数学と英語は、教科書にサッと目を通しただけ。理科は少し時間をかけた。記憶する部分の多い社会にもっとも時間をかけ、国語には目を通さなかった。ベッドに入ったのは、午後11時前だった。
(もういいの?)
(これだけやれば充分さ。ミチルだって、11時を過ぎて起きていたことなんてなかっただろう?)
(そんなことないよ。この前だって、1時まで起きていて怒られたじゃない)
(遊ぶときは、の話だろう? ミチルが勉強するために起きていたのを見たことがないぞ)
図星だったらしく、ミチルはそれ以降返事をしなかった。
登校途中で池田華奈と松本亜由美と一緒になった。ミチルが機嫌を損ねて返事をしないのではっきりとはしないが、3人一緒に登校するのは毎日のことらしい。話題は、中間考査の当日だというのに同世代の男性歌手のことばかりだ。
中学生というのはこんなものだったかなと思っていると、斉藤茂は何やらブツブツ言いながら教室に向かっていた。優等生は違うらしい。・・・・ミチルはどちらかというと劣等生だ。クラス39人の中で、後ろから10番目前後をうろうろしていた。頭の中は教科書よりも男性歌手で占められていたに違いない。
(そうだよな、ミチル?)
まだ返事がない。事実を言われてへそを曲げるのは子供の証拠だ。
沖中が予想した問題がかなり出て、どの教科も難しいとは思わなかった。
「できた?」
5教科すべてが終了してから、池田華奈が訊いた。
「まあまあね」
沖中が笑顔で答えた。
「まあまあってことは、50点くらいは取れたってこと?」
「50点? もっと取れてると思うわ」
「ええっ! ホントに?」
「ええ」
「信じられない。ミチルが50点以上取れるなんて」
池田華奈の驚きの声を松本亜由美が遮った。
「昨日の調子じゃ、ホントかも」
ふたりは顔を見合わせた。
「あなた達も、ちょっと頭を打ってみる?」
冗談で言ったのに、ふたりは本気にしたようだ。
「どこをどう打ったら、頭がよくなるの?」
沖中は呆れてものが言えなかった。
自信を持っていたのに、帰ってきた答案用紙を見て沖中はちょっとがっかりした。
(ケアレスミスが多いな)
100点だと思っていた数学が94点だった。英語は98点。理科は91点だった。社会が惨敗で、68点しかなかった。国語が89点で、平均点は88点だった。
(大学出てても、時間がたつとこれくらいしか取れないんだなあ)
浮かぬ沖中の持つ答案用紙を横から覗き見て、池田華奈が驚嘆の声を上げた。
「すごい」
松本亜由美もそれに続いた。もっとも驚いたのは、美津子だった。家に戻って答案用紙を見せると、
「ミチル、あなた、カンニングしたんじゃないの?」
本気でそう言い出す始末だった。
「カンニングなんてしてないよ。これが実力よ」
沖中はすましてそう答えた。
翌週手渡されて成績表を見てみると、クラスで8番だった。
(もう少し頑張って、トップにならなくちゃ)
大学出が中学生に負けたくはなかった。これは、沖中の男の意地とも言うべきものだった。
(もう男じゃないんだけど・・・・)
(うるさいなあ。ともかくトップにならなきゃ、気が済まないんだ)
(いいわよ。そうなればわたしが褒められるんだから)
(そう言うことだ)
(急にあの世に行ってしまわないでよ。最後まで面倒みてよ)
(わかった。わかった)
妙なことで、沖中はこの世に留まる決心をしてしまった。
翌週、ギプスが外された。しばらくの間、肘の関節が痛かったけれど、すぐに回復した。
「明日の体育は水泳よね。ミチル? あなたはどうするの?」
夕食後、美津子が尋ねた。沖中は泳ぎは大好きだ。即答した。
「ギプスが取れたから、出席するわ」
「そう? じゃあ、水着を用意しなきゃね」
美津子は、スポーツバッグの中に紺色のスクール水着とバスタオルなどを詰め込んでくれた。
沖中が子供の頃、水泳の授業の時は水泳パンツを着込んで学校へ行ったものだ。男の子はみんなそうだったが、女の子はどうだっただろうか? そんなことは知らない。
(ミチル? どうしたら、いい?)
