これは夢だ。明らかな夢だ。ぼくは、椋鳥の大群に追いかけられていた。逃げても逃げても追ってくる。まるで、ヒッチコックの『鳥』のようだ。
ぼくは躓いて仰向けに倒れた。襲ってくる鳥たちを払いのけようとするのに、手が言うことを聞かない。鳥たちは何故かぼくの顔だけをチクチクとついばんだ。痛い、痛いと叫んでも、誰も助けてくれず、夢も醒めない。
突然、目の前の風景が変わって、鳥たちがいなくなり、佐藤ゆかりさんの顔が見えた。佐藤さんは、鳥についばまれたぼくの顔を優しく撫でてくれた。気持ちよかった。
目が醒めた。
(変な夢を見た。麻酔の所為だろうか?)
ぼくはベッドの中に寝ていた。
(眠っている間に手術は終わったのだろうか?)
上体を起こして周りを見回して、ぼくはビックリした。
(ここは、あの病室じゃない・・・・)
白衣の男に案内された病室は、6畳くらいの広さで、ベッドとロッカー以外には何もなかった。しかし、ここは12畳ほどの広さがあり、ぼくの寝ているベッドが部屋の真ん中に、左手に大きなドレッサーが置かれていた。
正面は、ガラス張りになっていて、遠くに海が見えた。
(病室も違うが、ここはあの病院ではない。あの病院から海が見えるはずがない)
ぼくは恐ろしくなって、ベッドから抜け出した。ベッドの右手にあるドアを開けると、20畳くらいの部屋があった。真ん中に応接セットが据えられていた。壁には、大きな油絵が掛けられている。名前も知らない画家の描いたものだ。
応接セットの横を通り抜けて、その向こうにあるドアに向かって歩いて行った。ドアを開けようとしたが、鍵が掛かっているらしく、ノブが廻らなかった。
ぼくは、応接セットのそばに戻った。この部屋からも海が見える。窓から出られるかもしれない。窓を開けて、ベランダに出ようとしたが、窓にも鍵が掛かっていた。ベッドのあった部屋の窓も同じだった。
(ぼくは閉じこめられている)
あの白衣の男がぼくに眠り薬を盛って、眠っている間にこの場所へ連れて来たようだ。
(いったい何のために? お金か? ぼくの家は、そんなに貧乏というわけじゃないけど、身代金を払うようなゆとりはない。お金でないとすれば、何なのだ?)
ガラスを割ったら外に逃げ出せるかもしれないと思ったぼくは、投げるものを探して廻った。ベッドのある部屋の奥にドアがあり、開けてみると、かなり広い洗面所と洋式トイレ、洋風のバスルームがあった。ガラスを破るようなものは、何も見つからない。
戻ろうとして、ぼくは首を傾げた。何かおかしいのだ。しかし、それが何なのか分からなかった。
最後の手段と考え、応接セットの椅子を使うことにした。これが重いのだ。とても持ち上げられそうもない。しかし、なんとか窓際まで持って行って、力任せにガラスにぶつけてみた。ズシンと音がしただけで、ガラスは割れなかった。両手で叩き、体をぶつけてみたけれど、とても割れそうもない。強化ガラスのようだ。
ぼくは、力を落として、椅子の上に座り込んだ。
どれくらいたっただろうか? ガチャガチャと音がして、鍵の掛かったドアが開いて、白衣姿のあの男が入ってきた。
「気がついたかね?」
笑顔をぼくに向けて、低い声でそう言った。
「ここはどこだ!? ぼくをどうするつもりだ!」
ぼくは男に詰め寄った。
「まあ、まあ、そんなに興奮しないで」
白衣の男は、落ち着き払った様子で、ソファーに座った。
「これが興奮せずにおられるかよ! 返してくれ。元の場所に」
「まだ治療が終わっていない。治療が終わったら返してあげるよ」
治療という言葉を聞いて、ぼくはどきりとした。
「治療? 治療って、何の治療だよ」
「落ち着いて聞きたまえ。君は、大変な病気になっている。早く治療しないと手遅れになってしまう」
(大変な病気? 手遅れになる?)
