第26章 ミチルのために

 事故によって娘のミチルとなった沖中愉司は、無事薬学部を卒業して国家試験にも通った。結婚を誓い合った幼なじみの斉藤茂のそばにいるために、大学からほど近い調剤薬局に就職した。
 学生用のマンションを出て、2DKのアパートに移ったけれど、茂は今まで通り夕方食事をともにしてしばらく語り合ったあと茂のアパートへと帰っていった。茂は決してミチルに手を出そうとしなかった。
 (お父さんが誘わないからよ)
 (しかしなあ・・・・)
 ミチルのためを思って茂のプロポーズを受けたものの、男の感覚から抜け出せない沖中は、どうしても自分から進んで茂に抱かれることができなかった。
 (もう、9年もわたしをしてるんだから、いい加減に女の感覚になれてよ!)
 (おまえには理解できんよ。お父さんは、40年近く男をやって来たんだから)
 (・・・・仕方ないわね。茂がその気になるまで待つしかないわね)
 (まあな)
 茂がその気になったとき、逃げ出してしまうのではないかと沖中は恐れていた。
 (それだけは許さないからね。わたし、茂と結婚して子供を産むんだから)
 (わかっているよ・・・・)

 茂がミチルに手を出さない理由は二つあった。ひとつは、ミチルのことを遊び相手としてではなく、一生を共に生きていく伴侶として大事にしたいがためだ。いま時珍しい男と言ってよかった。
 もうひとつは、ひとつ目と関係のあることだが、両親の反対にあっているためだ。
 「不倫して夫を殺すような女の娘などとの結婚は許さない」
 ミチルと結婚したいと両親に報告したとき、茂は両親からそう宣告された。その両親を説き伏せられないで、万が一別れることになったとき、ミチルを汚したことを後悔しないためだった。
 このことはミチルには言ってなかった。言えばミチルの気が変わると思ったからだ。

 ただ、茂の決心が揺らぐようなこともなかったわけではない。理性が欲望に負けそうになったことが何度かあった。
 ミチルが台所に立って食事の準備をしているとき、その後ろ姿を見ているとむらむらとなり、立ち上がって後ろから抱きつきそうになった。あのとき、油の火が飛んでミチルがヤケドをしなければ、恐らく茂はミチルを押し倒していただろう。
 (あのときは、危なかった)
 つい最近もあった。ミチルの卒業の日、お祝いにと一緒に食事をした。ワインに酔ったミチルをアパートに送っていったとき、靴を脱ごうとかがみ込んだミチルの胸がほとんど乳首あたりまで見えた。
 ミチルにもその気があったように思えたから、キスだけですませられたのが自分でも不思議だった。
 (キスだけだったら、いいだろうか? イヤイヤ、まだ我慢しよう。油断したら、なし崩しに関係を持ってしまいそうだ。それよりも両親の説得だ)

 ミチルが卒業した年の盆休み、茂はミチルを伴って帰省した。
 「今日こそはミチルとの結婚を許して貰うからね」
 「心配だわ」
 「大丈夫。もし、許してくれなくてもミチルとは結婚する」
 唇をきりりと結んだ茂はすごく男らしく見えた。
 (ほら、お父さんも茂のこと格好いいと思うでしょう?)
 (あ、まあな)
 「ただいま。ミチルを連れてきたよ」
 玄関に出てきた母親はあまりいい顔を見せなかった。茂とミチルは応接間へと入っていった。しばらくして、父親がやってきた。
 「お父さん、沖中ミチルさんだよ。お父さんも知っているだろう?」
 茂の父親は黙って頷いた。
 「ミチルと結婚の約束しているのはもう伝えたよね。今日は父さんたちに許しを貰おうとミチルに来て貰ったんだ」
 茂の父親は黙ったまま腕組みをしてなにも言わない。
 「ねえ、お父さん? ミチルとの結婚、許してくれるだろう?」
 「ミチルさんは、自分のお母さんのことをどう思っている?」
 唐突な質問だった。うまく言い繕おうと思った。しかし、沖中自身は美津子を恨んでいた。だから、正直に言うことにした。
 「わたし、母のこと恨んでいます。あんなに母のことを愛していた父を殺したんですから。あんな母の血を受け継いでいることを恥だと思っています」
 茂の父親は、ジッと聞いていた。しばらく考えてから口を開いた。
 「ミチルさんは、茂のことを一生愛し続けると誓えるかね?」
 「はい。誓います。茂さんのためにわたしの命を捧げる覚悟です」
 (わおう。お父さん、格好いい!!)
 (おまえのためだ)
 「茂! おまえの方はどうなんだ? この先、いろいろと言われるかも知れないが、ミチルさんと守ってやれるか?」
 「もちろんだよ。どんなことがあってもミチルを放しはしないよ」
 茂の父親は再び考え込んだ。
 「わかった。おまえたちの決心が固いようだから、結婚は許そう」
 「ホント!」
 「二言はない!!」
 「やった! ミチル! ぼくたち、結婚できるよ」
 親の目の前だというのに茂は沖中を抱きしめた。
 「お父さん、ホントにいいんですか?」
 茂の母親が不満そうに呟いた。
 「結婚するのは茂だ。茂が望むようにしてやるのが一番だろう」
 「それはそうでしょうけど・・・・」
 不安の入り交じった目で沖中を見た。
 「親を見るより本人が問題だ。ミチルさんは、中学2年の時にあんな事件があって、ひとりになってしまったんだ。そのショックにめげずに頑張って薬剤師になった。わたしは、その努力と根性を褒めたい。そんな女性なら、茂のことを任せられるだろう。ミチルさんの目を見て、そのことがよくわかった」
 「あなたがそうおっしゃるのなら・・・・」
 茂の母親も仕方なくではあるが承諾してくれたわけだ。
 (結婚したあとが大変そうだよ、お父さん)
 (他人事のように言うなよ)
 (まあ、頑張ってね)
 「茂?」
 「なに?」
 「間違っても、式を挙げる前にミチルさんを妊娠させるようなことはするなよ」
 「妊娠させなきゃいいんだよね」
 「・・・・おまえの良識に任せる」
 茂は沖中の顔を見てニッコリと笑った。
 (お父さん。これは大変だよ。結婚式以前に、茂に迫られるかもよ)
 (・・・・そのようだな)

