第11章 救ってくれたのは天使じゃなかった

 1997年春。太平洋上。

 コンクリートの重しに引きずられて、暗い海の中へ沈んでいく。聞こえるはずのない声がどこからか聞こえてきた。菊ちゃんの声だ。
 「どんなことがあっても生き延びて、復讐しましょう」
 どんなことがあっても生き延びようと菊ちゃんは言った。菊ちゃんは、大量に打たれたクスリのせいで死んでしまったけれど、ぼくはまだ生きている。生きている限り、死と戦わなければ!! 生き抜いて奥村たちに復讐するのだ!
 力が沸いてきた。ぼくは、沈みながら体を折り曲げて、コンクリートの重しを付けているロープの結び目を外した。手足を縛られているロープはすぐには解けそうもなかった。ぼくは、体をくねらせて、浮き上がろうとした。
 その時、菊ちゃんの死体が、ぼくの目の前を通り過ぎていった。綺麗な死に顔だった。
 「菊ちゃん! 奥村たちに絶対復讐するからね」
 そう誓って、何とか浮き上がろうとした。縛られた手で水を掻いていると、ゆっくりと浮かび上がっていくのが分かった。だけど、水面まで息が続きそうもなかった。
 目の前が真っ暗になり、頭がガンガンし始めた。
 「菊ちゃん、ぼくに力を・・・・」
 意識が途切れそうになったとき、ざぶんと水面に浮き上がった。ぼくは大きく息を吸った。息を吸ったとたんに水の中に沈んで、多量の海水を飲み込んでしまった。ごほごほと咳が出る。ぼくは仰向けになって、ゆっくり小さく息をした。
 「ふうう、菊ちゃん、君のおかげでぼくは助かったよ」
 腕を縛られていた縄をほどき、足の縄も解いた。ゆっくり見回してみた。暗い水面にもやがかかっていた。ぼくを運んできた船はおろか、360度見回す限り何も見えなかった。
 「どっちへ行ったら、いいんだろうか?」
 眠っている間にどれくらい沖に連れてこられたか分からなかった。わずかなうねりがあるだけで波の音もしない。海鳥の鳴き声もしなかった。小林は、太平洋のど真ん中に捨てると言っていた。ホントに太平洋のど真ん中まで運ばれてきてはいないだろうけれど、ともかく陸地に近くないことだけは確かだ。
 「このままだと、力つきて死んでしまう。せっかく浮かび上がったのに・・・・」
 少し明るくなって泳ぐ方向が分かるまで体力を温存するために、ぼくは最初浮かび上がったときのように仰向けになって鼻がわずかに出るくらいになった。
 「こうしていれば、何時間かは保つだろう」

 あたりが明るくなってきた。夜が明けてきたのだ。靄も晴れてきた。立ち泳ぎをして周りを見回す。陸地はまったく見えなかった。
 「絶望だ・・・・。あのまま、菊ちゃんと一緒に海の底に沈んでしまえばよかった」
 さらに数時間が経過した。状況に変化はなかった。気力は失せ、体力も限界に近づこうとしていた。

 遠くで波を切るような音がする。ぼくは見回す。ぼくに向かって、漁船らしい船が近づいてきた。
 「助けて! 助けて!!」
 船の舳先にアルファベットが並んでいた。日本船じゃないようだ。
 「ヘルプ、ミー!! ヘルプ、ミー!!」
 船の甲板から船員がぼくの方を覗き込んでいるのが見えた。
 「ヘルプ、ミー!! ヘルプ、ミー!!」
 ぼくは叫びながら船員に向かって手を振った。船員が何か大声で叫んでいる。すぐに他の船員たちが顔を覗かせた。マーメイド、マーメイドと言っているのが分かった。
 いったん通り過ぎた船が停止して、縄ばしごを下ろしてきた。ぼくは、必死でそこまで泳いでたどり着いた。たどり着いたけれど、縄ばしごを上る力はなかった。
 船員の一人が飛び込んできて、ぼくを担いで甲板まで引き上げてくれた。
 「サンキュウ、サンキュウ」
 そうお礼を言ったのに、船員たちの反応は冷たかった。ぼくを遠巻きに取り囲んで、口々に何かをしゃべっているが、英語ではないらしく、まったく理解できなかった。
 ふたりの男が、何かを喚きながら、ぼくの両腕を捕まえて海に戻そうとした。ぼくは必死に船の手すりにしがみついて抵抗した。
 その時、だみ声の大きな声が聞こえてきた。男たちの力が緩んだ。振り返ると、薄汚れてはいるけれど立派な帽子をかぶった毛むくじゃらな男が立っていた。この船の船長らしい。ぼくの腕を持っている男たちに向かって何やら喚いていた。
 男たちは、しばらく言い合ったあと、ぼくから手を離した。船長らしい男がぼくに近寄ってきた。
 『言葉は分かるか』
 船長が聞く。英語だった。
 『分かります。助けてくれてありがとう』
 『マーメイドだと思って助けたのに、男だったので、みんながっかりしている』
 ぼくは、奥村の屋敷にある地下室に閉じこめられていた一年の間、髭は剃らせて貰っていたものの、散髪には行かせてもらえず、髪が肩まで伸びていた。その上素っ裸だった。だから、女が裸で助けを求めていると思って助けてくれたのだ。男だと最初から分かっていたらどうなっていたか分からない。不幸中の幸いと言うところだ。
 ホッとしていると、船員たちが何か喚き始めた。身振り手振りを見ていると、もう一度海に投げ込めと船長に言っているようだ。ぼくは、恐れおののいた。せっかく助かったのに、また投げ込まれたら、今度こそ死んでしまう。
 『男には用がないから、海へ戻せと言っている。しかし、安心しろ。そんなことはさせない』
 そんな船員たちを船長がなだめすかし、最後には怒りだして船員たちを各々の部署に散らしてしまった。
 『どうなったのですか?』
 『君を海へ放り込むことは止めさせた』
 『よかった。ありがとう。日本に連れて行ってもらえますか?』
 『それは駄目だ。われわれは、引き返せない。フィリピンまで行く。それがいやなら、自分から海に飛び込め』
 フィリピン? フィリピンまで行くというのか? 行くのはいいが、帰りはどうなるんだろう? そうは思ったが、何とかなるだろうと考えていた。
 汚れた服を与えられて小さな船室に入れられた。外から鍵をかけられている。逃げ出せないようにしたようだ。
 「どうもこの船は変だ」
 船乗りというものは、遭難した人間を助けるのが普通だ。それを放り込もうというのは、船に乗せていては都合の悪いことがあるに違いない。船の中をうろうろさせないためにぼくを閉じこめたようだ。おそらくそれは船長のアイデアだろう。

