第6章 通夜と葬式

 トイレに行くときの違和感と、病室の中が女性ばかりであることを除けば、沖中は自分がミチルになってしまったことをそれほど意識しなくてもよかった。ただ、ベッドの中に寝ていればよかったからだ。しかし、午後になって美津子がやってきて、状況が変化した。
 「今晩はお父さんの通夜なの。先生の許可を取っているから、うちに帰りましょう」
 そう言って、バッグの中からセーラー服を取りだした。
 「新しい下着も持ってきたから」
 いつもは沖中の目には決して触れないようにされていたミチルの下着が目の前に広げられた。なんだか恥ずかしくなって頬が火照った。
 (お父さん、何を恥ずかしがってるのよ。これから先はずっとこれを着なければならないのよ)
 (しかしなあ・・・・)
 躊躇っていると、美津子がベッドの周りのカーテンを閉めて病衣のボタンを外し始めた。病衣の下には何も身に着けていない。手術のあと、パンティーだけを穿かされて病衣を着せられていたのだった。
 上半身が裸になった。下を向くと可愛らしい乳房が見えた。小さなピンク色の乳首がその頂点にあった。
 (そんなに見つめなくても、いつでも見られるわよ)
 慌てて目を離した。美津子が小さな花柄の入ったブラジャーを持って近寄ってきた。
 「さあ、手を通して」
 ギプスの巻かれた右手にストラップを通し、左手を通すように促された。沖中は言われたとおりに手を通した。ブラジャーのカップが乳房にあてられ、背中でホックが留められた。胸の圧迫感が心地よかった。
 (フンドシを締めた感じ? やだあ、そんなことわからないわよ)
 (そうだな。ミチルのは理解できないだろうな)
 「ショーツも穿きかえましょう」
 (ショーツ? パンティーのことか?)
 (そうよ。パンティーなんて言わないのよ)
 (そうか。へえ、知らなかった)
 左手だけでは脱ぎにくい。いつもトイレで苦労していた。美津子はそのことがわかっているのだろう。なにも言わないでも手伝ってくれた。パンティーを、イヤ、ショーツを脱がされた。他人の手によって下着を脱がされるのは、覚えている限り初めてのことだった。
 (恥ずかしいよ)
 (お父さん、あなたは今はお母さんの娘なのよ。恥ずかしくなんかないわよ)
 (そんなことを言ったって・・・・)
 頭の中でそんなことをミチルと話している間に、新しい真っ白なショーツを穿かされた。さらに、スリップを頭から被せられた。するすると身体を滑って足元にすとんと落ちた。
 (へえ、スリップって、サラサラしていて気持ちいいんだね)
 (わたしもそう思うわ)
 「ベッドの下に降りてスカートを穿きなさい」
 美津子は、紺色のスカートを差し出した。
 (勇気を出して穿きなさいよ、お父さん)
 (わかったよ)
 躊躇う前にミチルに言われて、沖中はベッドの下に降りて、美津子に手伝って貰ってスカートを穿いた。
 (スカートって、頼りないね)
 (そう? そんなこと、思ったことないけど)
 (ミチルは穿きなれてるだろうけど、お父さんはスカートなんて初めてだから)
 (そのうちなれるわ)
 (なれる前に、ミチルに身体を戻したいよ)
 (戻して貰っても、お父さん、そばにいてね)
 (ずっとそばにいたら困るって言わなかったか?)
 (いなくなってしまうよりましだわ)
 (お父さん、ミチルにそう言ってもらえて嬉しいよ)
 (親子だもん)
 そんなミチルの言葉に涙がこぼれた。
 「あら? どうしたの?」
 「なんでもない。なんでもないわ」
 「そう? ハイ、セーラーをかぶって」
 ギプスを付けた右手が袖を通りにくかった。しかし、何とかセーラーを着た。白いソックスを穿かせて貰い、さらにズック靴を履いた。美津子は髪を梳いて、髪の毛を後ろでふたつに分けてゴムひもでまとめた。
 「さあ、うちに帰りましょう」
 「退院してしまうの?」
 「通院でもいいって言ってたわ」
 「そう・・・・」
 「入院していたい?」
 (どうしよう? ミチル?)
 (病院なんて、鬱陶しいからイヤよ)
 (じゃあ、そうしよう)
 「・・・・そうね。うちにいるわ」
 すでに退院は決まっていたようだ。ミチルとなった沖中は、美津子に伴われて看護婦と医者の挨拶をしてから自宅へと戻った。

