滝川は、2DKの狭いおんぼろアパートの台所で、夕食の準備をしていた。
「あのひと、もう帰ってくるかしら?」
楽しそうに、鼻歌を歌いながら包丁をとんとんと動かす滝川の左の薬指には、シルバーのエンゲージリングが光っていた。
「結婚一周年だものね。今日くらいは、早く帰ってくるわね」
滝川は、夫の好物をテーブルに並べていった。
「まだかな?」
時計を見ると、そろそろ午後7時だった。滝川は、椅子に腰掛けて、あのときのことを思い出す。
市原が殺されたと言う、警察からの電話を受けて、滝川は慌てて市原のマンションへタクシーを乗りつけた。
マンション前には、パトカーが数台停まっていて、見張りの警官が立っていた。
「マンションの住人以外は立ち入り禁止です」
「市原の妻です」
マンションの住人たちが、入り口でひそひそ話をしていたこともあって、滝川はそう自己紹介をした。
「あ、どうぞ、お上がりください」
滝川は、同じくエレベーターの前にいた警察官を押しのけて、エレベーターを上った。エレベーターを降りると、同じ階の住人たちがやはりたむろしていた。
部屋の前に小走りに駆け寄ると、警察官が滝川を制した。
「市原の妻です!」
警察官を押しのけて、部屋に入った。リビングに数人の男たちが立っていて、滝川を振り返った。
「市原はどこです?」
「奥さんですね」
滝川は頷く。
「ベッドルームです」
男たちのひとりが、滝川の手を引く。滝川は急に歩けなくなった。
「市原が死んでいるところなど、見たくない」
そんな意識が、滝川をそんな状態にしたのだ。
「さあ、奥さん。亡くなったのが、市原裕さんかどうか確認してください」
ほとんど無理やりベッドルームに押し込まれた。ベッドの上に全裸の男が仰向けに横たわっていて、胸に、心臓の位置に果物ナイフが根元まで刺さっていた。
「市原裕さんですね」
顔を見た。間違いなかった。滝川は崩れるようにその場に座り込んだ。
「間違いないんですね」
「・・・・はい」
「奥さん。向こうへ」
両腕を抱えられて、滝川はリビングへ戻った。
「誰が? どうして?」
滝川は誰に聞くともなく尋ねた。
「刺したのは、田原タカシと言う18歳の男です。市原さんと同じ会社に勤めているらしい。ご存知ですか?」
「田原タカシ? ええ、昨日、主人が先週から会社で働き始めた新人だって言って、つれてきました」
「田原タカシについて、ほかに何かご存知で?」
「いえ、何も。昨日初めてつれてきましたから」
「そうですか」
「どうして? どうして、主人を刺したのですか?」
「あ、まあ。奥さんには、ちょっと言いにくいことなのですが・・・・」
滝川は、市原が全裸だったことを思い出す。
「教えてください」
「・・・・ご主人が、市原さんが、田原にセックスを強要したようです」
「ええっ!?」
「驚くのは無理もありませんが、田原の供述に寄れば、ご主人が田原を無理やり犯したようです」
「タカシ君は、男ですよね」
「はあ、その通りなんです。で、事が終わったところで、逆上した田原がナイフを持ち出して、ご主人を刺したと言っているわけでして・・・・」
「そんな・・・・」
「ご戸惑いは、もっともですが、それが事実のようです。本人が110番通報してきて、供述しています」
市原が、若いタカシを相手に浮気したと言うことのようだ。目の前にいる刑事は、滝川が男だとは知らないから、かなり同情しているようだ。
「事実関係を、もう一度よく確認しましてから、改めてご報告いたします」
「は、はい」
「まもなく監察医が参ります。おそらく、司法解剖ということになると思いますので、ご了解を」
「そうしなければならないんでしょう?」
「はあ、そうです」
「お願いいたします」
ソファーに呆けたように座って、監察医の検死の様子を見ていた。市原が運び出されていったあとも、しばらくそうしていた。
「奥さん、大丈夫ですね?」
「はい」
滝川は、そのままソファーの上で眠った。
市原は、親族の厄介者だったらしく、葬式には、伯父という男がひとり現れただけだった。その他には会社関係者だけのさびしい葬式だった。
市原の死体を初めて見たときには、涙も出なかったのに、葬式になると涙があとからあとから沸いて出た。
市原がどうしようもない男だったにせよ、滝川にとっては、初めての男であり、大切なパートナーであったことは間違いなかった。
