第1章 予兆


 大竹実は、驚きと共に目を覚した。慌てて、胸と股間を触ってみる。胸はなかった。股間には、ちゃんとあるべきものがあった。大竹はホッと胸を撫で下ろした。
 「あなた、どうされたんですか?」
 隣で寝ていた妻の寿代が、不思議そうに大竹を見る。
 「な、なんでもない」
 大竹は、慌てて否定する。寿代は、肩を竦めて朝食の準備をするためにベッドから抜け出していった。

 それにしても妙な夢を見たものだ。大竹は、溜息をつきながら、枕元にある時計を見た。時計はまだ6時過ぎだ。起きるにはまだ早過ぎる。ぼんやりと天井を見ながら、大竹はさっきまで見ていた夢を思い出した。
 恐らくその夢を見る前にも、他の夢を見ていたのだろうが、大竹は思い出せない。思い出せるのは、その夢だけだった。

 その夢というのは、こんな夢だった。
 大竹は、ベッドの中にいて、ベッドの中にいる相手と抱き合っていた。舌と舌を絡ませながら、ウンザリするくらい長いキスをしていた。
 長い時間が過ぎ去った後、大竹から離れたその相手が、大竹の首筋に唇を這わせた。大竹の妻である寿代は、大竹にそんなことをしたことがない。大竹は、誰か寿代とは違う女と寝ている夢を見ている。そう思っていた。

 舌と唇がさらに下へと降りていき、大竹の乳首に達した。ベッドの中の相手が、大竹の乳首をころころと転がす。このときになって、大竹は、少し様子がおかしいのに気づいた。何かが違う。相手の右手が、大竹の左の胸に当てられ胸を揉む。
 ギョッとなって、大竹は自分の胸を見た。大竹の胸は女のように膨らんでいた。どうしてこんな風に膨らんでいるんだ!
 相手は、さらに下へと降りていく。立てた大竹の両足の間に入って、舌で大竹を刺激する。その時になって、いつもなら痛いほどに固く屹立しているはずのペニスの感覚がないことに気づいた。隆起した胸のその先には、見えるはずのものが見えなかった。
 『俺は女になってしまった!?』 そう思ったとき、股間にいる相手が顔を上げて、大竹を見た。大竹は唖然とする。その相手は紛れもなく大竹自身だった。驚きに目を見張る間もなく、大竹自身がはい上がってきて、大竹の目の前にペニスを差し出す。
 「どうした? 早くやってくれ」
 その言葉が、木霊のように大竹の頭の中を響き渡っていった。
 「これは何かの間違いだ。これは夢だ。早く醒めろ!」
 そう叫んだが、夢は覚めない。無理矢理口の中に押し込まれてしまった。
 「舌を使わないか!」
 どうしてこんな夢を見るんだ? 抵抗できなかった。大竹は、屹立したペニスを嘗めざるを得なかった。大竹自身のペニスを嘗める。なんて夢だ!
 気が遠くなるくらいの間、嘗めさせられた。そうしてから、大竹自身が大竹を抱きしめ、大竹の中に入れようとする。
 「止めてくれ!」
 そう叫んだのに、大竹の目の前にいる大竹の返事は違った。
 「そうか。早く入れて欲しいか」
 違う! 違う!! 大竹は逃げだそうとした。しかし、体は言うことを聞かない。大竹は、大竹自身を抱きしめ受け入れようとしていた。
 大竹が、大竹の中に入ってきた。どうしてこんな感覚が生まれて来るんだ!? 大竹の動きに合わせて、大竹は腰を振る。得も言われぬ感覚が生まれてきた。大竹は、我を忘れて、大竹自身抱きしめて、舌をむさぼった。
 「ううっ」
 そんな叫びにも似たうめき声と共に、大竹自身が大竹の中に弾けた。その瞬間、目が覚めたのだった。