ぼくの顔は青ざめていたに違いない。フラフラと椅子の上に座り込んだ。
「小野先生は、そんなこと言わなかったよ」
「告知の問題については、小野先生が考えた末のことだから、勘弁してやってくれ」
(告知!? 告知って、癌じゃないって言ったのに、・・・・何か悪い病気のようだ)
膝が震えてきた。
「・・・・大変な病気って、肝臓が悪かったのと関係あるの?」
「そうだよ。あれこそが問題なのだよ」
白衣の男は人差し指をぼくに向けて、ウンウンと頷いた。
「ちゃんと言ってくれればいいのに・・・・」
「すまなかった。ぼくが完璧な治療をやってあげるから、心配しないでいいよ」
そう言われて、ぼくは少し安心した。
「どんな治療をするんですか?」
「ま、おいおいに話すが、取り敢えずは栄養をきちんと取ることだ。三度三度の食事は残さず食べること。栄養のバランスを考えた食事が出るからね」
「食生活がいけなかったんですね」
「まさにその通りだ。学生は偏食が多いからね」
ぼくは納得する。
「それから?」
「その後の治療は、その都度説明するよ。いいね」
「はい。・・・・あのう」
「なんだ?」
立ち上がって出ていこうとした白衣の男に、ぼくはさらに尋ねた。
「学校の方は? それに両親や家族には?」
「心配しないでいい。ちゃんと連絡してある。ただし、隔離中だから、面会はできないからね」
(隔離中!? 隔離する病気と言えば、伝染病だけど・・・・)
「ぼくの病気は、伝染する病気なんですか?」
「伝染しないかもしれないが、念のためだよ。分かったね」
必ずしも伝染しないと聞いて少し安心した。
「はい」
「少しの辛抱だ」
白衣の男は、そう言い残して部屋を出ていった。
応接セットのある部屋にテレビが置かれていた。スイッチを入れ、チャンネルと変えてみた。見慣れた番組をやっていた。ぼくのいる場所は、関東であるのは間違いない。
窓から外を眺めてみた。窓の外は、大きな木が茂っていて、遠くの海しか見えない。大型ジェット機が上空を飛んでいく。それも数が多い。羽田や成田に向かっているらしい。そうすると、ぼくは房総半島にある小高い場所にいる。遠くに広がる海は太平洋だ。
乳首に触れると、まだ痛みがある。病衣をはぐってみた。乳首に傷絆創膏が貼られたままだ。まだ手術していないようだ。
(手術しないで、食餌療法で治してくれるつもりのようだ)
そんな考えに至ると、ぼくはもの凄く安心した。
(しかし、治療費が高いんじゃないだろうか? こんな広い病室だし)
そう思うと急に心配になった。
お腹がクウとなって30分ほどした頃、白衣の男(これからはドクターを呼ぼう)がワゴンを押して部屋に入ってきた。
「お腹が減っただろう。さあ、食事だよ」
ワゴンの上には、トーストと野菜サラダ、肉料理が載っていた。
「美味そう」
「全部食べるんだよ。残すと治療が上手くいかない」
「はい。・・・・あのう、先生?」
「なんだ?」
「手術はしなかったんですね」
「あ、ああ。手術ね」
「食餌療法で治してくれるんでしょう?」
「・・・・ああ、そうだよ。一旦は手術しようと思ったんだが、手術は乱暴でいかんから、切り替えたんだ」
「そうだと思いましたよ。ところで、治療費は? 治療費はどれくらい掛かるんでしょうか?」
心配になっていたことをさっそく聞いてみた。あまり高いと両親に迷惑が掛かるだろうなと思った。
「治療費? ああ、治療費ね。特別な病気だから、君は払わなくていいんだ。心配しなくていい」
「そうですか。安心しました」
お金の心配をしなくてすむと思うと気が楽なって、ぼくはワゴンの上の料理をぺろりと平らげた。
(この味。何処かで食べたような気がする)
そう思ったが、どこで食べたことがあるのか思いつかなかった。
三度三度の食事をドクターが運んできた。看護婦はいないのかなと思ったけど、伝染するかもしれないから、用心のためにドクターだけがぼくの部屋にやって来るんだろうと判断していた。
ぼくは、出された食事を残さず平らげた。ここに来る前、あんなに食欲がなかったのが不思議なくらいだ。食餌療法だから、当然かもしれないけど。
「採血しよう。腕を出したまえ」
一週間経って、ドクターに採血された。
「結果は、いつ分かります?」
「あさってだ」
「あさって!? そんなに早く?」
「そんなものだよ」
あの病院では一週間掛かったのに、ぼくのために早くやってくれているようだ。ぼくは部屋を出ていくドクターをにこにこ顔で見送った。
ぼくは自分で自分がはっきりしていると思っていたのだが、少しぼんやりしているようだ。今日になって、おかしな事に気がついた。最初に、窓を破るものを探して洗面所に入ったときに感じた違和感の原因だ。
ぼくの顔に髭がないのだ。この隔離病室に来て、8日になるのに、ぼくは一度も髭を剃っていない。指先で触ってみても、髭がまったく伸びていないのだ。
(どういう訳なんだろうか? これも病気の症状なんだろうか? ドクターに聞いてみないと・・・・)
食事を持ってきたドクターに聞いてみた。
「ああ、病気の所為だよ。心配しないでいい」
「よかった」
ぼくは安堵する。しかし、髭のなくなる病気っていったいなんだろうか?
