七月八日(木)

 女がわたしに抱かれて喘いでいる。小ぶりだが、形の良い乳房が揺れる。長い髪を掻き分けて顔を見ると、美奈子だった。そんな馬鹿な。
 そう思ったとたん、目が醒めた。夢で良かった。夢で良かったが、なんて夢を見たんだ。昨夜の美奈子の姿がわたしを刺激したのだろうか? 今までこんなことはなかったのに。いや、あれは恭子だったのかもしれない。そうだ。恭子だった。今日は恭子の命日だ。恭子がわたしの夢に中に出てきたのだ。そう自分を納得させた。それにしても朝だちなんてほんとに久しぶりだ。股間が痛い。どこかで発散させないといけないかな。妻の命日にこんなことを考えるのは不謹慎だろうか?

 着替えてリビングに降りると、美奈子はもう起きていて、朝食の準備をしていた。コーヒーにトーストでも良いのに、美奈子は必ず、ご飯に味噌汁、卵料理などを作る。恭子が死ぬ前に、朝食は必ず和食を作るように美奈子に言い残したかららしい。結婚して以来洋食一辺倒だったために、乳癌に掛かったと思いこんでいたから、仕方がないのかもしれない。
 「あら、お父さん、早いわね。まだ、七時前よ」
 「昨日は早くから寝たからな。おまえこそ、いいのか? 遅くまで起きていたのじゃないのか?」
 「平気、平気。お父さんと違って若いから」
 「お父さんだってまだ若いぞ」
 「無理しない、無理しない。はい、できたわよ。顔洗ってきて、早く食べて」
 「分かったよ。おまえには敵わんな」

 わたしは、顔を洗うと、仏壇にある恭子の写真に手を合わせた。恭子が死んで、もう一年か。恭子の右の胸に小指の頭ほどのしこりを見つけたのは二年前の春だった。早期の乳癌だと言われ、乳房を残す手術を受けたのに、一年もしないうちに再発した。髪の毛が一本もなくなるようなきつい抗がん剤を使ったのに、まったく効かずに、あっという間に死んでしまった。苦しかったろうにひと言も泣き言を言わず、最後まで明るく振る舞っていた。
 人間にもう一度生まれて来られたら、また恭子と結婚したい。心の底からそう思う。今度はふたりで元気で百まで生きよう。そう思ったら、ふいに涙が零れた。美奈子に涙を見られないように、もう一度顔を洗いに行った。

 食事を済ませ、車で美奈子を学校の近くまで送ってやってから、会社へ向かった。今日は遅刻しないで済みそうだ。受付にいったんキーを戻そうと立ち寄ると、本田君代が声を掛けて来た。
 「西崎さん。出社されたら社長室へ来るように社長から伝言が入っていますよ」
 「えっ。わたしにかい? 何かの間違いだろう?」
 「間違いないですよ。西崎利明さん宛てです」
 「そう、ありがとう。何の話しだろう?」
 「いい話しだと良いわね」
 いい話しのわけがない。社長が平社員を直接呼ぶはずがないじゃないか。馘首か? 確かに給料泥棒と言われてもおかしくないくらいしか働いていないからなあ。自業自得とは言え、気が重い。馘首になったらどうしようか? 多少の蓄えはあるが、美奈子に短大くらいは行かせてやりたいのだが・・・・。

