七月二十三日(金)

 朝早く起き出して、午前八時には陽一の部屋の前にいた。また犯されるなどということはないとは思ったが、用心のためジーンズを穿いてきた。ロードスターが駐車場に停めてあるのは確認してきている。陽一が部屋にいることはまず間違いない。女でも連れ込んでいなければ良いが・・・・。

 ちょっとだけ迷ってドアをノックした。少し間があって返事がした。しばらくしてドアが開かれた。歯を磨きながら出てきた陽一は、わたしを見て驚いたようだ。わたしは深々と頭を下げて話しを切り出した。
 「一昨日はごめんなさい。勝手に部屋の中に入り込んで」
 「あっ、い、いや。いや、そんなことはいいよ」
 「中に入れてくださる? それともご迷惑かしら?」
 「いや、そんなことはないよ。散らかってるけど、どうぞ」
 散らかってなんかいない。まるで女がいるみたいに片付いている。テーブルの上に飲みかけのコーヒーカップが一個置かれてあるだけだ。
 「ちょっと、そこに座って待っててくれ」
 陽一はあたふたと顔を洗うと、寝室に入って着替えて出てきた。陽一はにこにことして、酷く愛想がいい。
 「一昨日どうして、ぼくの部屋の中に入り込んだんだい?」
 「わたしのお友達のお父さん、あなたのお父さんの会社に勤めていたの。失踪した六人の一人よ」
 「それで」
 「息子のあなたが何か知ってるんじゃないかと思って訪ねてきたの。ノックしても誰も出てこないから、ノブを回してみたら回って」
 「鍵掛け忘れたのかなあ」
 「誰もいないから、何か手掛かりはないかと思って、つい」
 「ぼくが知るわけないじゃないか」
 「ほんとに?」
 「当たり前さ。ぼくは旅行に出てたからね」
 知らないと思って嘘を言っている。まあ、いいか。月曜日に研究所にいたでしょうなんて言ったら、何故そんなことを知っていると言われそうだ。こちらが答えに窮する。話しを合わせておこう。
 「そうなの?」
 「どうしてあのノートを?」
 「何だか手掛かりみたいに思ったから」
 「残念ながら、あれは関係ないね」
 関係ない筈はないと思ったが、これもそれ以上追求しなかった。
 「そうなの」
 「そのお友達の名前は何というんだい?」
 「西崎美奈子よ」
 「きみがその西崎美奈子じゃないだろうね」
 「違うわ」
 「じゃあ、君の名前は?」
 「・・・・片桐」
 「下の名前は?」
 「美香よ」
 わたしはあの戸籍謄本の名前を使った。とっさのことで、ほかの女の名前が思い浮かばなかった。明子でも良かったが、苗字のほうが思いつかなかったからだ。
 「片桐美香か。いい名前だ」

 陽一はわたしをじっと見つめている。陽一が変な気を起こさないうちに、わたしが若返りの薬の人体実験に使われたこと。そして、若くはなったけれど、女になってしまった事実を話そうと思ったが、彼に犯されたことを思い出して、思い止まった。あんなことがなかったなら話せていたけれど、今となってはもう話せない。陽一の方から何か手がかりになりそうなことを話し出さない限りどうしようもない。ともかく、陽一と話せたのだから、一度帰って作戦を練り直してくることにした。
 「ここには手掛かりがないみたいだから、失礼するわ」
 「コーヒーでも飲んでいかないか?」
 「結構よ」
 「頼むよ。もうちょっと一緒にいてくれ」
 「どうしてよ。この前はあんな仕打ちしておいて」
 「だから・・・・、だから、謝りたいんだ。ごめん。申し訳なかったと思うよ。あの時は血を見ておかしくなっていたんだ」
 陽一は急に真顔になって、わたしの前に土下座して謝っている。
 「謝っても、もう遅いわ」
 「きみを好きになってしまったんだ。あの日から忘れられなくて」
 陽一の言葉にわたしはビックリしてしまった。わたしを好きになってしまっただって?言うに事欠いて、何て事を。
 「な、何を言い出すの」
 「本当だよ。嘘じゃない。だからもう少し一緒にいてくれ」
 「・・・・」
 「お願いだよ」
 「そんなうまいこと言って。また、わたしを犯すつもりでしょう。帰るわ」
 「そんなこと言わないでくれよ。本気だよ」
 「いやよ、帰る」

 陽一の要求に応じたほうが良いのかもしれないと思ったが、軽い女だと思われたくなかったから部屋を出た。陽一は本気らしいから、これくらいの仕打ちでは挫けないだろうという目算があった。陽一はエレベーターの前まで追いかけてきた。
 「手掛かりを探しておくから、また来てくれよ。お願いだ」
 「ほんとに探してくれるの?」
 「探しとくから、明日また来てくれる?」
 「明日? そんなに早く見つけられるの?」
 「当てがあるんだ」
 「ほんとに?」
 「ほんとさ」
 「何時に来れば良いの?」
 「午後六時までには帰れると思うよ」
 「六時? そんなに遅くに? やっぱり下心があるんじゃないの?」
 「ない、ない。父が失踪して、ぼくは今は重役だから、外せない会議があるんだ。食事を準備しておくから、頼むよ」
 「食事? 自分で作るの?」
 「まさか。部屋を見れば分かるだろう。通いのお手伝いがいるんだ。彼女に作ってもらうんだ」
 なるほど、通いのお手伝いさんがいるのか。道理で綺麗に片づいている筈だ。
 「若いひと?」
 「六十五だよ」
 「安心した」
 そう言葉に出してから気づいた。わたしは嫉妬していたと。いや、そんなことはない。言葉の彩だ。
 「来てくれるんだね」
 「手掛かりをきちんと探しといてね」
 「分かってるよ。必ず探しておくから」
 「じゃあ、明日午後六時ね」
 「じゃあ、明日。絶対来てくれよ。待ってるから」
 あのノート以外に手掛かりなんてあるのかしらと思いながら、これで陽一とは、強い繋がりができたと喜んで帰宅した。