翌日目覚めたとき、ぼくは美佐を冷凍庫の中に隠したことなど頭の中から追い出した。コーヒーを入れ、買い置きの冷凍ピラフをチンして食べた。
きちんと身なりを整え、玄関を出た。
「行ってきます」
ぼくは、眠っている間に考えたアイデアを実行することにした。ホントに眠っているときに思いついたんだ。
そのアイデアとは、昨日既にぼくが実行していたことだ。つまり美佐が生きているように振る舞うのだ。出掛けるときには行ってきますと言い、帰ってきたら、ただ今と言う。会社から、時々美佐に電話している振りをする。洗濯物もふたり分干しておく。
機会を見つけて、美佐の遺体を何処かに捨て、遺体が見つかった頃に失踪届を出すのだ。死亡推定時刻と失踪した時期が大幅にずれれば、見つかった遺体が美佐だと疑うものはいないだろう。
これは我ながらいいアイデアだ。
そんな偽装工作をして数日たった。ふと考えて、美佐の姿がまったく他人に見られないのは拙いなと思った。どうするか? ぼくは背が高くないし、結構細い。美佐のワンピースが入ったくらいだ。引っ越してきてから日がたっていないから、このマンションの住人で、美佐の顔を知るものはいない。美佐に化けられれば・・・・。
会社の帰りに新宿で降りて、ウイッグを売っている店に顔を出した。
「すみません。女物で、肩くらいの長さのウイッグはないですか?」
「いくらでもあるよ。どれにする? これあたり、似合うんじゃないかな?」
店の男は、ぼくにウイッグを被せようとした。まるでぼくがウイッグをするような態度にぼくはどぎまぎした。実際にそうなんだけど・・・・。何とか誤魔化すことにする。
「家内がショートカットでね。ぼくは長いのが好きなんだけど、伸ばしたがらないんですよ。で、ウイッグをつけさせようと思ってですね」
店の男はぼくの言葉をあまり信用していないようだ。新宿には、女になりたい男や、女装する男が多いから、そんな反応を見せるんだろうなと思った。
「本人が来て選んだ方がいいがねえ」
「サイズがあるんですか?」
「頭がよほど小さかったり、大きくなかったら、まあ、大丈夫だがね」
「買って帰って、ビックリさせたいから・・・・」
「まあ、そう言うことなら・・・・。色はどうする?」
「栗毛がいいですね」
「ストレート? それともカールしたのがいいかな?」
「ぼくの好みとしては、少しカールしたやつですね」
「やっぱり、これだろう」
店の男がぼくの手渡したのは、最初にぼくに被せようとしたウイッグだった。
「そうですね。じゃあ、これにします。いくらですか?」
「398だよ」
「398って?」
「3万9千8百円。消費税は別途いただくよ」
「安いんですね。もっと高いと思ったのに」
「女物はね」
「男物は高いんですか?」
「女は、カツラを被っていても不自然じゃないから、カツラと分かるようなものでもいいが、男はカツラと分かるようなものじゃあ、いかんだろう?」
「そうですね」
「だから、カツラと見破られないようなものを作ろうとするから、高いんだよ」
「なるほどですね」
「このウイッグは、人毛と人工毛の混紡なんだよ。かなり自然に見えるだろう?」
「はあ、そうですね」
確かに本物らしく見えた。
「それにね。混紡の方が、全部が人毛のものよりも手入れが簡単なんだよ」
「へえ、そう言うものなんですか」
「この手のものとしては、かなりお安くなってるよ。はい、お待ち。4万1千7百90円也だよ」
支払いをして店を出た。そのまま、紀伊国屋書店へ立ち寄った。
店の中をうろうろして、化粧の仕方を書いた本を探す。しかし、男のぼくがそんな本を堂々と買うには勇気がいる。
しばらくして、週間アスキーと、女性週刊誌を手に会計へ向かった。その女性週刊誌の表紙に、『保存版、一押しの化粧』と言う記事が目に入ったからだ。
「男性週刊誌も大した記事は乗ってないけど、女性週刊誌には役に立つ記事が載ってるの?」
会計で支払いしながら、女店員にそう聞いた。
「結構役に立ちますよ。この週刊誌は特にお化粧方法とか、流行の服装とかの特集が多いですから」
「あ、なるほど。だから、毎週買ってくれって言うんだな」
と、さも頼まれて買ったような振りをした。
「ただいま」
いつものように、誰もいない部屋に向かって挨拶して入った。カーテンを引いて、美佐に化けてみることにした。
タンスの中から、ブラジャー、パンティー、キャミソール、セーター、スカートそれにパンストを取り出した。下着まで着るのかと思うかも知れないが、ぼくは徹底するときは徹底しないと気がすまない性分なのだ。
着ていた服を脱いで洗濯機の放り込んで、パンティーを穿いた。そうしてから、足のすね毛に気がついた。これがあったらおかしい。
パンティーを脱ぎ捨て、バスルームに入って、剃刀ですね毛を完全に剃った。普段ズボンを穿いているから、すね毛はなくても大丈夫だ。バスルームに入ったついでにシャワーを浴びて外に出た。