 鞄をデスクに置いて、五階に昇って社長室のドアをノックすると、秘書の返事がしてドアが開けられた。社長秘書は、若くて美人だ。二十七,八だろうか? 社長の愛人だと言うもっぱらの噂だ。社長は今年五十だと聞いた。羨ましい限りだ。
 「営業第二課の西崎です。社長がお呼びと伺いまして」
 「お待ちになっております。中へどうぞ」
 社長がいる奥の部屋に案内されて、ソファーに座ったが、社長は窓の外を眺めながら誰かと長々と電話をしていて、わたしが入って行ったことにまったく気づかない様子だ。電話を切る直前、わたしに気づいて慌てて声を潜めた。どうも別の愛人に電話をしていたようだ。少しきまりの悪そうな顔をして、わたしの前にどっかと座った。
 「営業の西崎君だね」
 「はい。どのようなご用事でしょうか?」
 「実は、きみにうちの研究所の方に出向して貰いたいのだが、いいかね」
 「研究所と言いますと、東城村のですか?」
 「そうだ。あそこの人間は、研究畑の人間ばかりで、事務が出来るものがおらんのだよ。研究所では、理系で事務ができる人間を欲しがっているんだ。そこできみに白羽の矢が立ったと言うわけだ」
 「わたしのような無能なものでも良いのでしょうか? 研究所は我が社の重要な部署だと思いますが」
 「きみが爪を隠しているのは分かっているよ。きみでなければ務まらんのだよ。頼んだよ」
 「はあ」
 「こちらのデスクは今日中に片付けてくれ給え。向こうには、きみのデスクがもう用意してある。研究所への道順は詳しく地図にしてあるから、帰りに秘書に貰ってくれ。明日十時に向こうに着けば良い。分かったね。じゃあ、もういいよ」
 「あのう」
 「そうそう、給料は、今の五割増しだ。悪い話しではないだろう?」
 「はあ、・・・・分かりました」
 何も言えないまま強引に社長に押し切られてしまった。まあ、いいか。
 秘書から研究所までの道のりを書いた地図と支度金という名目で十万入りの封筒を受け取ってデスクに戻った。デスクを片付けると言ったって、ほとんど要らない資料ばかりだ。後任者用に病院と医者のリストを残して、すべてシュレッダーにかけた。部屋の中にいる人間は一言もしゃべらない。わたしの出向を知っているのだろうか? 知っている筈だ。みんな左遷だと思っているのだろうな。まあ馘首でなくて良かった。体のいい左遷かもしれないが、給料さえ出れば文句はない。それにしても五割増しとは社長も張り込んだものだ。嬉しい限りだ。

 「西崎さん。研究所に行くんだって」
 「ああ、社長じきじきに言われたよ。あんまり働かないから、左遷だよ」
 「そんなことないですよ。頑張ってください」
 「頑張りようがないかもしれんがね」
 「そうそう、ちょっといいですか」
 森本は、声を落として部屋の隅にわたしを引っ張って行った。森本は、この会社に入ったのはわたしより一年あとだが、わたしを追い抜いて今は課長をしている。しかし、礼儀は忘れず、今でもわたしに対して不遜な態度を取ったことがない。基本的に良い人間なのだ。
 「研究所に関してですね、妙な噂を耳にしてるんですよ」
 「妙な噂?」
 「そうなんです。ここ数ヶ月、研究所に配置換えになった人間が、五人も連続して失踪しているらしいのです。配置換えになったその日に」
 「へええ。何でまた」
 「それが分からないらしいんですよ。五人とも失踪する原因が見当たらなくて、今も内密に調査中だそうです」
 「たまたまだろう」
 「五人ですよ。五人。しかも研究所に行ったその日にですよ。とにかく気をつけてくださいね」
 「分かった。失踪する時は連絡するよ」
 「冗談は止してください。美奈子ちゃんがいるから、ほんと気をつけてくださいよね」
 「ありがとう。おれの心配をしてくれるのは、森本君くらいだ。感謝しているよ」
 「じゃあ、くれぐれも気をつけて」
 いまさら、いやだとは言えないし、取って食われるわけではなかろう。失踪するには本人しか分からない理由があったのだろう。わたしには関係ない。わたしには失踪する理由がない。理由があったとしても美奈子を残しては行けない。

 デスクを片付けたら、もう用事はない。森本課長をはじめ、課内のみんなに挨拶すると昼前に会社を出た。それからいつも昼食を摂る喫茶店に入って早めの昼食を済ませた。あの店のチキン南蛮は当分食べられなくなるな。
 家に帰ってもすることがない。公園でスポーツ新聞を読みながら、二時間ばかり日向ぼっこをして過ごしたが、思いついて久しぶりにパチンコをすることにした。最初の三十分でフィーバーが掛かり、大箱二杯出た。そこで止めれば良かったのに、欲を出したために一進一退が続いた後、全部打ちこんでしまい、さらに注ぎ込んで、気づいたときには一万五千円が財布から消えていた。もう一枚千円札を取り出したが、思い直して店を出た。

