第7章 変身

 ぼく、矢野亮平は死んだことになってしまった。今ここにいるのは、夫を親父狩りで亡くした未亡人の矢野美佐だ。これからは一日中女として暮らさなければならない。
 そんなことできるのだろうか? この1年やってこられたのだから、何とかなるだろう。いや、やるしかないのだ。
 とは思ったが、美佐として暮らしていたのは夜だけだ。夜間の照明だったから、ずっと誤魔化せていたに違いない。葬儀は昼間だったけど、ぼくはハンカチで涙を拭う振りをしてずっと下を向いていた。
 昼間に顔を上げて外を歩くことができるか? 答えはノーだ。夜の間だけ、ゴキブリのように動き回るしかない。
 そう言うわけだから、ぼくは一日中部屋の中にいて、テレビばかり見ている。夜外に出て歩くとこがなければ、まるで牢獄に繋がれているようなものだ。ぼくは美佐を殺してしまった罰を受けている。

 この先男物の服を着ることはないだろう。捨ててしまってもいいかなと思ったけれど、男に戻れる日も来るかもしれないと、男物の服などは段ボールに詰めて、クローゼットの奥にしまい込んだ。
 この時、ぼくの身代わりに死んだ男が誰であるか分かった。あの日、散髪に行った日に着ていたジャケットを畳んでいて、内ポケットの中にあった名刺入れを見つけた。安田一郎と言う男だった。ジャケットの柄が同じだったので、理容室で間違えたのだ。
 ぼくは名刺と名刺入れを小さく切り刻んで、他のゴミに混ぜて捨てた。証拠は隠滅しておかなければならない。

 ぼくの葬儀が済んで2週間後、アナウンサーが興奮気味に事件を知らせていた。
 「奥多摩の山中で、20から40歳くらいの、女性と思われる白骨化した遺体が発見されました。警察は、殺人、死体遺棄事件として、捜査を開始しました」
 発見された場所を見てみると、ぼくが美佐を埋めた場所だ。発見された遺体は美佐だ。今やぼくが矢野美佐だから、美佐の遺体が、矢野美佐であると認定されることはあり得ない。これで、ぼくが美佐を殺した罪からは逃れることができる。もう少し早く見つかっていれば、美佐を演じなくてもよかったのに。
 そうは思ったが、日本の警察は優秀だ。もしかして、ぼくに辿り着くかもしれないと思うと、不安でならなかった。
 数日して、美佐が着ていたTシャツとジーンズが公開された。

 美佐の遺体が発見されて一週間後、ぼくは茫然とテレビを見ていた。
 「奥多摩の山中で発見された女性の遺体は、昨年3月から行方不明になっている、埼玉県宇都宮市に住む、佐藤喜八さんの長女の、小百合さんであることが判明しました」
 ぼくが美佐を埋めた場所の近くに、別の女性が埋められたのだろうか? そう思いながら、ワイドショーの画面を見ていたが、テレビカメラが映し出す遺体発見場所は、間違いなくぼくが美佐を埋めた場所だった。
 訳が分からないけれど、ともかくこれで、完全にぼくは殺人の罪から免れた。ぼくはほっと胸を撫で下ろした。

 殺人の罪からは免れたけど、この牢獄のような生活から抜け出せないだろうか? ぼくは思案を巡らせた。
 何処か別の土地に移り住んで、男に戻って暮らす。・・・・戸籍がないからなあ。戸籍がなければ、まともな仕事が見つからないだろう。貯金はまだあるが、そう長くは持たない。女として暮らすのなら、別の場所に行く意義はない。ここなら、住む場所もある。
 浅田加世子を思いだした。外見を女性に近づければ、昼間も外に行けるなと思った。そのためには・・・・。

 コンピュータを立ち上げ、インターネットに接続する。以前、女の声を出すためにいろいろと検索したときに、女性ホルモンの記事があったことを思い出したのだ。現金さえ送れば、女性ホルモンが手に入る。ぼくはさっそく注文した。
 10日ほどして、航空便で女性ホルモンが送られてきた。包みを開いて、錠剤をじっと眺めた。こんなことしてもいいのだろうか? あの、浅田加世子のようになってしまうのに。いや、飲むのを止めたら、元に戻ると書いてあった。昼間も出歩くためだ。そう自分に言い聞かせて、プレマリンと言う錠剤をごくりと飲み込んだ。