 トランクスを引き上げて股間を見た。そこには確かに、男のシンボルであるペニスがある。しかし、骨盤の奥に、そのシンボルがまだ突き刺さっているような感覚を覚えていた。

 「あなた。もう、お起きになる時間ですよ」
 寿代がベッドルームのドアを少し開けて、大竹に向かって声をかけてきた。
 「あ、ああ。もう起きる」
 大竹は、慌ててベッドから抜け出して洗面所へ向かった。鏡の中に映る大竹の顔は、確かに大竹だ。寿代に分からないようにパジャマの前をあげて、胸を見てみた。胸は真っ平ら。もう一度トランクスの中を見た。ちゃんとそこに男のシンボルがあった。
 あれは夢に間違いない。しかし、ホントに女になっていたように感じた。夢の中で、大竹はどんな女になっていたのだろうか? 美人だったのだろうか?
 鏡を見ながら、もう一度あの夢を思い出す。あの時、女になった大竹は、男の大竹自身を抱きしめながら、天井を見ていた。あの天井は、大竹の住んでいる家のベッドルームのものだ。
 すると、大竹は寿代になっていたのか? イヤ、違う。夢の中の大竹の胸は、それほど大きくなかった。胸の大きな寿代とは、絶対違う。大竹は寿代とは違う女になっていた。一体どんな女なのだろうか?
 大竹は首を振った。なんて馬鹿なことを考えているんだ。大竹は生まれたときから男。女になんてなれるはずがない。しかし、何故あんな夢を見たのだろうか? 大竹は、女になりたいという願望が心の奥底にあるのだろうか? そんなことは思ったこともないのに。
 「どうか、なさいました?」
 大竹が妙な表情をしていたのだろう。寿代が心配そうに大竹を覗き込んでそう尋ねた。
 「イヤ、何でもない」
 そう答えてテーブルに座って飯をかき込むと、大竹はスーツの上着と鞄を手にして家を出た。


 枕元の目覚まし時計がジリジリとけたたましく鳴った。ベルを止めて、相良菜摘は天井の染みを見た。今朝は、すごくいい朝だ。菜摘は大きく伸びをした。
 「いい夢見たな」
 ニコニコしながら、ベッドから抜け出して洗面所へ向かった。歯を磨きながら、鏡の中を覗き込む。鏡には、ショートカットの、目がぱっちりとした可愛い女の子が映っている。女の子と言うよりも、美少年という所かな? 菜摘は、鏡に向かってにっこり微笑んだ。
 菜摘は、宝塚歌劇団に憧れていた。女役ではなくて、男役をやりたいと思っていた。しかし、それはただの夢で終わった。身長が足りない所為だ。菜摘は、156センチしかない。女役ならできないこともないが、菜摘は男役に拘っていた。だから諦めたのだ。
 背が高かったら、昨日見た夢のようにやれるのに。菜摘は、起きる前に見ていた夢を思い出していた。

 夢の中で、菜摘は背の高い男だった。身長は180くらいだったかな? 菜摘は思いだしながら、にこりと微笑む。夢の中で男になった菜摘は、一見すると痩せていてひ弱に見えるけれど、シルクのシャツから覗いた胸の筋肉は、鋼のようだった。菜摘が思い描く理想の男だった。
 白馬に乗って広い野原を駆けていくと、黒いマントを着た、いかにも悪人という男に出会う。その男は、純白のドレスを身に着けたお姫様を拉致しているのだ。
 男になった菜摘は、剣を持ってその男と戦う。剣は、日本刀ではなく、フェンシングで使う、西洋の細い刀だ。
 カシャン、カシャンと剣を打ち合わせて、戦いは続く。長い、長い戦いの後、菜摘は悪人をうち負かし、お姫様を救い出す。まるでウエディングドレスのような、裾が2メートルも広がるようなドレスを身に着けたお姫様。抱き寄せてよく見ると、そのお姫様は菜摘自身なのだ。お姫様は、菜摘と違って、長い髪をカールしている。
 わたしもこんな風に髪を伸ばしてカールすると、可愛くなるのかも知れないなと、菜摘はそのお姫様を見ながら思う。

