七月十三日(火)

 まだ消えていない。研究所にもう一度行ってみよう。残された手掛かりは研究所しかない。時計は午前五時を指している。二時間あまりしか眠っていないが、不思議と眠気は感じない。

 妻が死んでから、使うことのなかったドレッサーの前に行き、鏡にかけられたカバーを取って自分の顔を見た。二十台半ばに見える。髪の毛は肩まで伸びている。どうしてこんなに髪の毛が伸びるのだろう。散髪に行きたいが時間がもったいない。かなり痩せたが、脱力感を感じない。若返っているせいだろう。
 いつもの服装ではおかしいので、普段、庭いじりするときに着ているジーンズを出して穿いて、上にTシャツを着た。Tシャツはもちろんぶかぶかだが、ジーンズの丈が合わない。おかしい。丁度良い長さのはずなのに、随分あまっている。そうか身長も縮んでいるんだ。
 身長計などない。鉛筆を探し出して、本を頭に当てて、柱の傍に真っ直ぐ立って柱に印を付けた。物差し、物差し。ない。ドレッサーの中に縫い物用のメジャーがあった。柱の印から床までの長さを測ってみる。百六十六センチ。五センチ縮んでいる。やっぱり。
 洗面所に飛んで行った。体重は? 五十五キロ。減少のスピードが上がっている。いつまで保つだろう。不安がよぎる。以前のわたしならここで諦めるところだが、今は違う。生きている限り、活路を見出そう。死が迫った今になって、懸命に生きようとする意欲が沸いてきた。もっと前にこうなっていれば、こんなことにはならなかったのに、と少々後悔しながら、リビングに降りて行った。

 美奈子がパジャマ姿のまま、リビングの入り口にボーっと立っていた。目が真っ赤だ。昨夜は気丈にわたしに意見したが、夜中は泣き飽かしていたのが手に取るように分かる。また、泣かすわけにはいかない。父親として、残された日々を悔いのないように過ごすのだ。
 「美奈子。お父さんは最後まで頑張るよ。頑張った結果がどうなっても悔いのないように生きたいからね」
 「うん」
 「これから、研究所に戻ってみる。何か手掛かりを探すつもりだ」
 「わたしも行く」
 「だめだ。学校へ行きなさい。そしてお父さんが、昨日出掛けてから帰って来てないと言いふらすんだ」
 「でも」
 「わたしと一緒にいると、今はまずい。とにかく言う通りにするんだ。分かったな」
 「分かった。言う通りにするわ。必ず、帰って来てね。お別れをしないで、死なないでね。お願いよ」
 「分かったよ。赤ん坊になったら、お父さんを抱いててくれ。じゃあ、行ってくる」
 「食事はいいの?」
 「早く行きたいから、いいよ。どこかで、パンか弁当でも買って食べるから」
 「必ず帰って来てね。必ずよ」
 美奈子とずっと一緒にいた方が良いのかもしれない。いつ消えてしまうか分からないのだからと思いながらも、バス停へ向かった。

 七時のバスに乗って、東城村の研究所目指した。十五分ほど走っただろうか? バスが信号停車したとき、何気なく外を見ると、あのロードスターが隣に停まっていた。運転しているのは、間違いなくあの若い男だ。窓を開けて呼びとめようとしたが窓が開かない。バスを降りようと出口に走り寄ると、ロードスターが、茶色の十階建てくらいのマンションに入っていくのが見えた。
 次の停溜所で降りて、急いで引き返した。マンションの駐車場に入るとロードスターを探した。あった。五〇六と書かれた枠の中に停まっている。五〇六号室の住人か、それとも五〇六号室に用事があって来た人間だろう。
 エレベーターで五階に昇り、五〇六号室を探した。南の角の一番良い部屋のようだ。表札は出ていない。チャイムらしいものもない。ノックしてみたが、待てども待てども誰も出てこない。窓から中の様子を覗ったが、電気が点いていない。電気のメーターを見てみるとほとんど回っていない。中には誰もいないようだ。車を置いてどこかに出かけたらしい。

 がっかりして一階まで降りた。出て行こうとして、郵便ポストがあるのに気づいた。団地にあるようなちゃちなものではなく、鍵付きの物だ。あたりをきょろきょろ見まわして、誰にも見咎められないことを確認してから、五〇六号のポストを探ってみた。ダイレクトメールらしい封書が、うまいことに引っかかっている。中に落ち込まないように、そっと取り出してみた。宛て先は「本田陽一」だった。
 本田。本田。どこかで聞いた名前だ。本田。そうだ。社長の名前だ。まさか社長の息子? いや、その可能性はある。電話で社長の息子の名前を確かめればいい。
 マンションを出て本社に電話した。社長の息子の名前を教えて欲しいと言うと今はそれどころではないと、けんもほろろに断られた。どうしようか迷っているうちに、家に社員名簿があったのに気づいた。社長の自宅に直接電話してみよう。

