第1章 過失

 電車の中に飛び込んで中を見回したけれど、空いた席はなかった。ぼくは仕方なく、ドアのそばの吊革に掴まった。
 ぼくが飛び乗った電車は東京行きの通勤快速なのだが、青梅線を走っている間は、各駅停車だ。駅で停まる度に乗客が乗り込んできて、降りる人はごく少ない。立川で乗り換えする人がけっこう多いと聞いている。もしかすると立川で座れるかもしれない。ぼくは吊革に掴まって、座席に座った人たちをそれとなく眺めた。このうちの誰が立川で乗り換えるだろうか? ぼくは、今日初めてこの路線を使うので、予想はまったくつかない。
 こんな所に立っていると、座席が空いたときに座れないなと考えたぼくは、車両の中程に場所を移した。立川で降りそうな人物に焦点を合わせ、その前に立つ。今日の運勢はどうだ?
 「まもなく、立川。南武線、中央線八王子方面は、お乗り換えです。まもなく、立川。南武線、中央線八王子方面は、お乗り換えです」
 車内放送が聞こえてきた。ぼくの目の前の座席に座っているサラリーマン風の男が読んでいた新聞を畳み始めた。降りそうな雰囲気だ。ぼくは心の中でやったなと叫んだ。
 「立川。立川。この電車は、東京行き通勤快速です。立川。立川。この電車は、東京行き通勤快速です」
 アナウンスが車内に響き渡り、電車は立川に着いた。ぼくは座れるだろうと体勢を整えて待った。ところが、男は降りなかった。鞄の中から、書類を取り出すと、じっと見始めた。くそう。降りないのなら、紛らわしい真似するなよ。ちょっと口を尖らせた。他の乗客は? ぼくの前に座っている7人の誰も立ち上がろうとしなかった。
 後ろを振り向くと、空いた座席があった。座ろうとしたら、隣に立っていた若い女に先を越された。くそ!! 今日はついてない。

 新宿でようやく座れた。ホッとする間もなく、東京駅に着いた。山手線へ乗り換え、秋葉原へ向かう。山手線も混んでいた。やっぱり座れなかった。すぐに着くからいいけれど。
 秋葉原駅は、朝早くから人で溢れている。ぼくのように電気街で働く人間も多いけれど、買い物客らしい人たちも結構多い。こんな朝早くから、何を買いに行くのだろうか? それにしても、ウイークデーというのに、働きに行かなくていいのだろうか? 何して食ってる連中なのだろうか? 学生らしい若い男たちに混じったサラリーマン風の中年の男たちを見ながら、ぼくはそんなことを思っていた。

 「おはようございます」
 「おはよう」
 ロッカールームで、ジャケットを店のロゴの入ったジャンパーに着替えて、ぼくの働くフロアーに上がっていった。
 フロアー長のいつもの朝の挨拶が終わり、仕事に掛かる。エスカレーターをお客がポツリポツリと上がってくる。
 「いらっしゃいませ!」
 値段を一瞥しただけで、すぐに去っていくお客が多い。他の店にもっと安いものがあるのだろう。値段交渉してくれれば、安くするのになと思う。
 そんな中に、特売品の商品を何度も見ては腕組みしている若い女性がいた。買ってくれそうだな。ぼくの勘がそう伝えていた。ぼくはその女性にそれとなく近づいていった。
 「すみません。これいただけますか?」
 予想通り声をかけられた。ぼくは愛想良く笑顔を浮かべて説明する。
 「このレンジですね。これはお買い得ですよ。機能満載ですし、明日まで、キャンペーン価格で、お安くなっておりますから」
 「あの冷蔵庫も欲しいんですけど」
 「分かりました。これですね」
 ぼくは、注文票に品物の品番を記入する。
 「他にご入り用のものはございませんか?」
 「それだけでいいわ」
 「それでは、向こうのお席までお願いいたします」
 フロアーの奥にあるテーブルまでお客を連れていって、注文を確かめる。
 「この書類にご記入お願いいたします」
 お客が住所、氏名、電話番号を記入するのとじっと見ていた。
 「レンジは特価品ですので、勉強できませんが、冷蔵庫は、4000円サービスさせていただきます」
 「ほんと!? 嬉しいわ」
 「お支払いは?」
 「カードでお願いします」
 「承知いたしました。お届けは明日になりますが」
 「明日は午後出かけるんですが、午前中に配達できますか?」
 「今引っ越し時期でしょう? 配達が多くて、午前中というのがお約束できなくてですね」
 「そうですか。じゃあ、明後日に。明後日なら、一日中家にいますから」
 「明後日ですね。承知いたしました。それでは少々お待ちください」
 カード決済をすませて、お客の元に戻った。
 「これはお客様の控えです。明後日の午前9時頃、お届けする時間をお知らせいたしますので、よろしくお願いいたします」
 「分かったわ。じゃあ、よろしくね」
 「ありがとうございました」
 電車の中での運勢チェックは悪かったけれど、仕事はいつものように順調に進んでいった。

