第5章 娘の中で

 激しい衝撃のあと、全身に激痛が走った。その激痛は一瞬にして去り、真っ暗闇に放り出された。どれくらいその暗闇にいたのかわからない。突然目の前が真っ白になり、その眩さに目を瞑ってしばらくしてそっと目を開けると、白いカーテンの下がったカーテンレールが目に入った。
 カーテンの向こうからざわめきが聞こえてきた。『心マッサージをしろ!』とか、『点滴を持ってこい!』などと叫んでいることから、ここは病院らしいことがわかった。
 ミチルはどうなったのだろうかと沖中は心配になって身体を起こそうとしたが、まったく動かなかった。
 白衣を着た若い男、恐らくドクターだと思われる男が沖中に近寄ってきて、上眼瞼をギュッとあげて沖中の瞳を覗き込んだ。
 「わかる?」
 言葉が出ない。沖中は小さく頷いて意思を表した。
 「よかった。もう心配ないよ」
 その医者は、沖中の脈を取り、血圧を測ってカルテに記載していた。ミチルのことを聞こうと思うのに、言葉が出ず、体も動かせない。これはかなり重傷を負っているなと、沖中は考えていた。
 「もうすぐ、お母さんが来るからね」
 若い医者がそう沖中に告げた。お母さん? この時になって、沖中は医者の態度がおかしかったことに気がついた。40を前にした男に対する態度ではなかった。
 (まるで小さな子供に接するような・・・・)
 しかし、沖中の思考にはまだもやが掛かっていた。何かがおかしいと思いながらも、うまく理解できないでいた。
 大きな女の声が部屋中に響いた。聞き覚えがあった。美津子の声だと沖中は認めた。カーテンが開き、美津子が今まで沖中に見せたことのないような愛情のこもった表情を見せながら抱きついてきた。
 「よかった。無事でいてホントによかった」
 美津子はこんなにも自分のことを愛してくれていたのかと、沖中は感激していた。
 「奥さん、ちょっとよろしいでしょうか?」
 若い医者に呼ばれて美津子がベッドを離れた。美津子と若い医者がこそこそと話をしていた。それから、美津子は悲しそうな顔をして言った。
 「ちょっとお父さんのところに行ってくるから。待っててね。ミチル」
 沖中に向かって美津子がミチルと声をかけたことに沖中は混乱した。しかも、お父さんのところに行ってくるなんて・・・・。
 (事故・・・・。入れ替わり・・・・)
 最近読んだ小説のことが思い出された。東野圭吾の『秘密』と言うミステリーだ。
 (まさか・・・・)
 沖中は、体を動かして確かめようとした。しかし、思うようには動かない。声も出ないから確かめさせてくれとも頼めなかった。
 若い医者が何度もやってきて脈を取ったり血圧を測ったりした。そして、沖中のことを何度もミチルちゃんと呼んだ。
 しばらくたって、手が動き始めた。右手は痛くて動かせなかった。沖中は動く左手でそっと胸を触ってみた。柔らかい膨らみを触れた。
 (嘘だ・・・・)
 まだ信じられなかった。沖中は手を股間へと持っていった。何も触れない股間に、沖中は愕然となった。信じられなかったけれど、もう間違いなかった。
 (どうしてだ? どうしてこんなことに・・・・)
 入れ替わったとしたら、自分になったミチルはどうしているだろうか? きっと怪我をしているはずだ。ひどくなければいいがと沖中は案じていた。
 しばらくして美津子が戻ってきた。なにも言わずに沖中を抱きしめ、そうしてからベッドのそばに座り込んで涙を流した。
 美津子のその反応に、沖中は察した。自分の身体は死んでしまった。ミチルもいなくなってしまったと。涙が頬を伝って落ちた。
 沖中はジッと考えた。現実には起こらない、小説の中でしか起こらないと思っていたことが我が身に起こってしまった。こんなことは他人には言えないことだが、美津子には打ち明けるべきだろうか? あの小説の中では、母親の心が娘に乗り移ってしまった。そのことをすぐに打ち明けた結果、主人公は、愛する妻の心が乗り移った娘への対応に悩み苦しんだわけだが・・・・。
 打ち明けた場合、美津子は、どうして沖中がミチルの中にいることになったのかと責めるだろう。自分が生きるために娘を犠牲にしたと罵るに違いない。沖中が美津子の立場ならきっとそうする。そうなれば、美津子は、娘としてミチルを愛することがなくなってしまうだろう。いくら中身が沖中だとしても、ミチルが可哀相だと思った。
 沖中は誰にも打ち明けずに、ミチルとして生きていくのが最良の選択だと判断した。