体を拭いて、パンティーを穿く。ブラジャーはちょっときついが、何とか着けられた。カップの中に靴下を丸めて入れてみた。両手でカップを包み込むように触ってみた。感触はブーだが、大きさはピンポンだ。
パンスト、キャミソールを身に着け、スカートを穿いて、セーターを着た。少し内股気味にして、鏡に映してみた。首から下はまずますだな。
ぼくの髭はあんまり濃くはないけど、少し伸びてきている。電気剃刀で綺麗に剃ってから、化粧に取りかかった。
眉毛はウイッグの前髪で隠れるから、触らないことにした。化粧水、ファウンデーション、パウダー、チーク、ルージュ。アイラインも軽く入れてみた。
ウイッグを被って鏡に映すと、鏡の中のぼくはもはやぼくではなかった。浅田加世子ほどではないが、美佐よりも美人に見える。ぼくも大したものだ。
浅田加世子か・・・・。男なのに、自分は女だと言っていた。性的興味も男だと。最近流行の性同一障害らしい。ぼくの女装も結構いけるが、ぼくは男だ。いくら背が低くて色白で、女みたいだと言われようとも、ぼくは男。女が大好きだ。こんな格好をするのは、美佐を殺してしまった罪から逃げるためだ。
鏡の前で、女らしく歩く練習をした。うーん。似合いすぎている。これなら、誰もぼくを男だとは思うまい。
そう思ったら、外に出てみたくなった。ゴミが溜まっていた。夜間にゴミを出すなとは言われているが、それを破る住人も多い。ぼくは女装したまま、マンションのすぐ前にあるゴミ収集所まで、ゴミ袋を持っていくことにした。
部屋の鍵を持って、両手にゴミ袋を抱えて部屋を出た。時間は午後10時を回ったところ。廊下には誰もいない。
エレベーターのスイッチを押して、上がってくるのを待った。ドアが開いて、男が降りてきた。ぼくは、挨拶する振りをして頭を下げ、顔を隠した。男は、こんばんはとぼくに挨拶して、ぼくの部屋とは反対方向へ歩いていった。見破られなかったようだ。安心して、エレベーターに乗り込んで下へ降りていった。
ゴミ収集所まで、誰にも出会わなかった。誰かに会いたいような会いたくないような妙な気持ちだ。
マンションに戻り、エレベーターに乗り込んで、6階のスイッチを押したところに、男が駆けてきた。
「やあ、間に合った。8階をお願いします」
声を出したら、男だとばれるので、ぼくは黙って頷いて8階のボタンを押した。
「見かけない方ですね」
ぼくは押し黙っていた。
「6階ですか。ああ、最近越してきた方ですね。ええっと、たしか・・・・、そうだ。矢野さんでしたね。わたし、807号の上野と言います。よろしくお願いします」
ぼくは、下を向いたまま頭を下げた。
「わたし、このマンションの自治会長をやっています。困ったことがありましたら、いつでもおっしゃってください」
声を出せないから困るよ。小さくなっていたら、6階に着いた。ぼくは急いでエレベーターを降りた。
「奥さん、またゆっくり話しをしましょう」
ぼくは閉まる扉に向かって深々と頭を下げた。何とか見破られずにすんだようだ。しかし、声を何とかしないと、本格的には外には出られないなと思った。ま、そんなに何度も外に出る必要もないか。そう思うことにした。
翌日、少し早く起きて、貯まった洗濯物に、美佐の下着やジーンズ、Tしゃつなどを一緒に洗濯機に放り込んだ。
洗濯機が回っている間に化粧して、美佐が普段着として着ていたワンピースを取り出して身に着けた。エプロンをして、洗い上がった洗濯物をベランダに干した。隣のベランダは、遮蔽されていて見えないが、602号と601号、反対側の610号、611号のベランダは見える。610号のベランダにぼくと同じように洗濯物を干している女性が目に入った。その女性はぼくに気がつくとぺこりと頭を下げてきた。ぼくも会釈して返事の挨拶をした。
何とかうまくいっているようだ。これで、少なくとも今日までは美佐が生きていたと思うだろう。
洗濯物を干し終わってから、急いで化粧を落とし、服を着替えてマンションを出た。勿論出かけるときの行って来ますの挨拶は忘れない。
「浅田さん、この伝票、処理してくれるかな?」
「は、はい」
浅田加世子は、ぼくが彼女の秘密を他の誰かに話すんじゃないかと心配しているような様子を見せている。しかし、そんなことしても何のメリットもないから、ぼくは黙っていることにしていた。ただの同僚として接している。
「矢野さん、これ、お昼に食べて」
そう言って、浅田加世子が折り包みをぼくに手渡した。開けてみると、手の込んだ料理が詰められた弁当だった。フロアー長が横目で見てからぼくに言った。
「ほう。手料理の弁当か」
「どうしてぼくに・・・・」
「おまえに気があるんじゃないか?」
ぼくはフロアー長を上目遣いに見た。
「美人だから、いいんじゃないか?」
「・・・・美人だとは思いますけど」
女じゃないとは言えなかった。
