七月七日(水)

 「お父さん、もう起きる時間よ。早く着替えて、降りてきて!」
 美奈子が階段の下から叫んでいる。枕元の時計を見ると午前七時十五分を回ったところだった。
 「ああ、分かった。すぐ起きる」
 そうは応えたものの、わたしは布団の中でぐずぐずしていた。どうせ会社に行っても、大した仕事があるわけではない。朝礼に出ないで、直接営業に回ると連絡すれば済むことだ。その営業にしても、売る薬がないのだ。昔からある胃腸薬だけが主力薬品で、ここ数年、新しい薬は我が社からは発売されていない。年下の医者にぺこぺこ頭を下げて、その胃腸薬の名前を宣伝しても、そんな古い薬以外に売る薬はないのか、と馬鹿にされた顔をされるだけだ。仕事をしないで食べていく金があったら、今日にでも辞めたい、いつもそう思っている。

 社長は、一発逆転を狙って新薬の開発に力を入れているらしいが、その薬は禿げを治す薬と若返りの薬らしいと噂で聞いた。禿げを治す薬はともかく、誰が考えたって若返りの薬なんかできる筈がない。どちらも止めた方が良いのではと誰もが思いながら、誰も言い出せずにいる。なにしろうちの会社は、今の社長のワンマン経営で成り立っており、社長の意見に反対するものはすぐに首を切られてしまうから、誰も何も言えないのだ。

 「お父さん、まだ、起きないの? 遅刻するわよ」
 「分かった、分かった。今起きるよ」
 美奈子が今日も台所で朝食を作ってくれている。恭子が死んで明日で丸一年になる。恭子が死んで数ヶ月は、美奈子も毎日泣いていたが、今年に入ってからは、ようやく落ち着きを取り戻し、勝手気ままな父親の面倒を見てくれている。美奈子はたしか高校二年生だったと思うが、どこの高校へ行っているのだろう。友達の名前は何というのだろう。成績はいいのだろうか? 美奈子のことはまったく分からない。だめな父親だ。

 美奈子に最初に声を掛けられてから三十分も経ったろうか? わたしは、ようやく起き出して、のろのろと洗面所へ向かった。
 「遅刻するから先に出るよ。ご飯と味噌汁、注いであるからね。食べ終わったら、お茶碗、流しに下げとくのよ。いいわね、お父さん」
 「ああ、分かってるよ。気をつけてな」
 洗面所から玄関の方に顔を出すと、セーラー服を着た美奈子の後ろ姿がドアの向こうに消えていくのが見えた。大きくなったもんだ。たしか二,三日前、身長が百六十センチになったと言っていた。生まれた時は未熟児でおっぱいもうまく飲めず、恭子とふたりでちゃんと育つかどうか心配したものだ。
 恭子、何故死んでしまったんだ。美奈子の花嫁姿をあんなに楽しみにしていたのに。

 歯を磨いて顔を洗って、鏡の中の自分を見た。四十四歳の割りには若く見える、と思っている。いや頭がすこし薄くなってきたから、他人はもっと年だと思っているのかもしれない。禿げを治す薬に若返りの薬か。うまくできたら、一番先に試させてもらおう。できる筈はないけれど・・・・。そう思いながら、台所のテーブルに座って、新聞を隅から隅までゆっくり読み、朝食を済ませてから家を出た。

 バスに揺られて会社に向かいながら、やっぱり今日は熱が出たとか言って、休めば良かったなと後悔した。働く意欲が完全に失せてしまっている。まあ、働く意欲がないのは今日に限ったことではないが・・・・。恭子が死んでからずっとそうだ。いや、恭子が死ぬ前から意欲があったとは思えない。就職口がほかになかったので、やむなく今の会社に入社したから、初めから働く意欲なんてなかった。給料を貰える最低レベルのノルマだけをこなす穀潰し社員だ。馘首にならないのが不思議なくらいだ。社内で一番の美人と誉れの高かった恭子が、わたしを選んだ理由は今でも分からない。恭子は赤い糸よ、と言っていたが・・・・。

