野上寿代は、安松二郎に与えられたマンションの中で悔やんでいた。こんなはずじゃなかったと。
結婚してくれると言ったのに、安松は生返事をするばかりだった。明日、届けを出しにいこうと言われて待っていると、仕事が入ったと言ってくる。マンションはそう安いものではない。女がひとりで暮らすには広すぎるくらいだ。しかし、安松との結婚生活を夢見ていた寿代にとって、裏切られた思いが強かった。それに、結婚を約束しながら、まるで愛人を囲うような安松の態度は許せなかった。
一週間ぶりに安松が、寿代の住むマンションへやって来た。恨み言を言いたいのに、安松を目の前にすると寿代はなかなか言い出せないでいた。
事が終わったあと、安松がベッドの中で煙草を吸いながら言った。
「来週から一ヶ月くらい来られないからな」
「一ヶ月も?」
「ああ」
「仕事なの?」
「いや。旅行だ」
「旅行? どこに?」
「ヨーロッパだ」
「わあ、いいな。わたしも連れてって」
安松は、ちょっと顔を背けた。
「連れて行くわけにはいかない」
「どうしてよ」
「新婚旅行なんだ」
寿代の驚きは大きかった。
「新婚旅行って、誰と!?」
「県議の娘だ。・・・・ホントはおまえと結婚したいんだが、親父の仕事の関係で、無理矢理結婚させられるんだ」
「そんなことって・・・・」
「おまえにはすまないとは思っている。しかし、仕方がないんだ。政略結婚みたいなものなんだ」
「断って! そんな結婚、今すぐ」
「だめだよ。もう引き返せないところまで来ているんだ」
寿代はベッドに顔を埋めて泣いた。
「結婚してもおまえの面倒は見るからな」
そんな問題じゃない。そんな問題じゃないと、心の中で寿代は叫びながら、部屋から出て行く安松を見ていた。
「菜摘。そろそろ元に戻ったって事にしないか?」
大竹と菜摘が一緒に暮らし始めて二週間ほど経ったとき、大竹が夕食の箸を動かしながら菜摘にそう話しかけた。
「まだ一ヶ月経ってないわよ」
「もう飽き飽きしたよ。入れ替わった振りなんて」」
「そうね。千絵との関係がぎくしゃくしてるからね」
「俺も何だ。伊藤はあれ以来飲みに誘ってくれないからな」
「ゴルフにも行きたいんでしょう?」
「そう。インターネットとゴルフが俺の生き甲斐だからな」
「あら? わたしは?」
「菜摘は、それ以前の問題だよ。菜摘がいなければ、俺は生きていけない」
「ふふ。嬉しいわ」
「じゃあ、明日から、元に戻ったことにしような」
「うん。これで、少し楽になるわ」
ベッドの中にひとりでいると、寿代は無性に寂しさを覚えた。安松が結婚してくれていたら、こんな思いはしなくてすんだのにと。
そう思えば思うほど、悔しくてならない。寿代は決心した。結婚式に押し掛けて、ぶちこわしてやろうと。
野上寿代が結婚式場へ乱入してきたときには、安松二郎は肝を冷やした。まさか、そこまでするとは思っていなかったのだ。ガードマンに野上寿代が連れ出された後、花嫁の父である県議に、若いうちには、こう言うこともやっていた方がいいと苦笑混じりに言われた。安松は、ただ項垂れているしかなかった。
式は無事終了し、安松は、二次会三次会と悪友たちに飲まされた後、新妻の待つスイートに戻ってきた。
「野上寿代さんが自殺したって」
「ええっ!?」
「テレビでやってたわ」
「そうか・・・・」
可哀想なことをしたと思った。しかし、それも仕方のないことだと思う。寿代と結婚しても何のメリットもない。しかし、今日手に入れた新妻には、大きなバックが控えている。男が出世するためには、女のひとりやふたり捨てなければならない。これで良かったんだと。
「二郎さん。早く」
新妻がベッドから手招きをした。
「すぐ行くよ」
