いつもの生活に戻った。イヤ、いつもの生活じゃない。友永がぼくのアパートに顔をまったく出さなくなった。あのチャットルームにログインすることもなくなった。女物の下着も捨ててしまった。
大学で講義を聞き、実験をこなす。アパートに帰ると、メールチェックをしてから、レポートを書く。レポートがなければ、ミステリーを読む。そんな毎日だ。彼女はまだできない。当たり前かもしれない。そんな出会いに遭遇するような生活を送っていないのだから。
考えてもみなかった出会いが訪れた。ぼくが住んでいるアパートの隣の部屋に女の人が越してきたのだ。引っ越しの挨拶にと、石鹸の入った小さな包みを持ってきた。佐藤ゆかりと言う、22歳のOLだ。ふたつ年上だけど、友永と奥さんよりは遙かに歳が近い。そんなに美人じゃないけれど、丸ぽちゃのぼく好みの女の人だ。
気さくな人で、お料理作り過ぎちゃったとか言って、ぼくのところに届けてくれる。こんな経験は初めてなので、嬉しくて堪らない。ぼくに気があるんじゃないかと思う。
梅雨の所為だろうか? この頃体の調子が良くない。気分も優れない。何にもしていないけれど、まったくやる気なし。
「友田。今日、飯食いに来ないか?」
午後の講義が終わって帰ろうとすると、友永に誘われた。
「いいのか?」
「いつも言うばっかりで、実際に来てもらったことないからさあ」
「いつ産まれるんだったっけ?」
「来月だよ。産まれたら、飯食いに来て貰えなくなるだろうと思ってさあ」
「じゃあ、うかがうよ」
友永の後ろについてペダルを踏む。友永は最近車の免許を取ったらしいが、大学に通うときは、以前と同じ自転車だ。20分ほど掛かって、6階建てのマンションに着いた。
「ここ?」
「うん」
「いいマンションだね」
「久美子の夫が死んだって言っただろう?」
久美子さんというのは、友永の現在の奥さんだ。夫に死なれた未亡人と付き合っていて、子どもができてしまって結婚した。
「ああ」
「だから、このマンションのローンがチャラになったらしいよ」
「へえ。男は死んでマンションを残すって訳だ」
「そう言うことだよ。・・・・久美子の前では言うなよ」
「分かってるよ」
「ただいま。友田を連れて来たぞ」
玄関を開けてぼくを招き入れると、奥に向かって友永は叫んだ。奥から、エプロンで手を拭きながら久美子さんが顔を出した。もうすぐ35になると聞いたけど、とてもそうは見えない。27,8。イヤ、25でも通りそうだ。
「いらっしゃい。お待ちしておりましたわ」
「お久しぶりです。お邪魔します」
「ゆっくりしてらしてね」
大きなお腹をさすりながら、久美子さんは、キッチンへ消えていった。
「こんなに美人だったかなあ」
食事のお礼もかねて、ぼくは友永に囁く。
「そりゃ、そうさ。俺が惚れる女だからな」
友永は自慢げに胸を張る。
「嘘つけ。女だったら、誰でも良かったくせに」
「大きな声で言うなよ。聞こえるじゃないか」
ぼくは肩を竦めた。
芋の煮っ転がし、なます、刺身、揚げ物など、いろいろと作ってくれたのだが、どうも食欲が湧かなかった。
「どうしたんだ? 痩せの大食いが、随分小食になったな」
「最近気怠くて、食欲もないんだ」
箸を置いて、久美子さんに入れて貰ったお茶をすする。
「そう言えば、ちょっと痩せたか?」
「少しな」
少しどころじゃない。3キロばかり減っていた。
「病院に行った方がいいんじゃないか?」
「この雨の所為だろう。晴れたら、良くなるさ」
「そうか? ところで、彼女はまだか?」
「できないね」
「作ろうと思わないからだろう?」
「そうだな」
そんな気力も沸いてこなかった。
「まさか、ホントにホモだったりして」
友永がにやりと笑ってそう言った。
「あなた!」
久美子さんが目をつり上げた。友永は小さくなる。
「ホモって事はないけど、女と付き合おうって気になんないんだよね」
「最近、そんな男が増えているらしいな」
「へえ、そう?」
「男性機能も衰え気味だって言うよ。俺みたいにビンビンは貴重だってよ」
「あなた!!」
久美子さんに睨まれて、友永はさらに小さくなる。
(ビンビンかあ。そう言えば、最近朝立ちしないし、マスもかかないなあ)
ぼくは、ぼんやりとそんなことを思っていた。
友永のマンションからアパートに帰って、友永のプレゼントであるMOの中を覗きながら、マスかいてみた。久しぶりに気持ちよかった。だけど・・・・、あんまり固くならなかったし、前みたいに勢いがないような気がした。
「痛て!!」
「何だよ。ちょっと当たったくらいで、大きな声出すなよ」
実験中に、泊の肘がぼくの胸に当たった。泊も言ったようにホントに軽く当たっただけだったのに、ひどい痛みを覚えた。
(どうしてだろう?)
