第8章 初登校

 「行ってきます」
 沖中は、鞄を抱えて玄関を出た。革靴で通勤していた頃、スニーカーだったら楽だろうなと思っていたけれど、確かに楽だった。
 歩くのは楽だけど、問題はやはりスカートだ。沖中が中学生だった頃は、女子生徒のスカートの丈は膝下くらいだったと思う。しかし、今身に着けているスカートは、膝上丈の短いものだ。沖中は、夏場には家にいるときは短パンを穿いていることもあった。だから、スカートとソックスの間の素肌の感覚はそれほど違和感はないのだが、スカートで覆われている太股からヒップのあたりが何とも心許ない。風が少し入ってくると、たちまちにしてスカートの存在がないような感覚に陥るのだ。
 (すぐになれるわ)
 (慣れる前にあの世に行きたいよ)
 (またそんなことを言う・・・・)
 こんなことがいつ終わりになるのかわからないけれど、しばらくはミチルとして暮らさなければならないようだ、と沖中は溜息をついた。
 「おっはよう! ミチル!」
 ポンと肩を叩かれた。ミチルと同じセーラー服を着た女の子だ。顔に見覚えがある。近くに住む池田華奈という同級生だ。
 (そうだったよな)
 (はい、正解だよ。よく覚えていたね)
 池田華奈は、愛くるしい瞳を沖中に向けてきた。片えくぼが可愛らしい。
 「おはよう、華奈」
 沖中も笑顔を戻した。
 「もういいの?」
 「手先がちょっとしびれた感じだけど、大丈夫よ」
 「そう。・・・・お父さん、気の毒だったわね」
 「うん・・・・」
 会話が途切れた。黙ったまま中学校への道を歩き始めた。
 「おはよう」
 10分ほど歩いたところで、別の女子中学生が声をかけてきた。この子の名前は知らない。セーラー服の胸に松本とネームが書かれている。ファーストネームがわからないし、松本と呼んでいいのかどうかもわからないので、沖中はおはようとだけ答えた。
 「おはよう。相変わらずスカート短いわね」
 松本と言う同級生らしい女の子は、下を向いてスカートを見た。太股の半分ほどの長さしかなかった。ちょっと屈めばショーツが見えそうだ。
 「二回折ってるからね」
 彼女はウエストの部分に手をやった。
 「ミチルは折らないの?」
 へっ?と言う感じ。つまりは、ミチルもそうやってスカートの丈を短くしていたと言うことだ。
 (ミチル! ホントなのか?)
 返事がなかった。都合の悪いことを聞かれて黙りを決めているようだ。
 「右手が使えないから」
 そう言い訳をすると、松本という子は納得したようだ。
 「わたしが折ってあげてあげようか?」
 これ以上短くなったら外を歩けないよと思っていると、池田華奈が助け船を出してくれた。
 「亜由美、検査があったら、ひとりでおろせないでしょう? ギプスが外れるまでは無理よ」
 (この子の名前は松本亜由美だね)
 (そうよ)
 (松本亜由美だな。よく覚えておこう)
 「あ、そうか。じゃあ、仕方ないわね」
 短いスカートを揺らしながら、松本は先を歩き始めた。世間の父親よりも娘のことを知っていると思っていたけれど、まだまだ知らないことの方が多そうだと思いながら沖中は学校への道を急いだ。
 途中で、女の子がもうひとり挨拶してきて、沖中たち3人と合流した。話しぶりからすると、ミチルとクラスが同じらしい。
 「ミチル? もういいの?」
 「ちょっと痛むけど」
 「もう少し休んだらよかったのに」
 「授業についていけなくなるから」
 「あれえ? ミチルがそんなことを言うなんて意外ね」
 「なにが?」
 沖中は3人目の女の子の言い方にちょっとすねて見せた。
 「熱でも出て休めないかななんていつも言ってるくせに」
 (ホントなのか? ミチル?)
 今度も返事がない。どうやらホントらしい。