「付き合ってやれよ。ただし、結婚退職なんてのは困るぞ。彼女は、近年にない優秀な人材だからな」
「結婚なんて・・・・」
「ま、がんばれよ。俺は外に飯食いに行ってくる」
そう言い残して、フロアー長は、エレベーターに乗り込んでいった。
しばらくして、浅田加世子がぼくのお茶を運んできた。
「どういうつもり?」
「黙っててくれたお礼よ」
「言うつもりはないよ」
「それは分かってるわ。あなたは絶対にわたしの秘密を漏らさない。信じてる」
「ほんとに?」
「ホントは、ちょっと心配してるけど」
そう言って浅田加世子は肩を竦めた。
「もう、こんなことしないでよ。誤解されたじゃないか」
「わたしは嬉しいわ」
「困るよ」
「どうして?」
「どうしてって・・・・」
「あなたがばらさない限り、誰にも知られないわ」
「知られたら?」
「・・・・そうね。あなたに迷惑が掛かるか・・・・。分かったわ。もうこんなことしないから。ただの同僚として付き合ってね」
「勿論さ」
「矢野さん。ホント、好きよ。わたしが本物の女なら、絶対あなたを手に入れるのに。残念だわ」
顔をパッと赤らめて、浅田加世子は走り去っていった。本物の女でも、ぼくは美佐と結婚しているし、その美佐を殺した殺人者なのだ。浅田加世子の願いは叶うはずがない。
フロアー長は口が軽い。その日の夕方には、ぼくと浅田加世子は付き合っていることになり、しかも既に深い関係になっていることになってしまった。参るな。人の噂なんて、否定すればするほど、尾ひれが付くものだ。そう思ったぼくは、別に反論もしなかった。
「ただいま」
と大きな声を上げて、ドアを開けて部屋に入った。この言葉を聞いているものはいないかもしてないなとは思うが、例えひとりでも聞いていてくれればアリバイ作りになる。
美佐に化けるのは、2,3日に一回でいいだろうから、今日はぼくのままでいることにした。
シャワーを浴びて、缶ビールを飲みながら、昨日のことを思い出した。上野という自治会長と出会ったとき、声から男だとばれるのが怖くて、話しができなかった。声を何とかしないと、今度あの男に出会って一言も喋らなければ、不審に思われてしまう。
浅田加世子は、まったく女の声だ。喉仏もないようだが、どうしているのだろうか? 思いついて、デスクの上のコンピューターを立ち上げた。インターネットなら、何か情報が載っているかも知れない。
『ニューハーフ』『性転換』『女性ホルモン』などのキーワードを入れて検索すると、まず見つかったのは、声帯の短縮手術だった。そんなことはできない。
さらに探っていくと、声の出し方で女の声を作り出せるという記事が出ていた。その記事をテキストベースにしてダウンロードし、プリントアウトして読んでみた。
読んだだけではよく分からない。書かれている通りに声を出してみる。うまくいかない。そう簡単には行かないだろう。毎日練習すれば、そのうちに女の声が出せるようになるだろう。
ぼくには才能があったのか、三日で女の声が出せるようになった。テープに録音して再生してみても、まったく女の声に聞こえる。
丁度買い置きしていた食料がなくなったので、夕方帰宅してから、女装して近くのスーパーまで買い物に行った。
誰も気がつかない。スーパーの店員とも二言三言会話を交わしたが、訝る様子はなかった。
大きな袋をぶら下げて、上に上がっていたエレベーターが下りてくるのを待っていると、後ろから声をかけられた。上野という男だ。
「お久しぶりですね、矢野さん。お元気でしたか?」
「ええ」
「もう慣れましたか?」
「はい。すっかり」
エレベーターが下りてきた。中から、中年のふたり連れが降りてきた。
「今晩は、後藤さん」
「今晩は」
ぼくも軽く頭を下げる。
「さ、お先にどうぞ」
レディーファーストのつもりか、ぼくをエレベーターの中へ導いてくれた。
「お荷物、重そうですね。持ちましょうか?」
「いえ、結構です」
「遠慮なさらずに」
「軽いですから」
そんな押し問答をしていると、6階に着いた。
「じゃあ、お先に失礼します。お休みなさい」
「部屋まで、お手伝いしますよ」
「奥さんに見つかったら、怒られますよ」
上野さんは、そんなぼくの言葉に動きを止めた。
「それじゃあ、お休み」
「お休みなさい」
すぐ近くで話しをしたのに、ばれなかったようだ。ぼくは自信を持った。
部屋に戻り、買ってきたものを棚に収めていて、何気なく冷凍庫を開けた。美佐の姿を見つけて、一瞬ギョッとなった。
すっかり忘れていた。いくら完璧な女装をこなしても、美佐の亡骸を何とかしないと、すべてが徒労に終わってしまう。何年経ったとしても、この部屋で美佐の亡骸が見つかれば、ぼくが殺した事は明白だ。
美佐の亡骸は、冷凍庫の中でカチンカチンに凍り付いていた。このままにしておけば、美佐は永遠に若いままだななんて思っている自分がおかしい。何処か人気のない山の中へでも埋めようと決心した。