 すぐに効果は現れなかった。何も変化はない。イヤ、何だかひどくいらいらする。じっと部屋の中に閉じこもっている所為だ。そう思ったけれど、それだけではないようだ。やっぱりプレマリンの副作用のようだ。何度か止めようと思った。しかし、続けている。
 2週間ほどして、ブラジャーの中に入れた詰め物が乳首に当たると痛みを覚えるようになった。指で触ってみると、胸の奥まで痛みが響いた。乳首の下に少し硬い塊ができていた。胸が大きくなってくる前兆のようだ。
 肌が少し柔らかくなってきたような気もする。あまり運動しない所為もあって、筋肉も落ちてきた。
 一ヶ月もすると、乳首の下の塊は、500円玉より大きくなっていた。痛みの方は軽くなっている。体全体の感じが女らしくなってきていた。化粧をきちんとすれば、昼間も外に出て行けそうだが、まだその勇気はない。
 昼間出て行く準備として、眉毛を毛抜きで抜いたりハサミで切ったりして、女らしい山形にした。それだけで、ぼくはかなり女らしく見えた。
 すね毛も、毛を薄くするクリームの効果も相まって、かなり薄くなり、剃刀で剃ることも少なくなった。

 プレマリンを飲み始めて、3ヶ月経った。胸はふんわりと大きくなり、体つきも女らしくなった。最近朝立ちしなくなった。ペニスが少し小さくなったような気もする。ま、その方が隠すには丁度いいが・・・・。
 この頃から、昼間も出歩くようになった。勿論初めて外に出るときは躊躇ったが、一度慣れてしまうと、もうどうもない。誰もぼくが男だとは気付かない。

 もうすぐプレマリンを飲み始めて半年になる。トップとアンダーの差は現在11センチ。ぼくの胸はAカップに成長した。浅田加世子は女性ホルモンが効かないタイプで、豊胸術を受けたと言っていたが、ぼくには必要がないようだ。世の中巨乳ばやりだが、これくらいの胸の女なら、いくらでもいる。
 今のぼくは、胸がやや小さいことを除けば、浅田加世子と同じ状態にある。ただ、浅田加世子と違って、ぼくの性的嗜好は男ではない。股間を除けば、ほとんど女性化してしまっているけれど、ぼくはやっぱり女を抱く夢を見る。その頻度は減ってはいるけれど・・・・。

 自治会長の上野さんは、相変わらずぼくの世話を焼いてくれる。
 「奥さん、最近綺麗になりましたね」
 「そうですか?」
 「以前はちょっと少年っぽい感じでしたが、最近は、随分女らしいですよ」
 ちゃんと見られてたみたいだ。しかし、見破られていないようだ。
 「彼氏でもできましたかな?」
 「とんでもないです。主人が亡くなってから、まだ半年にもならないのに、そんな不謹慎なことはできません」
 美佐を演じているだけで、男と付き合うなんてとんでもない!
 「そうですか? それは勿体ない。女は若いうちが花ですよ。奥さんも、もう一度花を咲かさなければ」
 「ありがとうございます。もう少し時間がたって、主人よりもいい人が現れたら、気が変わるかも知れませんが、まだ・・・・」
 「そうですな。じゃあ、また」
 立ち去ろうとする上野さんの背後に中年の女性が現れた。もの凄い目つきでぼくを睨んだ。
 「矢野さんって、おっしゃいましたわね。誰にでも色目を使うものじゃありません事よ」
 ええっと言う感じだった。はっはあ。上野さんの奥さんだな。若いぼくと話しをしてしているので、焼き餅を焼いているんだ。
 「お、おい、勝代。失礼なことを言ってはいかんよ。ちょっと世間話をしていただけだから」
 「そんなこと、分かるもんですか! 若い女だと、すぐに鼻の下を伸ばすんだから」
 「おい。誤解だ。誤解だよ」
 立ち去っていくふたりの後ろ姿を見ながら、あんな喧嘩なら、可愛いものだと思った。ぼくと美佐の場合は・・・・。結局殺してしまったんだから。