また答えがない。どうしたんだろうと思いながら、沖中は美津子に訊いてみることにした。
「ねえ、お母さん?」
「なに?」
「水着、着て行った方がいいかなあ?」
「変な子ね。いつも、学校で着替えていたでしょう? それに、着ていってトイレに行きたくなったらどうするの?」
「そう。じゃあ、学校で着替えるわ」
とは答えたものの、具体的にはどうやったらいいのかわからない。こういう場合にはミチル頼みなのだが、何故かミチルは出てこない。他の女の子たちの様子を窺いながら着替えるしかないかなと沖中は考えた。
1時限目が終わって、次は体育の授業だ。更衣室などという洒落たものがないので、教室で着替えることになる。男の子たちを3組に追い出し、3組の女の子たちが4組にやってきて着替えを始めた。当然のことながら、カーテンは閉め切って外から見えないようにしてある。
沖中はしなくてもいいことをして時間を稼ぎながら、女の子たちの着替えを観察してから自分の着替えに移った。
上履きを脱いで裸足になってショーツを降ろす。こんな時はスカートは便利だなと沖中は思った。
バッグの中からスクール水着を取りだして、背中の開いた部分から足を通して引き上げる。それからスカートを脱いで、さらにセーラーを脱いだ。可愛らしい花柄のブラジャーが覗いた。
「あっ! ミチル! それ、可愛いね」
松本亜由美が沖中の胸を見て言った。
「亜由美のだって可愛いよ」
松本亜由美のブラジャーにはストロベリーが散りばめられていた。
「ミチルの方がいいな。とっかえっこしよう」
ブラジャーを取り替えるなんてこと、女の子はやるのかなと思ったけれど、よく見ればサイズが合いそうにない。
「亜由美のデカパイには入らないでしょう?」
「あ、そうか。それ、どこで買った?」
そんなことを聞かれても沖中は知らない。
(ミチル? どこで買ったんだ?)
ミチルも答えてくれない。こんな時は、困ったときの常套手段。
「お母さんが買ってきたから、わたし、知らないのよ」
「そう? じゃあ、今度聞いておいて」
「いいわよ」
「あっ! 早くしなきゃ、遅れてしまう!!」
沖中は水着の上半身部分を引き上げて、ブラジャーを上にずらしてからサッと前を胸に当てた。ブラジャーを取り去って、肩の部分に腕を通して無事着替えがすんだ。
脱いだものを畳んでいると、キャーと叫び声が上がった。
「男子が覗いてる!!」
ほとんどの女子は着替えが終わっていた。しかし、キャアキャアと叫び声が続いた。
「こら!! おまえたち! こっちへ来い!!」
教師らしい男の叫ぶ声がして、女子たちの叫び声はやんだ。
「おまえたちは今日は見学だ!」
エエッと言う男子の落胆の声が届き、女子からは歓声が上がった。項垂れている3人の男の子たちを尻目に沖中を含む女子生徒はプールへとかけ出していった。
プールには青々とした水がたたえられていた。カルキの臭いが微かに鼻を突いてきた。
(こんなプールで泳ぐなんて久しぶりだ)
沖中はちょっと興奮していた。
「準備体操をするぞ」
教師の掛け声に合わせてまずはラジオ体操第一をやった。体操をしながら、沖中は自分が場違いなところにいるという感覚に陥っていた。
(お父さんは14才の女の子よ。そんなに恥ずかしがることはないわ)
(そうだったな)
沖中は14才の女の子になってしまったことは頭の中ではわかっているつもりなのだが、時々そんなことを忘れてしまうことがある。そんな感覚に陥るのは当然といえよう。
「身体を充分水で濡らしてから入りなさい。泳げるものはタイムトライやるをやる。泳げないものは、ビート板を使ってバタ足の練習だ」
沖中は身体を濡らすと勢いよく飛び込んで25メートルプールをクロールで泳いだ。
(久しぶりにいい気持ちだ)
そう思いながら、反対側のプールの壁につかまって顔を上げると、池田華奈を初めとした数人の女の子たちが沖中をビックリしたような目で見ていた。
「気持ちいいよ。早く泳いだら?」
ニッコリ笑って沖中は手を振った。
「ミチル? いつから泳げるようになったの?」
この質問に沖中はギョッとなった。沖中は小学校5年の時以来ミチルと一緒に泳ぎに行ったことがない。当時ミチルは泳げなかった。今でも泳げないなんて思ってもみなかった。
(ミチル、なんて答えよう?)
