チュン、チュン、チュンと雀の鳴き声がし始めた。いつの間にか眠り込んでいたようだ。時計は午前6時過ぎを刺していた。
美佐は蝋人形のようにベッドの上に横たわっていた。ぼくは冷たくなった美佐の頬にキスした。ホントに冷たい頬だった。
やっぱり自首するべきだろうか? 美佐の顔を見ながら、じっと考える。やっぱり思い切れない。しかし、どうしたらいいんだろうか? このまま時間がたつのを待つわけにもいかないのだが・・・・。
キッチンでコーヒーを入れて飲んだ。こんな時に、よくコーヒーを飲む気持ちになるものだと自分でも思った。
ぼくはどうかしている。美佐を殺してしまったというのに、昨日と同じように会社へ出掛けようとしていた。着ていた服を着替え、きちんとネクタイをして、鍵を握りしめて部屋を出た。
「行ってきます」
ドアから出るとき、奥に向かってそう叫んでいる自分に、一番驚いているのはぼく自身だった。
マンションを出たときから、美佐のことは頭の中になかった。まるで精神が分裂してしまったかのように、ぼくとは違うぼくが、ぼくの行動を支配していた。美佐を殺してしまったことで、ぼくはおかしくなっていた。何やってんだ! 何やってんだ!! 心の中で、そう叫びながらも、ぼくは電車に乗って秋葉原へ向かっていった。
目の前に空いた席ができても、ぼくはぼうっとして突っ立っていた。1時間あまり立っていたのに、疲れは感じなかった。
ぼくは昨日までとまったく変わらない態度で勤務に就いた。
「おい、矢野。新人を紹介するぞ」
フロアー長がぼくを呼び止めて、浜田の代わりに配属になった新人を紹介した。
「浅田加世子君だ」
「浅田です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた女性は、ちょっとエキゾティックな美人で、ハイヒールの所為か、ぼくより背が高く見えた。
「矢野です。よろしく」
「働くのは初めてだから、よく教えてやってくれ」
「分かりました。浅田さん、今日は取り敢えず、ぼくのすることを見ていてください。いいですね」
「はい」
4月に入っても、地方から大学へ進学する子どもを連れた親たちが電化製品を買いに来て、朝から晩まで、忙しく動き回った。
浅田加世子は飲み込みが早い。夕方には、ひとりでお客の相手ができるようになっていた。
「まいったな。すぐに追い抜かれそうだよ」
「矢野さんの指導のおかげよ」
浅田加世子は、にっこりと笑ってぼくを見た。
「そう言って貰えると嬉しいな」
「あのう。矢野さん・・・・」
「なんだい?」
「お礼と言っては何ですけど、夕食をご馳走させて貰えません?」
「あ、夕食ですか・・・・」
「ご迷惑ですか?」
「イ、イヤ。そんなことはないよ」
「彼女が待ってるとか・・・・」
会社では、ぼくは独身と言うことになっている。結婚していることを知っている浜田はもういない。
美佐のことを思いだした。死体になった美佐が待っていると言えば、待っているのだが・・・・。
「誰も待ってはいないけど・・・・」
「じゃあ、いいでしょう?」
「そうだね」
「裏口で待っててね。着替えてくるから」
嬉しそうな顔をして、浅田加世子は制服のスカートを翻して、エスカレーターを降りていった。
空色の制服から、膝上丈の白いワンピースに着替えた浅田加世子は、随分変わって見えた。
「はは、お化粧も変えちゃたからね」
ぼくが妙な顔をして浅田加世子の顔を見たものだから、言い訳がましくそう呟いた。
「化粧に昼用と夜用があるの?」
「昼用と夜用じゃなくて、お勤め用と遊び用よ。お勤め用は大人しくしてるのよ」
「あ、なるほどね」
全体としては、それほど違ってはいないけれど、アイシャドウとルージュの色が違っているようだ。
「ご馳走するって言ったけど、安いところでいいかしら?」
「勿論だよ。そんなに大したことを教えた訳じゃないから」
「よかった」
そう言いながら、ぼくに向けた笑顔はどきりとするほど可愛かった。
浅田加世子に連れて行かれたのは、大衆割烹だった。
「これでいいかしら?」
「いいよ」
品書きの真ん中にある、2980円也の刺身定食を注文した。
「ビールも飲むでしょう?」
「そうだね」
酔って美佐の死体がある部屋に帰る。ぞっとしないな。しかし、ぼくはそのことを頭の中から振り払うために、持ってこられた生ビールのジョッキを一気に半分空けた。
