受話器を取ってから、美佐の方を振り返ってみた。美佐はやっぱりぴくりとも動かない。プッシュボタンを押す。1,1。それから9を押そうとしたとき、電話機の置かれている台のそばにあるゴミ箱に目がいった。ぼくは、9を押すのを止まり、受話器を置いて、ゴミ箱に入っているものを取り出した。それは・・・・、それは、封の切られたコンドームの包みだった。こんなところに、どうしてこんなものがあるんだ!?
ぼくたちは、昨日の午後このマンションに越してきた。冷蔵庫や洗濯機、タンスなどの大きな荷物の整理で疲れ切っていたぼくは、昨夜は美佐に指の一本も触れずに眠ってしまった。子供はまだ欲しくないと言う美佐の言葉に、いつもコンドームは使っているが、これはぼくが使ったものではない。この袋の中に入っていたはずのコンドームは、ぼくがいなかった今日の昼間に使われたものだ。
ぼくはベッドルームとして使うことになっている奥の6畳へ足を運んだ。一番奥にダブルのベッドがでんと置かれている。シーツは、ぼくが出かけるときと変わらないように思える。しかし、ベッドサイドのゴミ箱の中に、コンドームが包まれていると思われるティッシュが放り込まれ、独特な臭いを発していた。
ぼくは、ゴミ箱の中にあるティッシュの固まりをじっと見つめた。相手はいったい誰だ! そう言えば・・・・。
急いで電話のそばに戻った。読売新聞の購読契約書が置かれてあった。勧誘に来た男だろうか? きっとそうに違いない。
美佐は、ぼくが美佐以外の女に気を奪われることを極端に嫌う。今日もそうだった。しかし、自分はと言うと、まったく貞操も何もあったものではない。ぼくのいない間に誰彼の区別なく男と寝てしまう。都営住宅にいるときもそうだった。
新聞やガスの集金人。羽根布団のセールスマン。訪ねてくる男がいないと、街に出掛けていって引っかけるのだ。
しかもそのことをぼくに隠そうとしない。いや、自分の方からそれをばらす。ばらしてぼくが怒るのを待っている。コンドームの袋も、ティッシュに包まれたコンドームも、ぼくに見つけさせる意図で放置されたものだ。
ぼくが怒るのを我慢していると、今日の男は上手かったとか、ぼくより大きかったなどと言って、ぼくが怒り出すまで話しを続ける。
結婚した頃は、美佐の作り話だと思っていた。しかし、出かける振りをして美佐の後をつけてみて、それが事実だと分かって愕然となった。
ぼくは怒りにまかせて美佐に暴力を振う。美佐はそうされることが嬉しいのだ。立ち上がれないくらい殴ったあとでないと、美佐は燃えないのだ。
最初の頃、ぼくも美佐を感じさせることができなかった。しかし、美佐が浮気した夜、それを責めてぶちのめしたとき、美佐はぼくの腕の中で恍惚となった。いつもはジェリーを使わなければ挿入できないのに、その時は、恐ろしいほど濡れていた。美佐は根っからのマゾなのだ。
そう言うわけだから、美佐の体には、ぼくの暴力によってできた痣がいっぱい付いている。
このまま救急車を呼べば、美佐の体に付いた痣が問題になるだろう。美佐がマゾで、そうしなければ感じないなどと言っても誰も信じてはくれない。ぼくは警察に逮捕され、よくて過失致死。下手をすれば殺人になる。
もう一度美佐の心臓を触ってみた。やっぱり動いていない。もはやいかなる手段を用いても生き返らないことは明らかだ。
ぼくは床の上にへたり込んだ。どうすればいいんだ。
美佐の死に顔を見ながら、ぼくは美佐との出会いを思い出していた。
美佐と初めて出会ったのは、西船橋の小さなスナックだった。名前は確か『カサブランカ』だったと思う。