 お姫様の手を取り、キスしたところで目が覚めた。男に生まれていればなあと、菜摘はもう一度鏡を見ながら思った。
 でも、あのお姫様も結構可愛かった。思い出しながら、ナプキンを換えた。生理のたびに、菜摘は女であることを思い知らされる。男には絶対なれないんだから、もっと女らしくしようかな? この頃、菜摘はそう思う。

 7時半になった。菜摘は、キッチンで立ったまま、砂糖抜きの紅茶を一杯飲むと、通勤着に着替え、入念に化粧を施してから、アパートを出た。


 家の外は小雨が降っていた。しまった! 天気予報は雨だと言っていたのに、早くベッドを抜け出すべきだった。大竹は、思わず顔を顰めながら車に乗り込んだ。
 国道の手前まではスムーズに進んだ。しかし、国道に出る信号に捕まった。いつもの3倍近くの車で、一向に進まない。
 いらいらしながら、煙草に火を点けた。煙草は健康に悪いと知っている。それを知っていて吸っている俺は馬鹿者だ。そう思って、過去、何度止めようとしたかしれない。しかし、今日のようにいらいらするとき、ついつい煙草に手が出てしまう。
 やっとの事で国道に出たものの、やっぱり車の洪水で大渋滞。隣に停まっている車の運転手もウンザリ顔をしていた。もう一本煙草に火を点けた。車に乗り込んでから、もう5本目だ。

 朝礼の3分前に、学校の駐車場に滑り込んだ。走って職員室のドアを開けた。危うく遅刻するところだった。
 「大竹先生! ギリギリセーフですね」
 同僚で国語担当の伊藤誠次が大竹に声をかけてきた。
 「今日は危うかった」
 「教師が遅刻じゃ、生徒たちにしめしが付きませんからね」
 「まったくだ。・・・・雨の日はどうして車が多いんだろう?」
 「普段バイクで通勤している人が車に乗るんじゃないですか?」
 「そうだろうな」
 「それに、最近は生徒たちをお母さん方が車で送ってくるようですよ」
 「一家に2台の時代だからなあ。俺たちが高校生の頃は、合羽を着て自転車で通ったものだが・・・・」
 「汗で、制服がじとじとになりましたよね」
 「そうそう」
 「今の子は、それがイヤなんでしょうね」
 「そうかもしれんが、贅沢になったものだ」
 「仕方ないですよ。時代が違うんですから」
 「そうだな」
 「朝礼が始まりますよ」
 先週の金曜日から校長が急病で倒れて入院中で、教頭が替わりに朝礼を行った。突然のことで、教頭は緊張に汗を滲ませていた。

 朝礼が終わり、大竹は出席簿と教科書を抱えて、1時間目の授業へ向かった。大竹は体育の教師。昔は体操でオリンピック出場を目指したこともあるが、膝の故障、足首の捻挫などで泣かず飛ばずに終わった。それでも体育系の大学を出た。就職するところがなかったので、叔父のコネで教師になった。
 体育の教師なんて、あんまり好きじゃないが、食うためだからやむなくやっている。勿論それなりに一生懸命やっているつもりだ。大竹はそう自負していた。
 体育の教師をしていていいこと。それは、ぴちぴちの女子高生がそばにいると言うことだ。別に女子高生を相手にしたいと言うことではない。そばにいるだけで、気分が若くなる。大竹は結構満足していた。


 雨の日はバスが混むからイヤだ。満員のバスの中で、ショルダーバッグを抱きしめて、菜摘はそう溜息をつく。
 ショルダーバッグを抱きしめているのは、以前混んだバスに乗ってショルダーバッグを肩に掛けていて、財布を盗まれたからだ。まったく油断も隙もあったものではない。
 混んだバスの中で、スリと共にイヤなものがある。痴漢だ。今も、お尻をそれとなく触ってくるものがいる。偶然かも知れないので黙っているが、偶然を装って触っているのかもしれない。
 ああ、やだやだ。女なんてイヤだ。菜摘はもう一度溜息をついた。

