第1章 逃亡者

 滝川は、ビルの物陰からきょろきょろとあたりの様子を窺って、不審な人物がいないことを確かめた。
 (サツは張っていないようだな)
 もう一度見回してから、薄汚れたジャンパーの襟で顔を隠しながら、滝川は通りを渡った。その間もあたりの様子を窺うことを忘れない。
 マンションの入り口を小走りに通り抜けて、開いていたエレベーターにするりと滑り込んで、8階のボタンを押した。エレベーターのドアがゆっくりと閉じていく。
 (よし、よし。いいぞ)
 誰にも見咎められなかったことに、滝川はホッと胸を撫で下ろした。
 「すみません。ちょっと待ってください!」
 エレベーターのドアがほとんど閉じようとしたとき、女の声がしてドアが再び開いた。
 「よかった。間に合って」
 そう言いながら、中年の女が買い物袋を抱えてエレベーターへ乗り込んできた。いつもなら、その女をぶん殴ってエレベーターの外に蹴り出すところだが、そんなことをしたら、せっかくここまで辿り着いたのがふいになると思い直して、滝川は握り締めた拳の力を抜いて顔を見られないように女から顔を背けた。
 「すみません。5階を押していただけます?」
 両手に荷物を抱えたその女が、滝川に向かってそう頼んだ。
 (荷物を床の上において、自分で押したらどうだ?)
 と言うのを止めて、滝川はやはり沸いてくる怒りを抑えながら、5階のボタンを押してやった。
 「ありがとう」
 そんな声に横目で見ると、女は滝川に微笑みかけてきた。そんな礼を言われたことは久しぶりだった。滝川はどぎまぎする。
 女は急におかしな顔をして、滝川をじろじろと見た。
 (何見てんだよ!!)
 いつもの滝川なら、そう怒鳴るところだが、これもじっと我慢して変わっていくエレベーターの表示をじっと見上げていた。
 エレベーターの表示が5になった。女が、よっこいしょと小さな掛け声をかけながらエレベーターを降りていった。滝川はふうとため息をついた。閉まっていくドアの向こうで、女がもう一度滝川に頭を下げた。
 (小さな親切か。そんな運動があったっけな)
 幼い頃の記憶を思い出して、滝川はふんと鼻で笑った。
 (俺としたことが・・・・)
 上りのエレベーターには途中から乗り込む人間はいないだろうと少し安心しながら、再びエレベーターの表示を見つめた。
 チンと音がして、エレベーターが8階に着いた。滝川は、開いたドアから頭だけを出してあたりの様子を窺ってから誰もいないことを確かめて、小走りに801号室へ向かった。
 801号室の前にくると、大急ぎでチャイムを押した。・・・・返事がない。
 (いないのかよう・・・・)
 焦りながら、滝川はあたりをもう一度窺う。
 (早く返事してくれよ)
 祈りながら、もう一度チャイムを押した。
 「誰だ? 今ごろ」
 インターフォンから返事があった。滝川の兄貴分、市原の声だ。滝川はホッとする。
 「兄貴、俺です。滝川です」
 「滝川? ちょっと待て、すぐに開ける」
 滝川は、ドアが開く少しの間が待ちきれず、あたりをきょろきょろと見回す。
 「待たせたな」
 ドアが開いた。滝川は、市原のそばをすり抜けて部屋の奥へと転がり込んだ。市原が、がちゃりとドアに鍵をかけた。
 「兄貴。一杯もらっていいですか?」
 「いいが・・・・」
 「すみません」
 滝川は、封の開いたブランデーのビンを取り出すとグラスに注いでぐっと飲み干した。
 「どこに隠れていた?」
 「福沢先生のところに」
 「福沢? ああ、あのごろつき医者のところか?」
 「はい」