2年前、ぼくは先輩である浜田に誘われて西船の裏町に遊びに行った。
「矢野、ストリップ、見たことあるか?」
「な、ないよ」
「まさか、女のあそこを見たことがないなんてことはないだろうな?」
見たことがなかった。ぼくは黙っていた。
「そうか。じっくり見せてくれるところがあるから行こう」
浜田に連れられて、とあるストリップ劇場へ入った。薄暗い劇場の中に、結構大勢の男たちが舞台を見つめていた。
派手な衣装を着たストリップ嬢が音楽に合わせて踊り、盛り上がったところで一枚一枚衣服を脱いでいく。ついには全裸になったストリップ嬢が、あそこを男たちに見せて回る。ぼくは一番前まで男たちを押しのけて進み、目の前5センチくらいの距離で女のあそこを見た。
「ぼく、よく見るのよ」
顔を上気させてみるぼくに、ストリップ嬢はそう言った。初めて見た女のそこはグロテスクだと思った。
舞台を一周すると、ストリップ嬢は、舞台の袖にいた男を舞台の上へ上げた。その男は、喝采を浴びながら、ストリップ嬢に手を引かれて舞台の真ん中へと進んだ。
「何するの?」
ぼくは浜田に聞いた。
「今から、あのふたりが舞台の上でやるのさ」
「やるって、セックスを?」
「そうだよ」
「まさか!!」
人前でセックスするなんて、ぼくには信じられなかった。
「ほんとさ。見てたら分かるよ」
男はズボンを脱がされ、フェラチオされている。
「何よ。このふにゃチンは!」
劇場内の男たちの嘲笑が舞台の上の男に浴びせられた。
「みんなに見られているからな。よほど慣れてないと、勃起するやつはいないな」
浜田が、物知り顔でそう言った。
「それが分かってて舞台に上げてるの?」
「どうもそうみたいだね。うまくいったのを一度も見たことがないよ」
「じゃあ、どうして舞台の上に上がるの? 恥ずかしいだけじゃないか」
「上手くいけば、ただでできるからな」
そうまでして、やりたいものなのかと思った。
「よく見に来るの?」
「ときどきね。さあ、もう見飽きたから、出るか」
「そうだね」
連れだって、ストリップ劇場の外に出た。通りを歩きながら、浜田はぼくの方を振り向いて言った。
「どうだった?」
「どうだったって?」
「女のあそこさ」
「グロテスクだね」
「俺は可愛いと思うけどな」
「そうかなあ」
「おまえも女を知ったら、愛おしく思うようになるさ」
「そ、そうか」
「女としたことないんだろう?」
「あ、ああ」
「矢野、ソープに行こうか?」
「ソープ・・・・」
「初めてするときは、プロに教えて貰った方がいいんだ。優しくしてくれるぞ」
「そうだな」
「素面じゃいけないだろう。ちょっと一杯やっていこう」
「ああ、そうしよう」
「あのスナックに入ろうか」
たまたま入ったそのスナックで、美佐が女友達と飲んでいた。美佐の顔を見たとたん、ぼくは虜になってしまった。そんなに美人というわけじゃない。浜田に言わせれば、十人並みと言うところだ。しかし、横顔がおふくろに似ていた。男は母親の面影を追いかけるものだ。
「あのう、一緒に飲みませんか?」
そんなぼくたちの申し出に、美佐たちは快く応じてくれた。あとで聞いたところに寄れば、美佐もぼくを見て感じるところがあったそうだ。
「君たち、どこから来たの?」
「地元だよ」
「そう。俺たち、東京から来たんだ」
「何しに?」
どう答えていいのか分からず、ぼくは浜田の顔を見た。浜田は場慣れしているのか、即座に答えた。
「君たちみたいな美人と出会うためだよ」
「上手いのね」
「本音だよ。俺は嘘は申しまっせえん」
「面白い人」
水割りを飲みながら、カラオケを歌った。2時間あまりそうしていただろうか?