 「ただのジョークよ。これ以上、成績を落とせないわ」
 「そうよね」
 納得されて、沖中はちょっとガックリときた。
 「ところで泉、昨日のダークエンジェル、見た?」
 (泉という名前か? ミチル?)
 返事がない。父親に知られたくないことを知られて拗ねているようだ。
 「見た見た。彼女、可愛いわね」
 松本が答えた。
 「ミチルは見た?」
 話を振られて沖中は困った。『ダークエンジェル』というのは、洋画劇場でやっていた2時間番組だったとの記憶があるのだが、新聞のテレビ欄で見ただけで、その時間帯には入浴していたり、今日の授業の準備をしていたりしていて見ていなかったのだ。
 「忘れてた」
 見なかったという答えでは駄目なような気がした。前々から話題に上っていて、見た感想を話そうとか言う話になっているような気がしたのだ。
 (そうだろう? ミチル?)
 まだ答えない。協力してくれないと困るのだがと思ったが、話しかけに応じてくれないものは仕方がない。自分で考えて答えるしかないのだ。
 「ミチルが面白そうだから見ようって言ったのよ」
 やはりそうだったかと、沖中は予想が当たって心の中でほくそ笑んだ。
 「お葬式で、すっかり忘れていたわ」
 「あ、ああ。お葬式。そうだったわね」
 松本は、悪いことを言ったというような表情を見せた。
 「今日から、毎週放送があるみたいね」
 そんな松本に代わって、池田華奈が救いの手をさしのべた。
 「そ、そうなのよ。面白いから、見たらいいわ」
 「わかった。見てみるわ」
 そうは言ったものの、美津子がテレビを見ることを許してくれるかなとちょっと心配になった。
 正門に着くまでの間、何人もの女の子に挨拶された。沖中が知らない子ばかりだ。
 (ミチル! 彼女の名前は?)
 返事をしない。寝ているのだろうか? 沖中は困り果てる。しかし、女の子たちは、挨拶がすむと別の群れ(?)を作って少し離れて歩いていた。
 「ミチル! もういいのか?」
 角から出てきて沖中のそばに割り込んできたのは、笹本卓だった。
 「ええ、もう大丈夫」
 笹本は、ちょっと首を傾げた。沖中の答え方の問題があったのだろうか? しかし、確かめようがなかった。
 「そうか。・・・・いいお父さんだったのになあ」
 (そう言ってもらえると嬉しいな。なあ、ミチル?)
 (うん)
 やっと返事が来たと沖中はホッとした。どこかへ行ってしまうのではと気がかりだったからだ。
 笹本は、鞄を肩の上に持って沖中たち3人と並んで歩く。様になっているなと沖中は思った。
 「ギプスはいつ取れるんだ?」
 「3週間って言ってたから、2週間後かな?」
 「字が書けるのか?」
 「何とか」
 沖中はギプスの先から覗く指を動かして見せた。前日病院へ行って、鉛筆が握れるようにギプスの一部を切り取って貰っていたのだ。
 下駄箱で靴を脱いで上履きに履き替えていると、大久保大介がのっそりと現れた。沖中、つまりミチルの方を見て挨拶らしい会釈をすると何も言わずに教室へと向かっていった。
 「大久保君って、暗いわね」
 沖中はなんと答えていいのかわからないから、曖昧に頷いた。
 「昔は明るかったらしいわよ」
 「そうなの?」
 「大久保君のところも、事故でお母さんが亡くなったでしょう? しかも3ヶ月も入院していたから落第してしまったからね。暗くなるのもわかるわ」
 大久保大介の母親が事故で死んだという話はミチルから聞いていた。しかし、落第して同じ学年になったと言うことは初耳だった。
 (知らなかったなあ)
 (関係ないから言わなかったの)
 (それもそうだ)
 「ミチル! 急ぎましょう。ホームルームが始まるわ」
 沖中たちは、大急ぎで教室へと向かった。

