胸騒ぎが現実になったのは、サイレンの音を聞いてから1時間ほどしてからだった。けたたましく鳴った電話の受話器から、やけに落ち着いた男の声が美津子の耳に入ってきた。
《もしもし、沖中さんのお宅でしょうか?》
「は、はい。そうですけど」
《警察のものですが、ご主人の乗った車が事故に遭われまして》
その言葉を聞いたとたん、美津子は立っておられなくなって電話機のそばにへなへなと座り込んで受話器を取り落とした。
《奥さん! 奥さん! 大丈夫ですか!!》
美津子は震える手で、受話器を握り直して聞いた。
「ミチルは? 女の子が乗っていませんでした?」
自転車を置いたまま、未だ帰ってこないミチル。夫と一緒にいるしかないと思った。
《ミチルちゃんとおっしゃるんですか? 中学生くらいの女の子が、ご主人と一緒に病院に収容されています》
「娘です。ミチルは無事なんでしょうか?」
《わたしの方ではそこまでははっきりと把握しておりません。ともかく病院の方へいらしていただけますか?》
「は、はい。わかりました。病院はどこでしょうか?」
警察官らしい男から病院の名前と住所を聞くと、美津子は大急ぎでタクシーを呼んで病院へ向かった。
4人の男女が運び込まれた救急病院では、てんやわんやの大騒ぎだった。
「困るなあ。いっぺんに4人も連れてこられては」
心臓マッサージをやっている若い医者を横目で見ながら、年長の医者が救急隊員に向かってぼやいた。
「ここが事故現場から一番近いものですから。それに、4人全員に処置が必要じゃないですから」
「死亡したものまで連れてきて貰っても困るんだけどなあ」
「検死に行っていただければ、ここまで連れてこないですけど」
本来ならば、事故などで即死の人間は医療機関へは搬送せずに現場で検死することになっている。しかし、東京などの一部の大都会以外は監察医がいないから、救急病院などの医者が検死にかり出されることになる。時間を取ってしまうものだから、病院へ搬送された方が医者側としては助かるのが現実なのだ。
仕方ないなと、年長の医者は肩をすくめた。
「渋井! どうだ?」
「駄目です。蘇生しません」
そう言いながらも、渋井と呼ばれた若い医者は心臓マッサージを続けている。
「そうか。高井主任! CT室に連絡したか?」
「スタンバイしています」
主任看護婦の高井がすぐさま答えた。ショートカットの髪の毛が揺れた。岡田は、高井のことをできるナースだと思っている。ナースとして優秀だが、ナースにしておくのは勿体ないとも思っていた。高井がかなりの美人だからだ。
(女優でもした方が良さそうだ。ま、こんなナースがいれば、きつい仕事も楽しいが・・・・)
「この子の腕にシーネを巻いたら、ルート確保してすぐにCTだ。そっちの女性はどうだ?」
「血圧が上がりません!」
別の看護婦が叫ぶように返事をする。
「渋井! そっちはそれ以上やっても無駄だろう。女性の方を診てくれ」
「はい」
渋井医師は、心臓マッサージを中止して、若い女性患者の方へ行って診察を始めた。
「よし! この子をCT室へ運んで!」
小さな女の子をCT室へ送り出すと、年長の医者は渋井医師のそばに行った。
「どうだ?」
「肝破裂か、脾破裂でしょうね」
「こっちもCTが必要だな。高井主任!」
「高井主任は、CT室に行きました」
看護婦が答えた。
「渋井! CT室にはわたしが連絡するから、輸血を準備してくれ」
「わかりました」
渋井医師は、てきぱきと指示を出す。年長の医者は院内電話をかけた。
「もしもし、CT室? 救急部の岡田だ。腹部CTを大至急頼む。内臓破裂の疑いだ。大至急だぞ」
「岡田先生、検血と生化学が出ました」
看護婦が伝票を岡田医師に手渡す。岡田医師は伝票に目を通した。
「高度の貧血に肝機能異常か。肝破裂の疑いが濃くなったな」
「岡田先生! CT室の準備ができたそうです」
「すぐに運べ! 渋井!! 患者のそばについてろよ」
「わかりました!」
渋井医師が若い患者とともに救急外来を出て行くのと入れ替わりに放射線技師の玉井がフィルムを抱えてやってきた。
「岡田先生。脳内には異常はないようですが」
岡田医師は、手渡されたフィルムに目を通した。確かに脳内に出血や脳挫傷はないようだと判断した。
「とりあえずは大丈夫だな。3時間後にもう一度取り直してくれるか?」
「わかりました」
事故直後は大丈夫でも、じわじわと出血して数時間後に脳が圧迫されることもあるのだ。特に意識がない患者では要注意だと、岡田は考えていた。
「岡田先生! やはり肝破裂のようです」
渋井医師が飛び込んできた。
「被膜外に出血があるか?」
「はい。かなり出血がみられます」
「すぐに外科に連絡しよう。バイタルはいいのか?」
「やっと保たせてあります」
「若いから何とか助けてやらないと。高井主任! 家族には連絡が付いたか?」
「親子らしいふたりの方は連絡が付いたそうです。奥さんがまもなくやってくると思います。もう一組の方は、会社の方から連絡を入れて貰っていますが、連絡が付いたかどうかわかりません」
「そうか。家族の同意を取っていたら、間に合わないかもしれないな・・・・」
岡田は、外科の当直ドクターに電話をかけ始めた。
若い女性の名前は松浦麗子だとわかった。家族とはまだ連絡が取れない。しかし、容態は一刻を争った。家族の同意のないまま、緊急手術のため手術室へと運び込まれていった。