「そろそろ、次ぎに行かないか?」
「いいわね」
「矢野は洋子さんがお気に入りみたいだから、俺は恵子さんとご一緒するからな」
そう言い残して、浜田はさっさとスナックを出ていった。この時、美佐は洋子と名乗っていた。
「どうする?」
スナックの前で、ぼくはどうしようか迷って美佐に聞いた。
「もう一軒行く?」
「俺、もう飲めないよ」
ホントはまだ飲めた。だけど、美佐と懇ろになりそうな予感がしていた。だから、それ以上飲むわけにはいかなかった。
「じゃあ、一休みしようか?」
「えっ!? どこで?」
「目の前のホテルで」
ぼくたちの目の前に、ラブホテルがあった。美佐の方から言い出すなんて、思ってもみなかった。迷う暇もなく、ぼくは美佐に引っ張られて、そのラブホテルの中に入った。
美佐がシャワーを浴びる音を聞きながら、ぼくはベッドの端に腰掛けていた。胸がどきどきするのはアルコールの所為ではなかった。
「矢野さんも浴びてきたら? すっきりするわよ」
「は、はい」
ぼくは勃起した息子を隠しながら、シャワーを浴びた。腰にタオルを巻いてベッドに戻ると、美佐はにっこり笑ってぼくをベッドの中へ導いた。
「お、俺、初めてなんだ」
「光太郎さんだったの。いいわよ。教えてあげるわ」
キスされてフェラチオされた。あっという間に、美佐の口の中にぶちまけてしまった。
「さすがに元気がいいわね。すぐに回復するでしょう。その間にわたしにサービスしてね」
「サービスって?」
「わたしの言う通りにしてくれればいいわ」
美佐の指導に従って、首筋や乳首に舌を這わせ、最後に美佐の股間に顔を埋めた。美佐のあそこは、つい数時間前見たストリップ嬢のものとは雲泥の差があった。浜田が言ったように愛おしいと思った。
再び勃起し、ぼくは美佐と一体になった。
「もっと激しく!」
美佐のあそこはきつかった。それは美佐があまり濡れてなかった所為だったが、その時のぼくはそれを知る由もなかった。
美佐の中に勢いよく発射した。セックスがこれほど気持ちのいいものだとは知らなかった。
「うまくできたわよ」
「ありがとう。よかったよ」
「わたしもよ」
そのまま抱き合って、朝まで眠った。目覚めてもう一度した。ぼくは美佐が好きになっていた。ぼくの初めての女だから。
「よかったら、電話番号を教えてくれないか?」
ホテルから出るとき、電話番号を聞いた。
「いいわよ」
美佐は快く教えてくれた。ぼくたちは互いに手を振って別れた。
会社に顔を出すと、すぐに浜田が声をかけてきた。前日と同じ服を着ているぼくを見て、浜田が茶化した。
「よう、矢野。朝帰りかよ」
ぼくと浜田の間に隠し事はない。ぼくは正直に話しをした。
「実は彼女とホテルに行ったんだ」
「へえ、それはおめでとう。で、うまくいったのか?」
「うん」
ぼくは胸を張った。
「童貞とおさらばしたって訳だ」
「そう言うこと」
ぼくは頭をかきながら、少し照れ気味に答えた。
「よかったか?」
「勿論だよ。浜田は?」
「体よく、逃げられちゃったよ」
「浜田の話術でも逃げられることがあるのか?」
「8割はうまくいくんだがなあ」
「残念でした」
「恵子の方が美人だったからなあ」
「洋子も結構いけてたよ」
「おまえのセンスはおかしい」
「おかしくなんてない!」
「まあ、いいや。しかし、あの洋子って言う女は、誘ったら誰とでも寝るらしいぞ」
「う、嘘だろう?」
「恵子がそう言ってた」
「信じられないよ」
「だけど、すぐにホテルに行ったんだろう?」
「洋子の方が誘ったんだよ」
「やっぱりね」
「そんな尻軽女には見えないけど・・・・」
「見かけに依らないってこともあるさ」
「そうかなあ・・・・」
数日して、美佐に教えられた番号に電話してみてビックリした。電話に出た相手は、『ピンクドール』と言う、ソープランドだったのだ。嘘の電話番号を教えられた。そう思った。
翌月の給料日、やっぱり浜田と西船へ遊びに行った。ぼくは、ちょっと気になって、『ピンクドール』と言う店を探して行ってみた。
店の中に入って、女の子の写真を見ていると、驚いたことに美佐の写真があった。桃子と言う名前で、美佐は働いていた。
「すみません。この子、いいですか?」
ぼくは思わず美佐を指名した。