 市原は、ちょっと首を傾げて滝川を見た。滝川はジャンパーの前をしっかりと合わせて下を向く。
 「おまえ、ほんとに滝川か?」
 「は、はい」
 「かなり違って見えるが・・・・」
 「福沢先生に整形してもらったもんですから」
 「整形!? ・・・・そうか、整形したのか。ちょっと顔をよく見せろ」
 滝川は、下を向いたまま上目遣いに市原を見た。
 「顔をよく見せろって言ってるだろうが!」
 「は、はい」
 滝川はようやく顔を上げた。
 「ほう・・・・」
 市原は感心したように滝川の顔を見つめた。
 「恥ずかしいっすよ」
 「ちょっと見は別人に見えるな」
 「そう言ってもらえれば、痛い思いをした甲斐があるってもんです」
 「二重眼瞼になったから、お目目ぱっちりだな」
 「茶化さないでくださいよ」
 「鼻筋も通って、唇も可愛い。なかなか・・・・美人に見える」
 滝川は下を向いた。
 「そう。まるで女の顔だな」
 「・・・・やっぱり、そう見えますか?」
 「見える。その鬱陶しい髪を何とかして化粧すれば、立派な女に見えるだろうな」
 「・・・・」
 滝川は黙り込む。
 「声も少し高いようだが・・・・」
 「声帯もいじってるんです」
 「そういやあ、のど仏が見えんが・・・・」
 市原が滝川に近寄って、顎を上げて滝川ののど元を見た。
 「滝川。まさかおまえ、女に化けようって言うんじゃないだろうな」
 「・・・・福沢先生に別人の顔にしてくれって頼んだら、・・・・こんな風にされちゃって」
 「なに? つまり女の顔にしたってことか?」
 「・・・・そうなんです」
 「福沢のやつが、勝手にしたのか?」
 「は、はい」
 「そうか、そうか。ははは。しかし、滝川。よく似合ってるぞ」
 「そんなこと言わないでくださいよ。俺が女の顔にしてくれって頼んだわけじゃないんですから」
 滝川は膨れて下を向いた。
 「そんなダサいジャンパーなんか着ていると、女にゃ見えねえぞ」
 そう言われて、滝川は身を堅くした。
 「どうしたんだ? 脱げよ」
 滝川は、市原を見つめたままじっと立ち尽くしていた。市原が滝川のジャンバーを脱がそうとすると、滝川は抵抗する。
 「脱げない理由があるんだな」
 薄笑いを浮かべて、市原が言った。
 「分かってるんなら、やめてくださいよ」
 「ちょっと見せろ」
 「い、いやですよ」
 「裸になれって言ってるわけじゃないだろうが。俺の言うことが聞けねえのか!」
 滝川は、しぶしぶジャンパーを脱いだ。
 「ほう。すげえ」
 ジャンパーを脱いだ滝川の胸が大きく突き出していた。
 「Dか? それともEか?」
 「そんなこと知りませんよ!」
 「そうか。大きいのは確かだな。ほ、ほう・・・・」
 市原は、滝川の大きくせり出した胸をまじまじと見詰める。
 「まさか、下までちょん切ったなんて事はないだろうな?」
 「まさか! いくら、福沢先生でも、そこまでは・・・・」
 滝川はちょっと言葉を濁す。
 「そうか。そりゃ、そうだろうな」
 市原は滝川の胸をにやにやしながら見つめ続けていた。
 「兄貴。何か食わせてもらえませんか? 丸一日、何も食ってないんです」
 「冷蔵庫に何かあるだろう。勝手に食えよ」
 「すみません」
 滝川は、キッチンへ向かい冷蔵庫から冷凍食品を取り出してレンジに入れ、テーブルの上に置いてあったバナナの皮を剥いてかぶりついた。
 「おい、滝川?」
 「なんです?」
 「さっきも言ったが、せっかく整形したんだから隠さない方がいいぞ。隠すとかえっておまえだと疑われてしまうぞ」
 「そうですか・・・・」