 朝は食事は貰えなかったが、昼にはスープとパンを貰った。船酔いで、気分が悪かったけれど、腹が減っていたので、無理矢理押し込んだ。夕食も似たり寄ったりの食事だった。
 日が暮れて、どれくらいたっただろうか? 船長がぼくの閉じこめられている船室にやってきた。
 『気分はどうだ?』
 『船酔いで最悪です』
 『そうか。実は君にちょっと用事があるんだ』
 『用事って?』
 『助けてやった礼が欲しい』
 そんなことを言われて、ぼくはビックリした。
 『お礼って、ぼくはこのとおり何も持っていませんよ』
 『ものはいらない。俺の相手をしてくれればいい』
 ぼくは目を見張った。
 『相手って?』
 『分かっているだろう? けつを出せ』
 『い、いやだよ』
 『もう一度海に放り込まれたいのか?』
 船長は本気のようだ。船長は、ぼくに相手をさせるために助けたようだ。奥村もそうだったけど、ぼくはそんなことをするように見えるのだろうか?
 ぼくは仕方なく、船長の相手をした。ぼくの行くところ、こんな男ばかりだ。なんてことだ。まあ、船員みんなにやられなくてよかったとは思った。

 ひどい船酔いで、バケツの中に何度も吐いた。三日目にようやくフィリピンらしい島が見えてきた。
 『この袋に入ってろ。声を出すんじゃないぞ』
 船長はぼくを麻袋に入れて、縄でがんじがらめにした。船長が英語混じりの言葉で誰かと話していた。漁に出たが、ぜんぜん釣れなかったと言っている。
 釣りをしている様子はなかった。この船は他の目的で、日本付近に行っていたに違いない。
 しばらくして、ぼくは誰かに担ぎ上げられた。時々誰かに挨拶している声を聞くと、ぼくを担いでいるのは船長らしい。
 フウフウ、フウフウ言いながら船長はぼくを運ぶ。何か悪いことをしているようなのに、ぼくを助けようとしている。どうなっているのか分からなかった。
 何度か立ち止まってぼくを降ろし、しばらく休んでからまた担ぎ上げてぼくを運んだ。いったいどこに行くのだろうか?
 20分ほど経っただろうか? ぼくは地面に下ろされた。ギギギとドアの開く音がして、持ち上げられたかと思うと、どさりとわらのようなものの上に投げ出された。
 『声を出さないでじっとしていろ』
 縄を解いてくれると思ったのに、船長はぼくをそのままにして出ていってしまった。

 このままここでのたれ死にするんだろうか? そう思っていると、1時間ほどして、ギギギとドアの開く音がした。縄が解かれた。ぼくはホッとした。
 『食べ物だ。いいか、ここを逃げ出そうとしたら殺す。じっとしていれば、悪いようにはしない』
 『ぼくをどうするつもりだ?』
 『いいから、待ってろ』
 船長は出ていった。ガチャガチャと鍵をかけている。ぼくはまた閉じこめられてしまった。ここに閉じこめて、船長の慰み者にするのだろうか? ゾッとした。
 船長が置いていったパンと干し肉をかじった。不味かったけれど、腹が減っていたので全部食べた。