 自宅に戻ると、沖中の兄夫婦が来ていた。沖中の兄・健司はリビングのソファーに座ってたばこを吸っていた。
 「おう、ミチル! 大丈夫か?」
 「はい」
 「腕だけか? 他はどうもないのか?」
 「大丈夫みたい」
 「不幸中の幸いだ。よかった、よかった」
 健司はたばこをもみ消すと、沖中を抱いた。兄夫婦には子供がいない。ミチルを自分の子供のように可愛がってくれていた。
 「いい年をして、あんな車で走るからこんなことになるんだ」
 吐き出すようにそう言った。以前から何度も健司にそう言われていた沖中は、後悔の念を禁じ得なかった。
 「あなた! 死んだ人のことを悪く言っちゃ駄目よ。それに、愉司さんのせいじゃなくて、酔っぱらい運転をしてぶつかってきた相手が悪いんだから」
 リビングに入ってきたのは、健司の連れ合いの真紗子だった。でっぷりと太った腹がスカートの前を持ち上げていた。
 「入院していなくていいの?」
 「通院でいいって」
 「そう。それはよかったわね。ミチルちゃん? 大丈夫?」
 「えっ?」
 「お父さんが死んじゃって」
 沖中としては、自分が死んだという意識はない。ミチルだって、ここにいるわけだから、悲しむことなんて考えてもいなかった。
 「・・・・実感がわかなくて」
 「そう、そうよね」
 「お父さん、どこにいるの?」
 自分の身体がどうなっているか知りたかった。激突の瞬間、右側を中心に激しい衝撃を受けて痛みが走ったのを一瞬だが覚えていた。
 「仏間だけど、見ない方がいいわよ」
 (ひどい有様なんだろうね)
 (そうみたいね)
 「見てみたい」
 自分の死に様を見たい。それは誰もが思うことだろう。もし、沖中のように事故で死んだとしても、安らかな死に顔だったら、何とか安心できるような気がしたのだ。
 「大丈夫かな?」
 「大丈夫。わたし、これでも気は強い方だから」
 「あなた、どうします?」
 「美津子さんはなんと?」
 「聞いてきますわ」
 真紗子はどたどたと廊下を走っていった。しばらくして美津子とともにリビング戻ってきた。
 「ミチル、ホントに見るの?」
 美津子が不安そうな表情をする。
 (これはかなりひどいみたいだね)
 (お父さん、恐がりなのに、見られる?)
 (見てみるしかないよ。ともかく見たいんだ)
 「見るわ。もう二度とお父さんの姿を見られないかも知れないんだから」
 「そうね。じゃあ、仏間に行きましょう」

 沖中の屍は、寝間着を着せられて布団の上に寝かされていた。頭には白い包帯が巻かれ、顔の右半分はガーゼで覆われていた。寝間着から覗いた腕や足も包帯で覆われていた。
 沖中は、布団のそばに座ってジッと自分の屍を見た。この瞬間、沖中は自分の存在がわからなくなるところだった。それを押しとどめたのはミチルだった。
 (お父さん、しっかりして。お父さんの魂はここにいるのよ。まだ死んではいないわ)
 ハッと我に返った。
 (でも、お父さんの肉体は死んでしまった・・・・)
 (ただの抜け殻よ。抜け殻に意味はないわ。お父さんはこうしてここに生きているわ)
 (ミチル、おまえはなんて強い子だ)
 (お父さんの娘だから)
 嬉しかった。こんな娘と共に生きていけるなんて自分はなんて幸せなんだろうと沖中は思った。
 怪我のない左側の顔は綺麗だった。だから、何となく安心した。

 美津子の姉・美代子がやってきて、その直後に美津子の妹・美弥子がやってきた。共にミチルのおばとなるふたりは、沖中(ミチル)に対して可哀相にを繰り返した。そして次の言葉は、事故に遭って死ぬなんてという非難の言葉だった。
 (それも仕方がないなあ)
 (仕方なくなんてないわ。相手は酔っぱらい運転でしょう?)
 (あ、うん)
 沖中は、あの時の抗しがたい眠気のことを思い出した。
 (ちょっと疲れていたからなあ。お父さんの方にも責任の一端はあるな)
 (でも、ぶつけられたんだから)
 (・・・・そうだよね。酔っぱらい運転の車が来なかったら、無事に家に辿り着いていたよね)
 (そうよ。だから、云われなき中傷よ。言ってやりましょうよ)
 決心して自己弁護しようとしたが、結局は云わなかった。云おうとしたとき、沖中の母親がやってきたからだ。
 沖中の母親は、沖中の亡骸にすがってワアワアと激しく泣き叫んだ。
 「親より早く死んで、親不孝者!」
 と言われたときに、沖中はあんな時間に車を飛ばしに行くべきではなかった後悔した。そのことを美代子や美弥子が云っていることが理解できた。

 通夜は近くの葬儀社で行われた。祭壇に掲げられた沖中の写真は、これ以上ないと云うくらいの笑顔を見せたいい写真だった。
 (いつ、どこで、撮った写真だろうか?)
 思い出そうとしてまったく思い出せなかった。
 「ねえ、お母さん、あの写真、いつ、どこで撮った写真?」
 前列に座っている美津子にそっと聞いてみた。
 「あれは去年の夏、海にキャンプに行ったときに、お父さんとあなたが一緒に撮った写真よ」
 そう言われて、沖中は思い出した。あの笑顔の横に、ミチルがちょっと不機嫌そうに立っていた写真だ。
 (不機嫌なんてことはなかったわ)
 (そうか?)
 (日焼けしたくなかったのに、帽子を忘れていったから)
 (そうそう。タオルを頭からかぶれって言ったら、イヤだと言ってふくれていたんだったな)
 (だから、ふくれてなんかいないって)
 (まあ、いいや。しかし、いい笑顔だなあ)
 (お父さん、格好良かったわ)
 (そんなこと言われたことがなかったな)
 (そんなこと口に出して言うことじゃないもん!)
 言ってくれれば、もっとミチルを可愛がったのにと思った。
 (そうなの?)
 (もちろんだよ)
 (今度生まれ変わってお父さんと親子になったら、口に出して言うわ)
 (そうしてくれ)
 家族親族はみんな泣いているのに、沖中の目からは涙の一粒も流れてこなかった。精神的ショックが大きすぎて、涙が出ないのねと美弥子に言われたけれど、沖中もミチルも死んでいないから、悲しいなんて感情が浮かばなかったのだ。だから、他人の葬儀に出席しているようなものだった。