 ぼんやりと天井を見ていると少し年配の医者がやってきた。若い医者とひと言ふた言言葉を交わしたあと、沖中にいくつか質問した。
 沖中はミチルを装って質問に答えた。痛む右手は骨折だと聞かされた。他には大した怪我はないようだ。あの時ミチルの無事を祈ってハンドルを切ったからだ。ミチルと入れ替わっていなかったら、ミチルは沖中に感謝しただろうなと思った。

 年配の医者が立ち去ってしばらくしてから、沖中は病室へ運ばれていった。病室は6人部屋だった。若い患者はいないが、みんな女性だ。沖中は少し緊張してベッドの中に横になった。
 「ミチル。お母さんは、お父さんのところに行ってくるからね」
 恐らく遺体を引き取りに行ったのだろうなと沖中は思った。就寝時間を過ぎていることもあって同室の患者さんたちはみんな眠っていた。しかし、沖中は娘として生きることになった緊張そして不安と、腕の痛みで眠れなかった。
 沖中は何度も寝返りを打った。そのたびに膨らんだ胸が腕に触れた。
 (乳房があるって言うことは奇妙な感じだなあ)
 そっと手のひらで触ってみた。
 (お父さんのエッチ!)
 ミチルの声が聞こえた。沖中は、ビックリしてベッドから飛び起きた。しかし、当然のことながらミチルはいない。
 (どこを探してるの、お父さん。わたしはお父さんと一緒にいるのよ)
 (ミチル! お父さんと一緒というのはどこだ?)
 (ミチルの身体の中にいるのよ)
 その言葉を聞いて、沖中はホッとした。
 (じゃあ、ミチル! お父さんとミチルの心が入れ替わったんじゃなくて、お父さんの心がおまえの中に飛び込んでしまったんだな)
 (そうみたいよ)
 (よかった。ミチルは死んだ訳じゃないんだ)
 (わたしは死んでいないわ。こうしてここにいるわ)
 ミチルの心を追い出したと思っていた沖中は心底安心した。涙がこぼれた。安心すると、急に眠くなって沖中は眠り込んでしまった。