ぼくは首を傾げた。
実験が終わって、泊にマージャンしないかと誘われたけど、どうもそんな気にならない。ちょっとぼくは鬱病気味だ。
(そうだ。きっとあの事件のことが原因で、鬱病にかかっているのに違いない)
『早苗』で夕食をすませ、アパートに帰ってメールチェックをした後、シャワーを浴びようと、バスルームへ向かった。
Tシャツを脱ぐとき、胸に昼間と同じ痛みが走った。裸になった上半身を手で調べてみると、痛むのは右の乳首なのだ。ちょっと触っただけでビリビリと痛みが走った。
鏡に映してみると、何だか変に見えた。乳首の下の茶色い部分に少し硬いしこりを触れた。
(なんだ? これは? ここは、女で言えば、おっぱいだよな。男も乳癌になるって聞いたことがある。体重が減っているし、まさか癌じゃあ・・・・)
痛みと不安で一睡もできなかった。重い頭を抱えて、近くにある内科に行った。
「胸にしこり? それは外科だよ」
そう言われて診察もせずに追い出された。その上初診料を取られた。詐欺だと叫びたいのを我慢して、1キロほど離れた外科に行った。
白髪で髪の毛がぼさぼさの50くらいの医者が出てきて、ぼくの胸を診察した。
「痛い!」
「ふん。いつ気がついた?」
医者はめんどくさそうにカルテを書きながら尋ねた。
「痛むのは、一週間くらい前からで、しこりは昨日です。先生、癌じゃあ・・・・」
「はは。癌じゃないよ。これは女性化乳房って言う病気だ」
「女性化乳房? 癌じゃないんですね」
「ああ、違う」
癌じゃないと言われてホッとした。
「原因は何なんですか?」
「原因か? 原因は、肝臓病とか、クスリの副作用が多いな。ま、原因がわからんのがもっとも多いんだがね」
「肝臓病って・・・・。そう言えば、最近体がだるくて、食欲がなくて・・・・」
「肝臓病と言っても、肝硬変の末期症状だからねえ。君の場合は違うだろう。何か薬を飲んでいないか?」
「薬なんて飲んでませんが」
「胃薬が一番多いんだが、ホントに飲んでないんだな」
「はい。薬らしい薬は、ぜんぜん飲んでません」
「そうか。それなら、特発性だな」
「特発性?」
「簡単に言うと、原因不明と言うことだ」
(原因不明なら原因不明だと言えばいいのに、特発性? なんだよ、それは? もったいぶって。だから医者は嫌いなんだ)
心の中でそう思ったが、当然黙っていた。
「どうしたら治るんでしょうか?」
「原因らしいものがないのなら、自然に良くなることが多いよ。しばらく様子を見なさい」
「でも痛いんですけど」
「傷に貼るばんそうこうを持ってるかい?」
「アパートにあると思いますけど」
「乳首を押さえるように貼っておくと、痛みが少ないよ」
「クスリなんかはないんでしょうか?」
「ないよ。様子を見るだけだ。やたら変な薬を使うと、かえって悪化することがあるんだ」
「そうなんですか」
「あんまり大きくなるようだったら、麻酔をかけて取るしかないな」
「切るんですか!!」
「そうだよ。局所麻酔だから、歯を抜くようなものだ。一ヶ月しても治らなければ、切ろうかな?」
「・・・・はい。あのう、肝臓は調べなくてもいいですか?」
「そうだな。そう言うのなら、採血しておこう」
「結果はすぐ分かるんですか?」
「イヤ、一週間後だ。一週間後に、また来てくれ。いいね」
「はい」
病院からの帰り道、アパートに帰って絆創膏がなかったら困ると思い、途中にあった薬屋で傷絆創膏を買った。