 「おい、矢野。新居はどうだ?」
 お客が途切れたころ、同じフロアーで働く浜田真吾が声をかけてきた。
 「新居たって、都営と変わらないよ」
 「しかし、自分の持ち物だろう?」
 「借家だったらさあ、気に入らなくなったら転居できるけど、借金が済むまで、ずっとあそこに住まなきゃいけないからなあ」
 「なに贅沢言ってんだよ。それでもいいじゃないか。自分のマンションに住めるんだから」
 「・・・・そうだな」
 「しかし、すごいな。24で自分のマンションを手に入れるなんて」
 「保険金が入ったからな」
 「そうだったな」
 半年前、両親が事故で死んだ。その保険金がぼくの手に入った。父50歳、母46歳だった。保険金よりも、両親に生きていて孫の顔を見て欲しかった。しかし、それはもう叶わない願いだ。
 「通勤はどうだ?」
 「ま、一緒だな。通勤距離が伸びただけ。ただ、バスに乗らないですむから、通勤時間はむしろ短くなったかな?」
 「なら、いいさ。あ、お客だ。いらっしゃいませ」

 1時間もかけて通勤するなんて、何と馬鹿らしいことをやっているんだろうか? 往復の通勤時間で、一日の12分の1も通勤に費やすなんて、人生の無駄遣い以外の何者でもない。田舎に帰れば、20分ほどで通えるだろうに。しかし、田舎に帰ってもやる仕事がない。だから、仕方がない。
 それにしても、田舎だったら一戸建てが楽々買える値段のマンション。保険金の半分以上を使った上に、さらにローンがぼくの肩にずっしりとのし掛かっている。
 「都営の家賃に少し足せば、自分のマンションが手に入るのよ」
 そう、美佐に言われて話しが進んでいった。しかし、小遣いは半分になるし、着るものもそうそう買い換えられなくなる。食費も削り、レジャーにもいけなくなる。ぼくは思い直すように美佐に何度か言った。
 「あなたとの、愛の巣があるなら、他には何もいらないわ」
 そんな殺し文句にぼくは負けた。3LDKだが、都営住宅よりはかなり広くなった。それに、マンションはオートロックになっている。
 「訪問販売なんかが来なくていいわ。断るのに、四苦八苦してたから」
 美佐の笑顔を見ていると、ま、いいかなと思ってしまう。

 「浜田、お疲れさん」
 「お疲れ。矢野、今日でお別れだな」
 「世話になりっぱなしだったな。大阪でも頑張れよ」
 「ああ、生まれ故郷だから、すぐに慣れるさ。矢野も、せいぜい頑張れよ」
 「ああ。じゃあな」
 浜田には年老いた母親がいる。体の調子が悪いらしく、帰ってきてくれと言われ、4月から、大阪支店勤務になるのだ。入社以来、公私に渡って世話になった浜田と別れるのは寂しいが、これも仕方のないことだ。
 公式にもプライベートにも送別会はもう済ませてある。夕方の新幹線に乗るために、正午で仕事を切り上げた浜田に最後の別れをしたのだ。

 午後六時。ぼくはロッカールームで私服のジャケットに着替えると、店を出た。秋葉原駅はいつものようにごった返していた。
 山手線で東京駅へ向かう。中央線のプラットホームで時刻表を確認して、ノートにメモを取った。
 3分後の快速があるが、さらに5分後に青梅行きの通勤快速がある。快速だと、立川で乗り換えたとき、座れない可能性がある。しかし、青梅行きの通勤快速に乗れば、昭島まで確実に座ることができる。ぼくは、待つことにした。
 同じ様なことを考えている人間もいるようだ。快速に乗らないで、列ぶものがかなりいた。しかし、ぼくは座ることができた。朝はともかく、帰りは座って帰られそうだ。
 座席に座っているとき、子ども連れの母親や、年寄りの哀れみを乞うような目で見られることがある。席を譲ってやるのが、若い男のぼくとしては、やらなければならないことなのだろうけど、一日中立って仕事をしているぼくにとっては、それは自殺行為に等しい。ぼくは、狸寝入りを決め込んで、そんな視線から逃げている。今日も居眠りしながら帰った。少なくとも立川までは眠っていられる。