 髪の毛が伸びた。肩まで掛かっている。鏡を見ながら、ハサミを入れているが、何とかしないといけないなと思う。しかし、喉仏を見られそうで、美容室にはとても行けそうもない。
 新宿まで買い物に出掛けた。美容室から出てくる、明らかにニューハーフと思われる人を見つけた。あの美容室なら、カットしてパーマがかけられそうだ。
 そう思ったが、やっぱり躊躇った。ぼくは女の戸籍を持っている。男だとばれるようなことはしたくない。男だとばれて、どうして女の戸籍があるのかと追求されたら大変だからだ。
 美容室は諦め、ブティックに入って可愛いワンピースとTシャツを2枚買った。

 新宿駅に向かって歩いていると、見覚えのある顔に出くわした。浅田加世子だ。彼女はぼくに気がついていない。何気なく、彼女のあとをつけていった。
 浅田加世子は、しばらく歩いて、裏通りにある小さな病院へ入っていった。表の看板に、内科、外科、泌尿器科、皮膚科と書いてあった。
 表でしばらく待っていると、30分ほどして浅田加世子が出てきた。ショルダーバッグが膨らんでいた。彼女はここで女性ホルモンを調達しているようだ。
 航空便で注文する女性ホルモンは結構高くつく。ここで貰えれば、安上がりかな。しかし、彼女は、もしかすると別の病気でここに掛かっているかも知れない。迂闊に頼めない。しかし、国内にも女性ホルモンをくれるところがあるのは確かだ。

 マンションへ帰り、インターネットで検索してみた。ニューハーフが開いているホームページの中に、女性ホルモンを処方してくれたり、睾丸を取ってくれる病院が紹介されていた。その中に、今日浅田加世子が訪れた病院の名前も出ていた。間違いない。明日にでも行ってみよう。

 翌日、ぼくは、横溝医院を訪れた。
 「今日はどう言うことで来られましたか?」
 かなり年の看護婦がカルテを作りながらぼくに聞いた。看護婦には言えない。ぼくは嘘を付いた。
 「おっぱいが痛いので、見ていただこうと思って」
 「分かりました。待合室へどうぞ」
 待合室には、もうひとり、女性が待っているだけだった。こんな事で儲かるのだろうかと余計なことを思ってしまう。
 「友永サチ子さん、奥へどうぞ」
 偽名を使った。矢野美佐と言う名前を知られたくなかった。
 「おっぱいが痛いんだって?」
 横溝というネームプレートを胸に付けた初老の医者がぼくに尋ねた。
 「はい」
 「上を脱いで」
 「全部ですか?」
 「ああ、そうだ。脱いだら、そのベッドに横になりなさい」
 「はい」
 ブラウス、キャミソール、ブラを取って脱衣籠に入れ、ベッドの上に横になった。
 「おや」
 そう言って、横溝医師はカルテを見直した。
 「ほう、ニューハーフなのか」
 どうして分かったんだろう?
 「どうした? 不思議そうな顔をして」
 「どうしてわたしがニューハーフだと?」
 「喉仏だよ。それに自費だしね」
 「ああ、なるほど」
 さすがに観察力が鋭い。年は少し行っているけれど、目に輝きもあるし、信頼できそうだ。
 「どこが痛いのかな?」
 ぼくは起き上がって、ドクターに話しをする。
 「おっぱいが痛いというのは、口実です。わたしが女じゃないと知られたのなら、正直に言います。ここで女性ホルモンを処方して欲しいのです」
 「そうか・・・・。この病院で処方してくれることをどこで聞いた?」
 ぼくは、インターネットで手に入れた紹介状を手渡した。
 「ああ、ありさの紹介だな。分かった。君はいつから飲んでいる?」
 「6ヶ月前からです」
 「6ヶ月! 良く効いたもんだ。男性ホルモンが少ないのかな?」
 「そんなこと知りませんが・・・・」
 「そうだろうな。ま、診察しよう」
 「どこを診察するんですか?」
 「全身だよ。手始めに上を脱いでいるから、胸を診よう」
 「胸はどうもないです」
 「ニューハーフだって、乳癌になるんだよ。診察は必要だ」
 乳癌!!! そんなこと知らなかった。
 「お、お願いします」
 横溝医師は、丁寧にぼくの乳房を触っていた。
 「大丈夫だ」
 ぼくはホッとした。
 「聴診するから、じっとしていたまえ」
 聴診器で、これまた丁寧に聞いている。
 「心臓も肺も大丈夫。服を着て」
 「はい」
 「着たら、スカートはいいから、パンツを降ろしなさい」
 「見るんですか?」
 「みんな、見せてもらっている」
 股間を晒したくはなかったけれど、仕方がない。ぼくはショーツを降ろした。横溝医師は、スカートを捲りあげて、ぼくのペニスと睾丸を触っていた。恥ずかしくて、顔が真っ赤になった。
 「大きいのに、勿体ないな」
 一時的にこうしているだけだと言おうとしたけれど止めた。理由を根ほり葉ほり聞かれたくなかったからだ。
 「採血をしておこう」
 「採血ですか?」
 「副作用も出るからな。チェックして置いた方がいい」
 「分かりました」
 「4週間分、薬をあげるよ。なくなったら来なさい」
 「ありがとうございます」
 採血を終え、薬局でもらった薬の包みをショルダーバッグに詰めて、喜び勇んでマンションへ帰った。医者から薬をもらったと言うことで、少し安心感が増したのだ。