(知らないわよ)
(そんな。冷たいな)
(だって、お父さんが勝手に泳ぐんだもの)
(困ったな)
突然泳げるようになったなんてことを言っても信じてもらえないのはわかっている。考えあぐねて、春休みに一家揃って美津子の実家に遊びに行ったことを思い出した。美津子の実家は沖縄なのだ。
「は、春に沖縄に行ったでしょう? 向こうで特訓してもらったの」
「特訓? 一週間くらいでそんなにうまく泳げるようになるものなの? 信じられないわ」
「だって、ホントだもん」
みんな、狐に抓まれたというような表情を浮かべていた。
「タイムトライアルを始めるぞ。参加者はプールから上がれ」
ビート板でバタ足をしているのは数人だった。その数人を沖中のクラス担任・大野が受け持ち、タイムトライアルは隣のクラス担任が受け持った。名前がわからなかったが、隣のクラスの女子生徒の会話から、橋本という名前らしいことがわかった。
男女に分かれて4人ずつ50メートルを泳ぐことになった。沖中はどうしようか迷っていた。春に泳げるようになったばかりだと宣言した手前、あまり早く泳ぐのはおかしいだろうと思っていたのだ。
しかし、ホイッスルが鳴ったとたん、そんなことは忘れていた。沖中の中にある闘争本能が人に負けることを許さなかったのだ。
50メートルを泳ぎ切ったとき、勿論4人の中で一番だったのだが、まずいことに2クラスの女子35人の頂点に立ってしまっていた。
「すごい、ミチル、すごいわ」
池田華奈も松本亜由美も目を見張った。担任の大野も、驚きの表情を隠せなかった。何しろ沖中ミチルは、運動音痴の上、成績は下から数えた方が早かったからだ。
(お父さん、あんまり目立ち過ぎちゃ駄目よ)
(もう遅いよ)
男の子たちの熱い眼差しと女の子たちの嫉妬混じりの視線を感じながら、沖中は教室へと戻った。
水着を着るのはうまくいったけれど、脱ぐのは難しそうだと沖中は周りを見渡して観察した。しかし、スカートのように縫ったバスタオルを見て安心した。
(なるほど、いいものがあるんだ)
沖中は、バスタオルで髪の毛の水分を取ると、ゴムの入った筒状に縫われたバスタオルを頭からかぶった。水着の肩を外して上半身の水分を拭き取ってブラジャーをした。バスタオルを下げてウエスト位置にずらし、セーラーの上着を着た。それから水着を脱いで、ショーツとスカートを穿いてバスタオルを取り除いた。
(やあ、うまくいったぞ)
(お父さん、うまい、うまい)
ミチルの拍手が聞こえてくるようだった。
昼食時間、ミチルのそばには池田華奈と松本亜由美がいて、互いの弁当箱の中を覗き合ってはおかずを交換していた。
「そのタコ、ちょうだい?」
何故かウインナーソーセージが好きな沖中は、松本亜由美の弁当箱からタコの形に細工されたウインナーソーセージを箸で抓んで口の中に放り込んだ。ここでもふたりに妙な顔をされた。
「ミチル、ウインナーは嫌いだったんじゃないの?」
そう言えばそうだったと思い出したけれど、今更遅い。
「急に食べたくなったの」
それで誤魔化せるとは思わなかったけれど、そう言うしか思いつかなかった。
「やっぱり変よ。ミチル。人が変わったみたい」
そんな松本亜由美の意見に池田華奈も頷いた。
「そんなことないよ。わたしはわたしよ」
そう答えるしかなかった。
昼休みが終わって、午後の授業が始まる時間になった。沖中は、池田華奈、松本亜由美という、いわばミチルの親友たちと一緒に教室へ向かっていた。それまでの時間、3人は図書館にいた。図書館で勉強していたわけではない。図書館に置いてある小説を借りて読んでいたのだ。
池田華奈は同姓と言うことで池田万寿男の本を読んでいた。松本亜由美は浅田次郎の本を読んで涙を流していた。その松本亜由美が、涙を溜めた目で沖中をまたもや不思議そうな顔で見た。
「ん? 亜由美? どうかした?」
「ミチル、どうしてそんな本を読んでいるの?」
沖中が手にしていたのは、赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズのひとつだった。
「これ? 面白いからよ」
