七月九日(金)

 頭が割れるように痛い。吐き気もひどい。パジャマのまま、ふらふらとリビングへ降りていった。
 「おはよう、お父さん。はい、薬とお水」
 「ありがとう。気が利くね」
 「お母さんの教育の賜物よ」
 「そうか。母さんのね」
 「お父さん、わたしが好きでもキスはもうしないでね。わたしの大事なひとにあげるんだから」
 「えっ」
 「覚えてないの?」
 あんな時は、酔っぱらっていて覚えていないと惚けるに限る。
 「何を?」
 「もういいわ。仕事行くんでしょう?」
 「今日から東城村だ。十時までに着けばいいと言われている」
 「東城村? 転勤なの」
 「転勤と言えば、転勤だが、隣村だからな。市内向けと反対方向だから、通勤もそう混まないだろう」
 「車、乗って帰ってないでしょう? どうするの?」
 「あっ、そうか。それを忘れてた。仕方がない。今日はバスで行こう」
 「それなら早く準備しなくちゃ」

 美奈子と一緒に家を出て、近くのバス停から丁度八時に東城村行きのバスに乗った。向こうのバス停から研究所が近ければ、毎日バス通勤でもいいななどと考えながら、バスに揺られた。高い建物が見えなくなり、やがて田園風景へと変わっていった。
 一時間ほどで、地図にあるバス停に着いた。バス停はうっそうとした林の中にあった。誰も降りるものはいない。バスが行ってしまうと、まるで太平洋のど真ん中に置き去りにされたような孤独感を覚えた。
 こんな人里離れた研究所に出向なんて、やはり辞表が正解だったかなと思いながら、地図に示された山道を登り始める。傾斜はひどくないが、だらだらと上っていて息が切れる。年のせいだろうか? いや、二日酔いの影響もあるのかもしれない。だが、こんな坂を毎日は通えない。今日だって車で来るべきだったと後悔した。

 地図ではバス停からすぐのように書いてあるのに、行けども行けども研究所に着かない。諦めて引き返そうかなと考えていたら、研究所らしい屋根が見えてきた。かれこれ三十分は歩いたことになる。
 ハンカチで汗を拭き拭き研究所の門の前に立った。門柱に古びた厚い木の看板が掛かっている。墨で書かれた字も消えそうになっている。『大日本ゼウス製薬医科学研究所』と読める。目的の研究所だ。門から建物の玄関まで手入れされていない雑木が生い茂っている。ここで何の研究をやっているのだろう。世の中から隔離されたような研究所で。だんだん不安になってきた。

 玄関に呼び鈴はない。ノブを回すとぎりぎりと大きな音がしてドアが開いた。中から薬品くさいひやりとした空気が流れ出てくる。研究所の臭いだ。そう思いながら、奥を覗いた。外が明るいので奥の方は良く見えない。
 「ごめんください。どなたか、いませんか? 本社から参りました。西崎です。ごめんください」
 研究所の中は、しんと静まり返っていて何の返事もない。このまま帰ってしまおうかとも思ったが、約束の時間までまだ十五分以上ある。中に入って適当な場所を見つけて待つことにする。今日からわたしはここの職員なのだから、中に入ったところで咎められることはなかろう。

 中に入ってすぐ右の壁にルノワールの少女の絵が掛けられていた。額縁に埃が溜まっている。こんな所に似つかわしくないなと思いながら、奥を眺めた。薄暗い廊下が真っ直ぐに延び、突き当たりで右に曲がっている。廊下の左側には窓すらもない。右側には部屋がいくつかならんでいる。
 最初の部屋のの入り口に事務室と書かれた小さな表札が掛かっている。ドアをノックして開けてみたが、誰もいない。次のドアの前には、応接室と書かれた表札があった。ありふれた応接セットが部屋の中央に据えてあった。テーブルの上に三分の一ほど茶色の液体が残ったウイスキーのボトルが乗っている。ほかには何もない。
 次はトイレ。男女を区別するの札が下がっていない。女子職員がいないのか、それとも一緒に使えということなのだろう。中を覗いてみたが、意外に綺麗に掃除されていて嫌な臭いもしない。薬品会社の研究所なのだから、清潔なのは当たり前かと妙な感慨を覚えながら廊下を進んだ。
 次は倉庫。鍵が掛かっている。すりガラスを通して箒らしい柄が見える。清掃用具の倉庫のようだ。廊下の突き当たりを曲がると左側に薬品倉庫と書かれた部屋が三つ並んでいるが、どの部屋も鍵が掛かっている。
 右側に所長室があった。ノックしたが返事がない。突き当たりに大きなドアがあって、研究室という表示が出ている。ドアのノブに手を架けて回そうとした時、後ろから声を掛けられた。