 女性ホルモンを飲み始めてから10ヶ月たった。ぼくはどこから見ても女に見える。股間はともかく、問題は喉仏だ。喉仏が見えないように、ハイネックのセーターを着たり、スカーフを巻いたりして誤魔化しているけれど、それにも限界が出てきた。

 「やってあげるよ」
 喉仏を取って欲しいと横溝医師に相談したら、事も無げにそう言われた。
 「ほんとですか?」
 「ああ、簡単なものだ」
 「入院が必要ですか?」
 「しても、しなくてもいい」
 「時間はどれくらい?」
 「喉仏を取るのはそれほど手間ではないが、傷を綺麗に縫うから、1時間あまり掛かってしまうな」
 「それくらいですむんですか?」
 「ああ」
 「手術料はいくらでしょうか?」
 「10万」
 「10万!」
 「高いか?」
 「いえ」
 喉仏を隠す苦労を考えれば安いものだ。
 「いつやっていただけますか?」
 「ちょっと待ちたまえ」
 横溝医師は、ノートを調べ始めた。
 「来週の水曜日はどうだ?」
 「わたしは特に用事はありませんからいいです。いつ入院すれば?」
 「入院で行くんだな」
 「はい。独り暮らしですから、入院していた方が安心です」
 「分かった。ひとつ手術を組んであるから、その後と言うことで、正午に来てもらおう」
 「来週の水曜の正午ですね」
 「そうだ」
 「用意するものは?」
 「看護婦に聞いてくれ」
 「はい」

 翌週の水曜日、ぼくは洗面道具、着替え、湯飲み、箸などを持って横溝医院に入院した。
 「順番が替わった。午後3時から手術するが、いいかね?」
 「早い方がいいです」
 「じゃあ、すぐに準備を始めるからね」
 「はい」
 しばらくして、看護婦が浣腸を持ってきた。
 「浣腸するんですか?」
 「痛いのに、トイレに行くのは大変でしょう?」
 「そうですね」
 浣腸されて排便したあと、腕に点滴をされた。ビタミン剤が入っているらしく、鼻に独特の臭いが漂ってきた。
 午後2時半。看護婦が注射を持ってきた。
 「何ですか? その注射は?」
 「麻酔前投薬よ。麻酔が良く効くようにするの」
 「なるほど」
 お尻に2本注射された。5分ほどすると、意識がぼんやりしてきた。
 「さあ、手術室に行くわよ」
 時計を見た。午後2時50分だった。予定通り進んでいる。1時間たったら、ぼくの行動を制限してきた喉仏ともお別れだ。

 「酸素ですよ。大きな息をしてください」
 麻酔医は女医らしい。可愛らしい声をぼんやりした意識の中で聞いていた。
 「眠くなりますからね」
 アッと言う間に眠ってしまった。

 薄暗い病室のベッドの上で目が醒めた。喉がぴりぴりと痛い。左の腕にされた点滴が、ポタリポタリと落ちていた。
 ガチャリと病室のドアが開き、横溝医師が入ってきた。先生の表情はいつもと違っていた。ぼくは不安を覚えた。
 「先生、どうかしたんですか? まさか、うまくいかなかったなんて・・・・」
 「イヤ、そうじゃない。手術はうまくいった。うまくいったんだが・・・・」