そのすぐあと、髪の毛を振り乱した女性が玄関から救命救急センターへ飛び込んできた。
「主人は? 娘はどこでしょうか?」
「沖中さんですね?」
救急部の看護婦のひとりが応対した。
「そうです」
「こちらへどうぞ」
看護婦は沖中親子がいる部屋へ妻らしい女性を案内していった。岡田は、部屋の端に見捨てられたように横たわっている若い男を見た。
「酒を飲んで運転するからこんなことになるんだ!」
助けようにも、どうしようもなかったことが悔しくて、岡田は吐き捨てるようにして呟いた。
岡田は死亡診断書を書き始めた。
「真田弘勝、25才か、若いな。ホント馬鹿な男だ。死因、脳挫傷。即死と」
日付と名前を書き終えると、看護婦が申し訳なさそうな顔をして岡田に近づいてきた。
「今度はどんな患者だ?」
「また事故ですけど・・・・」
「仕方ないな。連れてくるように言ってくれ」
「あ、いえ。もう来てるんです。あそこに」
看護婦が指さす方を見ると、若い男が腕から血を流して立っていた。
「どうしたんだ?」
「バイクで転倒したと言ってます」
「そうか。すぐに取り掛かろう」
軽症患者でよかったと岡田はホッとした。
その若い男の創処置をして、抗生物質などを処方した頃、岡田に電話が入った。
「もしもし、岡田です」
《外科の坂井です》
「ああ、お世話になります」
《松浦麗子って患者のことだけど》
「どうなりました?」
《肝左葉が裂けていてすごい出血でね。それに脾臓からも出血していた。だけど、何とか助かりそうだよ。今、若い者が閉腹している》
「それはありがとうございました。
《身元はわからんだろう?》
「まだ連絡が付かないらしい」
死亡するとやっかいだが、助かりそうとなれば、家族が遅れてやってきても、何とか説明がつく。岡田はホッとしていた。
《簡単には連絡が付かないかも知れませんよ》
坂井の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったから、岡田はちょっと驚きの声を上げた。
「はあ? どうしてですか?」
《松浦麗子って言う名前は偽名だろうね》
ますますわからなかった。岡田は首を傾げた。
「どうしてそんなことが言えるんですか?」
《彼女というか・・・・、松浦麗子は女じゃないんですよ》
「はあ?」
坂井の言っている意味がわからず、岡田はまたもや首を傾げることになった。
《外見は完全に女ですけど、実は男なんですよ。性転換した》
「ほんとですか?」
《看護婦が導尿するときに気づきましてね。閉腹する前に内性器を検索してみましたが、女性の構造はまったくないんですよ。参りましたよ。こんなのは初めての経験です》
「へえ、そうですか。そうなると、確かに身元を確認するのは難しいかもしれませんね」
《ま、そのうち、誰かが出てくるでしょうけどね》
「わかりました。ともかく、お願いいたします」
電話を切ると、主任看護婦の高井が救急隊への返事の書類を手にしてやってきた。
「これ、お願いします」
「はい、はい」
岡田は書類に記載を始めた。
「手術の方、どうですって?」
「アア、うまくいったみたいだ」
「よかった・・・・」
彼女は男らしいと喉元まで出かかって岡田はその言葉を飲み込んだ。しばらくすれば病院中にその事実が広がってしまうことだろうけれど、今は医者としての秘守義務の方が先に立ったのだ。
(それにしても性転換がこんなに身近にあるなんて・・・・)
雑誌やテレビでは性転換の話題をよく目にする。しかし、実際にそんな人物に遭遇することはなかった。岡田は、松浦麗子の顔を思い浮かべた。
(とても男には見えなかったがな・・・・)
もっときちんと見ていればよかったと思っていた。
「そうそう。女の子の方も意識が戻ったみたいですよ」
「そうか。それなら、ちょっと診に行こう」
救急隊への書類を書き終わると、岡田は沖中ミチルという名前だという少女の容態を観察しに行った。
「渋井、どうだ?」
渋井医師は、少女が寝ているベッドのそばに立ってカルテを書いていた。
「バイタルは安定していますが、父親が死んだことを知ってちょっとショックを受けています」
「そうか。どれ」
岡田はカーテンを開いて少女を見た。少女は焦点の合わないような目で天井を見ていた。頬に涙の跡があった。
「ミチルちゃんだったな」
岡田は渋井に名前を確認する。
「はい。沖中ミチルという名前です」
渋井がカルテを見ながら答えた。
「ミチルちゃん? わかる?」
少女は小さく頷いた。
「ここがどこだかわかるかな?」
少女は周りを見回した。
「病院?」
「そうだよ」
「痛い・・・・」
少女はシーネの巻かれた腕を押さえた。
「骨が折れているからね。明日にでも手術することになるだろうね」
少女はジッと自分の腕を見つめていた。
「頭は痛くない?」
少女は頭を振った。
「吐き気は?」
少女はやはり小さく頭を振った。
「あとでもう一度CTをするからね」
「何かあるんでしょうか?」
ベッドの横にいた母親が心配そうな口調で言った。岡田は説明がいると判断した。
「CTと言うのは、頭の中に出血していないか調べるものなんですよ。初めのCTで出血がなくても、時間がたって出血することもあるのです。ですから、もう一度調べるのです」 「なるほどわかりました。ミチル、頑張りましょうね」
少女は頷いた。この分では大丈夫だろうなと岡田は思い、その場は渋井に任せることにした。