 「きみ、ここで何をしているんだ」
 びっくりした。誰もいないと思っていたから、心臓が止まりそうになった。振り向くと、白衣を着た小柄な老人が立っていた。頭は禿げあがっていて、残った毛も真っ白だ。まるで悪いことをした子供を睨みつけるように険しい目でわたしを見ている。
 「本社から、赴任してきました西崎と申します。先ほどから声を掛けてはいたのですが、誰も出てきませんので探しておりました」
 「ああ、きみが、本社から連絡のあった新しい事務のひとだね。名前は何と言ったかな」
 「西崎です。西崎利明と申します」
 「西崎君だね。わしはここの所長の北田だ。書類を読んでいたものだから、気がつかないで済まなかった。ノックされたようだったから出てきたんだ。さあ、研究室の中へ入り給え」
 北田と名乗った老人は、急に柔和な顔つきになって研究室のドアを開けた。部屋の中には、細長いテーブルが二列ならんでいて、その上に試験管やらフラスコやら、顕微鏡などが雑然と置かれていた。
 「ほかにはどなたもおられないんですか?」
 「今日はわしひとりだ。と言っても、もうひとり研究員がいるだけだがね。柳本と言うのだが、今日は休んでおる」
 「そうですか。わたしはここで何をすればよいのでしょうか?」
 「あとで教えるが、その前にそこのベッドに横になり給え」
 「横になるんですか? 何するんです?」
 「予防接種だ。ここはいろいろ危険な微生物がおるからな」
 「ええっ。そんな危険な所なんですか? ここは」
 「念のためじゃよ、念のため」
 「はあ」
 シーツの敷かれたベッドとは名ばかりの台の上に横になった。所長は、一旦所長室に戻り、アンプルの入ったケースを持ってきた。
 「ええっと・・・・。Aを1.5ミリリットル、Bを0.5ミリリットル、Cを1ミリリットルと・・・・。ちょっと量が多いから、ズボンを下げてお尻を出しなさい」
 「尻にするんですか?」
 「腕でもよいが、あとが痛いぞ」
 「分かりました。じゃあ、お願いします」
 ズボンを下げて尻を出すと、所長が消毒をして尻の筋肉に注射した。これが堪らなく痛かった。
 「あいたたた」
 「痛かったかね。そうじゃろう。これを腕にした人間は、三日ほど腕が上がらなくなったからな」
 「腕にしなくて良かった。ほんとに痛い注射ですね」
 「良薬口に苦しだよ。さあ、ズボンを上げて、わしに追いて来なさい。仕事の説明をしよう」

 わたしはズボンを上げると、痛みで少しビッコを引きながら、腰に両手を回し少し前屈みになって歩く所長に追いて行った。
 「所長室はここだ。わしは、研究室か所長室のどちらかにいる。用事があるときは、電話するより直接来た方が早いだろう」
 「先ほど、部屋の配置は拝見させていただきました」
 「それなら話しは早い。薬品倉庫は、薬品の種類で分けてある。事務室に何をどこに入れるか書いた配置表がある。さてと、応接室はあるが、滅多にひとが来ないから、柳本が昼寝に使っているようだ。事務室はここだ。きみの仕事場だ。薬品関係の書類がこの引き出しに、そのほかの消耗品の書類がこの引き出しに入っている。あとで良く見ておいてくれ給え。本社からの定時連絡は月曜日の午前九時だ。ほかの日は十時出勤でいいよ。仕事がなかったら、午後四時になったら帰ってもよろしい。じゃあ、あとでな」
 「あのう、昼食はどうするのですか?」
 「弁当じゃよ。きみ、弁当を持ってくるように言われなかったかね」
 「いえ、聞いておりません」
 「見ての通り、周りには何もないからな。弁当を持ってこないと昼飯にありつかんぞ」 「ええっ。困ったなあ。どうしよう」
 「そうだな。柳本がカップラーメンでも置いているだろう。研究室の奥に控え室がある。探してみなさい。明日にでも返しておけば良いだろう」
 「明日は土曜日ですが、休みじゃないんですか?」
 「ここは土曜も、日曜もない。ただ、仕事がなければ自由に休んでよろしい。早退も自由だ。分かったね」
 「・・・・分かりました」