「ミステリーなんて馬鹿にしていたのに・・・・」
またもや疑いの目だ。沖中は頭をフル回転させて言い訳を探した。
「入院しているとき、退屈だろうからって言って、三毛猫ホームズシリーズを看護婦さんが貸してくれたの。これが面白くって。それからやみつきになっちゃったのよ」
「退屈するほど入院していた?」
うまい言い訳だと思ったのに痛いところをつかれた。
「亜由美も入院してみなさいよ。1時間で退屈しちゃうから」
「そうそう。わたしも盲腸で入院したとき退屈しちゃって死にそうだったわ」
池田華奈が救いの手を差し伸べてくれて、何とか収まった。そうこうしているうちに休み時間が終わり、午後の授業の予鈴がなったので教室に向かい始めたというわけだ。
2年4組の教室が見えてきたとき、沖中は突然股間にもわっとした暖かいものを感じた。それから、その暖かいものが左の内股に沿って流れ始めた。
「どうしたの? ミチル?」
立ち止まった沖中にふたりが振り向いた。
「ちょ、ちょっと待って」
沖中は廊下に背を向けてスカートの裾をあげて手を内股にやってみた。ベタリとした感触がした。指を見てびっくりした。指には血が付いていた。
「なんなの? ミチル! 生理なの?」
池田華奈が少し声を落として言った。沖中はそんなものが来るなどという自覚がなかったから、ただ茫然と立っていた。
「気がつかなかったの?」
そんな質問に沖中は小さく頷くしかなかった。
「初めてじゃなかったよね」
ミチルにとっての初めての生理、初潮は半年前だった。それは沖中も知っていた。その日、沖中が帰宅すると赤飯が炊かれていて、美津子が嬉しそうな顔をして沖中にミチルが『女』になったことを報告したのだった。ミチルは恥ずかしそうに下を向いたまま赤飯を口に運んでいた。その時、ミチルもやがて男とセックスをして子供を産むのかと思い、急に遠い存在になったような気がしたものだった。
「ミチル、トイレに行こう」
池田華奈と松本亜由美が楯となって沖中を壁の方に隠してくれて、3人はトイレに急いだ。
「ミチル、トイレットペーパーで拭くのよ」
トイレの個室の外から池田華奈が指示を出した。沖中はスカートの裾をあげて内股の血液を拭い取り、ショーツを降ろして股間を拭いてから、ショーツの内側にこびりついた血液をトイレットペーパーで拭った。
「亜由美、あなた、ナプキン、持ってる?」
「持ってないわ。終わったばかりだもの。華奈は?」
「持ってたら聞かないわ」
「そうっかあ・・・・」
「保健室に置いてないかしら?」
「行ってくる」
バタバタと走り去る音がした。沖中は、ショーツに付いた血液を拭き続けていた。しばらくして足音が戻ってきた。
「いつもは置いてあるらしいんだけど、丁度切らしているって」
「困ったね。ミチル? ハンケチ、持ってる?」
沖中はポケットの中を探った。入っていた。
「あるよ」
「それを使うしかないわね」
沖中にもそれは理解できた。しかし・・・・。沖中はピンク色に染まっているショーツを見つめた。脱いでしまいたいところだが、ノーパンで過ごすわけにも行かないし、ハンカチを手で押さえたまま歩くわけにも行かない。となると、ハンカチを宛ててショーツをあげるしかない。ちょっとの時間迷っていたけれど、他の方法がないことがわかって、沖中は股間に畳んだハンカチを宛ててショーツをあげた。内股にヒヤリとした冷たさを感じた。
「どうする? もう帰る?」
個室のドアを開けて外に出ると、池田華奈が心配そうな顔をして沖中に尋ねた。生理というものはだらだら出るものと思っていたけれど、ある程度発作的に出るものらしい。今は止まっている。しかし、今度出たら処置のしようがない。沖中は頷いた。
「わたしが先生に言ってくるから、ミチル、ここで待っていて」
「ごめんね」
「いいわよ。ミチルのためだもの」
池田華奈は駆け出していった。松本亜由美は沖中のそばにいてくれていた。
(女には親友はできないって言うけど、ミチル、おまえにはいい親友がいるな)
(うん)
しばらくして池田華奈が持ってきてくれた鞄を抱えて沖中は下校していった。