 検温のためにやってきた看護婦に起こされた。午前7時ちょっと前だった。ミチルの安否がわかったから、もうあの世に旅立ったのではと思っていた沖中は、ミチルとして目覚めたことに驚きを隠せなかった。
 体温計を腋に挟んで貰ってから沖中は、心の中でミチルを呼んだ。
 (ミチル、ミチル!)
 (なに? お父さん?)
 (お父さんは、どうしてまだミチルの中にいるんだろう?)
 (そうね。ミチルのことが心配なんじゃないの?)
 (こうして元気なんだから、もういいと思うんだけどな)
 (今じゃなくて、もっと先のことが心配なんじゃないの?)
 (もっと先のこと?)
 (そう。例えば、元気で成人式を迎えられるかとか、どんな男と結婚するかとか)
 (そうだな。それも心配だな)
 (それを見届けたいんじゃないの?)
 (なるほど。でも、お父さんがミチルの心の中にいたら、邪魔なんじゃないか?)
 (そりゃ、困ることもあるけど、お父さんが見守っていてくれると思うと安心だわ)
 (いいのか?)
 (どうしようもないわよ。ここにこうしている以上は)
 (そうか。それもそうだな。じゃあ、ミチルの邪魔をしないようにそっとしておくよ)
 (ひとつ問題がありそうよ)
 (なんだい? 問題って?)
 (わたしの意志が身体に伝わらないみたいなの)
 (はあ?)
 (いくら頑張っても身体が動かせないのよ。お父さんはわたしの身体を動かせるんでしょう?)
 沖中は、左手を動かしてみた。沖中の命令が左手に届いてちゃんと動いた。
 (お父さんの意志は伝わるみたいだな。ミチルはまったく駄目なのかい?)
 (まったく駄目だわ)
 (どうしてなんだろう?)
 (そうね。わたしが考えるに、お父さんの方がわたしの3倍近く生きているから魂が大きいのかも)
 魂に大きさがあるのかなとは思ったけれど、理論的ではあるなと沖中は思った。
 (軒先を借りて、母屋を乗っ取ったって言うのか?)
 (そう。わたしの方が居候していることになってるみたいね)
 (困ったな・・・・。何とかならないのかな?)
 (何ともなりそうもないわね)
 (じゃあ、今のままでは、お父さんがミチルとして生きるってことになるのか?)
 (そう言うことになりそうね)
 (困るなあ。ミチルの安否だけを知れればよかったのに、こんなことになるなんて)
 (仕方ないわよ)
 (お父さんは男なんだよ。しかも、中年の。それに、ミチルの世代のことなんてわからないよ)
 (わたしがいるから大丈夫だよ。助けてあげるから)
 (じゃあ、ミチル、お父さんがあの世に旅立つまでよろしく頼むよ)
 (わかったわ)
 体温計がピピッと鳴った。看護婦が腋の下から体温計を取り出して記載しながら言った。
 「もうすぐ頭のCTがあるからね。夜中に撮る予定だったんだけど、ミチルちゃんがあんまりぐっすり眠っていたから、朝に延期したのよ」
 「わかりました。手の手術はいつするんですか? 今日するって先生がおっしゃっていたけど」
 「聞いてないけど、恐らく今日の午後でしょうね」
 「痛いの?」
 手術なんて言うのはこれだけが気になる。痛くなければ、手術なんて怖くない。
 「麻酔をかけるから痛くないわよ」
 ニッコリと笑って看護婦は隣のベッドへ移動した。
 (ホントに痛くないんだろうか?)
 (あら? お父さんって、意外に恐がりやなんだね?)
 (あ、いや、そんなことは・・・・)
 娘に知られてはいけないことも、ツーカーだからホントに困るなと沖中は心の中で頭を掻いた。
 (ところで、ミチル?)
 (なに?)
 (小便に行きたいんだけど・・・・)
 (そんなこと、わたしにもわかってるわ。行ったら?)
 (行ったらって、そんなこと言ったって・・・・)
 (何か問題でもあるの?)
 (すんだら、拭かなければならないんだろう?)
 (そりゃそうよ。きちんとして貰わないと困るわ)
 (いいのか?)
 (いいのかって?)
 (ミチルの、・・・・ミチルのあそこを触らなければならないんだよ)
 (そんなことわかってるわ。わたしだって恥ずかしいわよ。でも、仕方ないでしょう? わたしの身体はわたしの自由にならないんだし、お父さんにやってもらうしかないんだから)
 (そうか。そうだよね)
 (漏れそうなんでしょう? 早くトイレに行ってよ。お漏らしなんてしたら、もっと恥ずかしいわ)
 (わかった。すぐに行くよ)
 沖中はベッドから起きあがった。右腕がビリッと痛んだ。床の上にはスリッパも何もなかった。沖中は素足のまま床の上に降りた。リノリウムのヒヤリとした感触が伝わってきた。廊下に出ると、看護婦に出会った。
 「あら? どこに行くの?」
 「トイレに」
 「トイレ? トイレなら向こうだけど」
 看護婦は沖中の足元を見た。
 「スリッパがないのね。持ってきてあげるわ。ちょっと待ってね」
 看護婦は廊下を走り去っていった。沖中は待っていられなくなってトイレに向かって歩いていった。
 (お父さん! そこは男子トイレだよ)
 沖中は慌てて隣の女子トイレのドアを開いた。トイレにはトイレ用にスリッパがあった。個室のトイレが並んでいる。女子トイレだから当然だと思いながらも、違和感が拭いきれない。
 一番手前のトイレが開いていた。中に飛び込んでドアを閉め、病衣を降ろそうとした。右手は痛くて動かせない。左手一本だけではパジャマがなかなか降ろせなかった。
 (漏れそう・・・・)
 (頑張って、お父さん)
 やっとの事で病衣を降ろして座り込んだ。どうしたらいいのだろうかと思っていたけれど、座ったとたんに尿がほとばしり出てきた。
 (そんなに変な感じ?)
 (あ、うん。尿が出ている感じがしないから、なんだか変だよ)
 (へえ、そんなに違うの)
 ともかく尿が出終わった。緊満感が去って気持ちがよかった。
 (まだ立ち上がっちゃ駄目よ。ちゃんと拭いてよ)
 そうだったと沖中は座り直してトイレットペーパーを手に取った。ペーパーで拭く女の陰部。違和感で、身体がぶるっと震えた。
 ベッドに戻ると、ドッと疲れが出た。
 (なれなければならないんだよな)
 (そうよ。頑張ってね)
 (ああ)
 沖中はひとり頷いた。向かいのベッドの患者さんが妙な顔をしていた。

