沼田老人を入院させて1ヶ月がたった。沼田老人の容態は好転の兆しを見せない。悪くなって行くばかりだ。
いつものように仕事を終え、良一と交代するために病院の裏口から病室へと向かった。
「今晩は。お世話になります」
ナースステーションで、中にいた看護婦に挨拶すると驚いたような顔をして出てきた。
「あら!? 沼田さん、お義父さん、退院されましたよ」
「えっ!? いつ?」
「夕方よ。知らなかったの?」
「し、知りません。退院する状態じゃないでしょう?」
「それがねえ。沼田さんが、急に退院するって言いだして聞かないの。あなたも知ってるって言うから、先生が許可したの」
「いったい、どこに・・・・」
「自宅じゃないの?」
「すみません」
「支払いは、明日でいいですから」
「は、はい」
痛みが酷くて、モルヒネを使って、しかも酸素吸入しているというのに、どうして退院なんて。
タクシーを飛ばしてアパートに帰ると、沼田老人は、真っ青と言うよりどす黒い顔色をして、肩でやっとのことで息をしていた。
「お義父さん、どうして?」
「儂のために、美晴さんに迷惑はかけられない」
「迷惑なんてかけてないわ」
「誤魔化すな。美晴さんに、あんなことをさせてまで生きていようとは思わない」
どこから知ったのだろうか? 知られないようにしていたのに・・・・。
「あんなことって?」
「儂に言わせるつもりか? もう止めてくれ。もうあんなことはしないでくれ」
沼田老人の目に涙が浮かんで、ポロリと零れた。
「・・・・でも、あなたに充分な治療を受けさせたいから・・・・」
「何をしてももう無駄じゃ。チューブに繋がれて死にたくはない。美晴さん? すまんが、小屋に連れて行ってくれんか? あそこが儂の住処じゃ。あそこで最後を迎えたい」
「最後なんて言わないで。あなたにはもっと楽をさせてあげたいんだから」
「もう充分じゃ。もう充分恩は返して貰った。もういいんだ」
「でも・・・・」
「儂のことを思っていくれるんじゃったら、あの小屋に連れて行ってくれ。お願いじゃ」
沼田老人の願いを聞かざるを得なかった。病院へ戻っても、もはやすることがないことは明白だったからだ。最後にしてあげられるのは、沼田老人の最後の願いを聞き入れてあげることだけだった。
タクシーを呼んで、良一と共に沼田老人を小屋まで連れて行った。
「ドアを開けておいてくれるか?」
ドアを開けると、海岸に波が押し寄せてくるのが見えた。
「波はいいのう、波は。永遠じゃ。永遠にうち寄せる」
「そうね」
「儂が死んだら、骨は海に撒いてくれ」
「分かったわ」
「美晴さん、儂はあんたに会えてよかった。若ければ・・・・。イヤ、言うまい。美晴さんと暮らせただけで幸せじゃった。あんたみたいに心優しい人と・・・・」
「あなたも優しい人よ」
わたしは、沼田老人の頬にキスをした。
「迷惑じゃろうが、良一を頼む」
「はい。・・・・お義父さん、お義父さん!!」
沼田老人の意識がなくなった。わたしと良一が見守る中、呼吸が止まり、沼田老人は旅立っていった。
戸籍がないから、火葬許可証がなかなか出なかった。今村医師が尽力してくれ、火葬だけは何とかできた。勿論、葬式も何もなかった。わたしと良一がお別れをしただけだ。
約束通り、わたしは遺骨を小さく砕いて海へ撒いた。沼田老人は、生命の源、海へと戻った。
病院の支払いを済ませると、貯金は底をつき、わたしは自分と良一が生きていくために働きに出なくてはならなくなった。まともな仕事があればいいけど、それもない。結局これまでの仕事を続けざるを得なかった。
沼田老人が亡くなってしまったから、そんなに稼ぐ必要はなかった。本番をせずにすめばそれに越したことはない。しかし、いったん始めてしまったら、お客が止めることを許してくれない。
「昨日まで、よくって、どうして今日はいけないんだよ」
そう言われて迫られれば、しぶしぶながら、応じざるを得なかった。
良一は、沼田老人が死んだことを理解できないようだ。毎日、いつ帰ってくるのかとわたしに聞いた。
「お義父さんは、遠いところに行ったの。そのうち会えるわ」
「そう、いつ会えるかな?」
その日がすぐに訪れるなんて、思ってもみなかった。