 所長は、ふらふらと事務室を出て行った。自分の部屋に戻って行ったようだ。参った。ほとんど仕事らしい仕事はなさそうだ。別にわたしじゃなければ、できない仕事じゃなさそうだ。やっぱり左遷だ。閑職につけて自分から辞めさせるつもりだ。わたしでなければ、務まらない仕事があるだって。社長のやつめ。割り増しの給料の件がなければ、ぶん殴って辞めてやるところだ。五人とも給料よりも尊厳を選んだのだ。わたしには自尊心などない。美奈子のために、我慢、我慢。

 薬品関係の書類を取り出して目を通した。初めのノートには、硫酸、塩酸、硝酸、水酸化ナトリウムに塩化カルシウム。いったい何に使うのだろう。化学の実験に使うような薬品が山のように記載されている。
 次のノートには、ありとあらゆる抗生物質、抗がん剤、免疫賦活剤、インターフェロンなどなど。総合病院が開けそうなくらいの薬が載っている。
 三冊目のノートには、種々の培養液やAB型血清などバイオ関係の薬品名が載っている。まるで薬品便覧だ。この研究所にこれらの薬剤がすべてあるのだろうか? いくつかの薬剤は最近の購入の記録があるようだが・・・・。

 ドアが突然開いて、所長が入ってきた。わたしが部屋の中にいるのにビックリした様子だ。
 「ああ、西崎君。今日から君が居たんだね」
 「はあ、書類に目を通すだけでも大仕事ですね」
 「結構大変だろう。頑張ってくれ給え。そろそろ昼飯時だが、腹は空かんかね。研究室の控えにやはりカップラーメンがあるようだよ。持ってきてあげようか?」
 「いえ、とんでもないです。所長にそんなことして頂いては。自分でします」
 「ポットにお湯が入っていると思うが、もし足りなかったら沸かしてくれ給え」
 「お気遣いありがとうございます。もう十二時前なんですね。どうりで腹が空くとおもいました。じゃあ、休憩させて頂いて、食べて参ります」
 「ゆっくりしてきたまえ」
 変なひとだな。この二時間あまり、ことりとも音がしなかったが、所長は一体何をしていたのだろうか? さっき書類を読んでいたと言っていたが、文献でも読んでいたのだろうか? 研究者は変人が多いと言うが彼もそのひとりだろうか? そう思いながら、研究室の控えに向かった。

 控えは研究室の奥にあって、三畳くらいだろうか? ガスレンジと小さなシンクが片隅にある。やはり小さなテーブルがあって、ポットとコーヒーカップがふたつ伏せておいてあった。今時電気ポットでないポットを見るのは久しぶりだ。振り返ると、開いたドアの陰に棚があって、数種類のカップ麺が置かれていた。その中のひとつを取り出して、ポットのお湯を注いで、食べた。食べながら、変だなと思った。ポットのお湯はいっぱいで、今沸かしたばかりの様だった。所長は、柳本という研究員は休みだと言った。そんなに上等のポットとは思えない。昨日から入れてあればぬるくなっているはずだ。所長が沸かしたのだろうか? コーヒーカップが濡れている。コーヒーでも飲んだのだろう。そう納得した。

 昼食後の仕事は、ノートと倉庫の中にある薬品の照合をすることにした。倉庫の鍵がない。
 「所長、すみません。倉庫の薬品を照合したいのですが、鍵はどこでしょうか?」
 「玄関の脇にあるキーボックスに入っているよ。研究所のキーは、玄関ドアのもの以外は全部入っている」
 「分かりました。それでは始めます」
 びっくりした。三つの薬品倉庫ともノートに記載されている薬品がすべて揃っている。期限切れの薬品を見つけて、チェックを入れておいた。

 事務室に戻って、期限切れ薬品のリストを作っていると、所長がまた顔を出した。何故かひどく嬉しそうな顔をしている。まるで、美人の女子社員を相手にしているようににこにこしている。
 「調子はどうだね。西崎君」
 「薬品のチェックだけは何とかしましたが、期限切れのものがあるようです。どうしたら良いでしょうか?」
 「明日にしよう。あまり根を詰めると後に響くよ。そろそろ四時だから、もう帰宅してもいいよ」
 「今日中にやっておきたいのですが」
 「きみは車じゃないんだろう? 市内向けの次ぎのバスは、四時半だよ。そのあとは七時しかないが、それでもいいのかね。今すぐ出ないと間に合わんよ」
 「えっ、次は七時しかないのですか」
 「田舎だからね。その七時のバスを逃がすとあとはないよ」
 「七時だと帰りつくのが、八時を回ってしまいますね。それじゃあ、お言葉甘えまして、失礼させていただきます。本当によろしいんですね」
 「きみみたいに優秀な人材をこんな研究所で使うのは勿体ない気がするよ。今日はもういいから、帰り給え」
 「それでは」
 「そうそう、緊急の場合を想定して、自宅の電話番号を教えておいてくれ給え」
 「じゃあ、ここに書いておきます。失礼します」

