第1章 車が売れた

 1995年秋。都内の小さなアパートの一室。

 「はっ! はっ! はっ! はっ! みっちゃん、愛してるわ」
 ぼくの下で、菊ちゃんが喘ぎ声をあげていた。ぼくは、股間に神経を集中させた。もうすぐだ。もうすぐ、ぼくの愛のすべてを菊ちゃんに送り込む。
 「きて、きて、きて。行きそうよ」
 「うううっ!!」
 ブルッと体が震えた。ドクドクとぼくの白濁した液体が菊ちゃんの中にそそぎ込まれていった。
 「あうん。あああっ! い、いいっ!!」
 仰け反って、体を痙攣させる菊ちゃん。よかった。今日も菊ちゃんを行かせることができた。
 菊ちゃんが行き始めたのは、つい先月のことだ。それまでも気持ちはよくなっていたらしいけど、今日みたいにはならなかったとぼくに告白した。
 菊ちゃんが行くと、ぼくのペニスを痛いほど締め付けてくる。締め付けられる感触が何とも言えない。
 菊ちゃんの腟の脈動が終わろうとしていた。ぼくが抜け出そうとすると、菊ちゃんはぼくの腰を押さえた。
 「みっちゃん?」
 「なに?」
 「わたしたち、そろそろ結婚しない?」
 笑顔でそう言う。
 「そろそろって、・・・・まだ・・・・早いよ」
 「早くないわよ」
 不満そうに言った。
 「まだ二十歳だよ」
 ホントはぼくが二十歳になるのは来月。菊ちゃんは、年が明けてすぐだ。
 「早苗も君代も、恵子ももう結婚したわ」
 「でも、稼ぎが少ないから・・・・」
 縮み始めたぼくのペニスと同じくらい体を小さくする。
 「ふたり合わせれば何とかなるわ」
 「でもね・・・・」
 「それともわたしとじゃあ、いけないって言うの?」
 「そんなことないよ。菊ちゃん以外の女の子と結婚するつもりはないよ」
 ぼくは、すぐさま否定した。
 「どうせ結婚するのなら、早い方がいいわ。そうでしょう?」
 「そうだね」
 十代の結婚と二十代の結婚じゃあ大違いだなとぼくは考える。
 「じゃあ、ぼくたちが二人とも二十歳になる、来年の菊ちゃんの誕生日に結婚しよう?」
 「わたしの誕生日に?」
 「いいだろう?」
 「うん、いいわ。約束よ」
 「分かったよ」
 そう返事をしたものの、ホントは給料が安いのが気になっていた。封建的だと言われるかもしれないけれど、ぼくはぼくだけの給料でやっていくまで結婚は言い出さないつもりだったのだ。

 「浅井! 今月の売り上げは、まだこれだけか?」
 課長が売上票を見ながらぼくを睨んだ。
 「は、はい」
 「これじゃあ、給料泥棒と言われるぞ」
 「頑張ります」
 「言葉だけじゃダメだ。成績がすべてだ。成績が伴わなければ、何百回頑張りますと言ったところで、何の役にも立たない」
 課長は厳しい。ぼくは項垂れて会社を出た。今月はカリーナが二台売れただけだ。
 「はあ」
 溜息が出た。

 高校を卒業してすぐに、憧れの東京へ出てきた。ホントは大卒しか採らないらしいけど、叔父さんのコネで入れて貰ったトヨタ自動車。トヨタの中では最高の会社に入れたと思っている。だけど、最高すぎてぼくには荷が重かった。先輩たちは、顧客を持っていて、毎月毎月クラウンを売っている。ぼくには、そんな顧客がないから、今月カリーナが二台売れたのも奇跡に近い。
 菊ちゃんは、ぼくの幼なじみ。家が近くで兄妹みたいにして育った。高校卒業と同時にぼくと一緒に沖縄から東京へ出てきた。東京に来てからは、ぼくと菊ちゃんは親には内緒でずっと一緒に暮らしている。
 ぼくと菊ちゃんは、高校2年の時に菊ちゃんの部屋で初めて関係を持った。勿論初めての時は失敗した。上手くいったのは、3度目の時だった。
 その3度目が終わった直後に、菊ちゃんの弟の健二が帰ってきて、下半身丸出しのぼくたちを見られてしまった。
 「お母さんたちには内緒だよ」
 「みつにいが姉ちゃんをずっと離さないって約束するんだったら、黙っててやるよ」
 健二がそんな条件を出すと、菊ちゃんが俺の顔を見て言った。
 「みっちゃん、約束して」
 「あ、ああ。約束するよ」
 そう言うわけで、ぼくは菊ちゃんを捨てるわけにいかなくなった。イヤ、そんなことがなくたって、菊ちゃんを離すつもりはないんだ。ぼくは、菊ちゃんを愛している。
 だけど、結婚するには収入が・・・・。