沼田老人が生きているとき、良一は、沼田老人と一緒に仕事に出かけ、一緒にアパートに帰ってきた。沼田老人がいなくなって、良一はどこにも行かずアパートにいた。ただ、わたしが出かけるとき、橋のたもとまで送ってきた。
「良ちゃん、アパートで大人しく待ってるのよ」
そう言うと、項垂れてアパートへ帰っていった。わたしがアパ−トに帰るまで、中古で買ったテレビを見て過ごしていた。
ある日のこと、仕事を終えて店の外に出ると、良一がわたしに向かって手を振っていた。
「りょ、良ちゃん・・・・」
「仕事、お疲れさん。さあ、帰ろう」
わたしがここで働いていることを、誰が良一に言ったのだろうか? だけど、良一はこの店でわたしが何をやっているのか理解するすべを持たない。それだけが救いだった。
その日から、良一はわたしを毎日、毎日迎えに来た。
「なあ、八重ちゃん?」
「何?」
「今日は本番はいいから、外でデートしないか?」
その日最後のお客となった元永が、突然言い出した。
「店長には話しを付けてあるんだ。いいだろう?」
時計は、午後10時35分を指していた。良一が迎えに来るまでに戻ってくればいいだろうと判断した。
「30分だけなら」
「アホの旦那が迎えに来るんだな」
わたしは元永を睨み付けた。
「ご、ごめん。悪かった。機嫌直して、なあ、頼むよ」
「他の人だったら許さないけど、元ちゃんだから許してあげるわ。だけど、二度と言わないでね」
「分かったよ。じゃあ、行こうか」
歩いて5分ほどの寿司屋へ行った。寿司なんて、記憶のある限りでは食べたことがなかった。嬉しくなって、時間のたつのも忘れて食べていた。
ふと気が付くと、午後11時半前だった。
「大変! 30分もオーバーしちゃった。元ちゃん、ご馳走様」
慌てて外に出ようとすると、外は激しい雨が降っていた。
「小父さん、傘貸して!」
「その骨の折れたのだったら、持っていっていいよ」
「ありがと」
走って店の前に戻ると、良一が待っていた。土砂降りの雨の中、傘も差さずにわたしの働いている店をじっと見つめていた。
「良ちゃん、待たせて、ごめん」
「美晴! 美晴もどこかへ行ったのかと思った」
「ごめん、ごめん。さあ、帰ろう」
良一の体は雨で冷たくなっていた。
「タクシー!!」
通りかかったタクシーを停めたが、運転手は、良一の姿を見ると嫌な顔をした。
「ずぶ濡れじゃないか。他のタクシーに頼んでくれ」
そう言い残して、走り去っていった。乗せてくれたのは、それから3台目のタクシーだった。それも、料金に5000円上乗せするとわたしが言ったからだ。
夜が明けて、良一は熱を出した。すぐに今村医師の元へ連れて行った。
「風邪を引いたみたいだな。薬をあげよう。暖かくして、栄養をとるんだよ」
夕方になって、熱が引いたので、粥を食べさせたあと、寝たのを確かめて仕事に出かけた。後で考えれば、仕事に出かけなければよかった。まったくわたしは馬鹿だ。
仕事を終えて店を出ると、店の前で良一が待っていた。
「美晴を迎えに来たよ」
「良ちゃん! どうして寝てなかったの?」
「美晴が心配だから」
「馬鹿ね。早く帰りましょう」
また熱が出ていた。翌日は、仕事を休んで看病した。熱が下がらなかった。
「肺炎を起こしてるよ。入院させよう」
今村医院に連れて行くと、すぐに入院させられた。今村医師ならすぐに治してもらえると信じていたのに、良一の容態はよくならず、入院して三日目に亡くなってしまった。
「わたしが、わたしが仕事に出かけなければ・・・・」
「自分を責めてはいけないよ。良一君は、心臓に持病があったんだ。ぼくがすぐに入院させれば死ななかったかもしれない。ぼくのミスだ」
「いえ、わたしの所為です」
どう後悔しても、もう手遅れだった。死んでしまったものは生き返らない。
良一も戸籍がなく、ふたたび役場の係員に嫌みを言われた。
「まさか、あんたもないなんて言わないよな」
ないと言えなかった。言えなかったけれど、係員に腹が立った。だけど、怒りの持って行きようがなかった。係員に文句を言っても仕方がないのだ。
火葬を終え、良一の遺骨もやはり海へと戻した。
支払いをするために今村医院へ行った。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
「イエ、そんなわけにもいきません」