 「今のおまえは、あれをしゃぶっている女そのものに見えるぞ」
 滝川は、慌ててバナナをテーブルの上に置いた。
 「ば、馬鹿なこといわないでくださいよ」
 「ほんとだとも。ほら、俺のムスコがこんなになってるぞ」
 市原がにやりと笑って、せり上がった股間を滝川のほうへ向けた。
 「やめてくださいよ。俺は男ですからね」
 「それくらい女に見えるってことだよ」
 「そうですか・・・・」
 「福沢の腕がいいってことだよ」
 「はあ・・・・」
 「ホルモンでも飲んで、もう少し柔らかい感じになると、ずっと女らしくなるがな」
 相変わらずにやにやしながら市原が言う。
 「とんでもないです。ホルモンなんて飲みませんよ!」
 「そうか? せっかく整形してもらったのに」
 「女になりたいってわけじゃないんですからね。ほとぼりが冷めたら、胸のシリコンを取ってもらうことになってるんです」
 「もったいない」
 「馬鹿言わないでくださいよ。男の胸にこんな大きなものがあっても仕方ないでしょう?」
 「・・・・そうだな」
 レンジがチンと鳴った。滝川は、中からピラフを取り出すと、椅子に腰掛けてスプーンですくってガツガツと食べ始めた。
 「そんなところは女にゃ見えねえな」
 滝川は、憮然として黙ったままピラフを食べつづける。
 「ワンピースでも買ってやろうか?」
 滝川の横に腰掛けて、茶化すように市原が言った。
 「兄貴! もう、やめてくださいよ!!」
 滝川のあまりの剣幕に、市原は肩をすくめてテレビのスイッチを入れた。

 滝川がピラフとカレーを食べ終わった頃、市原の部屋の電話が鳴った。滝川は、ギョッとして電話を見つめる。市原が立ち上がって受話器を取った。
 「市原だ。なに? サツが下に来てる?」
 市原は、受話器を耳に当てたまま、窓に近寄ってカーテンの端を持ち上げて、外の様子を窺った。市原はちっと舌打ちをする。
 「ああ、滝川が来てるんだ。そのせいだ。おまえは引き返せ。こっちは何とかする。すまんな。じゃあ」
 市原が受話器を置く。
 「兄貴。サツが来たんですか?」
 「ああ」
 「誰からの電話です?」
 「五島だ」
 「ああ、あいつから」
 五島というのは、市原の子分のひとりで、年は滝川と同じだ。ただし、滝川よりも早く組に入ったと言うことで、滝川に対して兄貴風を吹かせるイヤなやつだ。
 「9時に飲みにくる約束だったんだ。近くまできて、パトカーに気づいて電話してきたって言ってた」
 「そうですか。くそう。どこかで見張ってたんだな。
 「そのようだな。ジャンパーを脱いで、女の振りしてりゃ、ばれなかっただろうに」
 「そんなこと言ったって・・・・」
 滝川は下を向く。
 「ま、いいか。どうするかな?」
 「兄貴に迷惑がかかるといけないから、俺、逃げます」
 「もう手遅れだ。すっかり取り囲まれているようだし、出口は一カ所しかない」
 「どうしたら・・・・」
 「そうだな・・・・」
 市原は腕組みをして考え込む。
 「今のままでは、おまえが滝川だってことはばれてしまうな」
 「女に見えるって言ったじゃないですか」
 「女に見えても、よく見りゃ分かるさ」
 「じゃあ、どうしたら・・・・」
 市原は、にやりと笑みを浮かべた。
 「いいアイデアが浮かんだ」
 「何です?」
 「滝川、おまえ、女になりきるんだ」
 「女になりきるって?」
 「文字通りさ。さあ、準備するぞ」
 「ど、どうするんです?」
 滝川は、市原の後ろについていく。
 「その髪の毛を何とかしよう。このムースをつけろ」
