第6章 初恋

 ぼくは、学校の二階にある理科実験室の中にいた。科学クラブの誰もまだ来ていない。準備室のドアを開けて、中をきょろきょろ探してみると、棚の中に望遠鏡があった。実験用のガリレオ望遠鏡だ。それを手に取ると、ぼくは窓際へと移動した。カーテンの隙間から、グランドをこっそり見て、目的のものに、望遠鏡の照準を合わせる。
 長い髪をリボンで結んだ遠藤ミチルの姿が逆さまにレンズに写る。彼女は、セーラー服のスカートを穿いたまま、短パンを穿こうとしていた。白いパンティーがちらりと見えた。ぼくの股間にずきりとした痛みを覚えた。
 短パンを穿き終えて、彼女はスカートを脱いだ。短パンを穿いているのは分かっているのに、スカートを脱ぐと、パンティーが見えるんじゃないかと思ってどきどきしていた。
 突然、彼女がぼくの方を見上げた。ぼくの目と彼女の目があった。彼女は、ぼくに向かって、べえと舌を出した。どうしてぼくが覗いていることに気がついたんだろうか? ぼくは慌てて望遠鏡を引っ込めると棚に戻した。
 グランドに目を戻すと、ラケットを持ってテニスコートの方に走って行く彼女の後ろ姿が目に入った。
 ぼくは、カーテンから顔を半分だけ覗かせて、彼女の姿を追う。どきどきする。こんな気持ちは生まれて初めてだ。ぼくはきっと彼女に恋している。そう思うと、ますます胸の高なりを覚えた。

 どやどやと人の入ってくる気配にドアの方を振り向くと、科学クラブの面々の姿が目に入った。
 「宮本。先生は?」
 「まだ来てないよ」
 ぼくは、下川に返事する。下川昇一は、科学クラブの部長をしている。野球部やテニス部のキャプテンを違って、部長だからと言って特別すごい能力を持っているって言う訳じゃない。3年生で、誕生日が一番早いと言うだけだ。
 「何してたんだ?」
 「な、何でもないよ。グランドを見ていただけだよ」
 「・・・・そうか」
 ぼくのすぐそばまで来て、下川はグランドの方を見やった。
 「外で運動する奴らの気が知れないね」
 「そうだね」
 ぼくは、相づちを打った。

 ぼくはあんまり運動が好きじゃない。好きじゃないというか、はっきり言うと、運動音痴なのだ。親譲りかというと、そうでもない。父は若い頃陸上の選手で、県体にも出たことがあるらしい。母も水泳では当時の中学記録を持っていたと聞いた。
 ぼくの運動音痴は、病気のせいだ。幼稚園の頃、ネフローゼにかかって、長い間運動を禁じられた。ネフローゼが治ったあとも、運動らしい運動はしていない。
 積極的に運動すれば、きっとうまくやれるんだろうけど、その気がないものだから、何もうまくならない。
 運動クラブに入っても、正選手には絶対なれないから、ぼくは科学クラブに入った。ここでは、運動能力は関係ないからだ。
 下川は、体育の時間は、結構活躍するのに、ただきついと言って、科学クラブに属している。彼なら、どこの運動クラブに入っても、正選手になれるだろうに。

 「先生。遅いな」
 「どうする?」
 「どうしようか?」
 三浦俊郎、北口治、新名美鈴、片山みどりがぼくたちの周りに集まってきた。
 「集まったか?」
 ドアの方を振り向くと、本田先生がやってきた。いつもながら、ぼさぼさの頭。ノーネクタイのワイシャツに、よれよれのズボン。先月30になったと聞いたが、未だに独身だ。奥さんがいれば、もっとまともな格好をさせるだろうなと思う。まあ、もっといい格好をしないと、女にもてないだろうなとも思う。
 「宮本! 先週採取した検体の分析は終わったか?」
 「あ、まだです」
 ぼくは下を向いて答える。
 「何やってんだ? 昨日までにやっておけって言ってただろう?」
 「おとといは風邪で、昨日は塾で・・・・」
 「いつ、終わる?」
 「えっと・・・・、あさってには」
 「あさってだな。あさってまでにやっておかないと、今度の日曜ににも検体を採取しに行くからな」
 「ええっ! 今度の日曜日もやるんですか?」
 片山がぼやく。下川、北口もウンウンと同意する。
 「3週連続日曜日なしですよ」
 新名と片山が不足そうに言う。
 「文化祭に間に合わなくていいのか?」
 そう言われて、一同は黙り込んだ。大したことやっているんじゃないけど、運動部が試合をするように、科学クラブも何かやっていることを実証するために、文化祭で掲示をしなければならないのだ。
 「宮本と片山は、検体の分析。三浦と北口、新名は、出ているデータを分析して、グラフづくりだ。いいな」
 「あのう、ぼくは?」
 下川が首をすくめたまま質問する。
 「おまえは、わたしと一緒に、校長室へ行ってもらう」
 「校長室!」
 「おまえ、先週、フェノールフタレインを持ち出して、悪戯しただろう? 校長に謝りに行くんだ」
 「はあい」
 下川は項垂れて、本田先生と理科室を出ていった。