「桃ちゃんね。待機してるよ。はい、どうぞ。桃ちゃあん、ご指名だよ」
すけすけのベビードールに、茂みをやっと隠すくらいの小さなパンティーを身に着けてやって来たのは、紛うことのない美佐だった。
「あら、来てくれたのね」
悪びれもせず、美佐はそう言った。
「ここで働いてんの?」
「そうよ。言わなかったかしら?」
ぼくは黙って頷くしかなかった。
「さあ、中に入って」
美佐の後について個室に入った。部屋に入ると、美佐はベビードールをさっと脱いだ。
「どうしたの? 早く脱いで」
「脱いでって・・・・」
「ここはソープランドなのよ。服を着たままじゃあ、お風呂に入れないでしょう?」
こんなことしに来た訳じゃないよな。そう思いながら、ぼうっと立っていた。
「さあ、早く脱いで」
美佐に無理矢理服を脱がされ、スケベ椅子に座らされた。
「今日も飲んでるの?」
「いや」
「元気がないのね」
ぼくの息子はだらりとしたままだった。美佐はぼくの体を流し始めた。
「さあ、中に入って」
促されて湯船に沈む。
「いつまで入ってるの? 時間がなくなるわよ」
そう言いながら、美佐はパンティーを取った。
「あの、俺・・・・」
「わたしとするために来たんでしょう? 早く上がってきなさいよ」
ぼくはのろのろと湯船を出た。美佐は、ぼくの息子にむしゃぶりついてきた。プロだったんだな。童貞のぼくを上手く導いてくれたはずだ。ようやく勃起した息子を感じながら、ぼくはぼんやりとそう思っていた。
初めは虚しいような気がしていたが、美佐と一体になったとたん、美佐のことを恋人のように思えてきた。
給料日のたびに美佐に会いに行った。美佐はいつももの凄く感じた振りをしていたが、あそこはまったく濡れていなかった。商売だから、いつも感じていては体が持たないんだろうなと思っていた。それが間違いだったとあとで知ったことは、もうすでに話した通りだ。
半年して、ぼくはソープランドの個室の中で、美佐にプロポーズした。
「あなた、何考えてるの? わたしはソープ嬢なのよ」
「俺、桃子が、いや、洋子が好きなんだ。他の男に抱かせたくない」
「冗談は止めてよ」
「本気だよ。俺と結婚してくれ」
「馬鹿も休み休み言いなさいよ。結婚した女が、元ソープ嬢だと他人に知れたら、あなた、後悔するわよ」
「後悔なんてしない。一緒に東京に行こう。東京だったら、君のことを知るものは誰もいない」
「わたしみたいなブスのどこがいいの?」
「美人とかブスとかは主観の問題だよ。俺にとっては君は美人だよ」
ぼくの美人だよと言う言葉に、美佐は嬉しそうな顔をした。
「本気なの?」
「本気だよ」
「ホントに後悔しない?」
「しない」
美佐は考え込んでいた。しばらくして、ぼくを見て言った。
「浮気しないって約束してくれる?」
「約束するよ」
「他の女に目もくれないでね」
「君だけを見ている」
「じゃあ、いいわ」
「結婚してくれるんだね」
「ええ」
美佐は、自分の身の上のことは黙して語らなかった。どこの出身で、どこの学校を出たのか、両親が生きているのか死んでいるのか、生きているのならどこに住んでいるのか、姉妹はいるのか、ぼくは美佐のことをまったく知らない。婚姻届を出すときに、桃子も洋子も偽名で、本名が赤峰美佐で、本籍が大分だと知った。それだけだ。
結婚式も挙げず、ただ入籍しただけだった。両親に紹介しようとした矢先に、両親が事故で死んでしまって、会わせずじまいだった。
ぼくが美佐と結婚していることは、浜田しか知らない。その浜田も、美佐が西船のスナックで知り合った洋子と名乗った女と同一人物だとは知らない。ましてや、ソープ嬢だったことなんて露も疑っていない。
孤独で、ぼく以外に頼る人間がいない美佐。その美佐を、過失とは言え、ぼくは殺してしまった。やっぱり自首するべきだ。そう思って受話器を取った。しかし、110を押せなかった。
あるいは美佐には親族がいるのかも知れない。しかし、いずれにしろ、か弱い女性を虐待して殺してしまったと、ぼくは世間の弾劾を受けることになるだろう。それが怖かった。
どうしていいのか分からず、ぼくは美佐の冷たくなり始めた体を抱きかかえて、ベッドに寝かせた。
ぼくは、ベッドの横の床の上に座って、血の気の失せてしまった美佐の横顔を見つめていた。