 ぼくの車は、下取りで引き取った9年目のカリーナ。塗装は剥げて、エンジンにもがたが来そうな代物だ。中古車部門にも回せないので、車のなかったぼくが廉価で譲り受けて乗っている。
 そのカリーナを走らせて、会社の上司に譲って貰った顧客名簿に載っている家を訪ねてセールスして廻る。だけど、いい顧客は上司が取っているから、おいそれとは買ってもらえない。今日も空振りだった。
 意気消沈してカリーナを運転していると、通りがかりに大きな屋敷が目に入った。表札を見ると、奥村源三と書いてあった。大きな鋼鉄製の扉の隙間から、駐車場に並ぶ高級車が目に入った。
 「ここなら、もう一台買ってくれないかな?」
 ぼくは、カリーナを停めて、門柱に取り付けられた呼び鈴を押した。
 「はい、どなたでしょう?」
 女の人の声で返事があった。
 「すみません。トヨタ自動車の浅井といいます。カタログを見ていただきたくて、参りました。お願いいただけるでしょうか?」
 「ご主人様が外出中で、無理かと思いますが」
 「そうですか。それでは仕方ありませんね。失礼します」
 この屋敷の人なら、買ってくれそうな気がしたのに、残念だなと思いながら車に戻ろうとした。
 ブオンをクラクションが鳴って、黒塗りのベンツが門の外に停まった。遮光シールが貼られているので、車の中の様子は分からない。でも、もしかしたら、この屋敷の主人が帰ってきたのではないかと思った。
 鋼鉄製の扉がゆっくりと開いていく。
 「へええ、自動扉だよ」
 ぼくは、呆気にとられて見守っていた。

 車が奥の駐車場に停まると、扉が閉まっていった。しばらくたってから、ぼくはもう一度呼び鈴を押した。
 「はい、どなたでしょうか?」
 「申し訳ありません。先ほどのトヨタの浅井です。ご主人がお帰りになったのではないかと思いまして」
 「少々お待ちください」
 「何度も申し訳ありません」
 待たされるのには慣れている。ぼくはじっと待った。5分ほどして返事があった。
 「どうぞ、お入りください」
 扉が再び開いた。ぼくはカリーナを中へ進めていった。駐車場には、黒塗りのベンツが2台、シーマが一台、セドリックが二台も停まっていた。
 「トヨタの車がないから、先輩のテリトリーを冒すことはないな」
 そう思いながら、カタログの入った鞄を抱えて、玄関先に立った。
 「どうぞ、お上がりください」
 和服を着た30くらいの美人がぼくを応接室へと案内した。声からすると、呼び鈴で返事をしたのは、この人らしい。
 応接室は、屋敷の大きさから想像したものよりさらに広かった。
 「ご主人は、お着換えをしておりますので、もうしばらくお待ちください」
 「強縮です」
 ぼくは、出されたお茶を飲みながら、キョロキョロと部屋の中を見回した。床の間に、高そうな掛け軸が掛かっていた。何焼きというのかぼくには分からないけど、壺や皿も所狭しと並んでいた。壁には牡鹿の頭の剥製が掛けられ、床には虎の毛皮が敷かれている。
 応接間から見える庭も溜息が出るくらい立派だった。池に放たれている鯉も高いんだろうなと思った。
 「待たせたな」
 和服を着た恰幅のいい男性が、黒のスーツを着た男と一緒に入ってきた。ぼくは、ぱっと立ち上がって、直角に近く深々と礼をした。
 「お忙しいところ、申し訳ございません。トヨタ自動車の浅井と申します」
 ぼくは名刺を差し出す。
 「で、何の用だ?」
 「新型のクラウンが出ましたので、是非見ていただこうと思いまして」
 「トヨタとは取引はないんだが」
 そう言いながらも、少し興味があると言った態度を見せた。
 「駐車場にベンツと日産のお車があるのを拝見いたしました。次回は是非クラウンをと思いまして」
 「クラウンねえ・・・・。カタログを見せなさい」
 「あ、ありがとうございます」
 「まだ買うと決めた訳じゃない」
 ぼくは、普段は有料のカタログを出して、この屋敷の主人に手渡した。カタログをぱらぱらとめくる。
 「そうだな。セルシオは、お宅の会社だったな」
 「は、はい」
 「カタログは?」
 「ちょ、ちょっとお待ちください」
 セルシオのカタログは、それほど多くはない。普段は持ち歩かないのだけど、たまたま一部持ってきていた。
 「すみません。ちょっと汚れていますけれど・・・・」
 「かまわんよ」
 ぼくは、屋敷の主人がセルシオのカタログをぱらぱらと捲っていくのをじっと見ていた。
 「この屋敷に直接セールスに来たのは君が初めてだよ」
 「そ、そうなんですか?」
 「君の意気に免じて、セルシオとマジェスタを買ってあげよう」
 「ほ、ホントですか?」
 「ああ、そうだ。明日。午後2時に見積もりを持ってきなさい」
 「あ、ありがとうございます」
 足が震えていた。セルシオとマジェスタがいっぺんに売れるなんて。
 「じゃあ、頼んだよ」
 「ありがとうございました」
 ぼくは深々と頭を下げた。

