妊娠した。10日ほど前から、気分が悪く、吐き気がすると思っていた。自分に生理があるという自覚が薄かったから、遅れているのに気がつかなかった。
病院に行って初めて、妊娠ではないですかと言われ、ようやく気づいた。検査の結果は陽性だった。
佐々木の子供を身ごもった。わたしは嬉しかった。今度は、ちゃんとした子供を産んでやろう。佐々木と、由紀子の為にと決心した。
「俊ちゃん、できたわ」
「できたって、何が?」
「こ・ど・も。赤ちゃんができたの」
「そ、そうか! できたのか。由紀子、今夜は早く帰るからね」
電話の向こうの佐々木の声は弾んでいた。
「待ってるわ」
わたしは、産婦人科を出るとそのまま自由が丘病院へ向かった。由紀子に報告するためだ。病院へ続く桜並木は満開で、花吹雪が舞っていた。桜に囲まれた病院は、明るく、まるで別の病院へ来たような印象を与えた。
暖かい春の日差しを浴びながら、由紀子は、やはり芝生の上に座って、髪をいじっていた。わたしは、由紀子の傍らに跪いて、話し掛けた。
「由紀子。わたし、妊娠したよ。あなたの大好きな俊ちゃんの子供だよ。今度は、いい子を産んであげるからね」
それまで、髪の毛をじっと見ていた由紀子が、わたしを見上げた。そして、この病院に収容されて以来、初めて口をきいた。
「返して。わたしを返してよ!」
由紀子に、大島渚になった由紀子がわたしに突進してきて、頭突きを食わされ、わたしはバランスを失って倒れた。
芝生の上に倒れたはずなのに、我が家のテーブルで、佐々木と向かい合っていた。
「今度は、元気な子供を産んでくれよ」
そう言って、嬉しそうな笑顔を向ける佐々木がいた。
「ええ、約束するわ」
その佐々木の顔が、突然鈴木に変わった。鈴木も笑顔でわたしに語りかける。
「結婚しよう、渚。ぼくの子供を産んでくれ」
「鈴木さん、わたしは由紀子。渚じゃないわ。だから、あなたとは結婚できないし、あなたの子供は産めないのよ」
「何言ってるんだよ。君は渚だよ。ぼくの大好きな渚じゃないか」
鈴木が、わたしの頬にキスをした。
これは夢だ。わたしは夢を見ている。鈴木への思いが断ち切れないわたしの潜在意識が、こんな夢を見させている。
わたしは、目を覚まそうとした。
「渚、渚」
わたしは、由紀子なのに、どうして渚と呼ぶの? どうして? 目を開けると、佐々木ではなく、鈴木の顔が目の前にあった。
「渚、ぼくが分かるかい? 一郎だよ」
わたしの頭の中は混乱していた。わたしは由紀子。それなのに、鈴木は、なぜわたしに渚と語りかけるのだ!? これは、まだ夢の続きなのか?
「渚さん、目が醒めました?」
「はい、目は醒めましたが・・・・」
長田看護婦が、わたしに近寄ってきて、わたしの腕をまくり、血圧を測り始めた。二の腕に感じる血圧計の圧迫感。長田看護婦の冷たい手。これは夢じゃない。
「血圧はいいみたい。もう大丈夫よ」
長田看護婦は、鈴木とわたしのどちらに言うともなく、ぼそりとそう言って、部屋を出て行った。
わたしは、起き上がって、部屋の隅にある鏡を見に行った。もう結果は分かっていた。わたしは、大島渚に戻っているはずだ。
鏡は、わたしが予想したものと同じ結果を示していた。わたしは、間違いなく、大島渚だ。
何故なのか? 由紀子が、体を返してと願ったからだろうか? わたし自身も、そうするのがいいと思っていた。それが本来ある姿だ。
わたし? わたしは・・・・。大沢光博と言う肉体がない以上、大島渚となる以外に道はない。
「渚、どうしたんだ?」
鈴木が心配そうにわたしの肩に手を掛けて話し掛けてくる。
「鈴木さん」
「な、渚! ぼくが分かるのか?」
わたしは、振り返って、鈴木の目をまっすぐ見た。
「分かるわ、鈴木さん」
「よかった。正気に戻ったんだね。ほんとなんだね。必ず直ると信じていたよ」
鈴木は、涙をぼろぼろと流して、わたしを抱きしめる。あの時の佐々木と同じ、暖かい抱擁だった。
「愛しているよ、渚」
「こんなわたしでも、愛してくれるの?」
「勿論だよ。渚!」
鈴木は、もう一度、わたしを抱きしめた。
「由紀子さんは? 由紀子さんは、どうなったの?」
「さっき、佐々木さんが迎えに来て帰ったよ」
「由紀子さん、元気?」
わたしと由紀子の人格が入れ替わったのだ。どうなったのだろうか?