その翌日、ドクターが食事と一緒に検査結果を持ってきた。
「どうでした?」
「かなり良くなっている。ほら、見なさい」
GOTは40、GPTは38だった。
(まだ正常じゃないけど、良くなっているのは間違いない)
ぼくはホッとする。
検査の値も良くなっている。食欲も旺盛だ。ぼくはかなり良くなっている。ここでの入院生活ももうすぐ終わりになるだろう。ただ心配なのは、いくら食べても体重が増えないことだ。むしろ減ったように感じる。なぜだろうか? 体重計がないので、確かめようがないのだが。
今日はやけに眠い。夕食を食べてから、テレビを見ていたら、無性に眠くなってきた。眠気に耐えられなくなって、応接セットの椅子の上で眠りこけた。
また夢だ。また椋鳥の大群だ。今度は、ぼくの足を狙ってついばむ。そしてまた、佐藤ゆかりさん。ついばまれたぼくの足を優しく撫でてくれるのだ。どうしてこんな夢を見るんだろうか?
目が醒めたら、ベッドの上に寝ていた。東向きの窓から、太陽の光が入っていた。
(いつの間にベッドの上に移動したんだろうか?)
おかしいなとぼくは首を傾げる。
(風邪を引くといけないから、ぼくをベッドに移したんだろうか?)
リビングに移動して、テレビを点けた。
「あれ!?」
画面に現れると予想した番組とは違う。チャンネルを変えてみた。やっぱり思っていた番組とは違う番組が放送されていた。
NHKに合わせ、7時のニュースを待つ。
(どう言うわけだ!?)
日付が三日進んでいた。
(ぼくは三日も眠っていたのか?)
丁度その時、ドクターが朝食を持って部屋にやってきた。
「ドクター! ぼくは、三日間も眠っていたんですか?」
「ああ、向こうの部屋のソファーの上で寝たっきりで、どうしても起きないから、こっちへ運んでずっと点滴していたんだ。目が醒めたみたいだから、食事を持ってきた。食べられるかな?」
腹の虫がクウとなった。
「はい。いただきます。・・・・でも、どうして三日間も」
「病気が治りきってない所為だろう。また同じ様なことが起こるかもしれないよ」
「またですか?」
「治っていなければね」
退院が先になりそうだ。早く治って欲しいと願うしかなかった。
その夜。入浴していて、体の異変に気がついた。足がつるつるになっていた。すね毛がまったくないのだ。ぼくは目を見張る。そして考えた。
(顔をついばまれた夢を見た後、髭がなくなっていた。足をついばまれた夢の後、すね毛がなくなっている。何か関係があるのでは・・・・)
「夢と現実が関係あるはずがないじゃないか。気のせいだよ」
ドクターに話すと、そう一蹴された。
「すね毛がなくなったのは、病気のせいなんでしょうか?」
「もちろんだよ」
(全身の毛が全部抜けてしまう病気だろうか?)
どこにも行けず、一日中テレビを見て過ごす。退屈で堪らない。
(パソコンでもあれば、インターネットができるのに)
そう考えて、ドクターに頼んでみた。
「ドクター。退屈だから、インターネットしたいんですけど、だめですか?」
「パソコンもないし、第一、電話線が来ていないから、だめだ」
「64KのPHSがあればできます」
「どこにそんなものがあるんだ? 治療費以外には経費をもらっていないんだから、諦めなさい」
そう言われれば、諦めざるを得ない。
一週間ほどたって、今度は腋をついばまれる夢を見た。目が覚めたら、また三日たっていた。腋の下を調べてみると、腋の毛がなくなって、つるつるになっていた。
(やっぱり全身の毛が抜けてしまう病気だ!! 頭をついばまれたら、ぴかぴか頭になってしまう!!)
ぼくは恐怖に震えた。
しかし、頭はついばまれなかった。代わりに股間をついばまれた。目が醒めて、毛が全部なくなっている股間を想像していたのに、毛は少し残っていた。この時になって、ぼくはおかしいなと思い始めた。
ぼくの股間に残っている毛は、ペニスの上だけなのだが、まるで・・・・、まるで女のもののようなのだ。
髭もすね毛も腋毛もなく、女のようなダイアモンド型に生えた陰毛。散髪していないから、肩まで伸びた髪の毛。
(まるで、ぼくは女のようだ)
女のようだ? ギョッとなって、洗面所に走っていった。鏡を見た。
(今日まで、どうして気がつかなかったんだろう? ぼくはやっぱりどうかしている)
ぼくの顔は童顔で、見方によっては女みたいに見える。それが、以前にまして優しく、まるでホントに女のようだ。体の線だって丸くなっている。胸も少女のように膨らんできていた(少女の胸を見たことはないけど・・・・)。
(乳房だけじゃなく、体全体が女性化しているのか!?)