 夜になった。時計がないから何時なのか分からないが、日が落ちてから3時間ばかりたった頃だから、午後9時頃だっただろう。船長がやってきた。
 船長見て、ぎょっとした。船長の右手に拳銃が握られていたのだ。
 「ぼくを殺すつもりじゃあ・・・・」
 それは違った。違ったが、拳銃はぼくに言うことを聞かせるためだった。
 『ズボンを下げて、けつを出せ』
 その言葉を聞いたとき、ぼくは慄然となった。
 「やっぱり・・・・」
 場所が変わっただけで、何も変わらない。抵抗したらホントに撃ち殺されそうだった。生きて、奥村に復讐するために、ぼくはズボンを下げて尻を出した。
 何か臭い油のようなものを肛門に塗られ、ペニスを突き立てられた。
 「早く終われ!」
 ぼくは肛門を締めた。
 「ワオウウウ」
 すぐに弾けた。船長はズボンをあげると、固いパンと干し肉をわらの上に放り出して出ていった。扉をガタガタと動かしてみたけれど、鍵をかけ忘れてはいなかった。

 夜が明けて、閉じこめられている粗末な小屋の隙間から外を覗いてみると、周りは雑木林で、太陽と反対方向、つまり北側には畑が見えた。こんな所では、いくら叫んでみても人は助けてくれそうもなかった。
 あの船長といつまでしなければならないのだろうか?

 船長は、夜遅くにやってきて、俺の肛門を使ったあと、固いパンと干し肉のような物を置いていく。そんなことが一週間続いた。食べるものが一日一切れのパンだから、かなり痩せてしまった。
 一週間目の夕方、言い争う声がして、船長が太った女とやってきた。女の言葉は分からない。フィリピンなんだから、タガログ語なんだろう。
 女は船長の妻で、俺と浮気していると思って怒っているようだ。
 「浮気しているのは事実だよな。・・・・女とじゃないけど」
 俺は船長に促されて、ズボンを下ろした。船長の妻の顔ったらなかった。髪の毛が長いから女だと思ったのだろうが、ぼくのペニスを確認し、髭が伸びているのを見て納得したようだ。船長とぼくを置いて、さっさと立ち去っていった。
 『もう、ここにはおいて置けない』
 『ぼくをどうするの? まさか殺すつもりじゃあ・・・・』
 『殺しはしない。ついて来い』
 軽トラックのようなぼろ車に乗せられ、猿ぐつわをされて手足を縛られた。上からシートをかけられトラックは長い道のりを走った。

 連れて行かれたのは、ビルの裏手にある小さな部屋だった。香水のにおいがかすかにするような気がした。
 船長は、背の高い男とタガログ語で何か話していた。しばらくして話しが付いたようだ。船長は、お札をかなり貰うとにこにこ顔でその部屋を出ていった。
 背の高い男は、俺の顔をまじまじと見て言った。
 「おまえをあの男から1万ドルで買った。ここで働いて返して貰う」
 ぼくが日本人だとあの船長から聞いていたのだろう。日本語で話しかけてきた。
 「ぼくとあの男は何の関係もない。返す必要なんてない」
 「関係あろうとなかろうと、おまえの借金だ。働かないのなら、殺して臓器を売り飛ばす」
 フィリピンでは、臓器売買が結構行われていると聞いた。殺してまで臓器を売るのか? 男の顔を見ていると本気に思えた。ぼくは考えた。あの船長には、一応命を助けられた。1万ドルのお礼をしたと思えばいいんだ。
 「働くって、何をするんだ?」
 「聞いてないのか?」
 「何も聞いていない」
 「案内しよう。付いてこい」
 男の後を付いていくと、香水の臭いが強くなってきた。激しい音楽も聞こえてくるようになった。
 男はぼくを舞台らしい袖に連れていった。舞台では、華やかな衣装を纏った女たちが踊っていた。何かがおかしい。ぼくは首を傾げた。
 舞台が終わり、女たちが走り出てきた。分かった。舞台で踊っていた女たちは、女じゃないんだ。ニューハーフなのだ。
 一目で分かるものもいる。しかし、どう見ても女に見えるものもいた。しかし、よく見ると、喉仏やペニスの膨らみがあった。
 「もう分かっただろう?」
 「ぼくにニューハーフになれと?」
 「ま、そうだ」
 「いやだ」
 「イヤなら、臓器をいただく」
 言葉に詰まる。選択枝はないようだ。
 「・・・・借金を返すまででいいんだな」
 「その通りだ」
 「分かった。働くよ。働いて返すよ」
 「物わかりがいい。じゃあ、今日から早速働いて貰おう」
 「何をすればいいんだ」
 「ケリーに世話をして貰う。おまえ、英語はできるか?」
 「少しは」
 「じゃあ、いいな。ケリー!」
 お化けのようなニューハーフが返事をして近づいてきた。タガログ語で何かしゃべっていた。
 「何でもケリーに聞け。ただし英語だ。おまえの名前はどうするかな? ・・・・そうだな。先週辞めた子の名前にしよう。おまえは今日からナディアだ。いいな」
 「ナディア・・・・」
 悪い名前じゃないと思った。