 ぼくは意気揚々と会社に帰った。
 「何!? セルシオとマジェスタが売れた?」
 「はい」
 周りにいた従業員も驚いてぼくを見た。
 「相手は誰だ?」
 「奥村源三って人です」
 「奥村源三? 奥村グループの総帥じゃないか」
 「奥村グループ?」
 「知らないのか? 不動産関係の会社をいくつも経営している大物だぞ。西へ5キロばかり行ったところにある屋敷じゃないのか?」
 「そ、そうです」
 「メクラ蛇に怖じずと言うけど、おまえは何と大胆な」
 課長は呆れ返ったという表情を見せた。
 「そんな大物なんですか?」
 「大物中の大物だ」
 「へえ、ぜんぜん知らなかった」
 「あそこには何度か行ったが、外車と日産車以外は買わないと、いつも突っぱねられていたんだが・・・・・」
 「あの屋敷に売り込みに行ったのは、ぼくが初めてだと言ってましたけど」
 「そんなことはない。先週こそ俺が行ったばかりだ」
 「へえ、そうですか・・・・」
 変だなと思ったけど、気にも留めなかった。
 「ま、いい。車検の度に買い換えてくれるぞ。グレードは何にすると言っていた?」
 「あっ! 聞き忘れた」
 「馬鹿だなあ。電話でいいから、早く聞け」
 「はい」

 奥村源三の番号を調べて電話した。
 《はい、奥村でございます》
 あの女性の声だ。
 「すみません。先ほど伺ったトヨタ自動車の浅井です」
 《どうなさいました?》
 「セルシオとマジェスタをご注文いただきましたが、グレードをお聞きするのを失念いたしまして」
 《それでしたら、最上級クラスでいいかと思いますが》
 「最上級クラスですね。色は? 色はいかが致しましょう?」
 《ご主人様は、黒しかお乗りになりませんので、黒でよろしいかと》
 「黒ですね。分かりました。ありがとうございました」
 そばで聞いていて課長が、にっこり笑った。
 「早く見積もりを書け」
 「は、はい」
 ぼくは、緊張で震える手で見積書を作った。

