わたしは、夫のいなくなった部屋でベッドの端に腰掛けて、過ぎ去った日々を思い出している。あれからもう二十五年の歳月が流れた。わたしは結局男に戻れず、女のままだ。今では、これはわたしの運命なのだと半ば諦めている。
夫・陽一との結婚式は、十月の秋の涼風が気持ちのよい、さる高原のチャペルで行われた。陽一とわたしと美奈子、義母の四人だけの式だったけれど、わたしは幸せだった。純白の豪華なウエディングドレスに包まれたわたしは輝いていた。この時、既にわたしの心の中から男に戻ろうという気持ちは完全に失せていた。
新婚旅行は、一ヶ月掛けてヨーロッパを回った。なんという贅沢だったことか。ギリシャ、イタリヤ、フランス、イギリス、ドイツ。旧所名跡を見て回り、訪れた地方の料理を堪能した。
帰国した直後から、ご飯の炊ける匂いに気分が悪くなり、むかつきを覚えるようになった。まさかとは思ったが、しばらくは誰にも言えずに黙っていた。ある日それとなく義母に話すと、できたのよと言われて、産婦人科に連れて行かれた。検査の後、医者の口から「おめでとうございます」と言われた時は、ビックリした。そんな馬鹿なと信じられなかった。しかし、だんだんお腹が大きくなって行き、年末あたりから胎動を感じるようになっては、信じざるを得なかった。本当に子供が生める。陽一の子供が生める。ただ嬉しかったことを覚えている。
四月八日、三千二百グラムの元気な男の子を出産した。自分の生んだ子供をこの腕に抱いた時には、わたしは表現できない無上の喜びに包まれた。夫に似た可愛い子だった。潤一郎と名づけた。潤一郎は母乳を吸ってどんどん大きくなっっていった。母乳もあまるくらいたくさん出た。
潤一郎が二歳になった時、もうひとり子供を産みたいと頑張ったが、どうしてもできなかった。生理もきちんとあるし、基礎体温も二相性を示していた。排卵日めがけて試みてもだめだった。病院にも行った。腹腔鏡検査と言うつらい検査も受けたが、原因が分からず、とうとう二人目の子供には恵まれなかった。今では一人だけでも生めたのが幸せと考えている。
美奈子とはスイミングスクールで知り合ったお友達として付き合いを続けた。陽一はちょっと変な顔をしていたが、なんとか丸め込んだ。短大を卒業した美奈子を、陽一に頼んでの会社に事務員として就職させることができた。美奈子は男子社員の良くもてたが、二十二の時から付き合い始めた友田英樹という男と結婚した。二十四の時だった。結婚式にどうしてわたしが出席しているのかと尋ねられたが、型の如く、スイミングで知り合ったお友達よ。偶然夫の会社に就職したのよ、と答えた。翌年、美奈子に可愛い女の子が生まれた。聡美と名づけられたその子は、大きくなるに連れて美奈子に、そして恭子にそっくりになっていった。
美奈子は四十の時に、恭子と同じ乳癌を患い、同じように四十二歳で死んでしまった。わたしの嘆きがどれほどだったか、だれにも想像できないだろう。人知れず、わたしは涙を流した。
友田英樹は、それほど優秀な男ではなかった。美奈子が死んだ後の友田は完全に死に体で、リストラの対象にすらなったことがあったが、聡美のためにわたしがリストラのリストから外させた。友田はそんなこととはつゆ知らず、相変わらずぐうたらしていた。社内では何故馘首にならないのか不思議に思う人間もいるようだった。
潤一郎が二十歳を迎えた頃から、突然、陽一の女遊びが始まった。わたしが美奈子と聡美に感け過ぎたせいかもしれないが、ひどい変わりようだった。秘書に手を出し、余所に女を囲った。次ぎから次ぎへと。病気としか思えなかった。この時ほど、女になったことを恨めしく思ったことはなかった。愛した男が他の女と褥を共にしていることほど、辛く悲しいことはなかった。自分の手で陽一を殺してやろうとさえ思った。
潤一郎もこの頃から閉じこもって何やらやり始めていた。どうも陽一の進めている若返りの薬の研究に興味を持ったらしい。潤一郎が二十四歳になった頃、陽一がどうやら薬の合成に成功したらしいことが耳に入った。そして、陽一が興奮気味に動物実験は成功か、やった、やったと電話口で喚いているのを聞いたのはすぐその後だった。
二週間前、朝早く出かけた夫は、珍しく午後六時に帰宅して機嫌が良かった。いつになく元気で、五年ぶりにわたしを抱いてくれた。そして、次ぎの日目が覚めたら夫は消えていた。ベッドの中にパジャマだけを残して。抜け殻のようなパジャマを見ながら、二十五年前の研究所での光景を思い出した。夫は、若返りの薬を使ったのだ。そして失敗して消えてしまったのだ。
