第1章 芥溜めに舞い降りた鶴

 光の届かない、暗い、暗い海の底からゆっくりと浮かび上がる。光が見え始め、目の前が光で真っ白になった。光が遠のくと、目の前に天井からぶら下がったランプの明かりが見えた。天井は、粗末な小屋のようで、屋根裏が直接見えた。
 頭がひどく重い。視野も狭い。ぼんやりとした意識の中で、わたしはゆっくりと起きあがった。部屋は狭い。畳ではなく板の間だ。それも今にも抜けそうな杉でできた床だった。わたしは部屋の隅に敷かれた薄っぺらな布団の上に寝かされていた。
 布団とは反対側の隅に、白髪の混じった、ぼさぼさに髪を伸ばした人物が、ごそごそと何やらやっていた。その人物がふとこちらを向いた。
 「おう、気がついたかね」
 柔和な顔をしたその人物は、かなり年の男だった。髪の毛だけではなく、髭もぼうぼうと生え、そこにも白髪が混じっていた。
 「ちょっと、隠してもらえんかね? ほれ、その胸を。目の毒じゃ」
 そう言われて、自分の体を見てみると、裸の胸が露わになっていた。慌てて胸を毛布を引き寄せ覆い隠した。
 「ここは、どこ?」
 「儂の家じゃ」
 そんなことを聞いてるんじゃない。どこの場所か聞きたいのだ。しかし、老人はそれ以上答えなかった。
 「おまえさん、名前は何という?」
 「名前? ・・・・名前は・・・・」
 思い出せない。自分が何という名前なのか。胸があるし、声も高いから、女だと言うことは分かった。だけど、まったく何も思い出せない。
 「自分の名前を忘れたのか?」
 「思い出せない・・・・」
 「そうか。じゃあ、どうしてあんなところに倒れていたのかも思い出せんじゃろうな」
 「あんなところ?」
 「ああ。うちの坊主が、おまえさんを海岸で拾ってきたんじゃ。ここから、500メートルほど行ったところじゃ」
 「海岸に倒れていた・・・・」
 「靴を履いてなかったんじゃが、自殺でもしようとしたのか?」
 「・・・・分からない。何も、・・・・何も思い出せない・・・・」
 「そうか、それじゃあ、仕方ないな。腹が減ったろう。粥を作ったから、一緒に食うか? あ、その前に、服を着てくれ。ずぶ濡れだったから、儂が脱がしたんじゃ。もう乾いとるじゃろう」
 毛布の中を探ると、わたしは何も着ていなかった。女のわたしが着ていた服を全部脱がしたの? 恥ずかしさで、カッと顔が赤くなるのを覚えた。
 「あのままにしておいたら、風邪を引いて肺炎でも起こしかねんと思ってな。久しぶりに観音様を拝ませて貰った」
 「観音様?」
 「女のあそこを見るのは、10数年ぶりじゃ。綺麗で可愛かったぞ」
 相手が老人とは言え、体の隅から隅まで見られてしまった。ますます恥ずかしさが増してきた。
 「早く服を着て、こっちへ来なされ。粥が冷めてしまう」
 枕元に広げられていたショーツとブラジャーを取り、毛布の中で身に着けた。パンストは何ヶ所か破れていて穿けそうもない。ワンピースを着て立ち上がろうとした。ふらっと幻暈がした。
 「急に起きあがると危ないぞ。そうだな。そっちへ持っていってやろう」
 老人が、粥の入った茶碗をふたつ持って近づいてきた。老人は何日も風呂に入っていない様子だ。体からすえた臭いがした。
 茶碗の縁は欠け、ひびが入っていた。形をとどめているのが不思議なくらいだ。竹でできた箸を手渡し、老人は、目の前に腰を下ろした。
 「さ、早く。冷めぬうちに」
 わずかに塩味の付いた粥。不味くもないが、かといって旨いとも感じなかった。ただ、暖かさが、冷たくなっていた体に心地よかった。