 覚悟していた沖中だったが、茂はいつも通りだった。正月になって、茂は仲人を伴って沖中の両親、沖中ミチルから見れば祖父母の家に結納を持ってやってきて正式に婚約が整った。それでも茂は沖中を抱こうとはしなかった。
 「ぼくは一度こうと決めたことは守る。ミチルとの結婚だってそうだ。ミチルと関係を持つのは、式が終わってからだ」
 (大した意志の強さだよ、茂は)
 (絶対浮気しないと思うでしょう?)
 (確かにな)
 茂はミチル以外の女とは決して関係を持たないと誓っていた。それは信じても良さそうだった。

 プラトニックな関係のまま、月日は過ぎ去り、茂は医学部を卒業して医師国家試験にも合格した。腰や膝を患っていた祖父母を見ていたから、整形外科医になると決めて医局に入った。
 そして6月、ふたりの結婚式が行われた。
 (ジューンブライドは幸せになれるんだよね)
 (・・・・そうだな)
 (元気ないのね?)
 (まだ、決心が付かないよ)
 (決心が付こうと付くまいと茂に抱かれるしかないのよ)
 (アア、気が重い)
 (そんな暗い顔したらダメよ。さあ、笑顔、笑顔)
 真っ白なウエディング姿の沖中は、招待客全員から綺麗だ綺麗だと言われた。
 (こんなことは一生に一度だけだな)
 (茂が毎日言ってくれるわ)
 2時間の式はあっと言う間に終わった。招待客の大部分は帰り、茂と沖中ミチルの同級生を交えて二次会となった。
 「華奈! 華奈じゃないの?」
 松本亜由美の声がした。亜由美の見ている方を見ると、そこには間違いなく池田華奈が立っていた。
 「華奈! 来てくれたのね。どこで聞いたの?」
 「うん。卓から」
 笹本卓が立ち上がって華奈のそばに寄り添った。
 「えっ? あなたたち、いつから?」
 「ずっと前からなの。あのあと、卓が励ましに来てくれて・・・・」
 「そうだったの。言ってくれればよかったのに。心配してたのよ」
 「ごめんね」
 「で、結婚するの?」
 そんな質問に、華奈は笹本卓の顔を見た。
 「一緒に暮らしているからね。そろそろ籍を入れようかって言ってるんだ」
 「そうなの」
 「こんな立派な式は挙げられそうもないけど」
 「式よりも本人の気持ちだと思うけど」
 「・・・・そうだよな」
 「わたしも早く相手を見つけなきゃ」
 亜由美が溜息をついた。
 「彼氏はいないの?」
 「別れたばかっり。誰か彼氏になってくれませんか?」
 同級生たちに言ってみたけれど、誰も亜由美の言葉を無視していた。久しぶりに華奈を交えて、沖中は楽しいお喋りをした。
 (父さん。こんなところは女の子できるのに・・・・)
 思い出して、沖中はまたもや憂鬱な気分になった。

 二次会も終わり、沖中は招待客を見送ると、その日泊まることになっているホテルの部屋に戻った。
 (さあさあ、汗を流して下着を取り替えて)
 (とうとうこの時が訪れてしまった・・・・)
 (早く早く)
 沖中は、体を隅から隅まで洗った。脂臭くなった髪の毛も洗い、バスタオルを巻き付けて鏡の前でドライヤーで乾かした。
 鏡に映る顔、ミチルの顔は輝いて見えた。
 (結婚当日の花嫁はこんなに輝いているものなんだな)
 (そうよ。惚れ直した?)
 新しい下着を身に着けて、ネグリジェを着た。
 (普通の服じゃいけないのかな?)
 (もう寝る時刻だよ)
 (まだ早いよ)
 壁に掛けられた時計は午後10時を指していた。
 (それにしても戻ってこないわね)
 (今日は止めにして明日にしたいな)
 (遅かれ早かれ、来るものは来るのよ。もういい加減に覚悟を決めたら?)
 ハアと溜息をつきながら、沖中は軽く化粧をした。