「いけるのね」
「そんなに弱い方じゃないな」
「ほんと?」
「少なくとも、会社では一番強いだろうね」
ぼくは自慢げにそう言った。
「そうなの。わたしも弱い方じゃないけど、競争してみる?」
「浅田さん、そんなに強いの?」
女性に挑まれたのは初めてだった。ぼくはビックリして浅田加世子の顔を見た。
「それほどじゃないと思うけど、今まで男の人に負けたことないわ」
「へえ、それはすごい」
「今まで出会った男が弱かっただけだと思うけど」
「よし。やってみよう。女だからって、容赦しないよ」
「容赦してくれなくて結構だけど、ただ飲むだけじゃあ、面白くないわね」
「そうだね。・・・・じゃあ、負けた方が奢るって言うのはどう?」
「いいわね。あ、そうそう。定食代だけはわたしが出すわ。お酒の方が賭の対象よ」
「よっしゃあ」
最初に注文した中ジョッキはアッと言う間に空いてしまった。次からは大ジョッキに変えて飲み始めたが、浅田加世子は自分で自慢するだけあって強いと言ったらない。しかし、ぼくも負けてはいなかった。結局、大ジョッキを8杯ずつ空けたところで引き分けにすることにした。
「矢野さん、ホント、強いのね」
「浅田さんこそ、自分で強いって言うだけのことはあるよ」
「勝負が付かないから、割り勘でいいわね」
「ああ、そうしよう」
ぼくはちょっとホッとしていた。これ以上続けていたら、絶対ぼくが負けていた。浅田加世子はそのことが分かっていて、引き分けにしてくれたようだ。新入社員の女性が、先輩である男のぼくをうち負かすわけにはいかないと思ったのだろう。
ぼくはかなり酔っていた。マンションまでたどり着けそうもなかった。店の前で浅田加世子と別れ、通りをフラフラと歩いて駅へ向かった。
誰かに支えられたような気がした。ふと気がつくと、ぼくは浅田加世子とホテルの一室にいた。
「こんなこと、いけないよ」
「わたしが誘ったんだから、遠慮しないで。据え膳食わぬは、男の何とかって言うでしょう?」
ぼくは黙って浅田加世子の顔を見た。あんなに飲んだのに、まるで素面だった。酔っているからぼくを誘ったわけではないようだ。
「シャワー、浴びてくるから、帰らないでね」
ぼくは、シャワールームへ入っていく浅田加世子の後ろ姿をぼんやりと見ていた。こんなことしていいのだろうか? 浮気は勿論初めてだけど、美佐を殺してしまったあとなのに・・・・。
ぼくはベッドの上に仰向けに寝転がって、天井を見るとはなしに見ていた。
「矢野さん、あなたもシャワー浴びてきて」
「ああ」
ぼくはのろのろと起きだして、シャワールームへと向かった。
シャワーは冷たかった。酔いが一気に醒めた。腰にバスタオルを巻いて、浅田加世子の待つベッドへ戻った。
「色が白いのね」
「ここ数年、泳ぎに行ってないからなあ」
「元々白いんでしょう?」
「そうだね。焼いてもすぐに白くなるものね」
「・・・・こんなこと聞いちゃいけないと思うけど、矢野さん、身長はいくらあるの?」
あんまり触れられたくないことを聞かれた。ぼくの身長は164しかない。ちびだから、女にもてなかった。だから、美佐に出会うまで童貞だったのだ。
「言いたくないよ」
「あっ! ごめんなさい。忘れて」
「ああ」
浅田加世子は、ぼくに唇を合わせてきた。いい香りがした。浅田加世子の胸は大きい。美佐はBカップだったけど、それ以上だ。その大きな胸の頂点にピンク色の小さな乳首が乗っていた。
その乳首に舌を這わせようとしたら、浅田加世子は、するりとぼくの腕を抜けて、ぼくの股間に顔を埋めた。
浅田加世子は、まるでソープ嬢のような上手さだ。その方面の仕事していたのではないかと思ってしまうほどだ。そんなことは聞けないけど・・・・。
「浅田さん、出ちゃうよ」
「いいわよ。飲んであげる」
その返事を聞き終わらないうちに、ぼくは浅田加世子の口の中に射精していた。浅田加世子はほんとにぼくの放出したものをごくりと飲み込んだ。
さらに丁寧に嘗めあげたあと、指でぼくの股間を刺激しながら、ぼくの小さな乳首に吸い付いてきた。
「どう? 感じる?」
「う、うん」
浅田加世子は、絶対玄人だ。普通の女はこんな事をしない。そう思いながら、浅田加世子の股間に手をやった。
「えっ!?」
ぼくは驚きの声を上げた。そのとたん、浅田加世子はぼくから離れて、両手を合わせて謝る。