アパートに帰って、上半身裸になって、乳首に絆創膏を貼った。Tシャツを着てみた。医者が言ったように痛みが少し薄くなったようだ。ぼくはちょっと安心した。
「友田君、いる?」
伊藤さんがドアを叩く。ぼくは、慌ててTシャツを着た。
「は、はい。いますよ」
ドアを開けると、佐藤さんが笑顔で立っていた。
「夕食、もう食べた?」
ぼくを見上げてそう尋ねる佐藤さんのえくぼが可愛い。
「まだです。今から出かけるところ」
「じゃあ、うちに食べに来ない? カレーで良かったら」
「いいんですか?」
「作り過ぎちゃって。助けて、お願い」
佐藤さんは両手を合わせた。
「こんなお願いなら、いつでも結構ですよ」
「すぐ来てね」
「はい」
佐藤さんの部屋に入ると、カレーのいい匂いがした。テーブルの上にカレーの入った皿が置かれていた。
「どうぞ」
「ご馳走になります」
ぼくは、ムシャムシャとカレーを食べ始めた。これまでご馳走になった料理はみんな美味しかったけど、カレーも絶品だった。
「どう? 口に合うかしら?」
「最高です。こんなに美味しいカレーを食べたのは初めてです」
「お世辞が上手いのね」
「お世辞じゃないです。ホントに美味しいです」
もう一杯いかがと勧められ、ちょっと食べ過ぎかなと思ったけど、お代わりをした。食後のコーヒーもいただいてしまった。こんなに食べたのは久しぶりだ。佐藤さんの料理が一番の薬のような気がする。
(どうしてぼくに親切にしてくれるんだろう? ぼくに気があるのかな?)
なんて思ってしまうが、食事がすむと追い出されてしまうところをみると、そうでもないようだ。
傷絆創膏のおかげで、痛みは軽くなっていたのだけど、医者に行ってから三日位した頃、左の乳首も痛み始めた。左にも傷絆創膏を貼った。右のしこりが少し大きくなったように感じる。医者は大抵自然に治ると言ったのに、だんだん悪くなっていくようで、ぼくは不安で不安で夜も眠れなかった。
指定された日、ぼくは朝一で、病院を受診した。朝一だったのに、もっと早くから来ているお年寄りがいっぱいいた。診察室に呼ばれたのは、午前10時前だった。
「友田さん、診察室へどうぞ」
診察室に入り、医者の前に座った。
「先生。どうでした?」
「・・・・そうだな。完全ではないが、まあいいだろう」
「完全じゃないって、どこか悪いんですか?」
「肝機能がちょっとだけ悪い」
「ええっ!?」
「そんな声を出さないでいいよ。ほんのちょっとだけだよ。ほらこれをみてごらん」
ぼくは、カルテに貼られた検査結果の書かれた紙を覗き込んだ。
「GOTが42。GPTが40だ。正常は35未満だから、ほんのちょっとだけ上がっているんだ」
「でも、正常じゃないんでしょう?」
「正常じゃないと言えば正常じゃないが、まあこれくらいなら、心配いらないよ」
「ほんとですか?」
「心配することはない」
強い言葉でそう言われれば、納得せざるを得ない。しかし、左が痛くなったのは、肝機能が悪い所為ではないかと思った。
「左も痛くなったんですけど。やっぱり肝機能が悪い所為じゃあ・・・・」
「ほう。左も痛くなった? ちょっと見せてみなさい」
ぼくは上半身裸になって医者に見せた。
「左にも硬結がある。右の硬結は・・・・あれ? 少し大きくなったようだな」
「そうでしょう? やっぱ、何処か悪いんじゃあ」
「関係ないよ。しかし、大きくなるのは問題だな」
医者はぼくの乳首をぽんと叩いた。ビリッと激痛が走った。ぼくは顔をしかめる。
「放って置いたら、もっと大きくなりそうだね。どうする?」
「どうするって・・・・」