 昭島駅から歩いて5分ほどの場所に、ぼくのマンションがある。10階建ての新築マンションだ。
 玄関まで来て、鍵を忘れて出たことを思いだした。オートロック式のマンションだから、鍵がなければ中には入れない。ぼくには、美佐が中にいるから大丈夫だけど。
 玄関横に設置されたインターフォンのパネルの606を押して、返事を待つ。返事がない。もう一度、606を押してみた。やはり返事がない。困ったぞ。こんな時間に何処かへ出掛けたのだろうか? 腕時計は午後7時40分を刺していた。
 「いったい、どこへ行ってるんだ!?」
 そう心の中で叫びながら、玄関前をうろうろした。
 10分待っても美佐の姿は現れない。ぼくはもう一度インターフォンを押してみた。しばし間があって返事があった。
 「はい。矢野です」
 眠そうな美佐の声が聞こえてきた。
 「なんだ、いたのか。ぼくだよ。鍵を忘れたんだ。玄関を開けてくれよ」
 「あら、亮平。ごめん。ちょっとうとうとしてたから。すぐに開けるわ」
 すぐに玄関ドアのロックがガチャリと外れた。ぼくは、エレベーターで6階に上がっていった。
 部屋のドアにも鍵が掛かっていた。ぼくはチャイムを鳴らす。
 「はあい」
 「ドアを開けてくれよ。鍵が掛かってるよ」
 「ごめん、ごめん。ここもオートロックだったわね」
 Tシャツにジーンズ。髪を後ろでくくった美佐がドアの奥から顔を出した。
 「セキュリティーは高いかも知れないけど、不便極まりないね」
 「あなたが鍵を忘れるからいけないのよ」
 「そんなこと言ったって」
 ぼくはちょっとむっとくる。通勤に要する時間が分からなかったから、慌てて出かけて鍵を忘れたのだった。
 「明日は忘れないように持って行ってよ。わたしがいなかったら、中に入れないんですからね」
 「分かったよ。めしは?」
 「作ってない」
 美佐は胡座をかいてソファーの上に座った。
 「作ってないって!?」
 「今日一日、ずっと片づけしていたのよ。疲れちゃって、作る気にならなかったの」
 「どうするんだよ」
 「駅に行く途中にファミレスがあるでしょう? あそこに行きましょう?」
 「ファミレスか」
 ぼくは膨れる。
 「今日だけよ。明日は作るから。ね、いいでしょう?」
 美佐の笑顔に、また負けた。
 「仕方ないな」
 「鍵を忘れないでね」
 「ああ、分かってるよ。ほら、この通り」
 ぼくは、電話台の上に置いてあったぼく用の部屋の鍵を手にして美佐に見せた。
 「それ、体の一部だと思ってね」
 「分かってるって」
 鞄をソファーに放り出して、美佐のあとについて部屋を出た。

 「わたし、フィレステーキの洋食セットね。亮平は何にする?」
 「フィレステーキの洋食セットって、高いんじゃないの?」
 「転居祝いよ。今日くらいいいでしょう?」
 「それもそうか。じゃあ、ぼくも同じものでいいよ」
 「すみません。注文、いいですか?」
 ファミレスの店員がやってきた。ぼくは、そのファミレスの会員勧誘のパンフレットを見ていた。
 「フィレステーキの洋食セット、ふたつね」
 「フィレステーキの洋食セット、おふたつですね。お飲物は如何致しましょうか?」
 「亮平、どうする?」
 「コーヒーを。ホットで」
 「じゃあ、コーヒーもふたつ」
 「コーヒー、おふたつですね。食後に致しましょうか? それとも・・・・」
 「先にください」
 そう答えながら注文を取りに来た女子店員の顔をふと見た。げえっ! すっげえ美人だ。それに、ミニスカートから覗いた足も細くて格好いい。モデルにでもなった方がいいほどだ。こんなファミレスで働くなんて勿体ない。ぼくは見とれてしまった。
 女子店員は、そんな目で見られるのに慣れているのか、澄ました顔をして、厨房の方へ歩いていった。
 「何見てんのよ」
 棘のある口調で、口を尖らせた美佐がぼくに言う。
 「あ、ああ・・・・」
 「男の人って、結婚してても女の人に目がいくのね」
 「おまえは、格好いい男に目がいかないのか?」
 「いくわけないでしょう」
 そんな美佐の答えに、ちょっと疑問を感じながら、ぼくは話しを続けた。
 「へえ、そんなもんかね」
 「あんな女のどこがいいの?」
 「結構美人だと思うよ。こんなところで働くなんて勿体ないよ」
 「そんなに美人かなあ。化粧で誤魔化しているだけよ」
 「そうかな」
 「そうよ。一皮剥いたら、見られたものじゃないわ」
 「男の見方と女の見方は違うからな」
 「亮平は、わたしだけを見ててよ」
 「そう言うわけにもいかないさ。男の習性だからな」
 美佐は、プウと膨れて、ぼくを睨み付けてきた。自分のことは棚に上げて困ったもんだ。ま、美佐も最近は大人しくしていることだし、部屋に戻ったら、ご機嫌取らなきゃ。
 しばらく様子を見ることにして、ぼくは黙ったままパンフレットの続きを読んだ。あの時、店員の顔を見なければよかったと少し後悔しながら。