 バス停に降りると、向かいに菜摘の勤める会社がある。車が少なければ、信号が赤でも左右を見て渡るのだけれど、今朝雨では車が多いから渡れそうもない。歩行者用信号のスイッチを押して信号が変わるのを待つ。
 信号が変わるのには、せいぜい2分待つだけなのに、もの凄く長く待っているような気がする。特に今朝のような雨の日は、余計に長く感じられる。

 「おはよう、菜摘」
 「おはよう、千絵」
 同僚の椎原千絵が、菜摘より少し前に来ていて、制服に着替えていた。
 「菜摘。今日は機嫌が良さそうね」
 「へへ。分かる?」
 「分かるわよ。近年まれにみる、機嫌の良さ!」
 「なによ、それ。いつも機嫌が悪くないわよ」
 ブスッと膨れた菜摘を見て、千絵は肩を竦めた。
 「で、何があったの? 彼氏でもできたの?」
 「できてない。できてない」
 菜摘はロッカーを開いて着ていたワンピースを脱いだ。
 「じゃあ、その機嫌の良さは何?」
 「いい夢見たから」
 「いい夢?」
 「格好いい王子様になった夢」
 「はあ? 菜摘が王子様になるの?」
 「そう」
 「宝塚にかぶれすぎ!」
 「いいじゃないの。千絵は、格好いい王子様になりたいと思わないの?」
 そう言いながら、菜摘は制服のブラウスを着てスカートを穿いた。
 「思わないわよ。わたしは、可愛いお姫様にはなりたいわね」
 「可愛いお姫様かあ・・・・」
 「それが普通の女の子の発想よ」
 「そうかなあ」
 「菜摘は、男の子になりたいの?」
 「なりたいわよ。女はいつも損ばかりしてるから」
 制服の上着を着ると準備完了だ。菜摘は、鏡に向かって乱れていないか点検した。
 「損ねえ」
 「男の人と同じくらい勉強しても、同じようには扱って貰えないでしょう?」
 「それはそうだけど」
 菜摘は鏡に向かって化粧を点検する。
 「男になって、ばりばり働きたいなあ。こんな化粧もしなくていいし」
 「どうぞ、どうぞ。わたしは、いい人見つけて結婚して、早く子どもを産むの」
 「そんな女が多いから、女の地位が上がらないのよ」
 「わたしはそれでもいいもん」
 「千絵と議論しても始まらないわ」
 「そう言うこと。さあ、仕事、仕事」
 「今日は雨だから、お客が少ないかもね」
 「そうね。そうだといいわね」
 ふたりそろってロッカールームを出た。

 そうは問屋が卸さないとはこのことだ。ウイークデーの雨の日だと言うのに、結構お客が多い。
 「相良君、コーヒーをお出しして」
 「はあい」
 菜摘は、カップにコーヒーを注ぐと、シュガーのスティック、ミルクを添えて、営業の小田が相手をしているお客のテーブルへ運んでいった。
 ウエイトレスと変らないな。菜摘は、コーヒーカップをテーブルの上に置きながら、いつもそう思う。
 「相良君、セルシオのカタログを持ってきてくれないか?」
 「はい。かしこまりました」
 小田がお相手をしている中年の男性。とてもセルシオを買うようには思えないが、人は見かけに依らないと言う。結構、お金がある人なのかも知れないなと思いながら、セルシオのカタログを小田に届けた。