 わたしの唯一の自慢は入社して以来、遅刻だけはしたことがないということだったが、今日は朝礼には間に合いそうもない。まあ、いいか。受付で営業車を借り出してすぐに外回りに出よう。昨日、営業車のまま家に帰っていれば、会社に寄らなくても良かったのになあ。そんなことをぼんやり思いながら、バスの外の風景を眺めていた。
 突然美奈子が出掛けるときの言葉を思い出した。しまった。茶碗を流しに下げるのを忘れた。美奈子に怒られるな。しょうがない。ケーキでも買って帰って機嫌を取るしかないな。そんなことを考えていたら、会社の近くのバス停に着いた。

 会社はバス停から歩いて十分あまりの五階建てのビルだ。会社の規模からすれば、五階建ては大きすぎるくらいだが、周囲のビルの高さから見れば、ぽつりと取り残されたような印象を受ける古いビルだ。大日本ゼウス製の看板だけが真新しく目立っている。

 会社の玄関を入ると正面に受付嬢がふたり座っている。うちの会社の受付嬢は、ぶすではないがまったく愛想もそっけもない。受付嬢と言えば会社の顔だから、もう少し笑顔でも振り撒けば良いのに、ふたりともいつもコンパクトを覗いて化粧の仕上がりばかり気にしている。よほど気に入りの男性でも通りがからない限り、にこりともしない。社長の遠縁でなかったら、とっくの昔にお払い箱であろう。もっと美人で、あの娘たちより安月給でも喜んで働く女性はごまんといる。ただ何故か、本田君代という娘は、わたしだけには愛想がいい。わたしに気があるのだろうか? そんな筈はないのにそう考える自分がおかしい。
 「あら、西崎さん。珍しく遅いんですね。寝坊でもされたんですか?」
 「いや、ちょっと風邪気味でね」
 「風邪なら無理して出てこなくても良いのに。たまには休んだらいかがですか?」
 「毎日休んでいるようなものだからね。キミちゃん、営業車のキー貸してくれ」
 「上がらないんですか?」
 「朝礼はそろそろ終わる時間だろう? 上がってもすぐ出るだけだから、上がらないで行くよ」
 「課長に伝えとくわ」
 「ありがとう。なあ、できれば、今朝は会社に寄っていないことにしてくれないか? 昨日から車を借り出していることにして。今日はうちから直接営業に出ると連絡があったと言っといてくれないかなあ」
 「いいわよ。西崎さんの頼みですもの」
 「助かるよ」
 「いつかお返ししてね」
 「すまんな。今度食事でもおごるよ」
 「わあ、嬉しいわ。はい、キー」

 車のキーを受け取ると、わたしは誰にも見つからないようにこそこそと駐車場へ降りて、通りへ車を出した。高くつくかもしれんな。しょうがない。たまには若い娘と食事するのもいいかもしれんなと自分に言い聞かせ、車を走らせた。
 夕方までに病院と診療所を十二軒廻って、十五人の医者に面会し、型通りの話しをした。いつもはこの三分の一以下だから、今日は頑張ったと言うべきだろう。

 我が社は昔からある胃腸薬しか宣伝するものがないのだが、この薬は薬価差が大きいから、結構使われている。薬価差が大きい、つまり使えば使うほど医者が儲かるという薬なのだ。薬そのものはそんなに高くはないのだが、特殊な薬ではないので、ほかの薬を出すついでに胃が荒れるといけませんからなどと言って、患者全員に処方している医者もいるくらいだ。薄利多売の典型的な薬で、会社はけっこう儲かっているらしい。だからこそ、わたしみたいなぐうたらを雇っておけるのだ。とは言っても、医者の中には新し物好きの人間もいるから、我が社の胃腸薬から他社の薬に浮気しないように、時々訪問して宣伝しておく必要があるのだ。それが、たったそれだけの事が、大の男のする仕事なのだ。働く意欲が出ないのは当たり前だろう。

 それでも、むかしは交際費がふんだんに使えたから、会社の金で、医者を誘ってゴルフに出かけたり、料亭で豪遊し、お零れに預かるということがしばしばあった。しかし、最近は、厚生省の指導だなどと言ってうるさくなってそれもあまりできない。交際費の使い道に困ることさえある。せいぜい社名と薬の名前の入ったボールペンを薬のパンフレットと一緒に配って歩く程度だ。