 ガタンとドアが開いて、大男が入ってきた。
 「おう、帰ったか」
 大男は、仁王立ちになって、わたしの方を見た。
 「おまえさんを拾ってきたのは、こいつじゃ。儂の息子の良一じゃ」
 良一という大男は、嬉しそうな顔をして、わたしのそばに腰を下ろし、にこにこしながら、わたしを見つめた。少し知恵遅れだと一見して分かった。
 「良一、おまえも食え」
 そう老人に言われて、茶碗を貰うと、良一は、わたしの顔を見つめたまま、粥をがつがつと飲み込んだ。
 「そうじゃ、儂の名前を言ってなかったな。儂の名前は、沼田じゃ。沼田三郎。こいつの名前は良一。もう言ったかな?」
 「はい。良一さん、助けてもらって、ありがとう」
 そう礼を言ったのに、良一はわたしを見つめたままだった。
 「見ての通り、良一は、ちょっと知恵遅れでな。じゃが、心は綺麗で、そこいらの人間より正直じゃ。おまえさんをどうにかしようなんて、考えることもないから、安心しなされ」
 「あ、はい」
 「それにしても、おまえさん、どうしてまた、あんなところに倒れていたんじゃろうな。事故じゃろうか? それともやはり自殺未遂かのう・・・・」
 「・・・・何にも覚えていません」
 何度聞かれても、思い出せないものは思い出せない。
 「ま、儂が調べてみることにしよう。調べがすむまで、すまんが、ここへいてくれんかのう?」
 「ここへ?」
 「良一が、おまえさんのことを気に入ったというか、拾ってきたから、自分のものだと思いこんどるんじゃ。しばらく、ここへいてくれんか?」
 記憶がまったくないから、どこへも行けない。命を助けてくれたこともあるし、沼田老人の言うとおりにしておくしかないとわたしは判断した。
 「分かりました。待っています」
 「じゃあ、行って来る。良一! おまえは、この人を守ってるんじゃぞ!!」
 「ああ。俺のもんじゃからの」
 ちょっと不気味だったけど、助けてくれたのに、そうも言えなかった。良一の歳は、どれくらいだろう? 30代のように見えた。口を半開きにして、ボッーとしているが、よく見れば結構いい男だ。

 良一は、わたしのそばに座って、わたしをただ見つめ続けるばかりだった。わたしは体を堅くして、座っていた。
 一時間ほどして、キイキイと言う自転車らしい音と共に、沼田老人が帰ってきた。
 「ここ一週間、あんたらしい失踪者や、自殺の痕跡はないようじゃな」
 「一週間って、どうして一週間なの?」
 「おまえさんは、三日も昏睡状態じゃったんじゃ。だから、その前あたりかのうと思ってな」
 「三日も昏睡状態?」
 「そうじゃ。その間、ずっと良一が看病しておったんじゃ」
 「良一さんが・・・・」
 良一の方を見ると、良一がにっこり笑った。可愛い笑顔だと思った。
 「ありがとう、良一さん。もう一度お礼を言うわ」
 「へへへへへ」
 歯並びの悪い口を開けて笑った。知能は小学生以下のようだ。
 「わたしは誰なんでしょう?」
 「儂には分からん。どうするね。警察に保護を求めるかね」
 「警察?」
 「そうじゃ。警察なら何とかなるかもしれん」
 「失踪者もいなくて、自殺者もいないのに分かるかしら?」
 「そうじゃな。分からんかもしれん」
 「分かったら、どうするの?」
 良一が、横から割って入った。
 「この人の身元が分かったら、帰るだけじゃ」
 「だめだ。どこへも行かせない。あんたは俺のもんだ」
 「良一! 俺のものなんて言うんじゃない。この人には、この人の都合がある」
 「いやだ。いやだ」
 良一は泣きわめいた。
 「あの、わたし、探している人もいないようだから、身元が分かるまで、ここにいてもいいです。助けて貰ったお礼に」
 「おお、そう言ってもらえると嬉しい。こいつの気が済むまでいてくれると助かる。すぐに気が済むと思うからな」
 「じゃあ、そうさせてください」
 「それはいいが、とりあえず、おまえさんをなんと呼ぼうかのう?」
 「名前ですか・・・・」
 沼田老人は、腕組みをして考えていた。
 「今日は見事に晴れあがっとるから、美晴とでもしようか?」
 「ミハル?」
 「そうじゃ。美しいに晴れると書いて美晴じゃ。どうじゃ?」
 「いい名前です。それにします」
 「じゃあ、美晴さん。足慣らしに、近くまで散歩にでも行ってきなさい。外に出れば、何か思い出すかもしれない」
 「はい。そうします」
 良一がわたしの手を取り、一緒に付いて出ると言うので、断りきれずに一緒に外に出た。沼田老人が言ったように、外は雲一つない快晴の青空が広がっていた。目の前には、深い青色の海。白い砂浜に波が打ち寄せていた。
 わたしは、その砂浜に立って、遠くに浮かぶ小さな島々を眺めた。わたしはどこから、この場所へ流れ着いたのだろう? 船から転落したのだろうか? それとも自殺未遂か? 分からない。何も思い出せない。悲しい記憶があるような気がした。だけど、何ひとつ思い出せなかった。