 「小田さん、さっきのお客さん、セルシオを買ったんだって?」
 「ああ。クラウンを見に来ていただいたんだけど、セルシオを買っていただけるとは思っても見なかったよ。しかも、CタイプのFパッケージだよ」
 小田は、にこにこ顔だ。
 「こんなこと言っちゃ失礼かも知れないけど、とてもセルシオを買うような人には見えなかったけど・・・・」
 「あの人、白石医院の院長だよ」
 「白石医院?」
 「3丁目のダイエーの隣にある、わりと大きな病院だよ」
 「ああ、あの白石病院の院長先生なの?」
 「確かに医者らしくは見えないけどね」
 「そこいらを歩いている、ただの叔父さんよね」
 菜摘は、千絵の同意を求める。
 「ほんと、ほんと」
 千絵も同意の返事を返した。
 「医者らしくないってところが、俺は好きだな。医者は、どういう訳か威張ってるのが多いからな」
 「それもそうね」
 お医者さんというのは、自分はエリートだと思っているのか、人を見下すような態度の人が多い。そう言う目で見てみると、白石先生は、気さくないい先生のように見えた。


 「大竹先生、帰りに一杯どうですか?」
 酒好きの伊藤は、毎日のように誰彼と声をかけて飲みに出る。そろそろ声が掛かる頃だと、大竹は思っていた。帰っても別に用事はないし、久しぶりに飲みに行きたい気持ちがしていた。
 「一杯やりたいが、車だからなあ」
 「置いて帰ればいいでしょう? たまには付き合ってくださいよ」
 明日の朝は、バスで来ればいいか。そう思いながら、大竹は答えた。
 「そうだな。そうするか」
 「じゃあ、すぐに出かけましょう。裏の駐車場で待ってます」
 「ああ、着替えてすぐに行く」
 伊藤は飲屋街のすぐ裏にあるアパ−トに住んでいて、飲屋街の番人と呼ばれている。だから、伊藤のアパートまで車で行って、そこから歩いていくという寸法だ。
 着替えていったん職員室を出た大竹は、ふと思い出したように中へ引き返して電話のダイヤルを廻した。
 「もしもし、俺だ。急ですまんが、ちょっと飲んで帰るから。ああ、夕飯はいらない。分かってるさ。あんまり遅くならないように帰る。じゃあな」
 夕食をせっかく作ったのにとブツブツ言う寿代の顔が浮かぶ。月に一度くらいだから、いいじゃないかと、大竹は自分を正当化させて、駐車場へと急いだ。

 伊藤と酒を酌み交わしながら、大竹は昨夜の夢の話しをした。
 「へえ、妙な夢ですね」
 「そうだろう?」
 「大竹先生。潜在意識の中に、女になりたいって気持ちがあるんじゃないですか?」
 「まさか!」
 「大抵の男には、そんな潜在意識があるって言いますよ」
 「そんなこと、誰が言った?」
 「何かの本に書いてありましたよ」
 「くだらん週刊誌だろう?」
 「そうでしたっけ?」
 「オカマバーか何かの特集記事にでも載ってたんだろう?」
 「あ、それそれ。そうでした」
 「変なことを煽る連中がいるからなあ」
 「でも、ホントに女になりたいって思ったことないんですか? 先生」
 「馬鹿を言うなよ。女みたいな、一段劣る生き物になりたいなんて思ったことがあるかよ!!」
 大竹は、日頃から男が主、女は従だと主張してやまない。女なんて、男が生きていく上での飾りに過ぎないと思っていた。
 「そりゃ、そうですね」
 妙な夢のお蔭で、気がむしゃくしゃしていた。大竹は、伊藤が注ぐビールを次から次へと飲み干していった。


 「菜摘。今晩、暇?」
 千絵が制服を私服に着替えながら、菜摘の顔を覗き込んできた。
 「暇といえば暇だけど・・・・」
 既に着替え終わっていた菜摘は、鏡に向かって化粧を直しながら答える。
 「先月錦町にできた天井桟敷ってお店。美味しいんだって。一緒に行かない?」
 「行ってもいいけど、千絵。彼氏は? いつも彼氏とデートでしょう?」
 「彼氏は昨日から東京へ出張中よ。そうじゃなかったら、菜摘を誘わないわよ」
 「なんだあ」
 「菜摘もデートがなさそうだし」
 「あっ! それって、馬鹿にしてるう」
 「彼氏。いるの?」
 千絵が意地悪そうな顔で菜摘を覗き込む。
 「今朝も言ったでしょう? いないわよ!!」
 「じゃあ、いいでしょう?」
 「分かったわよ」