「ごめん!」
ぼくはシーツをはぐって浅田加世子の下半身を見た。つるつるに剃られた股間に、それほど大きくはないが、女には似つかわしくないものが付いていた。
「浅田さん・・・・」
「わたし・・・・女じゃないの。騙して、ごめん」
「騙しただなんて・・・・、そんなこと思ってないよ」
「ありがと。でも、こんなんじゃ、いやでしょう?」
「あ、それは・・・・」
突然のことに、何と答えていいのか、答えに窮した。
「やっぱり、だめよね」
浅田加世子はベッドから起きだして、服を着始めた。ぼくも仕方なく服を着た。
「こんなことするつもりじゃなかったのに・・・・」
「じゃあ、どうして?」
「矢野さんだったら、わたしを抱いてくれそうな気がしたの」
「浅田さんはホモなの?」
「・・・・わたし、こんな体だけど、女だと思ってるの。だから、恋愛の対象は男。わたしとしては、ヘテロだと思っているけど、他人から見れば、ホモに見えるかも知れないわね」
「・・・・そうだね」
「お店の人たちには、黙っていてね」
「分かってるよ」
「まだ終電に間に合うわね。出ましょうか?」
「ああ。・・・・浅田さん」
「何?」
「ひとつ聞いてもいいかな?」
「何を?」
「その胸、本物なの?」
「あ、これ? 上げ底。シリコンが入ってるの。わたし、女性ホルモンが効きにくいタイプらしくて、3年も飲んだのにAカップにもならなかったから、豊胸術を受けたの」
「へえ。本物とばかり思った」
「ホントに黙っててよ」
「ああ、分かってるよ」
ホテルから腕組みをして出た。端から見れば、ぼくたちはいいことして出てきたカップルに見えるだろう。
お茶の水駅まで歩いて、ぼくは中央線に、浅田加世子は山手線に乗って別れた。電車に乗ったあと、あのままやってみたら良かったなと思った。素人のニューハーフとのアナルセックスなんて、しようと思ってもそうそうやれるものじゃないのに。
立川で青梅線に乗り換え、昭島駅で降りて歩いて帰った。
「ただいま」
ドアを開けて部屋に入って、そう言ってから、美佐が死んでいることを思い出した。壁のスイッチを入れて、部屋の明かりを点けた。部屋の中の空気はひやりと冷たかった。
ベッドルームへそっと忍んでいった。死人の美佐が突然顔を出すような気がして、背中がぞくっとした。
薄暗いベッドルームの中を覗くと、ベッドの上に美佐の亡骸が朝と同じ状態で横たわっていた。
近寄って美佐の顔を見た。魂が抜けた、まさに抜け殻と化していた。これはもはやぼくの愛した美佐ではない。
腐敗しかけたようないやな臭いがした。このままこうしておく訳にはいかない。かと言って、どこかに捨てに行くと言っても、見つからないように捨てる自信がなかった。
ふと気がついて、キッチンを覗いた。キッチンには、冷蔵庫の他に冷凍庫が置いてある。冷凍食品を頻繁に使う美佐が、専用の冷凍庫を仕入れていたのだ。
扉を開いてみた。仕切りを取れば入りそうな気がする。既に収納されていた冷凍食品を、隣にある3ドアタイプの冷凍室に移し、仕切り板を取り除いた。
ベッドルームへ戻り、美佐の遺体を抱えてキッチンへ運び、固く硬直した手足を折り曲げて冷凍庫の中へ収めた。誂えたようにぴったりだった。
「ちょっと寒いだろうが、我慢しろよな」
そう呟きながら扉を閉めた。これなら当分大丈夫だ。運び出すアイデアをじっくり考える時間ができた。
美佐の遺体が視界から消えてしまうと、遺体そのものが完全になくなったような気がして、ぼくの心は軽くなった。午前0時を廻っているというのに、ぼくはまだ散らかっている引っ越し荷物を片づけることにした。
キッチン用品はほとんど片づいていた。服の類にはまったく手が着いていない。段ボール箱に書かれた表示に従って、中身をタンスの中へしまっていった。
ぼくの服の整理が終わって、美佐の服の番になった。ぼくの服の3倍はある。時計は午前1時少し前。
「明日にしようか・・・・」
そう呟きながら、箱の中から美佐のワンピースを取り出した。何気なく、ぼくに入るかなと思った。
ぼくは着ていた服を脱いで、ワンピースを着てみた。ぴったりとはいかないけれど、着られた。
なんて馬鹿なことやってんだよ。美佐を殺してしまって、頭がおかしくなってしまったのか!?
ぼくは急いでワンピースを脱いで、ベッドの中に潜り込んだ。美佐の死臭がしたような気がした。