目覚めると、大竹は妙な違和感を覚えた。胸が圧迫されているのだ。心臓発作であろうか? 慌てて起き上がって胸を触ってみた。その時触れたものに、大竹は驚きの声を上げた。
「こ、これは何だ!?」
大竹は、真っ白なブラジャーをしていた。そのブラジャーの下には柔らかい膨らみがあった。
ベッドに眠っているはずの菜摘の方を見た。大竹はもう一度驚く。そこには、菜摘ではなく、自分自身が鼾をかいて眠っていた。
大竹は、ベッドから飛び出して、ベッドルームの端に置かれているドレッサーを覗き込んだ。鏡には、驚きに歪んだ菜摘の顔が写っていた。
「どうなってるんだ!!」
ごそごそとベッドの方から音がする。振り返ると、自分自身が眠そうな顔をしてベッドの端に座っていた。
「菜摘!」
その声に、ベッドの主は驚きに目を見張った。
「あ、あなたは誰?」
その声は大竹のものだったが、口調は女言葉。大竹は、すぐに気がついた。
「菜摘! 今度は本当に入れ替わったみたいだ!」
「嘘!」
大竹の姿をした菜摘が慌てて股間を触る。
「何が起こったの?」
「分からない。ともかく、ぼくたちは本当に入れ替わってしまったみたいだ」
「あの魔法が今頃になって効いたとでも言うの?」
「・・・・そうかもしれない」
「どうしたら?」
「寿代があの本を持っている。魔法の本だ。元に戻す呪文が書いてあるかもしれない。すぐに寿代のマンションへ行ってみよう」
急病で休むとお互いの職場に連絡した後、ふたりは寿代のマンションへタクシーを飛ばした。
寿代が住んでいるマンションの部屋のドアをノックする。出ない。ふたりは力の限りノックした。しかし、虚しく音が響くだけだった。
しばらくして、ふたりが寿代の部屋の前で騒いでいるのを誰かが通報したのか、管理人らしい男がふたりのそばへやって来た。
「困りますねえ。ここで騒いでもらっては・・・・」
「この部屋に住んでいる野上寿代さんは、何処かへお出かけなんでしょうか?」
大竹になった菜摘が、それらしく男言葉で尋ねた。
「返事がないんだったら、出かけてるんでしょう」
「そうですか。・・・・中で待たせて貰うわけには行かないでしょうね」
「中で待つって、あなた、野上さんとどんなご関係で?」
「先月寿代と離婚した夫です。慰謝料のことで、話し合う約束だったものですから」
菜摘はなかなか上手いと菜摘になった大竹は心の中で思う。
「そうですか・・・・。あなたの確かな身元が分かるものを持っていますか?」
「ああ、名刺なら持ってますが」
大竹になった菜摘が、名刺入れの中から、一枚取り出して管理人に手渡した。
「あれ? 明野高校の先生ですか。孫が明野高校に通ってるんですよ」
「そうですか。じゃあ、ぼくのことを知ってると思いますよ」
「そう言うことなら、いいでしょう」
管理人は、ドアの鍵を開けてふたりを部屋の中に入れて、戻っていった。
「なんか焦げ臭いな」
「ホントに」
リビングのテーブルの上にある灰皿の中に羊皮紙の燃えかすがあった。写真を包んであった羊皮紙だろうか? 菜摘になった大竹が首を傾げる。
「どんな本?」
「B5判で、厚さは1センチくらい。表紙に箒を持った魔女の絵が描かれている」
「分かったわ」
ふたりで、部屋の中を探し回ったが、見つからなかった。
「寿代のやつ、後生大事に持っていったみたいだな」
「それとも、他のどこかに隠してあるか?」
「寿代を見つけだして、問い質してみよう」
ソファーに座って、そんなことを話していると、管理人が部屋に飛び込んできた。
「た、大変ですよ」
「どうしたんですか?」
「野上さんが自殺したみたいですよ」
「ええっ!?」
「いま、テレビでやってました。ビルの屋上から飛び降りたみたいです」
「そんな・・・・」
テレビをつけてみた。ニュースはすでに終わっていて、天気予報が流れていた。