「元気だよ。妊娠したって、迎えにきた佐々木さんに抱き付いて、報告していたよ」
「由紀子さん、普通だった?」
「どういう意味だよ。由紀子さんは、君が円城寺家の火災現場から助け出したあと正気に戻って、ずっと普通だよ」
わたしは、信じられない気持ちだった。妊娠したと知らされて、由紀子は、正気に戻り、しかも、自分の体を取り戻したのだ。あの機械なしで・・・・。
「渚、結婚してくれ。いいだろう?」
「ほんとに、いいのね」
翌々日、医者の許可が出て、わたしは退院し、桜吹雪の舞い散る中、自由が丘病院を後にした。この桜並木も、烏の大群も、もう二度と見ることはないだろう。
「渚。君はどうして、大沢さんが、狙撃することを知っていたんだ?」
迎えに来た鈴木が、車の中でわたしに質問した。この二日間、そう聞かれることを予想して、答えを考えていた。大島渚が、本当は何をしようとしていたか、わたしは知っている。しかし、人格交換機の話しをしても信じてはもらえない。それに、そんな話しをすれば、わたし自身の人格が大沢光博であると、告白しなければならなくなる。そんなことをすれば、鈴木はわたしを愛してくれなくなるだろう。わたしは、それを恐れた。人格交換機無しに、辻褄を合わせた話しをでっちあげるしかない。
「わたし、佐々木さんに復讐しようとしてたの。それは知ってるわね?」
「ああ、よく知ってるよ」
「わたし、佐々木さんを殺すために銃を探してたの。そしたら、佐伯がそのことを、どこからか聞きつけて近づいてきたの。佐伯は、あの大使を狙っていて、佐々木さんが警護につくことを知っていたのね。だから、大使を殺すついでに佐々木さんを殺そうと、持ちかけてきたの」
「そうか。佐伯は、奥さんの復讐のために大使を殺すことが目的だったんだよね」
「そうなの。大使さえ殺せば、佐々木さんを殺せなくても、佐々木さんの失態になって、復讐になるって」
「なるほど」
「ただ、警備が厳しいところにわたしは近づけないと言うと、佐々木さんの義理のお兄さん、大沢さんが、ガードマンとして、警備につく予定になっているから、大沢さんを利用しようと言うの。大沢さんが、狙撃に成功すれば、佐々木への打撃が倍増するって」
「で、由紀子さんを殺すと脅して、狙撃させようとした」
「そうなの。佐伯は、わたしを使って、大沢さんを脅迫したの。佐伯は、表に出ることを嫌ったみたいなのね」
「自分は、蚊帳の外にいようと言うわけだな」
「そうだと思うわ。だから、いざ実行することになって、わたし、佐伯に利用されているだけのような気がして・・・・。それに、やっぱりこんなこといけないって。佐々木さんには、恨みがある。だけど、大沢さんには、何の恨みもない。それに、復讐したって、何にも残らないって、気が付いたの」
「だから、止めに行った」
「警察に通報すればよかったんだけど、わたしの言うことなんて、信じてもらえないと思って」
「・・・・そうだな」
「狙撃を阻止できたけど、今度は由紀子さんの身が危ないと思って、佐々木さんに連絡しようとしたんだけど・・・・」
「柳田さんに信用してもらえなかった」
「そうなの」
「由紀子さんを連れだして、大沢さんは、どうしてすぐに警察に出頭しなかったんだろう?」
「佐伯に見つかったんじゃないの?」
「そうか。・・・・ホテルに連れて行かれてしまう。しかし、隙を見て、佐伯と撃ち合い、佐伯を殺して、自分も撃たれてしまった」
「そうでしょうね」
「分からないのは、それからどうして、円城寺家へ行ったかってことだ。どうして、警察へ行かなかったんだろう?」
「それは、わたしにも分からないわ」
いろいろと考えてみたが、鈴木を納得させるような説明を思いつかなかった。
「君は、あの屋敷に行って何をするつもりだったの?」
「あそこは、わたしたちがアジトとして使っていたの。だから、わたしが事件に関わっていた証拠を消すつもりだったの」
「なるほど。しかし、どうやって、あの屋敷に入ったんだい?」
「わたし、むかし、あの屋敷に奉公していたことがあって、合い鍵を持っていたの。うまいことに、夫婦揃って旅行に行っていたから、あそこを利用させてもらったと言うわけなの」