 下川がやった悪戯というのは、先週、女子トイレの手洗い場にフェノールフタレインを撒いたことだ。石鹸で手を洗ったとたん、手洗い場が真っ赤になって、女子の一人が卒倒して倒れて怪我をしたのだ。
 下川が、フェノールフタレインを持ち出したことはぼくは知らなかったのだけど、三浦と北口は知っていたらしい。フェノールフタレインを持ち出せるのは、ぼくたち科学クラブの6人に絞られるから、すぐに犯人が分かったという訳だ。

 本田先生と下川がいない間、ぼくと片山は、検体の分析作業を進めていった。やっているのは、旭川の水に含まれる塩素の量を量ることだ。河口から、10メートルおきに両方の川岸と川の中央から水を採取して、含まれる塩素量を測定する。塩素の量を量って、海の水がどこまで川をさかのぼるか調べるのだ。
 干潮と満潮。大潮と小潮。雨の降り具合。いろいろな条件によって左右されるから、結果は一様でない。それを分析してグラフにするのだから、かなり大変な作業だ。結果が出たからと言って、何の役にも立ちそうもないけど、自然現象を知る上では面白いのだと本田先生は言う。ぼくは、硝酸銀を滴定して分析を進めていった。

 午後5時近くになって、本田先生と下川が理科室に戻ってきた。下川はかなりこっぴどく怒られたらしく、いつもと違ってかなり落ち込んでいる様子だった。
 「作業は進んだか?」
 「はい」
 「はい」
 「宮本のグループは?」
 「もう10本で終わりです」
 「じゃあ、明日には終わるな」
 「終わります」
 「グラフづくりは?」
 「データのある分は、仕上げました」
 「じゃあ、明日は、今日明日でデータの出た分をグラフにすればいいんだな」
 「はい、そうです」
 「それじゃあ、今日は解散にしよう」
 「はあい」

 三浦、北口、新名は、ばたばたと片づけをして部屋を出ていった。彼らは、今日も塾があるのだ。ぼくと片山は、塾はお休み。
 「どうする?」
 「どうするって?」
 片山が聞き返す。
 「あと10本だから、今日中にやってしまおうか?」
 「明日にしようよ。明日する分がなくなるわ。今日やってしまったら、グラフづくりを手伝わなければならなくなるでしょう?」
 「それもそっかあ」
 片山の意見はもっともだと思い、ぼくたちは片づけを始めた。本田先生は、下川を残して部屋を出ていった。
 「どうだった?」
 片山が下川に聞く。
 「トイレ掃除一週間で許してくれるって」
 「謹慎じゃなくてよかったわね」
 「そんなに悪いことしてないさ」
 「そう? 女の子たちは、かなり怒ってたわよ」
 「へえ、そう?」
 「トイレで、あんな真っ赤じゃねえ」
 下川は首を竦めた。ぼくはちょっとぴんとこなくて、首を傾げていた。

 片づけを終えて、グランドを覗くと、テニス部も片づけをやっていた。遠藤がまたぼくの方を見て、べえと舌を出した。遠藤はどうしてぼくが見ていることに気づくんだろうか? よく分からない。
 ぼくは肩をすくめ、鞄を片手に部屋を出た。上履きを運動靴に履き替えてグランドに出て、バックネットへ向かった。遠藤の姿はもう見えなかった。
 「宮本。もうちょっと待ってくれよな」
 「いいよ」
 近藤誠次が、キャッチャーに向かって投球しながら、ぼくに声をかける。近藤は、野球部のキャプテン。ピッチャーで4番バッターだ。彼がいなかったら、野球部は、ただの玉遊びクラブにすぎない。
 近藤は、ぼくの幼なじみであり親友でもある。運動音痴のぼくによくつきあってくれるなと思う。