葬式の夜、市原の遺品の整理をしていると電話が鳴った。
「今ごろ、誰だろう?」
訝りながら受話器を取った。
「市原ナオコさんですね?」
「はい、そうですけど」
「立浪です」
「立浪さん? ああ、社長さん」
市原の会社の社長だった。
「実は言いにくいことなんですが・・・・」
「何でしょう?」
「そのマンションは、うちの会社の持ち物でしてね」
滝川は思考を巡らせる。つまり社長の言いたいことは・・・・。
「市原が死んだ今となっては、会社に戻して欲しいわけなんですよ。・・・・つまり、まことに悪いんですが、あなたにそこから出て言って欲しいと言うことなんです。もちろんすぐにとは言いません。今月中、いや、来月いっぱいまで結構です」
「来月いっぱい・・・・」
「申し訳ないですね」
「いえ・・・・」
「ま、ずっとそこに住んでもらう手立てがないわけではないんですがね」
「えっ!? どうすれば?」
「わたしは、あなたが気に入りました。もし、わたしの世話になると言うのなら、そこに住んでもらって結構です」
「社長さんの・・・・」
「そうです。いかがでしょう? 週に一度、わたしの相手をしてくれればいい。生活費は当然面倒見させてもらいますよ」
いい条件だが、立浪は、滝川が男であることを恐らく知らない。断らなければならないが、あまりにもおいしい条件だ。
滝川は、福沢のことを思い出した。福沢は、滝川を性転換して女にしようとした。福沢の腕なら、完璧な女にしてくれそうだ。今でも、その気持ちがあるだろうか?
「少し考えさせていただいていいでしょうか?」
「構わんよ。来月いっぱいまでに返事をもらえればいい」
「承知いたしました。よく考えて、お返事いたします」
「それでは」
電話が切れたあと、滝川は早速行動を起こした。入院に必要な身の回りのものをバッグに詰めて、福沢の元へと向かった。
「やってくれると言ってくれればいいけど・・・・」
と言うわけで、滝川は福沢の元を訪れ、手術を受けたと言うわけだ。
無事に手術を終えて福沢の病院を出て、マンションへ帰ろうと駅への道を歩いていたとき、あるスーパーのガラスに従業員募集の張り紙を見つけた。
「完全な女になったから、滝川健次郎として警察に追われることはないだろう。しかし、このまま、マンションへ帰って立浪の愛人になるべきだろうか?」
滝川は自問自答する。
「わたしは生まれ変わった。完全に。中学も高校もまともに行かず、高校を放り出されるようにして卒業してから、暴行、恐喝、窃盗を繰り返してきた。あのマンションへ戻れば贅沢はできるだろうけど、これまでのそんな生活を引きずることになる。ここらで、まっとうな生活を送ったらどうだろうか?」
迷いに迷った。まっとうな生活は、恐らく楽ではない。マンションに帰れば、とりあえずは安楽快適な生活が待っているのだ。
しかし・・・・。
滝川は、スーパーの自動ドアを抜けて、従業員募集をしている惣菜屋の主人に声をかけた。
「すみません。あそこの従業員募集の張り紙を見たんですけど」
そんなところで働く女に見えなかったのだろう、惣菜屋の主人はちょっと驚いた表情を見せた。
「給料、安いよ」
「いくらでも構いません。働かせていただけば」
「そうかい。それなら、いいが」
こんないい女がいつまでこんなところで働けるかなと言う言い方だ。
「明日から、働けるかな?」
「明日から? ええ。でも、住む所を探さないといけませんので」
「えっ!? 住む所がないのか?」
「ええ。実は、結婚を約束していた人が事故で死んでしまって。アパートを追い出されたんです」
こんな言い訳が通用するとも思わなかったが、それしか思いつかなかった。
「それは気の毒に。このスーパーの寮が空いてると思うが、どうかね? ちょっと汚いが」
「どんなところでも構いません。お願いいたします」
「すぐ店長に聞いてあげよう。ちょっと待ちたまえ」
男は美人の女には優しい。裏にある事務所へ駆けていった。
しばらくして、惣菜屋の主人が戻ってきた。
「空いてるよ。明日からでも入れるそうだ。明日履歴書を持ってきてくれるかな?」
「あ、はい。分かりました」
「あ、そうそう。お名前は?」
惣菜屋の主人が事務所へ行っている間に、こんなこともあろうかと考えていた。