 上着を羽織って、急いでバス停へ向かった。帰りは下りだから、二十分掛からないでバス停に着いた。五分ほどしてやって来たバスに飛び乗ったが、バスには誰も乗っていない。こんな時間に市内に向かう人はそうはいないだろうな。こんなので採算が合うのだろうか? 変な心配をしてしまう。
 家を七時四十五分くらいに出て、八時のバスに乗れば、十時には充分間に合う。四時に研究所を出れば、四時半のバスで六時前には帰宅できそうだ。月曜日だけ一時間早く出れば良い。楽と言えば楽だが、営業だと一日中サボっていても誰にも分からないが、研究所は所長があんな風に顔を出すようでは、サボるわけにはいかないようだ。
 しかし、今日の仕事は、やはりわたしでなくてもできそうだが、わたしでなければならない仕事なんて本当にあるのかなと、社長の顔を思い浮かべながら、バスに揺られた。

 「あら、お父さん、早かったのね」
 「初出勤にしては良く働いたよ。ちょっと気を使って疲れた」
 「夕食もう三十分もしたら出来るから、先にお風呂に入ったら?」
 「そうするか」
 夕食を食べながら、美奈子に研究所の話しをした。
 「一体何の研究しているの? お父さんの研究所は」
 「何だろうね。社長が若返りと禿げを治す薬の研究に熱心だとは聞いているが、あの研究所がやっているとは思えんがね」
 「若返りと禿げを治す薬? もしかしたら、お父さん、人体実験に使われるのかもよ」 「人体実験?」
 「そうよ。お父さんの頭、だいぶ薄くなってきているから」
 「馬鹿なこというなよ。まだ薄くなんかなっていないよ」
 「そうかなあ。わたしにはそうは思えないけど」
 「おまえの同級生と比べれば、薄いかもしれんが・・・・」
 「志願したら?」
 「そんなに薄いかなあ」
 「薄い、薄い」
 「うーん」
 薄くなって来ていることは認めよう。それは事実だ。しかし、面と向かって言われるとショックだ。しかも娘に。そのあと、わたしは黙りこくって箸を進めた。

 ビールを飲みながら、テレビを点けた。どうして巨人戦ばかり放送するんだ。気分が悪い。新聞を取り出して、テレビ欄を見てみたが、ろくな番組はない。ふとNHKを見てみると阪神・中日戦をやっている。やった。今日は勝ってろよ。チャンネルを切り替えると、四対一で勝っている。ビールを飲むのも忘れて応援した。危なく逆転されるところだったが、結局四対三で、甲子園での久しぶりの勝利だ。今日は気分良く眠れそうだ。

 気分良く、冷えたビールを冷蔵庫から取り出して飲み直していると電話が鳴った。
 「はい、西崎です。ご主人? ああ、はい、います。少々お待ちください」
 誰だろう。こんな時間に。会社から電話が掛かるはずはないが・・・・。
 「お父さん、北田さんていうひとよ。だれ?」
 「研究所の所長さんだよ。さっき話したろう?」
 「あっ、そうだった。はい、電話」
 「もしもし、替わりました。西崎です。何か緊急の用でも?」
 「今のは、奥さんかね? 少し若かったようだが」
 「ああ、娘です。妻は昨年亡くしまして。で、ご用件は?」
 「いや、何でもない。体調はどうかね。熱でも出ていないかね?」
 「いえ、いたって健康です。何かご心配でも?」
 「今朝の予防接種で熱が出るかも知れんことを言い忘れたものだから、伝えておこうと思ってな」
 「それは、ありがとうございます。ご心配要りません。まったく大丈夫ですから」
 「そうか。それは良かった。じゃあ、明日も十時でいいから、お願いするよ」
 「分かりました」
 「あっ、それともうひとつ。きみに玄関の鍵を渡すのを忘れていた。わたしが先に行っているつもりだが、もし遅れたら、入り口で待っていてくれ給え」
 「はい、分かりました。それでは明日」

 所長の声はずいぶん弾んでいた。何が嬉しいのだろう。この時は、別に疑いもなく電話を切ったが、布団に入ってから、娘の『人体実験』という言葉が頭に浮かんで、しばらく寝付かれなかった。まさか。