 今日訪れたところは、次は二週間後で良いな。そう思いながら手帳にメモをして、会社に帰ろうとしたが、会社へ通じる道は大渋滞だ。会社に戻って報告を済ませてからうちに戻ろうとすれば、また渋滞に巻きこまれる。今から直接うちに帰れば、スイスイ戻れる筈だ。選択はひとつしかない。うちに帰ることにした。今日の成果はファックスで送っておけば良いだろう。
 今時の若いものは、電子メールとかを会社に送って報告しているらしいが、わたしは理系の癖にコンピューターやワープロはまったくだめだ。ファックスすらも最近ようやく操作方法を覚えたくらいだ。若いものが羨ましい。

 車庫に車を入れて、玄関のドアを開けると、美奈子が怒ったような顔をして立っていた。そんな顔は、恭子によく似ている。しまった。ケーキを忘れた。
 「お帰り、お父さん。早かったのね」
 「ああ、会社に寄らないで帰ってきたからな」
 「何か忘れたでしょう」
 「えっ」
 「お茶碗下げといてって、言ったのに」
 「あれ? 下げてなかったかな?」
 惚けて見せたが、そんなことでは美奈子は誤魔化せない。靴を脱いで、リビングに向かうわたしに付いてきて、ブツブツと小言を呟く。恭子。お前の娘はお前にそっくりだ。こんな所だけはお前に似て欲しくなかった。
 「あれだけ言ったのに、いつもなんだから。汚れが落ちなくなるのよね。お願いだから、次からはきちんと下げてね」
 「分かった。分かった」
 「ほんとに分かったのかなあ。・・・・夕食まだできてないから、先にお風呂に入る?」
 「仕事の報告書を会社にファックスしてからな」
 小言さえなかったら、美奈子は良い奥さんになるだろう。恭子の躾が良かったに違いない。恭子が死んでからも、わたしは何ひとつ不自由したことがない。まるで恭子とふたりでいるような錯覚に陥ることさえある。もちろんセックスは除いてだが、恭子が死んでからはその気もない。

 型通りの報告書に、体調が悪いので、本日は会社に寄らないで帰宅した旨を添えてファックスしてから、ぬるいお湯にゆっくりと浸かった。今日みたいに一生懸命働いたのは、入社直後以来だな。明日から少し気を入れて働くか。そんな決意も明日の朝まで持続するかどうか分からないが・・・・。

 風呂から上がると、美奈子がテーブルに料理を並べて待っていた。
 「ビール飲むでしょう?」
 「ああ」
 「どう、このお刺身。美味しい?」
 「なんだこれ? サバか?」
 「そう。有名な関サバ。高かったんだ。これで美味しくないって言われたらどうしようと思ったんだけど、どう?」
 「へえ、うまいねえ。サバは生き腐れって言うけど、刺身で食えるんだねえ」
 「魚屋さんが、高いけど味は絶対保証するからって言うから」
 「うん、うまいよ」
 「わたしも貰おうっと」
 「虫はいないのか?」
 「新鮮なサバは大丈夫らしいよ。古くなると内臓からアニなんとかっていう虫が出てきて、胃の中で暴れて酷く痛むらしいけどね」
 「そうなのか。で、いくらだったんだ?」
 「へへへえ。内緒、内緒」
 「まあ、たまにはいいか。美奈子、ビール飲むか?」
 「わたし、未成年よ」
 「そうか、そうだったな。残念だな。早くおまえと飲めるようになりたいな」
 「二十歳になっても、そんな苦いもの飲みたくもないわ」
 「おとなになったら、この味が分かるようになるさ」
 「へええ」

 食事が済むと、ビールを片手にリビングのソファに寝転がって巨人・阪神戦を見ていたが、松井が満塁ホームランを放って、巨人の勝利が決定的になると、わたしはむかついてチャンネルを変えた。あんなど真ん中に放るなんて。

 「お父さん、風邪引くわよ」
 いつのまにかソファーの上で眠り込んでいたみたいだ。湯上がりの美奈子を見てはっとした。自分の娘に欲情するなんて。いかん、いかん。今日はもう寝よう。
 「ああ、済まん。もう寝るよ。お休み」
 「お休みなさい」
 「美奈子はまだ寝ないのか?」
 「まだ九時半よ。それに十時から、面白い番組があるの。これを見なくちゃ、明日学校でみんなの話題に付いて行けなくなるの。女子高生の必須アイテムよ」
 「女子高生の必須アイテムねえ。早く寝ろよ」
 「はあい」