 ふたり揃って、会社の外へでた。錦町は、会社からそう遠くないところにある。歩いて行くにはちょっと距離があるが、かといってタクシーを呼ぶほどの距離でもない。
 「わたしはともかく、菜摘ほどの器量があれば、すぐにでも男ができるでしょうに」
 「それができないのよね」
 「理想が高すぎるんじゃないの?」
 「そんなに理想を高くしてるわけじゃないんだけどなあ・・・・」
 「ねえ、吉川君を誘惑したら?」
 「吉川君!?」
 「国立大学出身だし、結構いい男だしい」
 「好みじゃないわ」
 「そうなの。菜摘の好みは、どんな男?」
 「加山雄三」
 「げげっ! いにしえのそのまた昔のタイプね」
 「何よ。それ」
 「もっと若い男で好みのタイプはいないの?」
 「若い男ねえ」
 「菜摘は小父さん趣味なの?」
 「そうじゃないけど・・・・」
 そう言えば、若いちゃらちゃらした男よりも、父のような頼りがいのある男の方がいいような気がする。菜摘は、千絵を列んで歩きながら、そんなことを思う。


 早く帰ると約束したのに、家に帰り着いたのは、午後11時だった。
 「遅かったのね」
 膨れっ面の寿代が玄関に大竹を出迎えた。
 「伊藤がなかなか帰してくれなくて・・・・」
 「伊藤さんって、国語の?」
 「ああ、そうだ」
 「あの人、酒癖が悪いんでしょう?」
 「まあね」
 「聞いた所によると、スナックでよく裸になるそうね」
 どこから聞いたものやら。確かに伊藤はよく裸になる。今日も最後に行ったスナックで裸踊りに興じていた。
 「持ち物がでかいからな。自慢したいんだろう」
 「あなたは自慢できるほど大きくないから、裸になんてならないでしょうね」
 「ご指摘の通りだよ」
 大竹は肩を竦めた。自慢できるほどではない。しかし、人並みだとは思っているのだが・・・・。
 「どうするの? お風呂に入るの?」
 「ああ、入るよ。上がったら、お茶漬けでも作ってくれないか? ちょっと小腹が空いた」
 「分かりました。お茶漬けでも何でも作って差し上げますわ」
 寿代の機嫌はあまりよくはない。よくするための手段は・・・・。大竹は股間を見下ろす。ちょっと飲み過ぎたから、無理かもしれないなと思いながら、バスルームへ消えていった。


 「美味しいわね」
 千絵がエビの天ぷらを口に入れながら菜摘に言う。
 「うん」
 エビの天ぷらは、からりと揚がっていて、しかも身がぷるんとしていた。値段が安いのに、冷凍物ではなさそうだ。
 「これ、何?」
 「イカじゃないの?」
 「わたし、これ、苦手。菜摘にあげる」
 「じゃあ、わたしはこれをあげる」
 「シロウオ、美味しいのに」
 「イカの方がまだまし」
 「このお刺身、鯛よね」
 「それにヒラメみたい」
 「美味しいし、安いし、最高だね」
 「うん」
 「菜摘、もう一杯飲みなさいよ」
 「・・・・そうね」
 天ぷらに刺身の定食。それにワインを飲んでいた。ちょっと合わないんじゃないかと言ったのに、美味しそうだからと、千絵が頼んだのだ。組み合わせとしては邪道だが、合わないことはない。千絵は、がぶがぶとワインを飲み、菜摘もつられてかなり飲んだ。