「ホントなんですね」
「嘘言っても仕方ないじゃないですか」
「それもそうですね」
寿代が死んでしまったとしたら、魔法の本の手がかりはなくなる。ふたりは力無く、マンションを出た。
「どうする?」
「どうするって、どうしようもないでしょう?」
「そんなこと言ったって・・・・」
「今まで、入れ替わった振りが、ホントに入れ替わっただけじゃないの。このままやるしかないわ」
菜摘になった大竹は項垂れる。
「わたしになるのがイヤなの?」
「そんなことないよ。そんなことないけど・・・・」
「男らしく諦めなさいよ」
「今は女だよ」
「言葉の綾よ」
「参った・・・・」
「いつかは元に戻るかも知れないわ。それまでふたりで頑張りましょう?」
「そうするか」
「そうしましょう」
ふたりはスカイラインに乗り込むと、大竹の家へ向かって車を走らせた。
ベッドの上に重なり合うふたつの影。ひとりは安松二郎。もうひとりは結婚式を挙げたばかりの新妻の紀子。
安松に貫かれながら、紀子が囁く。
「愛してるわ。二郎」
「俺もだ」
ギシギシとベッドが軋む。そのベッドの枕元に、魔女の表紙が描かれた魔法の本が置かれていた。紀子は、安松に気付かれないように魔法の本の表紙を裏返しにした。
紀子は、安松二郎の熱いほとばしりを受けながら10日前のことを思い出す。
あんなに愛した安松が、寿代の知らない女と結婚してしまう。ベッドの中で泣きながら、ふとあの魔法の本のことを思い出した。
「あの魔法を使えば・・・・」
どの様に使うか? 安松と県議の娘を入れ替えてしまう。面白い復讐になるかもしれない。しかし、大竹と相良菜摘の場合のように、ふたりがその状態になれて生きていけば、復讐にならない。
じっと考える。わたしが県議の娘と入れ替わればいいんだ。そうすれば、わたしは安松の妻になれる。そう、寿代は考えた。
県議の娘・紀子が美容院に行くのを尾行し髪の毛を手に入れた。その時、風景を撮る振りをして、写真も手に入れた。
寿代は、マンションに帰ると、さっそく魔法をかけることにした。本棚から本を取り出すと、大竹と菜摘の写真、髪の毛が入った羊皮紙がするりと抜けて床に落ちた。
「まだあったの。こんなもの捨てなきゃ」
大竹と菜摘の写真と髪の毛の入った羊皮紙の包みをテーブルの上に放り出して、寿代は自分の写真と県議の娘の写真、髪の毛を羊皮紙に包んで呪文を唱えた。
「×△○×△○○×△○△×○×△○△×△○△○」
「これでよし。後は、入れ替わるのを待つだけだわ」
大竹と菜摘に魔法をかけたときは、5日後に効果が現れた。しかし、いつまでたっても効果が現れなかった。とうとう安松の結婚式が明日に迫った。しかし、魔法は一向に効かない。
「どうして効かないのよ!!」
そう叫んでみたけれど、考えてみれば、人格を入れ替える魔法なんてあるはずがないのだ。それに思い至ったとき、寿代は、大竹と菜摘に騙されていたことに気付いた。
「あいつら、入れ替わった振りをしていたのね」
悔し涙が流れた。しかし、今更どうしようもなかった。
「浮気してたんだし、1000万とこのマンションが手に入ったんだから、贅沢を言うのは止めよう」
寿代は、写真と髪の毛の入った二組の羊皮紙の包みを灰皿の中に入れると、火を点けて燃やした。
翌朝、目を覚ますと寿代は、安松の結婚相手、紀子になっていた。
「燃やさないと魔法が効かないなんてどこにも書いてなかったわ。書いた人に文句言わなきゃ。それにしても紀子は馬鹿ね。この紀子より、寿代の方がずっと美人だったのに、死んでしまうなんて。生きていれば、いつかはいいこともあるのに・・・・」
紀子となった寿代は、安松の腕に抱かれながら、そう心の中で呟いてにやりと笑った。