 パチンコ店を出ると、あたりはもう薄暗くなり始めていた。初めに目にした居酒屋に入り、コップ酒を飲み始めた。
 左遷だよな。出向なんて断って辞表を叩きつければ良かったとか、最初のフィーバーで止めときゃ良かったとか、つまらないことが頭に浮かんでは消えた。
 居酒屋をいつどうやって出たのか、よく覚えていない。気がついたら湯船に浸かっていた。
 「ねえ、いつまで浸かっているの? 時間がなくなってしまうわよ」
 声のした方を見てみると、ほとんど裸同然の、小さなブラジャーとパンティーだけの若い女が首を傾げてわたしの方を見ていた。わたしはどうやら、特殊浴場にいるらしい。女は若くて意外に可愛い。こんな女がどうしてこんなことをしているのだろうと思わずにはいられない。湯船を出ると、すけべ椅子に座らされて洗われた。
 「少し飲み過ぎじゃないの? できる?」
 「醒めてきたから大丈夫だ。それにきみが可愛いからね」
 「ありがと。うんとサービスしてあげるわね」
 「こんなこと聞くのはタブーだとは分かっているけど、きみみたいな娘がどうしてこんな仕事しているの?」
 「ふふふ。昔はねえ。やくざの借金の肩になんてのが多かったらしいけどねえ。今はそんなひとは少ないらしいわよ」
 「へええ」
 「わたしもそうだけど、お金が欲しいからよ」
 「お金?」
 「そう。素敵な服とか指輪なんか買ったり、海外旅行に行ったりするのにお金が要るの。これが一番手っ取り早いでしょう?」
 「複数の男とするのに抵抗がないのかい?」
 「抵抗? 抵抗なんてないわ。別に減るもんじゃないし」
 「そんなもんかねえ」
 「始めましょうよ。時間がもったいないわ。可愛いって言ってくれたから、生でしてあげるわ」
 女はわたしのジュニアを舐め始めた。久しぶりに味わう感触だ。あっという間にわたしは女の口の中に出してしまっていた。女は躊躇いもせず飲み込んだようだ。
 「随分元気ね。お客さんくらいのひとは、みんななかなかいかないのに」
 「きみがうまいからだよ。それにしばらくしてないからな」
 「あら、奥さんいないの?」
 「妻は去年死んだ。今日が命日だ。そうだ。今日は命日だったんだ」
 「ええっ! 奥さんの命日なの? 命日にこんなことしてもいいのかなあ」
 「今朝妻とする夢を見たんだ。妻とはできないから、妻が替わりにきみを引き合わせてくれたんじゃないかな」
 「ふふふ、都合の良い解釈ね。もう一度する元気ある?」
 「ありそうだね」
 女は口にコンドームを含むと器用にわたしのジュニアに被せた。若く見えるが、かなり年季が入っているみたいだ。
 「ねえ、キスしてもいいわよ。今日は奥さんの替わりをしてあげる。だけど、指は入れないでね。それだけは約束して」
 「分かった。約束する」
 セックスは恭子が入院して以来、初めてだ。手術後恭子は、乳房が残っているのにわたしには見せたがらず、当然セックスにも応じてくれなかった。死んだ恭子には悪いと思ったが、若い体を堪能した。

 割り切っていたはずなのに、金を払って外に出たら、急に後悔と虚しさが沸き起こってきた。馴染みのスナックに寄って、水割りを浴びるように飲んだ。
 何時くらいだろうか? 看板だといわれてスナックを追い出された。家に帰りついて玄関のドアを開けると、恭子が立っていた。本当に恭子だと思った。恭子が出迎えてくれたと思った。わたしは恭子に抱き着いてキスをした。
 「お父さん、止めてよ。何するのよ」
 美奈子だった。いつものパジャマじゃなくて、ネグリジェを着ていた。美奈子だと思って見ても、恭子に見える。
 「美奈子、可愛い美奈子。お父さんはおまえが大好きだ」
 「大好きは分かったわ。だからキスは止めてよ」
 「美奈子、美奈子。大好きだ」
 「しょうがないわね。お母さんの命日にこんなに酔っ払って」
 なんとか誤魔化せた。意識がもう少しはっきりしていなかったら娘を犯すところだった。危ないとことろだった。まあ、こんなに酔っていたらできそうもないが・・・・。

 二階の寝室に這うようにして上がって、やっとのことでパジャマに着替えるとそのまま眠り込んだ。