 沼田父子の家、と言うよりバラック小屋に帰ると、パジェロミニが停まっていた。誰かが小屋に来ているようだ。小屋の中に入ると、ポロシャツにジーンズ姿の40半ばくらいの男が、床に座っていた。わたしの姿を認めると、笑顔で話しかけてきた。
 「おう、元気になったようだな」
 わたしが不思議そうな顔をしていると、沼田老人が説明した。
 「川向こうの診療所の今村先生じゃ。美晴さんをずっと診てくれていたんじゃ」
 「あ、どうもありがとうございます」
 わたしは慌てて頭を下げた。
 「もう大丈夫のようだが、もう一度診察しておこう。布団の上に横になって」
 「はい」
 板張りの上の薄っぺらな布団の上に横になった。
 「ワンピースを脱いで貰った方がいいかな? おい、良一! おまえは外に出てろ!」
 「どうしてだ?」
 良一が不満そうに尋ねた。
 「おまえは見ちゃいけないんだ」
 「俺はいけなくて、先生はいいのか?」
 「俺は診察のために見るだけだ。だからいいんだ」
 「そんなのおかしい」
 「いいから、外に出てろ!」
 良一は沼田老人とともに渋々外に出ていった。
 「悪気はまったくないんだがな・・・・。さあ、大きな息をして」
 今村医師は、鞄から取り出した聴診器でわたしの胸を聴診した。看護婦も連れていない、ポロシャツにジーンズの医者。ホントに医者なのかなと思う。
 「肺雑音はなしと。もう大丈夫だ」
 「あの、先生、ホントにお医者さんなんですか?」
 「えっ!? そんなこと言われたのは初めてだな。・・・・ああ、白衣を着ていないからだね」
 「はい」
 「白衣みたいな、権力を誇示する服装はしたくないんだ。白衣がなくても医者は医者だ。ぼくは、ぼくを信用してくれる人だけを診る。分かったかね?」
 わたしは、にっこり微笑んだ。
 「おう! そんな顔を向けられると、どきどきするよ。じゃあ、またな」
 冗談ともつかぬ言葉を残して、今村医師は小屋を出ていった。

 今村医師と入れ替わりに良一、次いで沼田老人が戻ってきた。
 「もう、いいそうじゃな」
 「はい。・・・・あのう、支払いの方は・・・・」
 「心配せんでいい。ある時払いの催促なしじゃ」
 「そんなのでいいんですか?」
 「今村先生は、金儲けで医者をやってるんじゃない。このあたりの住民のために医者をしている。踏み倒すやつもいるようじゃが、大体は、みんな支払っているようじゃ」
 「じゃあ、わたしもお金ができたら、支払わないと」
 「ああ、できたときでいいんじゃ。いつでもな」
 奇特な医者がいたものだ。わたしの既成概念からは考えられないことだ。既成概念? 記憶のないわたしの既成概念って何だろう?

 沼田父子の小屋は、部落と呼ばれる被差別集落のはずれにある。沼田父子もいわゆる部落民らしい。しかも同じ部落民から差別されて、海岸近くのこの小さなバラック小屋で細々と暮らしていた。
 川を挟んで向こう側には、結構大きな街が広がっている。こんな町中に、被差別集落が存在するなんてとても信じられない。
 良一は、沼田老人と共に、海岸に流れ着く雑多なものを拾って金に換えたり、集落内のゴミを集めて、換金できるものは換金して暮らしていた。
 わたしは、自分の身元が分かるまでと、沼田父子の生活の面倒を見ることにした。小屋の隅に、わずかな米とみそ、しょうゆが置いてある。稼ぎのあった日は、野菜や肉(主に豚や鶏)を仕入れてくるので、それを使って料理をしてやるのだ。二人とも、特に良一は、旨い旨いと言って、喜んで食べてくれた。
 稼ぎのない日は、みそ入りの粥のこともある。それでも、良一は何の文句も言わないで食べる。

 良一は、もう40になるそうだけれど、知恵遅れで、こんな生活をしているから、結婚なんてとてもさせてやれないと沼田老人がぽつりと呟いた。
 「ところで、美晴さんは、いくつなんだろうね」
 「さあ・・・・」
 記憶がないから、自分の年齢さえも分からない。
 「見たところ、それほど若くもないが、かと言って、それほど年を食っているようにも思えんが・・・・」
 わたしは、小屋の隅にかけられたひび割れた鏡を覗き込んだ。自分で美人だなんて言うとおかしいかもしれないけれど、化粧も何もしていないけど、わたしはかなりの美人だと思う。こんな美人がいなくなって、誰も探さないなんて、わたしはどんな生活をしていたんだろうか、疑問になる。
 年は・・・・。35前後だろうか? それより若くも見えるし、そうでないようにも見える。
 「女は若く見られた方がいいじゃろう。ごろがいいところで、33と言うことにしておこうか?」
 「ちょっと、若くしすぎじゃありませんか?」
 「言ったが勝ちじゃ。それで疑問を投げかけるやつはおらんじゃろう」
 「じゃあ、そう言うことに」
 鏡をもう一度見た。33はやっぱり若く言いすぎのような気がした。でも、田沼老人が言うように、33だと言えば、それを根ほり葉ほり調べる人間はいないだろう。

 沼田老人が、週に一度川向こうの派出所に出かけていって、わたしらしい人物の捜索願が出ていないか聞いてきてくれている。一向に見つからない。沼田老人が拾ってくる、一日遅れの新聞にも尋ね人はないようだ。わたしは見捨てられた人間のようだ。