七月十二日(月)

 六十五キロ。急激に痩せている。頬がこけてきた感じがする。それに、それに若返っている感じだ。痩せたからではない。それは確かだ。見かけだけではなく、体力的にも何だか充実した感じだ。ちからが漲っている。四十を過ぎたくらいから感じていたあの気だるい感じがしない。わたしが注射されたのは、若返りの薬に違いない。きっとそうだ。研究所に行って所長に確かめないと。

 「お父さん、もう起きたの? すぐご飯作るわね」
 「美奈子。お父さんをどう思う?」
 「随分痩せたわね。体の具合でも悪いんじゃないの? でも顔色はいいわね。あっ、やっぱり髪の毛が増えてる。わたしが小さい時のお父さんみたい」
 「美奈子もそう思うか? 若返っているように見えるか?」
 「若返っている? そう、そうだわ。若返った感じよ」
 「そうか。やはり、確かめてみよう」
 「確かめるって?」
 「人体実験さ。若返りの薬の」
 「まさか」
 「しかし、若返って見えるんだろう?」
 「それはそうだけど。そんな薬があるの?」
 「それを確かめるのさ」

 朝食を済ませると、バスに乗って研究所へ向かった。バスの中を走りたい気分だ。一時間がいつもの倍の長さに感じられた。坂を駆けて上った。ぜんぜん疲れを感じなかった。まるで若い時みたいに。
 玄関のドアはすでに開いていた。所長が来ているに違いない。部屋に行って問い糺してみよう。所長室のドアをノックしてみたが返事がない。研究室を覗いてみたが、まったく人影はない。もう一度所長室に戻ってノックしてみたが、やはり返事がない。ドアを開けて中を覗いてみた。誰もいない。

 ふと、ソファーの上を見てみると服が脱ぎ捨ててあった。いや、脱ぎ捨ててあると言う表現はおかしい。まるで服を着た人間がソファーに座っていて、そのまま中身だけ消えたように見える。床の上に靴まで揃えて置いてある。何の冗談だ。
 「所長、北田所長。どこにいるんです? 隠れているのなら出てきてください」
 返事はない。どうなっているんだ。この服は何なんだ。
 その時、車の停まる音がして、玄関のドアが開けられた。所長だろうか? 何故かその時、出ていってはいけないという自分自身の声に逆らえず、隠れることにした。窓際のカーテンの陰に隠れようとして、机の上にある実験ノートに気づいた。ノートを手に取ると急いでカーテンの陰に隠れた。

 足音が近づいてきて、所長室のドアががたりと開いた。スニーカーを履いた見たことのない若い男が入ってきた。わたしは息を殺して彼の挙動を監視した。彼はソファーの上にある服を乱暴に持ち上げた。
 「ふん。失敗したな」
 若い男は所長の服をソファーの上に投げ戻した。それから、机の中、ファイルボックスの中を手当たり次第に探り始めた。何を探しているのだろう。しばらくして、A、B、Cの記号のついたアンプルの入ったケースと古ぼけたノートを大事そうに抱えて出て行った。玄関のドアを開ける音がして、車のエンジンが掛けられた。所長室の窓から、走り去る白のボディーに赤いストライプの入ったロードスターが目に入った。

 しばらくその場にじっとしていたが、ほかに誰もいる気配がないので、カーテンの陰から出て、廊下を覗った。やはり誰もいない。あの若い男は何者だろう。柳本とか言う研究員だろうか? 失敗したな、と言っていたな。どう言う意味だ。わけが分からず、ノートを持って自宅へ戻った。

 自宅に帰り着いた時には、午後二時を回っていた。美奈子はまだ帰っていない。コーヒーを沸かして、トーストを囓りながら、実験ノートを読み始めた。
 実験ノートは、A,B,Cの三種類の薬剤が完成した時点から書き始められていた。二十日鼠を使っての実験内容が記されてあった。毎日毎日失敗の連続の記録であった。
 その失敗の内容を見て、愕然となった。薬はやはり若返りの薬だった。注射された二十日鼠はどんどん若くなって行き、子鼠になって、そして生まれたばかりのネズミになって、それから、それから胎児になって、・・・・六時間後には消えてしまったと。ノートには、若返りが止まらない。量の問題の筈だ。量をうまく調整すればいいところで止められるだろうと書かれてあった。

 ここまで読んで、今自分の体に起こっている事態がおよそ理解できた。信じたくはなかったが・・・・。失敗はさらに続くが、ある日子鼠まで若返ったところで、止まったと書かれていた。その文字は震えていた。そのあとのページに、同じ量であれば何回やってみても若返りは子鼠までで、それ以上若返らないと書かれている。
 その後、名前は書かれていないが、人間に投与されているらしいことが書かれていた。A,B,Cの薬の量も書かれていた。そして、失敗、失敗、失敗の文字。一時間で若返り始め、六時間でみんな消えたと。そして人間の実験の六番目に、うまくいったようだ、と書かれてある。A,B,Cの薬の量を見た。この六番目の人間は、わたしだ。
 本社からこの研究所に派遣された五人の人間は、失踪したのではなく、本人に無断で行われた人体実験によって、生まれる前まで若返ってしまったのだ。つまり消えてしまったのだ。所長は、わたしが若返って、しかも六時間以上経っても消えずに入るから、わたしへの投与量が至適投与量だと思って自分で注射して、失敗して消えてしまったのだ。だから、服だけがあんな風に残されていたのだ。

