第1章 自由が丘病院にて

 まだ午後6時を少し回ったばかりだというのに、あたりはすでに暗闇に包まれようとしていた。秋の釣瓶落しとは、よく言ったものだ。ヘッドライトのスイッチを入れる。緩やかなカーブを曲がると、対向車にパッシングされた。わたしは慌ててヘッドライトをハイビームからロービームへ落とした。
 その車が通り過ぎてから、対向車はやってこない。ずいぶん長い間対向車に出会わないなと思いながら、ウインカーを出して市道から離れ、病院へと続くアスファルトの道を登っていった。
 「このオンボロ車め!」
 両サイドのドアに、大光警備保障と大きく書かれたカローラは、青息吐息でエンジンがブルブルと妙な音を立て始めた。シフトダウンして、アクセルを吹かす。このカローラにもう7年乗っている。そろそろ買い換えてもらおうと思うが、こんな坂道を走ることは、ここに来る以外には滅多にない。普段はまったく問題ないものだから、思うばかりで実行を伴わない。リースなら、車検毎に新車に乗れるのに、会社は経営方針だからとリースにしたがらないのだ。

 道の両端には、今は葉もまばらな桜の木が並んでいる。春にここに来ると、満開の桜で、目を見張るばかりなのだが・・・・。枯木のような桜を見ていると、秋という季節もあいまって、寂しさが身に浸みてくる。

 緩い右曲がりのカーブを曲がると、目指す自由が丘病院の建物が見えてきた。濃紺の闇の中に、飾り気のない建物が外から来るものを拒むようにして建っていた。
 近くの電線の上に、無数の黒い影が見える。ギャアと叫ぶその声からすると、それは烏の大群のようだ。もともと黒い烏が、さらに黒く、夕暮れの空に浮かび上がっていた。
 暗くなると言うのに、あの烏達は巣に帰らないのだろうか? わたしと同じように、巣には待つものがいないのだろうか?

 病院前にある広い駐車場には、車はまばらにしか停まっていない。まだ時間がそんなに遅いと言うわけでもないのに・・・・。恐らく昼間でも面会人は多くないのだろう。
 駐車場の、病院に一番近いところへ車を停め、ジャンバーを着込んで玄関へと向かう。玄関前には、お決まりの蘇鉄が植えられたロータリーがある。そのロータリーを左に回り込んで、玄関へ入った。

 玄関のドアは自動扉ではない。初めてここに来た時、開かない扉に、一瞬戸惑いを覚え、開かない扉の前にじっと立っている自分を誰かに見られたのではないかとあたりをきょろきょろ見ながら、はにかんだことを思い出した。
 下駄箱にある、薄っぺらな、白のインクで自由が丘病院と書かれた、緑色のスリッパを取り出して履き換えて上がる。受け付けはすでに閉まっていて、待ち会い室の長椅子に人気はない。
 閑散とした待合室を抜けて、奥へ続く廊下を歩いて行く。人影はまったくない。スリッパのぺたぺたという音だけが廊下を響き渡る。照明はつけられているが暗い。暗い病院を、さらに暗くするように暗い照明だ。電気代を節約してまで、そんなに儲けたいのかと、言いたくなる。

 廊下の突き当たりにある、ただ一箇所明るい照明のついた窓に顔を出す。ここは、ナースステーション兼夜間受け付けなのだが、中には看護婦の姿が見えない。
 「すみません。佐々木由紀子の面会に来ました。よろしいでしょうか?」
 わたしは、窓から大きな声で叫んだ。・・・・返事がない。わたしはもう一度叫ぶ。
 「すみません! 誰かいませんか?」
 少し間があって、返事が返ってきた。
 「ちょっと、お待ちください」
 奥から若い女の声がした。衝立の向こうで、ごそごそしている。何をしているのだろうか? 申し送りだろうか? それとも菓子でも食べながら、お茶でも飲んでいるのだろうか?

