朝早く食事を済ませると、ちょっと迷ったが、デパートで買ったあのワンピースを着た。何故か着てみたくなったのだ。鏡に映してみると、よく似合っている。それはそうだろう。いつも着ている服は、恭子のものだ。今のわたしが着るには地味すぎる。
バスに揺られて本田陽一のマンションに向かった。空がどんよりとして、雨になりそうだ。駐車場を覗いてみると、本田陽一のロードスターが停まっている。部屋にいるかもしれない。
五〇六号室の前に来て、どうしようか迷ったが、思い切って本田陽一と話しをする決心をした。探してみたがやはりチャイムらしいものがないので、ドアをノックした。しばらく待ったが返事がない。電気メーターを見ると今日は勢いよく回っている。まだ寝ているのだろうか? もう九時なのに。もう一度ノックしてみた。やはり返事はない。ノブを回してみたら、ドアが開いた。あたりを見まわして誰もいないなと思いながら、部屋の中に入った。
広い玄関だ。右側にある靴箱の上に素晴らしい生け花がある。反対側の壁にルノアールの踊子のレプリカが飾ってあった。本田家はルノアールが好きらしい。靴を脱いで、足音を立てないように廊下を進み、突き当たりのドアを開けた。広い三十畳はあろうかと思うリビング。後ろを振り返ると左側に対面式のキッチンがある。右側にはカウンターバーがあった。贅沢な造りだ。中央においてある応接セットもわたしの給料ではちょっと手が出ないような高級品だ。人の気配はまったくない。右奥のドアが少し開いている。近寄って覗いてみると、奥にダブルベッドが置いてある。誰も寝ていない。そのベッドに向かって左側にライティングテーブルがあって、その上にあの実験ノートらしい古ぼけたノートが置いてあった。ノートを手に取ろうと部屋に入ったら、後ろから声をかけられた。
「誰だ、おまえは? 何してる、人の部屋の中で」
本田陽一が、険しい顔をして立っていた。ランニングシャツにトランクス姿だ。洗面所にでもいたのだろうか?
「あのう」
「そのノートをどうするつもりだ。返せ!」
彼のあまりの形相にわたしは言葉を失って、ノートを掴んで逃げ出そうとした。しかし、腕を掴まれて、ベッドの上に投げ出された。スカートが捲れてパンティーが見えている。慌ててスカートの裾を押さえ、ノートを放り出して逃げようとしたが、陽一がわたしに圧し掛かってきた。
「止めて、離して!」
「おまえは誰だ。何故ここにいる?」
「離してよ」
手足をばたばたさせて逃げ出そうとしたら、手が陽一の顔に当たった。はっとして見ると、陽一の鼻から血が流れていた。血の色を見たとたん、陽一は逆上し、顔を真っ赤にしてわたしを殴り始めた。逃げ出そうとしたが、こうなった男の力に敵う筈はない。ベッドにねじ伏せられ、パンストを引き破られた。まさか、そんな、と思う間もなく、パンティーを脱がされ、あっと思ったら、股間に激痛を覚えた。
「止めて。痛い、痛い」
両腕を抱きすくめられ、抵抗しようにも抵抗できなかった。わたしは陽一に犯されている。そんな馬鹿な。
どれくらい経ったろう。わたしはベッドの上で涙を流していた。悔しさ、恥ずかしさ、怒り、絶望、屈辱、後悔。負の感情が全部入り混じり、ただ涙を流した。
「処女だったのか」
ベッドの傍に立っていた本田陽一がポツリと呟いた。ベッドのシーツに赤いしみができていた。わたしはパンティーを穿くと急いで陽一の部屋を逃げ出した。
「待てよ。待ってくれ」
陽一の声が聞こえたが、無視してエレベーターのスイッチを押した。マンションの玄関を出ると雨が降り始めていた。涙を隠すのに丁度良い。わたしは雨の中を濡れながらとぼとぼと家に向かって歩き始めた。
しばらく歩いた時、車が傍に停まる音がした。振り返って見ると、本田陽一のロードスターだった。陽一が降りてきて傘を差し掛けて、わたしを車に乗せようとした。わたしは無視して歩き始めた。陽一はわたしの腕を掴んで、引き戻そうとしている。行き交う人たちが、この雨の中で何してるんだ、と言うような非難の表情を浮かべて通り過ぎて行く。急に恥ずかしくなって、ロードスターの助手席に乗り込んだ。
「きみは誰だ。何の目的でぼくの部屋に入った?」
わたしは答えず、ただ下を向いていた。陽一と話しをするつもりだったのに、もう話す元気もなかった。陽一もそれ以上何も言わず黙って車を走らせた。
「どこまで、行けばいい?」
「あの建物の前で降ろして」
「口が利けなくなったのかと思った」
わたしは陽一を睨みつけた。彼は悪いことして怒られた子供のように小さくなって、車をわたしが指定したビルの前に停めた。
このビルは、賃貸マンションで、わたしの家から百メートルばかりのところにある。家を知られては困ると思ったので降ろして貰った。玄関を抜けて曲がったところで様子を窺った。車の中から陽一がこちらの方をじっと見ている。雨が下着まで染みていて寒くなってきたが、陽一が立ち去るまで、じっと待つことにした。しばらくするとロードスターは諦めたように去って行った。
さらに三十分くらい待って、外の様子を見てから家に走って帰った。尾けられた様子はない。鍵を閉めて、熱いシャワーを浴びた。股間が気持ち悪い。何かを挟んでいるような違和感がある。バスタオルで体を拭きながら、脱いだパンティーを見た。赤いしみができていた。また涙が溢れてきた。本田陽一、忘れない。わたしの処女を奪った男として一生忘れない。たとえ男に戻れても。