食事を運んできたドクターにぼくは詰め寄った。
「ドクター。ぼくの病気は、女性化する病気なんですか?」
「・・・・」
ドクターは黙っていて答えない。男が女性化するなんて、ひどいショックだろうから、言いたくないんだろうと思った。
「やっぱりそうなんですね。ドクター、治療できるんですか?」
「治療しているよ」
ドクターはぼそりと呟いた。ぼくには、その言葉は信じられなかった。
「嘘だ!! ぼくはどんどん女性化しているじゃないですか! 早く元に戻るように治療してくださいよ」
「元に戻るように治療している」
吐き出すようにドクターはそう言う。
「ぜんぜん元に戻っていませんよ」
「そんなことないよ。治療は順調だ」
「どうして順調なんですか? まるで女みたいになっているのに」
ドクターは首を大きく傾げた。
「君は何を言っているんだ。君は、男性化してしまった体を女に戻すだめにここで治療を受けているんだよ。忘れたのかい?」
「ええっ!!」
ぼくはドクターの言葉に目を見張り絶句した。
「早く元に戻さないと、永久に女に戻れなくなってしまうよ」
「そんな馬鹿な!! ぼくは、れっきとした男です。女じゃない!」
「ああ、心まで男性化してしまったのか。早く治療をしないと取り返しが付かなくなってしまう」
茫然とするぼくを置いて、ドクターは部屋を出ていった。
ぼくはパンツを降ろして、股間を覗いてみた。
(最近少し小さくなってしまったけれど、ぼくの股間には、ちゃんとしたペニスがある。睾丸だってある。ぼくは男だ。間違いなく男だ!! ドクターは、何か思い違いをしている。今度部屋にやってきたら、もう一度話しをしてみよう)
そう決心した。
夕食のワゴンを押して、ドクターがやってきた。ぼくは、裸になってドクターに迫った。
「ドクター! 見てください。ぼくには、ちゃんとペニスがあるでしょう? ぼくは男なんです」
「何をしているんだ! 女の子がはしたない。服を着なさい」
「ちゃんと見てください。これが女に見えますか?」
「見えない」
「そうでしょう? ぼくは男なんです」
「今は女には見えないと言っているんだ」
「ええっ!?」
ぼくはまたも絶句した。
「君は陰核肥大という病気を起こしている。クリトリスがペニスのように大きくなる病気だ」
「陰核肥大!? 違います。これはペニスです。クリトリスなんかじゃない!!」
「ああ、可哀想に。早く良くしてあげなければならない」
「ドクター、これは睾丸と違うんですか? 睾丸は、男である証拠でしょう?」
ぼくは必死で、ペニスの下にある睾丸をドクターに指し示した。
「それは睾丸じゃない。小陰唇の中に腫瘍ができているんだ」
「嘘だ。ぼくを騙そうとしてるんだ!」
「ぼくは医者だよ。君に嘘を言ってどうするというのだね。さあ、戯言を言ってないで、食事をしなさい」
「ぼくがペニスだと思っているものが、クリトリスが大きくなったもので、睾丸だと思っているものが腫瘍だと信じましょう。だけど、胸は? ぼくの胸は元々はなかった。女なら、胸があったはずだ」
「大きくなる前に発症したから、真っ平らだっただけだ。今は治療によって、大きくなりつつある」
「じゃあ、腟は? 女だったら、腟があるはずだ。ぼくには腟はない」
「君は、無腟症という、膣がない病気なんだ」
「ぼくをどうしても女にしたいんだな!」
「君を女に戻してあげたいだけだよ」
「イヤだ」
ぼくは、ドクターを押し倒して、部屋から逃げ出そうとした。ドアには鍵が掛かっていなかった。ドアを開けると、目の前に女性が立っていた。
「佐藤さん・・・・」
「我が儘言っちゃ、だめよ」
そう言って、ぼくの鼻先にシュッと何かを吹き付けた。突然体の力が抜けて、ぼくは廊下に倒れた。ドクターの足音が近づいてきた。
「さあ、そろそろ、陰核肥大の手術と、小陰唇にできた腫瘍を取る手術をしようか」
(イヤだ・・・・。ぼくは男だ。止めてくれ)
そう叫ぼうとしたのに、声にならなかった。ぼくの意識は途切れた・・・・。