まさかと思い、調べてみたところ、研究所に出向させた社員がその日のうちに失踪すると言う事件が立て続けに起こっていた。二十五年前と同じだった。ぐうたら社員の友田英樹も研究所に出向させられたと聞かされた時は目の前が暗くなった。聡美の父親もいなくなってしまったと。ところが、聡美に電話して確かめてみたところ、友田はちょっと変だけど、いつもより元気だと言う返事だ。このときになって、わたしはすべてを理解した。友田はまもなく変身して若い女になる。間違いない。繰り返されているのだ。
義母が何かを知っている筈だ。わたしは義母に確かめに行った。義母はわたしに、五十年前自分は恭子の父親だったと告白し、一通の書類を手渡した。
それは白水ゆかりと言う少女の戸籍謄本だった。友田英樹が女になったことを確かめたら、白水ゆかりさんの戸籍謄本を彼の元に送るように、文面は覚えているでしょうと言われた。そして、潤一郎が白水ゆかりを名乗る女性と結婚したいと言ってきた時には、必ず結婚させるようにきつく言われた。
三年前、世話になった光子さんの曾孫が白血病で亡くなった。その少女の名前が白水ゆかりだ。ゆかりさんは光子さんの孫娘が残したたったひとりの曾孫で、その孫娘は産褥熱で亡くなり、父親もその直後に事故でなくなったため、ひとり残ったゆかりさんを光子さんが育てていたのだ。光子さんも八十八まで頑張ったが、ゆかりさんが亡くなった直後、あとを追うようにして亡くなった。ふたりの葬儀は本田家の主催で盛大に行われ、同じお墓に葬られたが、義母が何故かゆかりさんの死亡届を出さなかった。戸籍は消されていないのだ。ゆかりさんは、生きていれば今年十九歳になるはずだ。
一昨日、会長室で執務をしていると、潤一郎が結婚したいと言って可愛らしい娘を連れてきた。その娘は白水ゆかりと名乗った。両親の名前も間違いない。年齢も十九歳だと言った。彼女はあの薬の力で若い女になってしまった人物、友田英樹だ。義母に言われた通り結婚に賛成し、すぐに婚姻届まで出させた。潤一郎が結婚する相手は彼女でなければならないのだ。
彼女は、潤一郎と最初に性的交渉を持ったときに必ず妊娠する。遅くとも入籍した一昨日の夜には二人は結ばれているはずだから、来年の春には男の子、そう女の子ではなくて男の子が誕生するだろう。わたしが潤一郎を生んだように。戸籍が戸籍だけに大っぴらに披露宴は開けないが、本田家の伝統だと言えばすむ。ただ、入籍してすぐ生まれたのでは、いくらなんでも体裁が悪い。だから、わたしと陽一の時と同じように、わたしは無理やり二人を役所に引っ張って行って入籍させたのだ。
生まれるのは男の子に限られている。そして、その後は絶対妊娠しない。性周期もきちんとしていて、月経も毎月あるが、妊娠だけはしない。どのような治療をしようとも。それはわたしが良く知っている。
潤一郎は、父親の陽一が失敗して消えてしまったことを知っているにもかかわらず、ふたたび若返りの薬を作ろうとする。二十五年経つと、潤一郎はあの薬の合成に成功する。二十五年経つまではどんなことをしてもできない。二十五年後のある日、突然合成に成功する。動物実験もすぐにうまくいく。そして若返るつもりが、潤一郎は何人かの男と一緒に消えてなくなる。ただ一人の男を除いて。そのひとりは、若返って女になり、来年生まれるわたしの孫と結婚する。そしてすぐに妊娠する。逃れることは絶対できない。どこにいても必ず孫と出会い、結ばれるようにプログラムされている。それは彼の運命なのだ。こんな悲劇、いや喜劇が二十五年ごとに繰り返されるのだ。
夫は消えてしまってもいい。結婚当初の情熱が失せ、若い女に走ってしまった男などに未練はない。ただ、潤一郎だけはお腹を痛めた子供だけに心が痛む。ただ、どうしようもないのだ。こんなおかしな輪廻を止めようとしたものがなかったわけではない。しかし、どんな努力も徒労に終わったと聞かされた。止めようがないのだ。例え潤一郎が手に入れているだろう実験ノートを処分してしまっても、同じような内容のノートが潤一郎の前に現れる。この話しを潤一郎自身にしても無駄だ。麻薬中毒患者が目の前の麻薬に誘惑されるように、若返りの薬を使って、そして消えてしまう。それが潤一郎の、本田家の男たちに課せられた運命なのだ。これは本田家の宿命なのだ。
この先わたしに課せられた仕事は、二十五年後二十歳になる、両親のいない女の戸籍を手に入れておくことだ。ゆかりさんにも早い時期にこの話しをしておいたほうがいいだろう。ただ、今はまだ話せない。今のゆかりさんは、恋におぼれてしまっているから、こんな話しをしても無駄だからだ。二十年後には潤一郎は夫と同じように浮気に走る。必ず。その時に話しをしよう。
そのためには、ゆかりさんとは何でも話しが出きるように仲良くなっておかなければならない。今ごろゆかりさんは、夕食の準備をしているだろう。新婚早々で悪いが、夕食をご馳走になるために押しかけるつもりだ。おいしいワインを持って。