 翌日。約束の午後2時前10分に呼び鈴を押した。
 「はい、どなたでしょう?」
 同じ女性の声。
 「トヨタ自動車の浅井です。午後2時にお約束をいただきまして、参上いたしました」
 「どうぞ」
 鋼鉄製の扉が、ゆっくりと開いていった。車を停めて、玄関先に立つと、やはり昨日の女性が出てきて、ぼくを応接間に案内した。
 「少々お待ちください」
 お茶をテーブルに出すと、女性は部屋を出ていった。お茶を飲みながら、奥村源三が出てくるのを待った。今日はなかなか出てこなかった。
 午後2時10分になった。奥村はまだ出てこない。ぼくは、部屋の中をうろうろして、掛け軸や壺などを観察し始めた。
 しばらくして時計を見た。午後2時30分を指していた。
 「いったい、いつまで待たせるんだろう?」
 そう思っていると、ガチャリとドアが開いて奥村が入ってきた。
 「急な用事が入ってな。待たせてすまん」
 「いえ、とんでもないです」
 「骨董には興味があるかね」
 「い、いえ。まったく分かりません」
 「そうか。骨董はいいよ。特にその皿はわたしのお気に入りでね」
 奥村が指さす方に置かれている皿は、ぼくの目から見れば犬猫の餌入れにしてもいいと思うような代物だった。しかし、お金持ちがお気に入りというのだから、高いんだろうなと思っていた。
 「ちょっとこちらに持ってきてくれんかな?」
 「割るといけませんから」
 「かまわんよ。持ってきてくれ」
 「はい」
 意外と重い皿だった。皿の台座に古伊万里と書かれてあった。ぼくは、奥村の前に皿をゆっくりと置いた。奥村は皿を愛撫するように撫でながら言った。
 「さあ、見積もりを見せて貰おうか?」
 「は、はい。これです」
 ぼくは鞄の中から見積書を取りだしてテーブルの上に置いた。
 「最上級クラスでお見積もりを書きましたが、よかったでしょうか?」
 「かまわんよ。・・・・色が黒はいかん」
 「黒ではいけなかったでしょうか?」
 「ツートンカラーがあるだろう?」
 「はい、ございます」
 「それにしてくれ」
 「分かりました。マジェスタもツートンで?」
 「マジエスタは黒でいい」
 「畏まりました。正式な契約書は、明後日。納車は一ヶ月後になります」
 「契約書はいいが、もっと早く納車できんのかね」
 「ちょっとお待ちください。会社に連絡を入れてみます」
 会社での契約ならば、その場ですぐに確認できるのだが、出先だからそう言うわけにもいかない。ぼくは携帯をかけた。
 「もしもし、浅井です。奥村様の車の件ですが、納車を早くして欲しいといわれているんですが。セルシオは黒じゃなくて、ツートンです。マジェスタは黒で。はい。セルシオは一週間後。マジェスタはやっぱり一ヶ月後ですか。分かりました」
 携帯を切って、奥村に向かい合う。
 「セルシオは在庫があるそうで、一週間後には納車できます。マジェスタの方は、黒がないそうで、一ヶ月後になるそうです」
 「色を変えればいいのかね?」
 「おそらく。セルシオと同じツートンカラーか、モスグリーンなら、一週間後納車できると思います」
 「ではモスグリーンに変更だ」
 「分かりました」
 「明後日は、わたしはいないから、この小林が応対する。じゃあ、頼んだよ」
 「ありがとうございました」
 ぼくはテーブルに頭が付かんばかりに頭を下げた。

 翌々日。正式な契約書を持って奥村の屋敷を訪れた。同じように応接室に通された。電話で約束した午後3時になっても小林という男は姿を現さなかった。
 「一昨日は30分待たされたからなあ」
 ぼくはじっくり腰を落ち着けて待つことにした。ふと骨董品に目がいった。立ち上がって、奥村が気に入っているという古伊万里の皿を見た。
 「ぜんぜん良さが分からない。どこがいいんだろう?」
 テーブルに戻ってお茶を飲んでいると、小林が姿を現した。時計は午後3時10分だった。今日は待たされたうちには入らない。
 「契約書は?」
 「これです。こことここに印鑑をお願いいたします」
 小林は、ぼくは指定したところに印鑑を押した。
 「ほかにすることは?」
 「契約成立です。5日後に納車に伺います」
 「わかった。伝えておく」
 契約書の控えを受け取ると、小林はさっさと部屋を出ていった。
 「何だか、あっけないな。まあいいか。高級車が売れたんだから」
 ぼくは意気揚々と会社に戻った。

 「菊ちゃん、車が売れたよ」
 アパートに帰ってぼくは報告した。
 「ホント?」
 「うん。それもセルシオとマジェスタなんだ」
 「よかったじゃない」
 その夜、ぼくは喜びいっぱいで奮闘したのはいうまでもない。