「飯塚です。飯塚加奈子です。よろしくお願いいたします」
「飯塚加奈子さんだね。分かった。待ってるよ」
滝川は、清子の本名を使った。清子は北海道にいるはずだから、使っても問題はないはずだ。
マンションへ帰って、履歴書を書きながら、ふと清子のマンションを整理したときのことを思い出した。市原が殺してしまったのではという疑念が再び頭を持ち上げてきた。
そのことを確かめるために、区役所へ向かった。以前と同じように飯塚加奈子に成りすまして住民票を請求した。
「もし、清子が生きていれば、実家に住民票を移してあるはずだ」
住民票は、まだあのマンションの住所にあった。
「清子は市原によって殺されているに違いない。これで、わたしは飯塚加奈子として生きていける」
滝川は、ほくそえんだ。
派手な服や下着はマンションに残し、必要なものだけを宅急便で、翌日夕方スーパーの寮へ着くように発送した。
それから、立浪に電話して愛人の件を断った。立浪はかなり落胆しているようだった。
さらに、飯塚加奈子の名義で郵便貯金の口座を作り、市原の口座からその口座へ全額振り込んでおいた。
翌日、飯塚加奈子の名前で作成した虚偽の履歴書を持参してスーパーへ行き、惣菜屋の店員として働き始めた。
時給700円の月末渡しだった。毎週水曜日が定休日で、1日8時間25日働くとして、約14万。寮の家賃が2万5千円。手元に11万5千円あまりが残ることになる。
給料が安い分、昼食は惣菜を適当に詰めて弁当にして食べていいことになっていた。帰りにも残り物をただでくれたので、食費はかなり節約できた。
苦しいけれど、まともな仕事をしている。そんな自負が生まれて、滝川は一生懸命働いた。
総菜屋で働き始めて一ヶ月がたったある日、そろそろ店じまいと言う時間になって、スーパーにひとりの男が入ってきた。その男が、後に滝川と結婚する男だった。
その男とは、あの百田刑事だった。百田は、その1年前女房を子宮ガンで亡くして一人暮らし。滝川の働くスーパーの近くにあるこのアパートに住んでいて、仕事帰りに時々惣菜屋で弁当を買って帰っていた。
ひと目で百田と分かった滝川は、慌ててほかの客の相手をした。百田は気がつかなかったようだった。
百田は、2、3日おきに弁当を買いに惣菜屋に寄った。滝川は、ばれていないことを確信すると、百田と言葉を交わすようになった。
3ヶ月ほどたったとき、百田からデートに誘われた。滝川は、チャンスだと思った。滝川は、飯塚加奈子の戸籍を持っている。うまくすれば、百田と結婚できる。刑事の妻と言う隠れ蓑が手に入るのだ。もし百田とセックスすることになっても、絶対に男だとばれない自信があった。
だから、百田にそれとなくホテルに行こうと誘われたとき、少し考える振りをしてから、ついて行った。
やっぱり、ばれなかった。
結婚を申し込まれたのは、それから一ヵ月後のことだった。滝川は、一も二もなく承諾した。滝川は、心の中で福沢に感謝した。
飯塚加奈子の両親はすでに他界しており、百田は再婚だったから、入籍だけで済ませた。それが1年前の今日だった。
「ただいま」
ドアが開いて、よれよれのコート姿の百田が帰ってきた。
「お帰りなさい。疲れたでしょう?」
滝川は、百田に駆け寄ってコートを取ってやる。
「今日は小さな事件がやたら多くて、調書に時間がかかって、遅くなってしまった」
「でも、まだ7時過ぎよ。いつもより早いくらいよ」
「結婚記念日だからな。早めに返してもらった」
「刑事も意外と自由が効くのね」
「こんなときくらいはな」
結婚1周年の、いつもよりちょっと豪華な食事を済ませると、滝川が片付けをしている間に百田は入浴する。次いで、滝川が入浴した。
テレビを見ながら、百田は加奈子(滝川)との出会いを思い出していた。
妻が死んでひとり暮らしとなった百田は、署で店屋物を取るか、アパートへの帰り道に近くのスーパーにある惣菜屋で弁当を買って帰っていた。
ある日、久しぶりにその惣菜屋に行くと、若い女性が店員として雇われていて、お客の接待をしていた。その横顔を見て、百田はおやっと思った。
(あの横顔には見覚えがある)
エプロンの胸を持ち上げているはちきれんばかりの乳房を見て、百田は思い出した。
(市原のマンションにいた女ではないか?)
