結婚の報告をするために陽一さんと光子さんがいない間に美奈子に電話した。美奈子はまだわたしの両親のところにいる。美香と名乗るわけにはいかない。
「こんにちわ、おばさま。明子です。先日はお世話になりました。美奈子、います?」 「ああ、あの時の明子さん。こちらこそお世話になって。いますよ。ちょっとお待ちになってね。美奈子、美奈子。降りてきなさい。明子さんから電話よ」
どたどたと階段を降りてくる足音がする。美奈子の声は相変わらず明るい。
「もしもし、明子。 どう、元気?」
「元気よ。元気過ぎて困っちゃうくらい」
「あれ! 何か変ね。何か良いことあったの? 明ちゃん」
「あのね。わたし、明子じゃなくて、美香になったの」
「えっ。今なんて言った?」
「わたし、美香になったの」
「ちょっと待って。部屋まで電話持っていくから」
傍に両親がいるようだ。こんな話しは聞かれてはまずい。内緒の話しよと美奈子が母に言っているのが受話器から聞こえる。
「なに、なに? もう一度言って」
「だから、わたし、美香になったの」
「美香?」
「そう。美しい香りって書くの」
「どうしてまた」
「あなたがおばあちゃんのところに行った前の日に、戸籍謄本が送られてきたの」
「戸籍謄本が?」
「そう。中に手紙が入っていて、その戸籍を使えって書いてあったの。その戸籍の名前が美香なの」
「誰がそんな戸籍謄本なんか送ってきたの?」
「それが分からないのよね。差し出し人の名前が書いていなかったから」
「よく使う気になったわね。誰のものとも知れないそんな戸籍を」
「誰にも迷惑は掛からないと書いてあったわ。それに必要に迫られて使ったの」
「必要に迫られて?」
「そう。わたし、本田美香になっちゃったの」
「えっ、どういうこと? まさかあのひとと」
「そうなの。あの本田陽一さんと結婚しちゃったの」
「ええっ! どうして」
「薬のことを調べるのには、彼の傍にいるのが一番いいって思って。それには結婚するのが一番手っ取り早いでしょう? 丁度いい具合にその戸籍があったから」
「でも、元に戻れたらどうするの?」
「その時は、その時よ。今はこの方法が最良だと思うの。そう思わない?」
「そうかなあ。うーん、そうかもしれないわよねえ。うーん。でもよく彼がその気になったわね」
「それは内緒」
「ああっ、女の武器を使ったな。女になったばかりなのにそんな手を使うなんて、悪い人!」
「違うわよ。陽一さんがわたしに惚れたのよ。いろいろ経緯はあるけど」
「そんなの信じられないわ」
「嘘じゃないわ。信じてよ」
「・・・・信じてあげるわ。でもどんなひと? この前の電話ではいい人だって言ってたけど。一度会ってみたいな」
「今はだめ。そのうちね。ところであなたのことが心配なんだけど、どうする?」
「ああ、わたしは大丈夫よ。来月からおじいちゃんとおばあちゃんが一緒に住んでくれるって。お父さんが見つかるまで。見つからないけどね」
「ごめんね、美奈子。あなたを捨てたわけじゃないんだけど、結果的にこういうことになって」
「いいわ。死んじゃったわけじゃないんだから。落ち着いたら会えるわよね」
「もちろんよ。わたしにはあなたの親として、あなたの行く末を見届ける義務があるから。心配しないで。少なくとも以前よりは長くあなたのことを見守っていてあげられるわ。わたし、若いんですもの」
「そうだよね。ずっと見守っていてね」
「そうだわ。美奈子。来月家に帰ってきたら、四丁目のスイミングスクールに入りなさい」
「えっ、どうして?」
「わたしも入るから。そしてそこでお友達になるの。そしたら、このマンションに遊びに来られるし、いつでも会えるわ」
「わあ、良いアイデアね。帰ったら、すぐに入学するわ」
「入籍は済ませてあるけど、結婚式は十月なの。わたしの結婚式にもお友達として出席できるわ。出てくれるでしょう?」
「もちろんよ」
「それに、あなたが結婚する時には、わたしも出てあげられるわ」
「いいこと尽くめね」
「まだあるわ。陽一さんに頼んで、お父さんの給料がずっと出るようにしておいてあげるから、短大でも大学でも行って。もし良かったら、陽一さんの会社に雇ってもらえるようにしてあげるわ。会社の仕事をしていて失踪したひとの娘だからとか何と言えばいいから」
「お父さんが消えてしまうって聞いたときは、もう死んでしまおうと思ったけど、すべてがうまく行きそうね」
「こうなって良かったのかもしれないわね」
「そう思いましょう」
「じゃあ、スイミングスクールで会いましょう」
「じゃあね」