七月二十二日(木)

 食欲がなく、コーヒーを沸かして飲んでいると、電話が鳴った。美奈子の明るい声が受話器から聞こえてきた。美奈子の声を聞くと安らぐ。
 「どう? お父さん。元気にしてる?」
 「まあね」
 「そう? 元気ないみたいだけど」
 「そんなことないよ」
 わたしは昨日のショックからまだ抜け出せないでいる。美奈子に心配掛けないようにしようと思ったが、どうしても気持ちが声に表れてしまう。
 「その後どうなった。何か進展があった?」
 「本田陽一と接触できたよ」
 「良かったじゃない」
 「うん・・・・・。良かったのかな。いや、まだ、どうなるか分からないけどね」
 その通りだ。まったくどうなるか分からない。わたしは不法侵入者だ。この先、陽一はわたしと話しをしてくれるだろうか?
 「それで?」
 「この前話した実験ノートが彼の手元にあったよ。唯一の手がかりだから、何とか食いつかないとね」
 「あんまり無理しないでね。お父さんは女なのよ、それも若い」
 「分かってるよ。充分にね」
 分かりすぎるくらい分かっている。若い女にとって、男は危険な生き物だ。あんな事になろうとは思いもしなかった。いや、陽一の父親の行状を見れば、ああなることは予想できた筈だ。失敗だった。電話してから、部屋を訪ねれば良かったのだ。後悔が嵐のように頭の中を吹き荒れる。
 「何か必要なものはない?」
 「今のところないよ」
 「服とか下着とかは?」
 「買いに行ったよ」
 「すごい。格段の進歩ね」
 「少しは進歩しないとね」
 「そうね。ほんとに必要なものはないのね」
 「ないよ」
 「じゃあ、また連絡するわ。おじいちゃんもおばあちゃんも元気だから安心してね」
 「ああ、美奈子も体に気をつけてな」

 電話を切ってから思いを巡らせた。本田陽一と接触できたか。大きな代償を払ったけれど、これ以上の接触はないな。昨日のことは忘れはしないけれど、しばらく思い出さないようにしよう。だけど昨日のことを利用して陽一に近づこう。それがいい。車の中の陽一は気弱そうに見えた。あの時は、鼻血を見てわれを忘れただけだ。きっとうまくいく。

 バスに乗って陽一のマンションまで出かけたが、ロードスターはいなかった。近くの喫茶店に入ったりして、マンションの周りをうろうろして待ったが、午後八時になっても陽一は帰ってこなかった。これ以上わたしのような若い娘が、歩き回るわけにはいかないと思い、仕方なく帰宅した。時間はたっぷりある。わたしは若返ったのだから。