 美佐の機嫌はなかなかよくならない。コーヒーを飲む間も、フィレステーキを食べる間も、ひと言も口をきかなかった。
 食べ終わってからも会話のないまま、会計を済ませて店を出た。
 「まだ、へそ曲げてんのか?」
 「知らない!」
 ぼくは肩を竦めて、さっさと歩いていく美佐のあとについてマンションへ戻った。

 一日中片づけていたと美佐は言ったけれど、部屋の中はまったく片づいていない。
 「全然片づいてないんだな」
 美佐は何も答えない。むっつりとしたまま、箱の中から食器を取り出して、食器棚の中にしまい始めた。ぼくも、本棚に本を並べることにした。
 2時間掛かって、ようやく本棚に本が並んだ。美佐が一日中掛かっても大して片づかないはずだとやっと気が付いた。
 「片づけも大変だな。そろそろ明日にしようか」
 美佐はやっぱり返事をしない。黙々と片づけを続けていた。
 「もう、いい加減にしろよな。女の顔くらい見たっていいじゃないか」
 「結婚するとき、わたしだけを見ているって言ったよね」
 「・・・・言ったけど」
 「あれは嘘なの!」
 「・・・・嘘じゃないよ」
 「じゃあ、二度とわたしの前であんな真似はしないで」
 「分かったよ」
 「約束よ」
 「ああ」
 「もっと気を入れて返事してよ」
 「約束するって言ってるだろう!!」
 「何よ、その言い方は。信じられないわ」
 「俺の言うことが信じられないって言うのか!?」
 「何度同じことを聞かされたと思ってるの? 毎週のことじゃないの」
 そう言われてぼくには何も言えない。美佐と一緒にいるときに限って他の女のことが気になるのだ。それがどうしてなのか分からない。しかし、美佐にも原因がある。
 「釣れた魚には餌をやらないって言うのはホントなのね」
 「そんなことないよ」
 「わたしみたいな女と結婚したことを後悔してるのよ!」
 「そんなことないってば」
 「わたしが・・・・、わたしがあんなことをしてたから・・・・」
 「そんなことは、もう忘れた」
 「嘘よ。一生、わたしのことを蔑むんだわ」
 「そんなことあるはずがないじゃないか」
 「まともな結婚ができるはずのない女と結婚してやったんだと思ってるんだわ。だから、他の女を見てもわたしが我慢すると思ってるんだわ」
 「いい加減にしろよ!! ただ見ているだけで、浮気してるって訳じゃないじゃないか!」
 「そう言う問題じゃないわよ。わたし以外の女に気を回さないで欲しいのよ」
 「ただ見てるだけだって言ってるだろう?」
 「結婚なんてしなけりゃよかった。そしたら、こんな思いもしなかったのに」
 「馬鹿野郎!」
 また美佐をひっぱたいてしまった。美佐は勢い余って床で頭を打ったようだ。ぼくは、床の上に倒れた美佐を置いてバスルームへ入った。
 女に暴力を振るうのはよくない。それは分かっている。しかし、つい手が出てしまう。美佐が言うように、美佐に何をしても抵抗しないと分かっているから、そうするのかもしれない。ぼくは・・・・卑怯者だ。

 すぐにバスルームを出たら、また喧嘩しそうだな。そう思いながら、ずいぶん長い間湯船に浸かっていた。
 「美佐! 着替えを頼む」
 返事がない。まだ、へそを曲げているようだ。
 「美佐! 機嫌を直して着替えを持ってきてくれよ」
 やはり返事がない。ぼくはバスタオルを腰に巻いたまま、リビングへ戻った。
 「美佐! 何やってんだよ。俺の声が聞こえないのか!」
 ぼくはハッとした。美佐は、さっきぼくが頬を叩いて倒れたままの格好で床の上に転がっていた。様子がおかしい。
 「美佐。どうかしたのか?」
 美佐のそばに跪いて揺すってみた。ぐったりとした美佐。まるで反応がない。
 「冗談は止めろよ、美佐」
 そう言いながら、美佐の頬をパシパシと叩いた。すぐに目を開けてくれると思ったのに、半開きのままだ。腕の脈を取ってみた。脈が触れない! 胸に手を当ててみた。心臓が動いていない。そんな馬鹿な!! ぼくの耳の中にどくどくと心臓の鼓動が響き渡った。
 「美佐! 美佐!! しっかりしろ! 美佐!!」
 美佐の反応はない。大変だ!! ぼくは慌てて受話器を取った。急いで救急車を呼ばなければ。