七月十一日(日)

 歯を磨きながら、鏡の中の自分を見て、昨日覚えた違和感が何なのか分かった。頭の毛が少し濃くなっている。・・・・と思う。それに少し痩せたようだ。体重計に乗ってみた。六十八キロしかない。三キロも減っている。ここ十年というもの七十キロ以下になったことがないのに。何故だろう。あの注射のせいだろうか? 人体実験という言葉がふたたび頭の中で大きくなってきた。

 カップ麺が入った袋をぶら下げて坂道を登っていくと、研究所の駐車場に、所長の車と並んでピカピカに磨かれたシルバーメタのセルシオが停まっている。誰の車だろう。そう訝りながら、カップ麺の入った袋を控え室の棚に置いて、所長室のドアをノックした。
 「所長、西崎です。今日の仕事の打ち合わせに参りました」
 「事務室で待っていてくれ給え。三十分ほどしたら行くから」
 「分かりました。お待ちしております」
 誰か中に居るようだ。わたしに会わせたくない人物なのだろう。事務室で待つことにする。二十分ほどして、所長が誰かを送り出していった。事務室の窓から、出て行った人物の後ろ姿を見てみると、どうも社長のようだ。社長だったら、別に隠すことはないだろうに。何故隠すのだろうか? その社長らしい男が右の尻を摩りながらセルシオに乗り込むのがちょっと気になった。

 「西崎君、社長のお許しが出てね」
 所長室に入るなり、所長が笑顔を浮かべて話し始めた。
 「えっ」
 「車だよ。車」
 「車、・・・・ですか?」
 「きみが昨日言ってただろう。研究所用の車だよ」
 「ああ、その車のことですか」
 「本社が契約しているリース会社からこちらへ車を回してもらえることになった。わしのはもちろんだが、君の分も頼んであげたよ」
 「わたしの車もですか?」
 「そうだ。きみが良く働いてくれると言ったら、社長がそうだろう、そうだろうと喜んでな。きみの分も会社で持ってくれるということになったんだ。これでバスの時間を気にしないで済むよ」
 「ありがとうございます。バスの時間より、この坂道を登るのが堪えますから助かります」
 「だいぶ楽になるだろう。ああ、そうだ。期限切れの薬品と定数不足の消耗品のリストを確認しておいたよ。早速で悪いんだが、引き出しに注文先リストがあるはずだから、電話して届けてもらってくれんかね」
 「分かりました」
 今帰った人物が社長なのかどうか、とうとう聞きそびれてしまった。まあ、いいか。

 事務室に帰って消耗品を注文する準備をすることにした。これが大変だった。どの薬がどこの注文先にあるのか、ひとつひとつ注文先を確認して、注文先別にリストを作り直したら、夕方になっていた。
 「所長、遅くなって申し訳ありません。注文先別のリストができ上がりましたが、注文は明日でもよろしいですか?」
 「明日で結構だよ。ところでどうだい。体調の方は?」
 「すこぶる良いですね。まるで若返ったように元気です。仕事も快調ですし」
 「そうだろうとも。そうだろうとも」
 そうなのだ。痩せたせいか、体が軽い。仕事もなんとなく楽しい。部屋を出る時、おやっと思った。所長の髪の毛が増えて、しかも黒くなったような気がしたのだ。それに顔の皺も減ったようだ。気のせいだろうか?

 家に戻ると、美奈子がヘッドフォンステレオを聞きながら、夕食を作っていた。怒ってやろうと美奈子に声をかけたら、妙な顔をしてわたしを見た。
 「どうかしたか?」
 「お父さん、何だか変よ。カツラでもしたの?」
 「いや、カツラなんかしてないぞ」
 「そうなの? 髪の毛が増えたみたいよ」
 「そんなこと言って、外泊の件を誤魔化すつもりだな。どこへ行っていた。どこへ」
 「千佳のところよ。千佳は知ってるでしょう? いつもうちに泊まりに来ているでしょう。だから今度は千佳んちに来てって言われてたの」
 「本当か?」
 「娘が信用できないの? それとも電話して確かめる?」
 「分かった。信用するよ。おまえのことだから間違いはあるまい」
 「間違いって?」
 「いや、その」
 「男?」
 「あっ、ああ」
 「いやだあ。男なんて嫌いよ。近づいただけで虫唾が走るわ。あっ、お父さんだけは別よ」
 「そうか。それを聞いて安心した」
 「心配してくれてありがとう。好きなひとが出来たら、真っ先に報告するわ。だから大丈夫よ」
 「風呂入ってくる」
 「ほんとにカツラじゃないの? 一昨日わたしがあんなこと言ったから」
 「ば、馬鹿いうんじゃない!」

 髪を洗って風呂を出て、鏡に映る自分の頭を見た。美奈子の言う通りだ。確かに髪の毛が増えている。それに若返ったみたいだ。帰り際の所長の頭を思い出した。あの注射は毛生え薬に違いない。所長はわたしに試して、うまくいったのを確かめて、自分にも試してみたに違いない。黙って人体実験するなんて許せなかったが、毛が増えたんだ。まあ、いいか。
 社長も注射したのだろうか? こっそり研究所に来たところを見ると、そうなのかもしれない。社長も随分薄いからな。
 若返った? そんなことが起こるはずがない。痩せて毛が増えたから若く見えるだけだ。
 体重計の目盛りは六十七キロ。今朝より痩せている。どうなっているんだ。昼食がカップ麺だからだろうか? 明日、所長に確認してみよう。あの薬は、本当は何だったのか。そして副作用は?

 また、負けた。やけ酒を飲んで寝た。