 「お待たせしました。どなたのご面会だったでしょうか?」
 看護婦は、ナースキャップをしておらず、白衣の裾を直しながら出てきた。こんな時間から、仮眠だろうか?
 「佐々木由紀子の面会です」
 「佐々木由紀子さんですね。どのような、ご関係ですか?」
 わたしは、月に一度はここに来る。いつもは顔パスなのに・・・・。この看護婦、見かけたことがない。新人のようだ。新人と言っても、年は25,6になるようだ。
 「佐々木由紀子の兄です」
 「お兄さんですね。お名前は?」
 看護婦は、面会人名簿に記入し始める。
 「大沢光博です」
 「姓が違うんですね」
 わたしを見上げてそう言う看護婦の唇が、いやになまめかしく感じる。
 「由紀子は、結婚しているものですから」
 「ああ、そうですか。おおさわみつひろって、漢字はどう書くんですか?」
 参った。こんなことろで時間を食うなんて思わなかった。
 「大きいに、さんずいの沢」
 「こうですか?」
 「そう、そう。光るという字に、博士の博です」
 「博士のはく?」
 この看護婦、きちんと学校へ行っているのだろうか? わたしはいらいらし始めた。それを押し殺して、説明する。
 「ほら、漢字の十を書いて、専門の専て書くヤツですよ」
 「ええっ?」
 看護婦は、首を傾げる。
 「こう、書くんです」
 わたしは、ボールペンを出して、看護婦が書いている面会人の名簿を取り上げて、大沢光博と書いた。
 「最初から、こうしていただければ、よかったですね」
 わたしは、恐らく目を吊り上げていたのだろう。看護婦は、わたしから目を背けて、咳払いをひとつした。
 「どうぞ」
 看護婦は、鍵をガチャガチャと開けて、わたしを中へと導いた。ナースステーションの中を何気なく見ると、衝立の後ろに、ベルトを締めている看護士の姿が目に入った。面会人が来ないこといいことに、こんな時間から、いちゃいちゃするなんて・・・・。

 重い扉を通り抜けると、さらにもう一つのナースステーションがある。ここには、見覚えのある中年の看護婦がいた。
 「あら、大沢さん、いらっしゃい。久しぶりですね」
 「なかなか来られなくてね。これ、おやつに食べてください」
 わたしは、菓子の包みを看護婦に手渡す。外の看護婦にも分ける分があったのだが、そうする気がなくなっていた。
 「いつもすみませんね。ここの患者の見舞いに毎月来る人なんて、大沢さんと由紀子さんのご主人くらいなものですよ」
 「由紀子は?」
 「あら大変。まだ中庭にいるようだわ。寒くなってきたし、そろそろ夕食だから、部屋に入れなきゃ」
 扉の内側の病棟は、広い芝生の中庭を囲むように建っている。

 ネームプレートを見て、長田という、その看護婦の名前をようやく思い出した。長田看護婦のあとを付いて、中庭へと進んで行く。
 中庭の中央の芝生に、ピンク色の病衣の上に、紺のカーディガンを羽織った由紀子が、ぽつねんと座っていた。
 手入れもせず、伸ばしたままの髪の毛をじっと見つめながら、指先で弄り回している。薄暗い中に、由紀子の白い肌が浮き上がって見えた。
 「由紀子さん、お兄様よ」
 由紀子は、返事をしない。髪の毛を弄んでいる。
 「由紀子、・・・・由紀子」
 わたしが直接声をかけても、やはり返事はない。ため息が漏れる。
 「寒くなってきたから、病室へ戻りましょうね」
 由紀子は、自らは動こうとしない。長田看護婦に腕を引っ張られて、ふらりと立ち上がり、幽霊のように歩き始めた。
 パッチリと大きく見開かれた目は、焦点が合っていない。

 由紀子は、わたしより五つ年下の妹、ただ一人の肉親だ。誰もが認める美人で、わたしの自慢の妹だった。
 わたしが18、由紀子が13のとき、両親が事故で死んだ。わたしは大学受験を諦めて、今の警備会社に入社し、由紀子と二人、生きてきた。
 わたしという兄の為に、なかなか結婚すると言わなかったが、28で皆に祝福されて結婚し、幸せな生活を送るはずだった。いや、送っていた。結婚して半年ほどして妊娠。由紀子は幸せそうだった。
 ところが、生まれた子供は無脳児だった。普通は、妊娠中期までにはそのことが分かって中絶するものなのに、夫の佐々木俊二の転勤の関係で、産婦人科を受診できず、そのことが分かったのは、妊娠9ヶ月に入ってからだった。
 脳のない赤ん坊。絶対生き延びることのない奇形児だ。生まれてすぐ死ぬことが分かっていても、もはや中絶することができない段階にあった。
 由紀子には、そのことを知らせず、分娩台の上に上がらせた。死産だといって、誤魔化すつもりだった。主治医と、わたし、佐々木が考えに考え抜いた末の決断だった。
 無脳児は、生まれてすぐに死んでしまうものなのに、数時間は生き延びることがある。由紀子が産んだ子は、産声を上げたのだ。産声を聞かせるはずではなかった。しかし、由紀子に産声を聞かれてしまった。しかも、蛙のような無脳児独特の、その赤ん坊の顔までも・・・・。
 「なに? これ?」
 そう言ったまま、由紀子は赤ん坊のいたところを見つめ続けた。もはや何もないテーブルの上を・・・・。
 「由紀子、しっかりするんだ」
 由紀子は、長い睫に涙を浮かべたまま、一点を凝視していた。
 それっきり、由紀子の精神は、現実世界に戻ってこなかった。この精神病院へ収容されて3年。今日は由紀子の誕生日。今日で満32になる。