 口紅を引いていると、ドアを開ける音がした。茂が戻ってきたのだ。
 「遅くなってごめん」
 「今シャワーを浴びたところよ」
 「そう? ぼくも浴びてくる」
 足取りも確かで、言葉にも淀みがなかった。酔いつぶれて翌日と言うことはなさそうだと沖中はがっかりした。
 しばらくして、腰にバスタオルを巻いた茂が出てきた。
 (ミチル! ミチル!! 代わってくれ! お父さん、やっぱりダメだ)
 返事がなかった。
 (ミチル! どこへ行った?)
 やはり返事はなかった。
 「どうしたんだ?」
 茂に抱きしめられた。茂の顔が近づいてきた。キスだけは何とかできる。目を瞑って相手が男だと思わなければいいのだ。沖中は唇を合わせた。
 (ミチル! 何とかしてくれ!!)
 茂が舌を差し入れてきた。仕方なくその舌を吸った。
 (ミチル・・・・)
 (お父さん! いい加減にいなさいよ。ミチルなんていないんだから)
 (いない? ちゃんといるじゃないか)
 (わたしはいないわ。あの事故のあと、この世から消えていなくなったでしょう?)
 (そんなことはない。ずっとミチルはいたじゃないか?)
 (いなかったわ。わたしはお父さんが生み出した幻影。幻だわ)
 (嘘だ!)
 (嘘じゃないことはお父さん自身が一番よく知っているでしょう?)
 茂にベッドの上に押し倒された。ネグリジェの裾が捲り上げられて、ブラをずらされ乳首を吸われていた。
 (そんなことはない!)
 (じゃあ、お父さんの遺体が火葬場で焼かれるとき、どうしてあんなに泣き叫んだの?)
 (それは父親が死んだからだ)
 (それまで泣きもしなかったのに?)
 (完全にこの世から消えてなくなるんだぞ。泣くのは当然だ)
 (消えてなくなるのが、ミチルの魂も一緒だったからでしょう?)
 沖中は反論できなかった。
 (わかっていたはずよ。わたしがお父さんの体と共に消えてしまったことは)
 (嘘だ・・・・)
 ショーツが茂の手によって下げられた。茂の指が股間をまさぐり始めた。
 (わたしがお父さんの質問に時々黙り込んだのを覚えているでしょうね。わたしがホントにいれば、ミチルに関することはすべて答えられたはずね。あれはお父さん自身が知らなかったからでしょう?)
 沖中は、他の父親よりも娘に関することをよく知っていた。ドライブしながら話を聞いてやっていたからだ。だから、ミチルとしてうまくやってこられた。
 茂の指が、襞を分けてかつて何者をも受け入れたことのない部分に入ろうとしていた。
 (あの時だって、ミチルのせいにしてオナニーをしたけれど、娘の身体だから、あれ以上のことができなかっただけなのよね? そうでしょう? あの人が再婚するって言ったときだって、中学生の女の子がどう反応するかわからなかった。だから、仕方がないって許してしまった)
 今、頭の中でミチルとして存在しているものは、沖中が作り出したものだと言うことはもうわかっていたことだ。ミチルの魂を追い出して、ミチルの身体に乗り移り沖中の魂が生きていることを悟ったときの罪悪感が作り出した幻なのだ。そうしなければ、沖中はとてもミチルとして生きていけなかった。
 (お父さん、あなたはあの事故の瞬間ミチルになったの。あなたはミチルとして生きるしかないの。さあ、すべてを忘れて、ミチルとして茂の愛を受け止めて)
 沖中の目から涙が溢れていた。
 (あなたが幸せになることが、あの世にいるミチルの幸せなの。いいわね!)
 その言葉は、沖中自身がミチルという幻影を通して自分に言い聞かせている言葉だ。本当にそれでいいのか? ミチルの身体を奪った罪はどうなるのか?
 (お父さんがこうなることを願ったんじゃないわ。何かの間違いよ。お父さんが悩み苦しむことなんてないのよ)
 目を開くと、茂の顔が目の前にあった。
 「ミチル、愛しているよ」
 「わたしもよ、茂」
 痛みが走った。茂が入ってきた。沖中は茂の背中を抱いた。
 (ミチル、すまない。お父さんはきっと幸せになる。世界一素晴らしい家庭を築いて、世界一幸せになってみせる。おまえのために。そうでなければ、おまえが浮かばれない)
 茂の思いのすべてを受け取ったとき、沖中は父親としての自分を捨てて、娘のミチルとなった。

 女ばかりの職場で誘惑も多かった茂だったけれど、その誘惑に打ち勝ってミチルだけを愛した。ミチルは、茂の愛に応え、3人の子どもに恵まれて、円満な家庭を取り戻した。