 わたしはまだ消えていないのに、彼はどうして先に消えてしまったのだろう? 体重とか年齢とかの問題だろうか? うまくいったようだ? うまくなんかいっていない。わたしはゆっくりだが、まだ若返りが続いている。
 そう思い至った時、わたしは死の恐怖に震えた。死んでしまう。このまま、若返りつづけて赤ん坊になり、胎児になって、そして消えてしまうのだ。
 いや、もしかすると、若返りが止まっているかもしれない。そう思って、洗面所に行って鏡を見た。今朝よりさらに若返っている。髪の毛は黒々とし、かなり伸びていた。
 体重は、体重は・・・・。急いで体重計に乗ってみた。今朝は六十五キロだった。六十一キロしかない。注射されて三日間に体重が十キロも減ってしまっている。
 リビングに戻り、泣いた。大の男が泣くなんておかしいと思ったが、涙が止めど無く流れ落ちた。所長はいい。あっという間に死んでしまったから。わたしは真綿を締められるように、若返って死んでしまうのだ。怖い。神様、仏様。誰でも良いから助けてくれ。恭子! 助けてくれ。美奈子を残して死ねない!

 どれくらい経ったろう。ドアの開く音がして、美奈子が帰ってきた。わたしの顔を見て、泣き顔になって近づいてきた。
 「どうしたの。お父さん」
 「美奈子。もうだめだ。お父さんは、死んでしまう」
 「どうして? どうしてなの」
 「研究所で打たれた薬は、やはり若返りの薬だったんだ」
 「若返りの薬? 本当なの?」
 「本当だよ」
 「昨日までだったら信じないけど、今のお父さんの姿を見ていると信じないわけにはいかないわね」
 「どんどん若返っているんだ」
 「それはわたしにも分かるわ。でもそれがどうしたの?」
 「どんどん若返って、赤ん坊になって、胎児になって、そして」
 「そして?」
 「消えてしまうんだ」
 「そんな!」
 「今日、研究所で所長が消えてしまった。そのノートにもこれまでの実験結果が書かれてある。間違いない」
 「若返りを止める方法はないの?」
 「止める方法なんて、どこにも書かれていない。もう消えてしまうしかないんだ」
 「何か方法があるはずよ」
 「方法なんてあるもんか」
 「何かあるはずよ」
 「・・・・そうだ。あのノートに書かれてあるかもしれない」
 「あのノートって?」
 「今日、若い男が研究所から持ち出したノートだ」

 美奈子に、今朝の研究所での出来事を話した。話しながら、絶望感が大きくなるばかりだった。どこの誰とも知れない人間を、いつまで命が持つか分からないのに探すなんて・・・・。絶対無理だ。それにあのノートに若返りを止める方法を書いているとは限らないのだ。
 「その柳本という研究員の住所は分からないの?」
 「そうだ。本社に問い合わせてみよう」
 柳本の親戚のものを偽って住所を聞いた。ところが柳本などと言う研究員はいないとの返事だった。所長は嘘を言ったのだろうか? それとも本社に関係なく、研究所で雇った人間なのだろうか? 手掛かりがなくなった。

 そのころには、もう死の恐怖から立ち直っていた。いや、完全には立ち直っていなかったが、嘆いていてもしょうがない。美奈子のために、できる限りのことをしておこうと決めた。貯金通帳、生命保険の証書、家の登記簿、実印そのほか今後の生活に必要と思われるものを美奈子に手渡した。
 「いやよ。お父さんがいなくなってしまうなんて。わたしひとりじゃ生きていけない。お父さん、死なないで」
 「希望は捨てないが、万が一を考えて置かないとな。二,三日したら、お父さんの捜索願いを出すんだ。いなくなったと言ってね」
 「どうして?」
 「このままでいくと、死体がないから、死亡を確認できない。保険金が出ないんだ。失踪して七年だったか経過すると、死亡と見なされる筈だ。お父さんが消えてしまってからでも良いが、どうせなら早い方が良い。今のお父さんを見て、西崎利明だと分かる人間はいないだろうから、明日出しても大丈夫さ」
 「何か変だけど。お父さんがそうしろというのなら、そうするわ」
 「腹減ったな。もう七時過ぎか。こんな時にも腹が減るなんて。くそっ」
 「栄養をつけましょうよ。丁度良いわ。お父さん、痩せたから、力をつけようと思って焼き肉の準備をしてたの」
 「焼き肉か。いいかもな」

 焼き肉を食べながら、ビールを飲んだ。こうして美奈子と食事をしていると、明日には消えてしまうかもしれないという恐怖は少しも感じない。しかし、風呂に入って体重が五十九キロになっているのを見たとき、再び死の恐怖が甦ってきた。どうしたらいいんだ。
 布団に入ってもなかなか寝着かれず、少しとろとろとしたかと思うと、赤ん坊になって消えていく自分の夢を見て目が醒めた。午前三時を回ったころ、ようやく浅い眠りについた。