 「誕生日のケーキも買ってきたんですが・・・・」
 「由紀子さん、今日が自分の誕生日だってことが分かるかなあ」
 由紀子はすでに夕食を食べ始めていた。椅子にきちっと座って、姿勢も正しく、まるで正気に戻ったように見える。
 「由紀子さん、今日はあなたの誕生日なのよ。さあ、これ、ケーキよ」
 由紀子は、ケーキを見ると、突然人が変わったように両手でケーキをつかむと貪り食い始めた。まるで、飢えた餓鬼のように・・・・。
 ふいに涙がこぼれた。わたしが男でなかったなら、大声で泣き出したい気分だった。

 「お義兄さん、来てくれたんですか?」
 振り向くと、由紀子の夫、義弟の佐々木俊二が立っていた。
 「ああ、俊二君。今日は、由紀子の誕生日だからね」
 「ぼくもそう思って、仕事を抜けてきたんです」
 「すまない」
 「お義兄さんが、謝ることはないですよ。由紀子、ぼくだよ。分かる?」
 由紀子は、口の周りにべっとりクリームをつけたまま佐々木の方を向いた。わたしには、反応しなかったのに、佐々木には反応した。しかも、佐々木に抱き付いてキスし始めた。いつまでも、いつまでも・・・・。佐々木はいやな顔もせず、それに応えている。
 30分もたったろうか? 由紀子は唐突にキスを止めると、椅子に座り込んだ。そして、床を見つめたまま、人形のように動かなくなった。
 「由紀子、愛しているよ」
 佐々木は、そう言って由紀子の頬にキスしたが、由紀子はもう二度と反応しなかった。

 佐々木とわたしは何も言わずに病室を出た。完全に精神の冒された由紀子。離婚してもいいのに、佐々木はそうしようとしなかった。忙しい仕事の合間を縫って面会に来ていると聞いている。すまない気持ちでいっぱいだ。
 「だいぶ良くなったみたいですね」
 「そうなのか?」
 「ぼくに反応する時間が長くなりましたから」
 「そうか・・・・」
 わたしにはそうは思えないが、佐々木はそう思いたいのだと理解した。

 ナースステーションの前に来ると、佐々木は、ぶら下げていた菓子折りと包みを看護婦に手渡した。
 「これ、看護婦さんでどうぞ。これは、由紀子への誕生日のプレゼントです。サイズは変わっていないと思います。明日にでも、着せてやってください」
 「なんですの?」
 「ワンピースです。由紀子が好きだった白の」
 佐々木は、包みの中からワンピースを取り出して、広げて見せた。
 「わあ、素敵なワンピース。喜ぶと思いますよ」
 「ほんとに、喜びますか?」
 「・・・・そうですね」
 看護婦は、声を落として、そう答える。
 「ま、とにかく、お願いします」
 「分かりました」
 「また、来週来ます」
 わたしと佐々木は、肩を並べて、薄暗い廊下を抜けて病院の外へ出た。

 「お義兄さん、忙しいですか?」
 駐車場へ向かいながら、佐々木が話し掛けてくる。
 「来週、外国の要人が来るだろう? どっかの国の大使だよ。うちが警備しているデパートにも寄るらしいんだ。なんとか言う、西洋美術展のテープカットをするためにね」
 「ああ、うちも警備するようになっていますよ」
 「警察も大変だなあ」
 「まあ、選んだ仕事ですから」
 「すると、お互い、来週は忙しいって訳だな」
 「そう言うことですね」
 佐々木は、県警の生活安全課に勤める刑事だ。通常は、少年犯罪を扱っているが、こんなときには、警備に狩り出されるらしい。

 佐々木は、わたしより二つ下だから、今年35になるはずだ。しかし、白髪が多いせいか、わたしより二つ、三つ、ふけて見える。それは、仕事だけではなく、由紀子のことで心労が絶えないためだ。

 「お義兄さん、帰りにいっぱいやっていきませんか?」
 「そうだな。ひさしぶりに、飲むか。どこに行く?」
 「うちに来てください。実家から、いい酒を送ってきてるんですよ」
 「いいのか?」
 「帰って、由紀子の誕生日を祝おうと思っていたんです。一緒にお願いします」
 「分かった。そう言うことなら、是非寄らせてもらうよ」
 佐々木の車の後を追って、病院の坂道を下って行く。あたりは、もう真っ暗になっていた。バックミラーに映った病院の電線の上には、烏はもういなかった。