 教室へ入ってまず困ったことは、自分がどこの席に座るべきかと言うことだ。
 (ミチル? 席はどこだ?)
 答えがない。ミチルの答えを待っているうちに、池田華奈が手招きした。
 「ミチル! 早く座りなさいよ。自分の席を忘れたの?」
 池田華奈が指さす横の席が空いていた。その席以外は後ろの方の席が空いていたが、背の低いミチルがそんな後ろの席に座るはずがない。沖中は、池田華奈の横の席に座った。
 すぐに担任の大野が入ってきた。沖中の顔を見ると、ちょっと笑顔を向けてきた。
 「今日から沖中が戻ってきた。お父さんが亡くなっていろいろと大変だろうから、みんなもミチルに協力してやってくれ。いいね?」
 「はあい」
 クラス全員が返事をしてくれた。沖中はちょっと嬉しくなった。
 「明日は中間考査だが、準備はいいかな?」
 (中間考査!)
 中学生だから、テストがあるのはわかっていた。しかし、それが明日からとは。沖中は内心慌てていた。
 「沖中も事故の前までの範囲ならわかるだろう?」
 大野が、視線を沖中に向けた。
 「は、はい」
 それからプリントが数種類配られた。担任からの通信文やPTAの案内などだ。沖中はそれらを鞄にしまうと、1時限目の授業の準備をした。1時限目は英語だ。
 (英語は不得意なんだが・・・・)
 そう思いながら教科書を開いた。
 (なんだ。これくらいのレベルか)
 2流とは言え一応大学を出ているのだ。中学レベルの英語は簡単に思えた。
 「起立!」
 そんな声に顔を上げると、英語の教師・奥田照子が教壇に立っていた。
 (奥田照子先生でよかったよね、ミチル?)
 (ええ、大正解よ)
 (眼鏡がなかったら、結構美人だね)
 (へえ、お父さん、お母さん以外の女性には興味がないかと思ったら、そうでもないのね?)
 (お父さんだって、男だからな)
 (今は女の子だから、女性に興味なんて持たないでね)
 (あ、そうだったな)
 生徒たちが一斉に立ち上がったので、沖中も急いで立ち上がった。
 「礼!」
 頭を下げる。
 「着席!」
 ドタドタとみんな席に座った。授業が始まった。
 「大島さん、12ページの3行目から読んで!」
 背の小さな、今時珍しい坊主頭の男の子が立ち上がって読み始めた。何度も突っかかり、奥田に注意され、一ページを読むのに5分もかかった。
 「次! 沖中さん」
 出席名簿順なら、指名されるだろうなと思っていたら、その通りだった。沖中は立ち上がって教科書を目の前にかざして読み始めた。
 しばらく読んでいると、教室の中が静かになったのに気がついた。横目で教室の中をチラリと見てみると、みんな呆気にとられたような顔をしていた。
 「よくできました。いつからそんなにうまく読めるようになったの?」
 奥田が不思議そうな顔を見せて沖中に訊いた。
 (あんまりすらすら読みすぎたみたいだな)
 (そうみたい)
 「あ、あのう。お休みしている間に練習していたんです」
 「それはいい心がけだわ。じゃあ、そこの意味はわかるわね?」
 「は、はい」
 「訳してみて」
 沖中は、読んだ部分を訳し始めた。簡単なものだった。
 「ちょっと意訳しすぎだわね。もう少し原文に忠実に訳してみて」
 「はい」
 その方が難しかった。しかし、何とか訳し終えた。
 「ミチル? すごいじゃない」
 そんな池田華奈の言葉に沖中は肩をすくめた。
 「事故のおかげで頭がよくなったのかな?」
 松本亜由美が口を挟んだ。
 「まさか。遊んでないで勉強したせいよ」
 「そう?」
 池田華奈が沖中の顔を覗き込んだ。
 「私語は慎んで。池田さん、次を読んで」
 厳しい目で睨み付けられて、池田華奈は立ち上がって教科書を読み始めた。

