「千絵はどうもないの?」
 ロッカールームで着替えながら、菜摘は千絵に尋ねる。
 「どうもないって?」
 「頭が痛くって」
 「昨日はかなり飲んでたからねえ」
 上半身、ブラだけになって、制服のブラウスを着ながら千絵が答える。
 「そんなに飲んだかしら?」
 千絵って、顔は十人並みだけど、色だけはホント白いわねと、菜摘は心の中で思う。そう思いながら、わたしの唯一の欠点は、女にしては色が黒いことだわよねと考える。
 「いつもの倍は飲んだわね」
 「やっぱり、その所為かなあ?」
 「ワインは結構残るからねえ」
 「千絵はホントにどうもないの?」
 「菜摘と違って、わたし、強いもん」
 「そうだったわね。ウワバミ千絵と競争したんじゃ、誰も勝てないものね」
 「ウワバミって、人を怪物呼ばわりにしないでよね」
 「怪物じゃないの?」
 「ああっ、ひっどういい」
 菜摘は肩を竦めてロッカールームを出た。千絵も後から付いてきた。

 ショールームへ向かう途中で、トイレに立ち寄った。アパートを出る前にしたのに、急に行きたくなったのだ。
 トイレの鏡をふと見ると、急に幻暈がして菜摘は目を瞑った。その時、子どもたちの歓声が聞こえてきた。
 「このあたりには、子どもの声が聞こえるような施設はないはずなのに」
 と、菜摘が不思議に思いながら目を開けると、鏡に青いジャージを着た30くらいの男の顔が映っていた。
 「キャッ!」
 トイレに男が入ってきたと思った菜摘は、叫び声をあげた。
 「どうしたの?」
 振り返ると、千絵が不思議そうな顔をして菜摘のそばに立っていた。鏡の方を見ると、鏡には菜摘の顔が映っている。菜摘は首を傾げる。鏡の中の菜摘も同じように首を傾げた。
 「どうしたのよ」
 「鏡に男の人の顔が映っていたから・・・・」
 「男の人なんていないわよ」
 「見間違いかしら・・・・」
 「菜摘、まだ酔ってんじゃないの?」
 「馬鹿言わないでよ」
 確かに男の顔が写っていたのにと首を傾げながら、菜摘はショールームへ向かって歩いて行った。


 最近の女子高生は発達がいい。ランニングさせている生徒たちを見ながら、大竹は不純な思いに駆られた。
 「俺たちが高校生の頃は、あんなに胸の大きな女子高生はいなかったな」
 10数年前の高校時代を思い出しながら、大竹はゆさゆさと揺れる生徒たちの胸をちらりと横目で見た。
 大竹の高校時代の同級生に、教師と結婚した女の子がいた。その教師とは12も年が離れている上に、不倫して妻の座を奪ったのだ。
 名前は・・・・。名前は確か、和泉千鶴子と言ったっけ。今は、今村千鶴子という名前に変わって、子どもが3人生まれたと聞いている。
 美人じゃなかったが、あの当時としては、胸が異様にでかかったなと、目の前の女子高生の胸を見ながら思い出す。
 大竹にもそんなチャンスがあるだろうか? 胸だけを見ていると、むしゃぶりつきたくなることもある。しかし・・・・。まだ幼い彼女たちの顔を見ると、そんな気分も萎えてしまう。ロリコンというのは、あんな幼い女の子に欲情するのだろうか? 大竹には信じられなかった。
 大人びていて、体の発達もいいような生徒は今のところ大竹の前には現れてはいない。ただ、そんな生徒が現れたとしても、大竹がその気になるか? イヤ、その前に、10以上年の離れた自分を好きになってくれる女子高生がいるのだろうかと、疑問が頭を持ち上げてくる。
 「まあ、無理な話だな」
 心の中でそう呟きながら、大竹は、ピイッとホイッスルを鳴らした。
 「ランニングは終了だ。ラケットを持って集まれ!」


 ウイークデーなので、ショールームにはお客はぱらぱらとしかやってこない。ただ、ウイークデーのお客さんは、商談が成立する確率が高い。だから、営業の人たちの目の色が違う。菜摘たちも、日曜日にやってくる冷やかしのお客に対する態度とは、違った対応をする。
 イヤ、冷やかしのお客には、ぞんざいにすると言うわけではない。ちょっと違うだけだ。例えば、作り置きのコーヒーじゃなくて、新たに入れ直したコーヒーを出すとか言ったちょっとしたところを変えると言う意味だ。

 昼休みになった。菜摘は千絵と連れだって近くのファミレスへ行った。
 「菜摘。頭痛はもういいの?」
 スープをスプーンですくいながら、千絵が菜摘に尋ねる。
 「まだ少し痛いけど、大丈夫よ」
 「やっぱり二日酔いかな?」
 「そうでしょうね」
 「二日酔いの割には食欲はあるのね」
 それもそうだなと、菜摘はスープを口に運びながら思った。
 「・・・・二日酔いじゃないのかしら?」
 「じゃあ、風邪?」
 「風邪じゃないみたい・・・・頭痛以外はどうもないし、頭痛ももう治まってるし・・・・。でも、なんか変」
 頭痛は確かに治まりつつあった。しかし、何だか意識に膜が掛かったような妙な感じを覚えていた。まだ完全には回復していない。菜摘は、今日は早く帰って寝ようと決めていた。
 「疲れてんのかな?」
 「そうかもね」


 午後になったら、早退しようと思っていたのに、急な会議が入って帰るに帰れなかった。それでも、いつもより1時間早く帰宅した。
 「あら、お早いお帰りですね」
 皮肉めいたそんな寿代の言葉にちょっとムッとくるが、大竹は表情に出さずにスーツを脱いだ。
 「頭痛は、もうよくなりました?」
 「まだ少し痛むが、じきに治るだろう。今日は少し早めに休むからな」
 「分かりましたわ。お食事の準備をしますから、お風呂にお先にお入りになって」
 「ああ、そうする」
 寿代の物言いは、他人行儀だなと思うが、結婚したときからずっとそうだ。見合い結婚だから、仕方がないのかもしれないなと大竹は思う。

 温めのお湯にゆっくり浸かって疲れをとり、食事を済ませると、ブランデーを軽く一杯飲んでベッドに入った。アッと言う間に大竹は眠りについた。

10

 帰りもタクシーに乗った。話し好きの運転手の言葉に適当に頷く。タクシーの運転手って、ホントに話し好きが多いなと思う。菜摘が結構可愛い所為かなと、心の中でクスリと笑った。

 いつもはシャワーで済ませるけれど、今日はゆっくりお湯に浸かろうと、バスのお湯を溜め始めた。
 レンジに冷凍ピラフを入れてセットしてから、バスルームの鏡に向かって化粧を落とす。
 「女って、ホント、めんどくさいわね。男だったら、化粧なんてしなくていいのに・・・・」
 毎日のように、菜摘はそう思う。

 髪と体を洗ってから、湯船に体を沈めた。
 「ふう、いい気持ち」
 菜摘は、お湯がかなり温くなるまで手足を伸ばしてお湯に浸かっていた。
 湯船から出て、鏡を覗き込む。
 「こんなもんかな?」
 テレビのコマーシャルを思い出しながら、菜摘は呟く。
 「あの娘よりは、わたしの方が綺麗だよね」
 鏡の中の菜摘が、菜摘に向かってにこりと笑った。