確信はなかった。
(もしそうだとすると・・・・。市原は若い男に殺されている。市原が死んで、こんなところで働いているのか? 市原のような男と付き合う女は、すぐに他の男に乗り換えるはずだが、この女があの時の女なら、結構まともな女かもしれない)
そう思いながら、その女性の横顔を見ていた。
(それにしても美人だ・・・・)
何回か通ううちにその女性、飯塚加奈子と話しをするようになった。話しをしていて、この女性とはどこかで話したことがると思った。しかし、加奈子ほどの美人を忘れるはずがない。
(どこかで話したことがあるんだが・・・・)
そう思いながら、3ヶ月が経過した。そんなある日、未決の事件を整理していたときに、滝川健次郎のファイルに行き当たった。ピントのずれた滝川の写真を見て、百田は驚きを隠せなかった。
(加奈子に似ている・・・・)
百田の脳裏にある考えが浮かんだ。滝川は、五木が市原のマンションで見かけたあの日から、ぷっつり消息を絶っていた。
(整形して女に成りすましていたら・・・・)
加奈子の顔を見れば見るほど、その考えが正しいように思えてきた。そこで、そのことを確かめるために、百田は加奈子をホテルへ誘ってみた。
(もし加奈子が滝川なら、断るはずだ)
ところが、百田の予想に反して、加奈子はホテルに付いて来た。
(俺の考え違いか?)
ひとつは間違っていなかった。あの日、市原のマンションで見た女の大きな胸にあったものと同じほくろが、加奈子の胸にあったからだ。
(加奈子は、市原の女だったのは確かだ)
しかし、パンティーの上から触る股間には、何も触れなかった。
(まさか性転換まではしていないだろう)
刑事という職業柄、最後まで調べなければ気がすまなかった。パンティーをずらして、じっと見た。
(作り物ではない)
百田がそう判断したのは、百田の観察力が悪いせいではない。福沢の腕がいいせいだ。おそらく産婦人科医でも騙せるほどの仕上がりだったからだ。
百田は、さらに腟の中へ指を入れてその感触も確かめた。死んだ妻と同じ皺を指先に感じた。
(俺の考えは間違いだったようだ。滝川によく似ていただけだ)
百田は、雑念を振り払って、加奈子との情事に専念した。加奈子への疑いが消えると、百田は、加奈子にのめりこんでいった。加奈子のような美人が、年が20あまりも違う、しがない中年刑事と付き合ってくれることが不思議でならなかった。
しかし、やくざな世界から身を引きたいらしいことが分かって、百田は安心して加奈子に結婚を申し込んだのだった。
「ねえ、あなた。テレビなんか消して。早くう」
大きな乳房が透けて見えるような薄いネグリジェを着た滝川が甘い声で百田を誘った。
「すぐ行くよ」
いつも疲れて帰ってくる百田は、三日に一度くらいしか滝川を抱けない。しかし、その時は激しい。今日は、結婚一周年と言うこともあって、さらに激しかった。
「ああ、あなた。すごい。いい、いいわ。ああん・・・・」
滝川は、完全な女だった。
「わたし、しあわせ・・・・」
刑事の妻となった滝川は、もはや犯罪を犯すことはないだろう。
こうして、滝川は悪の道から更正したのだった。