 30分ほどして、野球部の練習も解散になった。近藤が、野球服のままぼくのそばへとやってきた。
 「お待たせ」
 「秋季大会は勝てそうか?」
 「野球は9人でやるもんだからねえ。俺が9人いれば、甲子園でもどこでも行けるけど、ほかの8人がまったくだめだもんなあ」
 「ほかの連中だって、一生懸命やってるじゃないか」
 「一生懸命やったって、才能がないとだめだよ」
 「そうかなあ。天才は99パーセントの努力と、1パーセントとにひらめきだって言わないか?」
 「運動能力は別だよ。生まれついてのものがある。おまえ自身もそう思うだろう?」
 ぼくは、肩をすくめた。ぼくも、きちんと運動すれば、結構やれると思っているんだけど・・・・。

 歩いて10分。近藤の家に着いた。
 「ただいま」
 「お帰り。あら、勇一君、いらっしゃい」
 「おじゃまします」
 「いつも一緒に勉強してくれて、ありがとね」
 「なんでもないです」
 ぼくの母より、ふたつ年上なのに、ぼくの母よりずっと若作りの近藤の母親。母親と言うより、ちょっと年の離れたお姉さんのように見える。近藤には、高校3年生の姉がいるけれど、その姉と一緒にいると、まるで姉妹なのだ。ぼくの母は、いつもださい格好をしていて、老けて見えるから、少しは見習ったらいいなと、近藤家に来るたびに思う。
 「あら? わたしの顔に何か付いてる?」
 「あ、いえ」
 ぼくは、慌てて近藤の部屋にあがっていった。

 ぼくと近藤は、部屋の真ん中に置かれたテーブルに教科書とノートを広げると、宿題を始めた。運動能力はぼくの方が劣っているけど、勉強の方は負けていない。ぼくはほとんど毎日、近藤の家に寄って一緒に宿題をしてから帰宅する。
 ぼくがいないと、近藤は宿題をほとんどしない。ぼくが風邪を引いて休んだ翌日、近藤は必ずと言って先生に怒られている。親友としては、近藤が怒られているのを見たくないものだから、帰りに寄って一緒に宿題をやっているというわけだ。
 「おまえのおかげで、俺も南雲高校に行けそうだよ」
 「南雲の野球部は大したことないんじゃない?」
 「野球で生きるのは止めた。プロになるほどの才能は俺にはない」
 「そんなこと、ないんじゃないの?」
 「自分の能力は自分で分かるさ。だから、南雲にしたんだ」
 「そう・・・・」
 南雲高校は県下でも有数の進学校だ。大学に行こうとすれば、南雲に行くのが一番いいのだ。当然のことながら、ぼくの南雲に行くことにしている。

 「じゃあ、帰るよ」
 「いつも、サンキュウ」
 午後7時ちょっと前。ぼくは近藤の部屋を出た。階段を下りると、近藤の母親が台所から顔を出した。
 「勇一君。これ、お母さんにあげて。田舎から送ってきたの。お裾分けよ」
 ビニール袋に大根とキュウリが入っていた。
 「ありがとうございます」
 ぼくは、鞄と野菜の入ったビニール袋を抱えて家路についた。

 ぼくの家は、近藤の家から5分ほどの距離にある。
 「ただいま」
 「お帰り」
 「はい、これ」
 「あら? どうしたの?」
 「近藤のお母さんにもらったんだ。田舎から送ってきたんだって」
 「そう。お礼をしなくっちゃ」
 母は、早速電話をかけ始めた。ぼくは、階段を上って部屋へ向かった。
 「あと10分くらいで、ごはんができるからね」
 受話器を手でふさぎながら、母がぼくに向かって叫んだ。
 「分かった」

 食事を済ませ入浴すると、ぼくは机に向かう。近藤は、今日の勉強は終わりとばかり、今頃はテレビでも見ているに違いない。ぼくは宿題のほかに、今日の復習と、明日の予習を忘れない。
 教科書を開いていると、遠藤の笑顔が浮かんできた。悪戯っぽい笑顔だ。可愛くて抱きしめたくなる。
 遠藤の顔を思い浮かべながら、何故か不思議に思う。ぼくが遠藤を見ていると、遠藤は必ずぼくに気づいてちょっと笑顔を見せる。今日みたいに、遠くから望遠鏡で覗いたりしても気づく。どうしてだろうか? 今日は着替えをしているところを覗いたから、べえと舌を出したけど、いつもはにっこり笑ってくれる。もしかすると、ぼくに気があるのだろうか? そうだとしたらいいんだけど。ぼくにはそれを確かめる勇気はない。