 通夜が終わって控え室に戻ると、親戚の男たちは沖中の思い出話をしながら、酒を飲み交わし始めた。思い出話が尽きると、たわいもない話が続いた。
 「ミチルちゃんは、家に帰りましょうね。美津子、一緒に帰りなさい。こちらはわたしたちが見てますから」
 美代子に言われて、美津子はミチルとなった沖中を連れて家へ戻った。
 (お父さん、お通夜の夜ってあんな風にお酒を飲み明かすものなの?)
 (久しぶりに親戚が集まるから、あんな風になってしまうことが多いな)
 (ふうん)
 葬儀か結婚式でもなければ、遠くにいる親戚同士が集まることはないのが実情だろう。
 「お風呂、入れないから、体を拭いてあげるわ。お風呂場に行って」
 美津子に言われてバスルームへと向かった。美津子は、手際よくセーラー服と下着を脱がせて裸にした。
 (恥ずかしいな)
 (女同士よ。それにお母さんから見れば、ただの子供に過ぎないわ)
 ミチルの言葉が正しい。美津子は、廊下でも拭くような感じでミチルとなった沖中の体を拭いていった。
 新しい下着、パジャマを着せられて、ミチルの部屋に連れて行かれた。
 「お休み、ミチル。明日は早いからね」
 そう言って電気を消して部屋を出て行った。
 (ふう、疲れた)
 (慣れないスカートだったものね。お疲れ様、お父さん)
 (もう寝よう)
 (お休み、お父さん)
 (お休み、ミチル)
 その夜は痛みもなくよく眠れた。

 翌朝、すでに喪服に着替えた美津子に起こされて、セーラー服に着替えさせられた。
 (ぱっやリスカートは心許ない)
 (我慢、我慢)
 歩いて葬儀社まで行く。二日酔いの男たちが、黒いネクタイを締めていた。
 「おときの準備ができております。どうぞ」
 葬儀社の係の人に導かれて食事をした。誰もひと言も喋らずに黙々と箸を動かしていた。食べ終わった沖中は、沖中の亡骸が移された葬儀場へと足を進めた。
 棺の窓から覗いてみると、昨日よりもさらにいい顔になったなとちょっとホッとした気分になった。

 葬儀が始まった。何を言っているのかわからないお経が流れた。茶髪の、いかにも好色そうな坊主。お経を上げないとホントに成仏できないのかなと思う。
 (そんなこと考えちゃ、不謹慎よ)
 (そうかなあ)
 ミチルはそれ以上なにも言わなかった。1時間あまりの葬儀が終わり、出棺となった。美津子が沖中の写真を抱えて霊柩車に乗り込み、沖中は沖中の母と一緒に1号車に乗り込んだ。
 火葬場までは1時間ほど掛かった。沖中の亡骸の入った棺が炉の中に収められ、沖中の兄が炉の火を入れることになった。スイッチを入れようとしたその瞬間、沖中の中に表現しようもない激情が沸いてきた。
 「いやよ! 止めて! 焼かないで!!」
 それまで一滴も出なかった涙が溢れ出てきた。美津子に腕を取られ押しとどめられ、沖中は床の上に座り込んで泣いた。
 ボッと火が入り、ごうと大きな音がし始めた。
 「ミチル、・・・・ミチルはお父さんのこと忘れないから」
 その言葉が涙を誘ったのか、周囲の女たちから泣き声が聞こえてきた。
 「さあ、行きましょう」
 促されて、沖中は控え室へと歩いていった。

 (真っ白なんだな)
 (そうね)
 火葬の終わった沖中の骨を見つめながら、沖中はミチルと話していた。
 (事故の痕跡なんてないんだな)
 (腕が折れてるんじゃないの?)
 (左手も折れたようになってるぞ)
 (そうね)
 「ミチル、拾って」
 沖中の兄に竹の箸を手渡された。ミチルは右利きで、その右腕はギプスを填められていたから左手を使わざるを得ない。左手ではなかなか骨を拾うことができなかった。美津子に助けられて、ひとつだけ拾って骨壺に入れた。
 (自分の骨を拾うなんて・・・・)
 (貴重な体験ね。誰にもできないわよ)
 (ミチル、おまえ、ずいぶん冷めてるな)
 (ちゃんと泣いたわ)
 (まあな)
 こうして、自身の葬儀に参列して骨を拾うという誰も経験できないことが終わった。