 滝川がムースを髪の毛に塗り広げると、市原は櫛で滝川の髪の毛を真中から分けた。それから、鋏で前髪を目の高さで切りそろえた。さらに櫛を通して、横と後ろの髪の毛を切りそろえると、ボブ風の髪型になった。
 「こんなもんでいいだろう」
 「兄貴。完全に女装するんですね」
 「そうだ」
 滝川は納得する。
 「女物の服はあるんですか?」
 「ない」
 市原は、こともなげにそう言った。
 「ないって、じゃあ、どうするつもりで?」
 「いいから、口紅をつけろ」
 「口紅ですか?」
 「化粧ができるのなら、化粧したほうがいいが」
 「化粧なんてできませんよ」
 「なら、口紅だけだ」
 「でも、服は・・・・」
 「いいから、さっさと口紅をつけろ! サツに捕まりたいのか!!」
 「わ、分かりました。この口紅は誰のです?」
 「清子のだ。ぐずぐず言ってないで、早くしないか」
 「は、はい」
 滝川は、鏡に向かって口紅を塗った。鏡に映った滝川の顔は、かなり女らしくなった。しかし、服がなければ、すぐにばれそうな気がする。
 不安げな顔をして市原の方を見ると、市原はベッドルームのドアを全開にしていた。
 「いったいどうするんですか?」
 「服を脱げ」
 「ええっ!」
 「裸になるんだ」
 「は、裸にですか?」
 「そうだ。女の服がなければ、裸になるしかない。ベッドの上にいて、その大きな胸をさらせば、女に見えるだろう」
 滝川は、なるほどと納得はしたものの・・・・。
 「この胸を出すんですか?」
 「そうだ」
 「恥ずかしいですよ」
 「恥ずかしがってる場合かよ!」
 市原に頭をど突かれる。
 「分かりましたよ」
 滝川は、服を脱いでトランクス一丁になった。
 「それも脱がないか!」
 「こ、これもですか?」
 「トランクスをはいた女がいるもんか。そんなことも分からないのか?」
 「でも・・・・」
 「ベッドの上にうつぶせになっていれば、見えやしないさ。さあ、早く。そろそろサツがあがってくるぞ」
 滝川は、やむなく裸になってベッドの上にうつぶせになった。その間に、市原は滝川の脱いだ服を洗濯機に放り込んでいる。
 戻ってきた市原は、ベッドの上の滝川を見て呟く。
 「今一歩だな」
 そのとき、ドアをどんどんと叩く音がした。
 「市原!! 市原!! 家宅捜索だ。ドアを開けろ!!」
 「くそ! 来たぞ。このままじゃあ、ばれるな」
 市原は天を仰いで考える。
 「兄貴。もういいです。俺、出て行きます」
 「いいから、任せろ」
 そう言うと、市原は服を脱ぎ始めた。
 「い、いったい、何をするつもりですか?」
 「いいから、黙ってろ」
 市原は、滝川の上にのしかかった。
 「そうか。セックスしている振りをするんですね」
 「そうだ。それならおそらく大丈夫だろう」
 滝川は納得する。管理人から鍵を出してもらったのだろう。鍵がガチャガチャと開けられる音がした。
 「滝川、首を左に回せ。俺とキスするんだ」
 「ええっ!」
 「早くしないか! サツが入ってくるぞ」
 滝川は、首を回して、市原に唇を向けた。こうすると、大きな胸が露わになる。
 (市原の兄貴は、うまいアイデアを思いついたものだ)
 そう思いながら、滝川はヤニ臭い市原の唇と自分の唇を合わせた。ドアが開いて、どやどやと人が入ってくる気配がしたとたん、滝川は肛門に激しい痛みを覚えた。市原が滝川の肛門にペニスを突き立てたのだ。
 「あ、兄貴!」
 「声を出すな。声を出すとばれるぞ。いいな」
 あまりの痛みに滝川はもう返事ができなかった。市原は腰を動かし続けた。