 英語の授業が終わった休み時間、沖中は何人かの女子生徒に囲まれていた。
 「どうしちゃったの? 急にできるようになるなんて変よ」
 「いい家庭教師でも見つかったの?」
 「きっとそうだわ。わかった。外人の教師ね」
 みんな言いたいことを言う。沖中は考えた末にこんな風に答えた。
 「コツがわかったの。コツが」
 「コツってどんな?」
 「教科書を何度も読むこと。何度も読んで頭にたたき込むのよ。そうすれば、自然にできるようになるわ」
 そんな言い訳をしてみたけれど、何人が信じただろうか?
 (頭の中にお父さんがいるなんてこと言っても誰も信じないでしょうからね)
 (言うわけにもいかないからね)

 次の授業は数学だった。沖中は理数系は強い。みんなが苦労しているのを横目に沖中は難問という問題をドンドン解いていった。
 「あなた、ホントにミチルなの?」
 池田華奈はそう言い出す始末。
 「どこがミチルじゃないって言うのよ!」
 「どこがって、・・・・みんなよ」
 (あんまり目立ち過ぎちゃいけないわよ)
 (どうしてだ?)
 (お父さんがいなくなったあと、同じようにはできないわよ)
 (ずっといればいいんだろう?)
 (それはそうだけど・・・・)
 みんなにすごいという目で見られるのは、沖中の人生でそんな経験がなかったこともあって快感だった。

 3時限目は、体育だった。ギプスを巻いている沖中は、グランドの隅で見学となった。若い子供たちがわいわい言いながら運動している姿を見て、沖中は感心したように呟いた。
 「みんな元気だな」
 (あら? お父さんも、みんなと同じくらい元気なのよ)
 (あ、そうか)
 (そうよ。何しろ、14才なんですもの)
 (早くギプスを取りたいな)
 (あ、お父さん、運動は駄目よ。わたし、運動音痴なんだから)
 そう言えばそうだったなと沖中は思い出した。
 (お父さんがついてるから大丈夫だよ)
 (そうか。頼んだわね)
 (まかしとけ)
 「何ブツブツ言ってるの?」
 池田華奈が近寄ってきて言った。
 「あ、何でもない」
 「そう? なんか、いつもブツブツ言ってるみたいだけど・・・・」
 「そうかな?」
 「こら! 池田!! こっちへ戻ってこい!」
 グランドの方を見ると仰木という体育の教師が目くじらを立てていた。
 「はあい。じゃあね」
 池田華奈は走ってグランドに戻っていった。

 4時限目は社会だった。沖中は歴史は好きな方だった。しかし、年号を綺麗さっぱり忘れていた。質問されてもしどろもどろだった。
 (ミチル! ミチル、助けてくれ!)
 (わたしも得意じゃないもん!)
 「よかった。元のミチルに戻ったわ」
 池田華奈はそっと呟いた。

 翌日が中間考査と言うことで、午前中で授業は終わりになった。池田華奈、松本亜由美と一緒に下校した。
 沖中たちの前を斉藤茂と木下悠希が一緒に歩いていた。ふたりは共にバスケットボール部に属していて、ボールで遊びながら帰宅していた。
 「あっ! 危ない!!」
 松本が叫んだ瞬間、角から出てきた車の急ブレーキの音が響き渡った。
 「馬鹿野郎! 死にたいのか!!」
 運転席の男が顔を真っ赤にして斉藤たちを睨み付けた。
 「すみません」
 頭を下げると、斉藤たちは一目散に走り去っていった。車の男は、何やらブツブツ言いながら車を発進させた。
 「今の、危なかったわね」
 「ホント」
 「車には気を付けなくちゃ」
 池田華奈はチラリと沖中の方を見てそう呟いた。

 こうして、ミチルとしての学校生活第一日目が終わった。
 (明日は中間考査か。大変だぞ)
 (ちょろい、ちょろい)
 (ちょろいって、ミチル、おまえ、そんなに成績がよかったか?)
 (やだ。藪蛇だったわ。お父さん、頑張ってね)
 (試験勉強なんて、もう二度とすることはないと思っていたのに・・・・)
 (お父さんなら大丈夫よ)
 (ミチル、人ごとのように)
 (そうよ。わたしは、今はただの傍観者よ。お父さんが頑張るのを見ているしかないの)
 (神様! 何とかしてくれよ)
 何ともならずに、沖中はその日試験勉強に励んだ。