「一ヶ月待とうって言ったが、何なら今日にでも取ろうか?」
「やっぱり悪いものなんでしょう?」
「違うって言ってるだろう? これ以上大きくなったら困るだろうから言ってるんだよ。それにね。あんまり大きくなると、局所麻酔じゃ取れなくなるよ。全身麻酔になる」
全身麻酔の手術なんて、大手術のような気がした。
「今なら、局所麻酔でできるんですね」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、お願いします」
このまま大きくなったら困るし、局所麻酔で手術ができるうちに取ってもらおうとぼくは決心した。
「えっと、友田君。今日の夕方は都合はどうかな?」
「別に何もないです。今からでもいいです」
「君はよくても、外来があるから、ぼくの方が無理だ。外来が終わって・・・・、そうだな。5時くらいからにしよう」
「5時ですね。分かりました」
「術後に出血するといけないから、一晩だけ様子を見るために入院してもらうことにするが、いいかな?」
「いいです」
「じゃあ、4時半くらいにまた来てくれ。あ、それと、それまで何も食べないようにね」
「ええっ!? 何にも食べられないんですか?」
「そうだよ」
「朝も食べてないのに・・・・」
起きてすぐに病院に来たから、コーヒーだけしか飲んでいなかった。腹が減って幻暈がしていた。
「そうか。そうだな。3時まで、お茶とか、スポーツドリンクとかならいいだろう」
「お茶とスポーツドリンクだけですか?」
「そうだ。それ以外はだめだ。分かったね」
「・・・・はい」
空腹のあまり、ぼくは力無くそう答えた。
病院を出たのは10時半だった。あんまり腹が減ったので、ジュースを飲もうと自販機の前に立つ。お茶かスポーツドリンクねえ。
(3時まで4時間半もあるから、他のものでもいいだろう)
ぼくは勝手にそう判断して、100パーセント果汁入りのミカンジュースと、いつもは甘くて飲めない缶コーヒーを買って、グビグビと飲んだ。
腹の虫は一時的には治まったが、正午の時報を聞くと、再びグルグルと悲鳴を上げ始めた。最近食欲がなくて、あんまり食べていないけど、絶食だと言われると、何故か食べたくて仕方がない。しかし、我慢するしかない。今度はスポーツドリンクにした。
午後の講義を受けた後、病院へ向かった。一泊入院だから、パジャマだけが必要と言われたが、そのパジャマも病院が貸してくれる。ぼくは、手ぶらで病院へ向かった。
待合室には、もう誰もいなかった。受付に声をかけようとしたら、白衣を着た男に声をかけられた。
「友田君だね」
「はい、そうですけど・・・・」
「時間が少し早いが、始めようか?」
「えっ!? 小野先生がされるんじゃあ」
「小野先生は、往診に出掛けたんだ。ぼくが君の手術をするように言われたんだ」
笑顔でその男は言った。
「簡単な手術だから、別に小野先生でなくてもいいよ。ぼくが完璧にしてあげるからね」
完璧にと言うのが気に入った。
「お願いします」
男に連れられて、奥の病室に案内された。ぼくが今晩入院する部屋らしい。入り口に友田直之の表札が出ていた。
「その手術着に着替えて」
「はい」
ライトブルーの縄文人が着ていたような服に着替えさせられた。
「怖くないように、軽い麻酔の注射をして置くからね。少し眠くなるけど、寝てしまっててもいいよ。目が醒めた頃には手術が終わっている」
お尻に二本注射された。痛かった。10分ほどすると、目が開けていられなくなってきて、ぼくは深い眠りに落ちていった。