第11章 不完全ながら事件は解決した

 「由紀子、由紀子」
 誰かが、わたしの体を揺すっている。わたしは、由紀子じゃない。わたしは、大沢光博だ。そう言おうとしたが、声にならなかった。
 「由紀子、由紀子」
 誰かが、もう一度そう呼ぶ。目を開けると、佐々木の顔が目の前にあった。
 「由紀子! 良かった。気がついたんだね。由紀子、分かるかい? ぼくだよ。俊二だよ」
 意識はまだ朦朧としていたが、すべてを思い出した。わたしになった大島渚は死に、わたしは由紀子になってしまった。
 「俊ちゃん」
 「由紀子! ぼくが分かるのかい?」
 しまった。由紀子は、正常に反応できなかったんだ。あの異常なお産のあと、由紀子は、一言も口を利いたことがなかった。しかし、答えてしまった以上、正常に戻った振りをするしかない。
 「分かるわ。わたしの大事な、ご主人様ですもの」
 「由紀子!」
 佐々木に抱きしめられた。その抱擁は、これまで経験したことのない思いの籠もったものだった。

 大島渚になった由紀子は? 由紀子は生きているのだろうか?
 「あの女の人は? わたしを助けにきてくれた・・・・」
 「大島渚か? 彼女は、煙を吸って危ない状態だったけど、命は助かりそうだよ」
 良かった。生きていた。
 「わたしが連れて行かれた部屋にあった、変な機械はどうなったの?」
 「ああ、あれ? あの機械は、焼け爛れて、跡形もないよ。あの機械がどうしたんだ?」
 「な、なんでもないわ」
 跡形もない!!! そうなると、わたしと由紀子は、入れ替われない。わたしは、由紀子として、由紀子は、大島渚として生きるしかなくなった。もっとも、由紀子が自分に起こった事態を理解できるかどうかは分からないが・・・・。
 佐々木に事実を話すべきだろうか? 人格が入れ替わっていることは、信じてもらえるかもしれない。しかし・・・・。事実を話して、どうなると言うのだろうか? 佐々木は、由紀子を愛さなくなってしまうのではないだろうか? わたしという人格を持った由紀子を・・・・。
 わたしは、すべてを隠して、由紀子として生きようと判断した。それが、佐々木と、由紀子のためなのだ。

 「お義兄さんは、どうしてあんなことをしたんだろうか?」
 わたしは、大沢光博の潔白を証明するため、作り話をした。
 「お兄ちゃんは、佐伯って男に脅されていたの」
 「ええっ!」
 「言うことを聞かないと、わたしを殺すって」
 「・・・・そう言うことだったのか」
 「狙撃に失敗して、わたしを殺されると思ったお兄ちゃんが、わたしを連れだしたんだけど、佐伯に見つかって・・・・」
 「なるほど」
 「わたしを助けるために、お兄ちゃんは撃たれてしまって」
 「そうだったのか。お義兄さんが、あんなことするはずがないと思っていたんだ」
 「そうよ。わたしのお兄ちゃんですもの」
 「ところで、由紀子は、いつ正常に戻ったんだい?」
 恐れていたことを聞かれた。どう返事したものか? 大沢光博の潔白を証明するための作り話と辻褄を合わせるためには・・・・。
 「わたし、ずっと正常だったの。頭の中は」
 「ええっ!? なんだって?」
 「体が言うことを利いてくれなかったの。わたしじゃないわたしが、体を支配していたの。俊ちゃんがいつも来てくれて嬉しかったわ。でも、それが言えなかったの」
 「そうだったのか」
 佐々木は、もう一度わたしを抱きしめた。
 「必ず、良くなると信じていたよ」

 わたしの語った嘘の話しが、事件の真相として決着を見て、大沢光博の名誉は挽回された。佐伯がこんな事件を起こした動機も分かった。
 佐伯は、5年ほど前、柔道の交流指導員としてあの国に赴任していた。その時、偶然クーデターが起こり、一緒に連れて行っていた奥さんを失ったのだそうだ。奥さんを殺した男こそが、あの大使だったとのことだ。佐伯も可哀想な男なのだ。