「不法侵入はいけないな」
「一日だけのつもりだったから、そんなに大それたことをしたってつもりはなかったの」
「ふうん、まあ、それなら勘弁してあげよう」
「ありがとう」
「ぼくに警察へ連絡に行かせた後、何故屋敷の中に入ったんだい?」
「車の中の血を見て、あなたが帰ってるのを待っていたら、大沢さんが死んでしまうような気がしたから、屋敷の中に入ったの。そしたら、たまたま火が出ているのを見つけて・・・・」
「由紀子さんを助けだしたってわけだ」
「そう。大沢さんはもう亡くなっていたわ」
「そうか・・・・」
鈴木は、多少の疑問を感じながらも納得したようだ。
鈴木とともに、県警へ出頭し、鈴木に話したことをもう一度柳田警部に説明した。わたしが、狙撃を阻止したこと、由紀子を助け出したこと(実際は、由紀子だったわたしが、大島渚になっていた由紀子を助け出したのだが、そのように誤解されていた。まあ、これはわたしにとって、いい誤解ではあった)は、事実として認定されたが、佐伯との謀議については、明確な証拠がないとして、わたしは罪に問われずに釈放された。
円城寺家への不法侵入についても、円城寺夫妻が告訴しなかったため不問となった。円城寺夫妻が、大島渚を告訴しなかった理由は、恐らく機械のことを知られたくなかったためだと思う。取り調べの間、わたしは機械のことについて何も証言していない。もし告訴すれば、機械の正体を話すと考えたに違いない。
鈴木は、反対する両親を説得して、わたしと結婚してくれた。大島渚の両親は、やくざの情婦だった娘が、警察官と結婚することになって、うれし涙を流していた。
世間体や噂を気にしない鈴木。わたしは惚れ直してしまった。ただ、結婚後、鈴木は長かった髪の毛を切った。上司から言われたからではなく、自分の意思で切ったと言った。でもホントはそれは違う。わたしの似合わないわよの一言が効いたのだ。
鈴木と暮らしたら、壊れてしまいそうと思ったのは間違いだった。鈴木の要求に、いくらでも応えられる自分にちょっと驚いている。女は懐が深いってことだ。
由紀子が正気に戻ったことから、佐々木は転勤を承諾し、春の移動で西署勤務となった。鈴木も、交通から、佐々木の所属する生活安全課勤務となり、しかも同じ西署へ配属された。
だから、わたしと由紀子は、同じ警察住宅の隣同士に住んで、仲良しとして暮らしている。
その年の冬、由紀子は出産した。元気な、珠のような男の子だった。佐々木は勿論、由紀子の喜びようは、言葉では言い尽くせなかった。
、翌年の春、わたしも出産した。わたし、渚に良く似た、可愛い女の子だ。
「渚さん、おめでとう。とっても可愛いわね。将来、うちの俊光のお嫁さんになってくれるといいわね」
見舞いに来た由紀子が、わたしにそう語りかける。
「いいわね」
由紀子とは一緒になれなかったけれど、子供たちが結婚することになれば、こんなに嬉しいことはない。
「ただ、本人たちが望めばの話しだけど・・・・」
「美男に美女だから大丈夫よ」
「そうね」
「ところで、渚さん」
由紀子が、声を落として、ベッドのそばに腰掛けて、わたしに囁きかけた。
「わたしね、あの地下室での出来事、全部知ってるのよ」
わたしは、目を丸くした。地下室での出来事を知っているって!! 由紀子は、にっこり笑って、話しを続けた。
「わたし、おかしくなって、精神病院に入れられていたけど、何もかもずっと分かっていたの。ただ、わたしの心と、体が分離していただけなの」
信じられなかった。わたしが、由紀子となったとき、でまかせに佐々木に語ったことが真実だったとは・・・・。
「と、言うことは・・・・」
「生まれたときから、ずっと一緒だったんだもの。これからも、ずっと仲良しでいてね。お・に・い・ちゃん」
そう言うと、由紀子は、わたしの頬にキスをした。
由紀子は知っていた。わたしが、大沢光博だと言うことを。しかし、それを口外することはないだろう。わたしにしてもそうだ。由紀子と、心と心がつながっている。嬉しくて、涙が出た。
「生きている限り、仲良くやっていきましょう、由紀子」
わたしは、涙声で、由紀子に答えた。