「そうか。じゃあ、いただいておくか」
わたしは、請求書に書かれていたお金を今村医師に手渡した。
「ところで、美晴さん? ちょっと話しがあるんだが・・・・」
「何でしょう?」
「君は、パラダイスで働いているそうだね」
「・・・・どうしてそれを?」
「ここに来る患者に聞いたんだ。ホントなんだね」
「・・・・はい」
わたしは消え入りそうな声で答えた。
「あんな仕事は、もう辞めたらどうかね?」
今村医師に言われるまでもなかった。まともな仕事さえあれば、そうしたいと思っていた。
「でも、いい仕事がなくって・・・・」
「よかったら、ここで働いてみないか?」
「えっ!?」
「そんなに高い給料は払えないが、君が食って行くくらいは払えるよ」
「まさか! 先生、わたし、あんな仕事をしている女ですよ。ここではとても働けません」
「そうかな?」
「そうですよ」
「君があんな仕事をしていたのは、沼田さんたちへの恩返しのためなんだろう?」
「・・・・はい」
「じゃあ、何を恥じることがあるんだ」
「でも・・・・。わたしがここにいたら、患者さんたちが嫌うでしょう?」
「ぼくの患者で、そんなことを気にするものはいないよ」
今村医師の申し出は嬉しかった。だけど、思い切れなかった。
「よく考えてくれ。君は元々そんな人じゃないんだから。いいね」
「・・・・はい」
あんな仕事から、足を洗うチャンスには間違いない。だけど、今村医師に迷惑がかかりそうで、簡単には応じられなかった。
店に出て最初のお客が入ってきた。恥ずかしげもなく、わたしの前に股間をさらした。その瞬間、こんな仕事をするのがイヤになった。今村医師の言うように、沼田父子がいなくなった今、わたしがこの仕事を続けている意味はない。
「すみません。今日は体調が悪くて。ごめんなさい。他の若い子に代わって貰いますから」
そう言って部屋を出た。
「店長さん、すみません。今日は帰らせていただきます」
「体の具合でも悪いのか?」
「え、ええ。夫の亡霊が目に浮かんで、お客さんの相手をしてやれないんです」
「亡霊って、幽霊か?」
「はい。夫の幽霊が取り憑いているんです」
「そりゃ、いかん。すぐに帰れ」
亡霊や幽霊はもちろん嘘だ。信じてもらえなければ、幽霊がいるとか何とか言って、騒いでやるつもりだった。こんな嘘なら、付いても閻魔様には怒られないだろう。
「ホントに、わたしを雇ってもらえるんですか?」
翌日の朝、わたしは今村医師の前に座っていた。
「もちろんだよ」
「後悔しても、知りませんよ」
「後悔するくらいなら、最初から君を雇おうなんて言わない」
今村医師はきっぱりとそう言った。
「先生の厚意には感謝します」
「じゃあ、いいんだね」
「はい。どんな仕事をすれば?」
「受付、会計、カルテの整理などだ。智ちゃんに教えて貰ってくれ。おい、智ちゃん、頼んでたこと、お願いするよ」
「はい」
わたしがうんと言うと思っていたようだ。
「少しずつ慣れればいいよ。いいね」
「・・・・ありがとうございます」
その日の午後から、智美という看護婦からいろいろと教えて貰った。患者は多いし、結構大変な仕事だ。
午後7時、帰ろうとすると、今村医師がわたしを呼んだ。
「やれそうかな?」
「なんとか」
「仕事の割には、給料はそんなにやれないが、いいかな?」
「堅気の仕事ですもの。楽じゃないのは分かっています」
「そうか。ところで、君のアパートの家賃はいくらだ?」
「家賃ですか? 家賃は、1万8000円ですけど」
「1万8000円か。・・・・何なら、ここへ越してこないか?」
「ええっ!! この病院にですか?」
「家賃がなければ、それだけ楽だろう。ぼくとしても、安月給なのを誤魔化せるってわけさ」
わたしは、今村医師の顔を見た。何か下心がありそうな気がしたからだ。
「別に変な気持ちはないよ。たまたま空いているから、そう言っただけだよ」
わたしの考えを察したのか、慌てて今村医師は否定した。もし、今村医師が望めば、そうしてあげてもいいと思っていた。
「じゃあ、お言葉に甘えまして。ここへ引っ越させていただきます」
「そうか。じゃあ、遅くまでこき使えるな」
言い訳がましく今村医師はそう言った。
「そうですね」
わたしは笑顔を今村医師に戻した。