 「お義兄さんが、由紀子を殺すと佐伯に脅されて、狙撃しようとしたのは分かった。しかい、大島渚が、お義兄さんが狙撃するのをどこで知ったんだろう?」
 「大島渚って、わたしを助けに来てくれた人でしょう?」
 「そうなんだ。しかも、なぜ狙撃を止めたのか、分からない」
 「どうしてなんでしょう? わたしも助けようとした理由も分からないんでしょう?」
 「そうなんだ。彼女は、ぼくには恨みがあるはずなんだ。彼女の愛人が、ぼくの取調べ中に死んだんだからね」
 「どうしてなんでしょう」
 分かるはずがない。大島渚は、大島渚ではなかったんだから。
 「もうひとつ分からないのは、お義兄さんが、あんな重傷を負いながら、どうして円城寺家に行ったのかなんだ。ホテルで撃たれたとき、すぐに警察に出頭すればよかったのに・・・・。由紀子は、理由を聞いてないのか?」
 「聞かなかったわ。車で着いたのが、あそこだったから」
 「・・・・どうしてなんだろう? 大島渚さえもあそこに行ってるんだ。さっぱり分からないよ」
 「大島さんは、円城寺家とどんな関係があるの?」
 これは、わたしが持っていた疑問だ。彼女が、あの家に簡単に入り込めた理由が分からない。
 「ああ、彼女は、数年前まで、円城寺家のお手伝いさんとして働いていたんだ。大島みなみって名前でね」
 「そうだったの」
 それだから、円城寺家の鍵を持っていたのだろう。とすると、あの機械は、円城寺家のものなのか?
 「火災を起こしたあの機械は、何だったの?」
 機械は完全に焼けただれて、再現不能と聞かされた。もう二度とあのようなことは起こらない。
 「それが、さっぱりなんだ。あの屋敷の住人である円城寺夫妻は、ふたりの子ども連れて、外国旅行に行っていて、なかなか連絡が付かなくてね。つい3時間ほど前連絡が付いたんだけど、機械については、奥さんの父親が作ったもので、何の機械であるかも、使用方法も分からないと言っているんだ」
 知っているはずだ。お手伝いをしていた、大島渚が知っているくらいなのだから。しかし、そのことは、秘密にするしかない。
 「そうなの。・・・・大島渚さんは元気になったの?」
 「煙をかなり吸ったために、脳が損傷したらしい。まったく反応がないそうだ」
 「じゃあ、今はどこに?」
 「君のいた自由が丘病院に入院している」
 「あの病院に・・・・」

 由紀子は、大島渚と名前を変えて、病院へ戻った。わたしは、わたしを救い出してくれたことになっている大島渚、由紀子に会いに行った。
 木の葉のない桜並木。人を拒絶するような病院。烏の大群。何一つ変わっていない。
 大島渚となった由紀子は、あのときの由紀子と同じ状態で、中庭の芝生に座っていた。姿が大島渚になっただけで、何も変わっていなかった。わたしが、正面に立っても、まったく反応がなかった。由紀子の魂は、やはりこの世にはない。
 魂がなく、姿の変わった由紀子。もはや、由紀子といえるのだろうか? いや、由紀子であることは間違いない。間違いないが、もう元には戻せない。あの機械がなくなった今、どうしようもないのだ。どうしようも・・・・。

 わたしは、由紀子として、佐々木俊二の妻として暮らし始めた。
 大沢光博としてのわたしは、死に体だった。いつかはと言う思いはあっても、何の希望も見出せなかった。由紀子だけが、生きる支えだった。
 わたしは、由紀子を愛していた。妹ではなく、血がつながっていなければ、一も二もなく、結婚を申し込んでいた。
 わたしは誰にも由紀子を渡したくはなかった。佐々木にさえも・・・・。ただ、由紀子の幸せを考えて、もっとも信頼する佐々木に由紀子を委ねたのだ。
 今、わたしは由紀子と文字通り、一心同体になった。わたし自身として、これほどの喜びはない。

 あの事件の前まで、佐々木も希望を失いかけていた。普段は明るく振る舞っていても、ふと背中に暗い影が過ぎるのを、わたしは見逃さなかった。佐々木もまた、わたしと同じく、死に体になりつつあった。
 由紀子が発病した当初、佐々木も悩んでいた。精神の病んだ由紀子を捨てて、新たな道を選ぼうかと。しかし、それをしなかった。さすがにわたしの選んだ男だと思った。しかし、不憫でもあった。
 由紀子は、以前の由紀子ではない。しかし、元気になった由紀子が戻ってきて、佐々木は蘇った。仕事に一段と打ち込めるようになった。
 大島渚が、佐々木への復讐のために、テロリストと組んで起こした事件ではあったが、それが、佐々木を復活させることになってしまったのだ。人の世は、何が起こるか分からないものである。

 大島渚になってしまった由紀子が可哀想だと思わないわけではない。しかし、今の状態は、以前よりはずっといい状態にある。・・・・そう自分に言い聞かせている。

 その後、佐々木は自由が丘病院を訪れることはなくなったが、わたしは、命の恩人という明目で、月に一度の面会を続けている。
 鈴木一郎も面会に訪れていた。たった二日だけの、しかもあんな付き合いだったのに、鈴木は、何年も前からの恋人のように接していると聞いた。
 由紀子自身は、恐らく何も理解できないだろう。可哀想なのは、鈴木だ。
 佐々木を介して、鈴木が話していたと言う、大島渚になってしまった由紀子のことを聞くことがある。
 「自分が行くと、分かるみたいなんです。きっと良くなります。良くなったら、自分らは、結婚するんです」

 可哀想な鈴木・・・・。わたしは・・・・、わたしは、あの二日間で、鈴木を・・・・愛してしまった。男だったわたしが、鈴木を愛するなんて、自分でも信じられない。今、女として暮らしているから、そう思うのかもしれない。しかし、これは、打ち消すことのできないわたしの心の真実だ。
 だけど・・・・、由紀子であるわたしは、そんな思いを心の奥底に沈めるしかない。あれは、なかったことだ。あれは、わたしじゃなかったのだ。それに、鈴木が愛しているのは、大島渚なのだ。
 わたしは、由紀子。それで、すべてが丸く収まっているではないか。これ以上何を望むと言うのか!
 そう心に決めたのに、鈴木のことを思い出すたびに涙がこぼれた。