 帰りついたのは、十時前だった。美奈子はすでに学校へ行っている。社員名簿を取り出して調べながら、何気なくテレビのスイッチを入れた。目に飛び込んできたのは、大日本ゼウス製薬と言う看板の大写しだった。びっくりしてテレビを見てみると、本田社長が、密室から蒸発したと言う内容をレポーターが喚き散らしていた。
 レポーターの話しを要約すると、昨夜書類の整理があるといって、社長室に閉じこもった本田社長が、今朝になっても出てこないため、ドアをこじ開けて中に入ると誰もいなかったというのだ。鍵は内側から架かっており、外からは架けたり外したり出来ない構造になっているという。それだけではなく、社長の椅子に、衣服だけが残されており、丁度人間だけが蒸発したようだと言うのだ。

 北田所長と同じだ。あの日、尻を摩りながら、車に乗り込む社長の姿を思い出した。社長もあの注射をしたのだ。きっと、そうだ。
 わたしは本田社長の蒸発の原因を知っている。だが、誰がそれを信じてくれるだろうか? わたしが赤ん坊になって消えてしまえば、信じてもらえるか? しかしそんなことをしても何の解決にもならない。
 本社に電話したとき、相手にしてくれなかったはずだ。社長が蒸発したのだ。自宅も恐らく変な電話は取り次いでもらえないだろう。そうなると、息子を捉まえるのも容易ではない。いや、まだ社長の息子と決まったわけではない。

 社員名簿に目を落とすと、最初のページに、社長の家族写真が載っていた。社長と社長婦人との間にいる青年こそ、あの若い男だった。社長の息子なのか。彼は何をしていたのだろうか? 何を知っているのだろうか? 何とかして会わなければ。
 名簿に載っている社長の自宅の電話番号を回してみた。誰も出ない。もう一度、本社に電話してみた。何度電話しても話し中だった。

 用を足したくなって、トイレに立った。体重は五十三キロ。量るのが怖くなる。量らなければ良かった。しかし、もしかしたら、体重の減少が止まるのではないかと言う淡い期待が、わたしに体重を量らせているのだ。小便をしながら、ここにも変化が出ていることを自覚させられた。
 小便をしながら自分のペニスをじっと見た。ペニスが小さくなっている。昨夜も少し小さくなったかなとは思ったが、今日は明らかに小さくなっている。いつもの半分の大きさしかない。しかも皮を被っている。まるでこどものペニスだ。それに睾丸も小さくなっている。若返っているのだから、当たり前だと思いながら、体全体は二十台くらいなのに、ペニスだけがどうしてこどもみたいなのだろうか? そんな疑問がちょっと沸いたが、すぐに消えた。

 簡単に食事を済ませ、無駄だとは思ったが、本田陽一のマンションへ行った。マスコミ関係者らしい人物が数人うろついている。それとなく尋ねてみたら、本田陽一は朝から雲隠れして行方が分からないという。ここにいても仕方がないので、研究所に向かうことにした。
 研究所は、幸いに誰も来ていなかった。というより、だれもいなかった。すべての部屋という部屋を探してみたが、だれもいなかった。柳本という研究員の痕跡を探してみたが、まったくなかった。手がかりはもう何もなかった。

 力を落として帰宅した。美奈子が待っていた。
 「お父さんよね」
 「ああ」
 「確認しないと、時間がたつと別人のように見えるから」
 「そうか」
 「どうだった? 何か手掛かりは掴めた?」
 「研究所で見かけた若い男は、社長の息子だったことが分かった」
 「大収穫じゃない!」
 「ところが、社長が蒸発して、しかも息子も行方知れずだ」
 「社長さんが蒸発?」
 「社長も注射をしたらしい。だから、消えてしまったんだよ」
 「そうなの」
 「それで騒いでいるから、連絡のつけようがない。息子は騒ぎに巻き込まれないように姿を隠しているのだろう」
 「その息子さんも薬で消えちゃったってことはないの?」
 「美奈子! 頼むからそんな恐ろしいことを言うなよ。あの時の感じでは、そんなに軽率な男には見えなかった。きちんと確かめないうちは注射はせんだろう」
 「そうだといいけど。おとうさん、まだ、大丈夫よね」
 「大丈夫だろう。このペースなら、子どもになるのは、まだ二,三日後だ。しばらくは美奈子と話しができるだろう」

 夕食は美奈子のリクエストで、うな重を取って食べた。それも特上を。ふたりでこんな贅沢をするのは最後かもしれないからと美奈子が言うから。
 体重は五十一キロになっていた。それはともかく、ペニスがさらに縮んで人差し指の先ほどの大きさしかない。立ってするのにやっとの大きさだ。睾丸も陰嚢の中にやっと触れるばかりだ。まあ、いいか。どうせ消える運命なのだから。