 頭部CTが終わったあと、許可が下りて食事が出たけれど、半分も食べられなかった。
 (お腹一杯だよ)
 (あら? いつもこんなものよ)
 (そうなのか? そうか、ミチルは小さいからなあ)
 (遺伝だよ。お母さんが小さいからね)
 (そうか。ま、それは仕方がないな)
 (お母さん、遅いね)
 (そうだなあ)
 沖中は時計を見上げた。午前10時を回っていた。
 (お父さんの葬儀の手配をしているんじゃないかな?)
 (自分の葬式なんて、変な気分でしょう?)
 (ミチルの言うとおりだよ。自分の葬儀が行われるなんて信じられないよ)
 その葬儀に沖中自身がミチルとして出席しなければならないなんて、もっと信じられなかった。

 正午になっても美津子はやってこなかった。近くに親戚がいないから、苦労しているんじゃにかと沖中は心配になった。
 (お母さんのことだから、きちんとやるわよ)
 (そうだな)
 (美味しそうなカレーね。さあ、食べましょう)
 スプーンを取り上げて食べようとしたとき、看護婦がばたばたと病室に入ってきた。
 「ミチルちゃん、お昼食べた?」
 「今からですけど」
 「よかった。手術があるから絶食ですって」
 「ええっ? 食べられないの?」
 「朝も食べちゃいけなかったんだって。脳外科の先生が、手術があることを知らないで、食事の許可を出しちゃったみたいなの」
 「そう、食べられないの・・・・」
 「ごめんね」
 「いつになったら食べられるの?」
 「明日は大丈夫だけど、今日は絶食だわね」
 「今日一日絶食なの・・・・」
 そんなにたくさんは食べられないのだろうけれど、食べるなと言われればよけいに食べたくなる。人間の心理のおかしなところだ。

 朝食を食べたからと言うことで、その日の最後の手術になった。午後2時過ぎに美津子が病室にやってきて、手術の説明を受けた後、承諾書にサインしていた。
 「ミチル、頑張るのよ」
 「うん」
 美津子の表情は、いつも沖中に向ける表情とは違った。夫といえども他人に過ぎない。娘は自分の分身だから、接する態度が違うのだろうなと沖中は思った。
 午後4時、沖中は手術室へと運ばれていった。冷たい感じのする手術室は、沖中に恐怖心を抱かせた。
 (怖いよ)
 (お父さんの弱虫)
 (ミチルは怖くないのか?)
 (お父さんがついてるから大丈夫よ)
 ちょっと違うんじゃないかと沖中は思った。

 手術は、眠っている間に終わった。目覚めたときには、病室に戻っていた。
 「ミチル、痛くない?」
 美津子が心配そうな顔を向けた。
 「痛い・・・・」
 事故直後の痛みとは違ったずんとする重い痛みが右手から肩にあった。ナースコールを押して痛がってますと美津子が言うと、看護婦が坐薬を持ってやってきた。
 「これは痛み止めの坐薬なの。よく効くからね」
 そう言って、沖中を横に向けて肛門に坐薬を差し込んだ。沖中が沖中であったときも坐薬は使ったことがなかった。気持ち悪かった。こんなに気持ち悪くて効かなかったら最悪だなと思っていたけれど、30分もすると痛みが引いてきた。空腹ではあったけれど、手術後の疲れか、沖中はウトウトと眠り込んだ。

 目覚めて、まだミチルであることを確かめて、沖中は怒りを覚えた。
 (神様か誰か知らないが、どうしてこんなことをするんだ! ミチルにこの身体を返してやってくれ!!)
 しかし、何事も起こらず、沖中はミチルの身体の中に留まっていた。
 (ミチル! ミチル!! いるのか?)
 (いるわよ。お父さん)
 (よかった。おまえの方があの世へ行ってしまいそうで心配なんだ)
 (いくら何でもそんなことはしないでしょう?)
 (それなら安心だが・・・・)
 沖中は自由な方の左手を動かす。
 (ミチルはやっぱりこの体を動かせないんだね)
 (ええ。まったく駄目だわ)
 沖中はハアと溜息をついた。
 (大丈夫よ。お父さんなら、わたしとして暮らしていけるわ)
 (そう言ってもなあ・・・・)
 沖中には自信がなかった。自信などあろうはずがない。誰だって、25才も若くなった上に性別が変わった状態にすぐに適応できないだろう。
 (だから、わたしが手伝ってあげるって)
 ミチルがいてくれることが、沖中にとって大きな助けではあるのだが・・・・。