高校3年生となった沖中は、大学受験へ向けて頑張っていた。
(お父さん、どこに進む気なの?)
両親の保険金を食いつぶして暮らしていくわけにはいかない。女には結婚という道もあるのだが、沖中は思いきれない。なんとか自活する道を探らなければならないのだ。そのためには、何かの資格が得られる大学に進むのがいいとは思っているのだが・・・・。
(医学部と行きたいところだが・・・・)
(そんなの無理無理)
沖中もそう思う。沖中がミチルになったとき、まだ中学生だったから簡単にいい成績を上げられた。しかし、高校に入って成績は上位にいるものの、だんだん追いつけなくなっていった。偏差値から言うと医学部はとても無理。医療関係なら、薬学部がせいぜいと言ったところだった。
(薬剤師! いいわね)
(ミチルもそう思うか?)
(思うわ。薬剤師になってお医者さんと結婚する!)
(だから、結婚はなあ・・・・)
(卒業してからってことになると5年も先の話よ。その頃になれば、お父さんの気持ちも変わるかも)
(・・・・しかし、そんなにうまく行くかな?)
(行くわよ)
(もう少し美人ならいいが・・・・)
(あら? わたし、美人じゃないって言うの?)
(まあ、可愛いとは思うよ)
父親から見た娘は当然可愛いに決まっている。
(もっと自信を持ってよ。わたし、美人なんだから)
(蓼食う虫も好き好きって言うな)
客観的に見ると、中の上かと沖中は思う。
(ひどいなあ。自分のことなのよ)
(ま、そうだな。少し自信を持つか?)
(そう言えば、茂はどこに行くんだっけ?)
茂というのは、同じ団地に住むコンピューターオタクの優等生・斉藤茂のことだ。
(コンピューター関係に行くって言ってなかったか?)
(以前はね。でも、工学部じゃ勿体ないって先生が言ってわね)
(今度来たら、聞いてみよう)
(そうしよう。で、どこに行くの?)
(とりあえず、薬学部目指して頑張るか)
(いいね)
医学部より偏差値が低いとは言え、大学全体からすれば、薬学部は偏差値が高い。少し気を引き締めて勉強しなければと沖中は決心した。
その翌日、斉藤茂が沖中の家を訪ねてきた。茂は、中学校時代から週に1、2度やってきて、いろいろと教えてくれていた。塾に通っていない沖中は、解けない問題があると教師に聞くしかなかったのだが、茂はいとも簡単に解答を導き出して懇切丁寧に教えてくれるのだった。沖中にとって茂の訪問はありがたかった。
(茂のヤツ、わたしに気があるんじゃないかな?)
(そうか? そんなふうには見えないけど)
沖中には、男の心理がわかる。もしそうであるとすれば、どこかのそんな雰囲気があるはずなのだが、茂にはまったくそんな素振りがなかった。
(こうして毎週勉強を教えてくれるのが何よりの証拠よ)
(そうかなあ)
「なに、ぼんやりしてるの?」
「あ、なんでもない。この問題だけど・・・・」
「あ、これ? これはね。この部分をkと置くんだよ。そうするとね・・・・」
そんなこんなで1時間ほど数学のやり残しを教えて貰った。一通りの勉強が済んで、沖中はジュースを入れて茂に差し出した。
「いつもありがとう。助かるわ」
「いいんだ。ぼくにとっても復習になるから」
「ところで、茂はどこの学部を受けるの?」
「ちょっと迷ってるんだ」
「迷ってる?」
「うん。担任がね、医学部に行かないかって言うんだ」
「すごいじゃない」
「すごいってことないけど」
「茂なら大丈夫よ。医学部に行ったら?」
「ミチルがそう言うのなら、行こうかな」
その言葉の裏に何やら引っかかるものを感じた。
(ほら、やっぱりわたしに気があるって)
(そんな雰囲気だな)
「ミチルはどうするの?」
「わたし? わたしは・・・・」
(はっきり言いなさいよ。薬学部に行くって)
(医学部に薬学部じゃ、なんか告白しているみたいに聞こえないか?)
(それでもいいじゃない? 茂だったら、わたし、結婚してもいいな)
(茂とか?)
(気心が知れてるし、優しいし)
(そうか。おまえも気があるのか・・・・)
(ま、まあね)
「・・・・薬学部を考えてるんだけど」
「そう。薬学部なの」
茂は嬉しそうな表情を見せた。
「ぼく、頑張って医学部に行くよ」
その宣言は、ミチルのことが好きだと告白しているようなものだった。
茂は今まで以上に勉強に励み、学年でトップを窺うようになった。彼の成績なら、まず合格は間違いないと思われた。一方沖中も、ミチルが茂と結婚したいなどと言うものだから、薬学部目指して頑張った。
その結果、茂も沖中も見事にその目標を達成することができた。しかも、同じ大学の医学部と薬学部なのだった。
ミチルの同居人、大久保博子こと大久保大介は、大学へは進学せずに東京で働くと言って、高校の卒業式が終わるとすぐに東京へと旅立っていった。
沖中は、大学近くの学生用のワンルームマンションを借りることにして、空き家となる自宅は貸家にすることにした。その家賃でマンションの家賃を補おうというわけだ。
茂は沖中のワンルームマンションから歩いて5分ほどの場所に、同じようなワンルームマンションを借りて、大学に入ってからは、ほとんど毎日のように沖中の元を訪れるようになった。逆に沖中が茂のマンションへ行くこともあった。
若いふたりが、人目を気にしなくていいワンルームの中にいれば、当然起こるべきことが起こると誰もが予想しただろう。沖中自身も覚悟はしていた。しかし、大方の予想を裏切って、何も起こらなかった。
茂は、かなり危険な状況に置いても沖中にキスすらすることがなかった。
(単なる幼なじみで、女として考えていないんじゃないのか?)
(そうかなあ。絶対わたしに気があると思うんだけど)
(確かめてみるか?)
(聞くのが怖い・・・・)
まるで同性の友達のような関係が続いた。勿論、沖中は女の子らしく、料理をして食べさせたり、掃除や洗濯もやってやった。
《それは芽がないわね》
高校を卒業して地場の銀行へ就職した亜由美に電話すると、にべもなくそう言われた。
「そうかなあ。わたしに気があるように見えるんだけど」
《思い切って迫ってみる?》
「それはちょっと・・・・」
《ミチルには無理よね》
「どういう意味よ」
《そう言う意味よ》
言われるとおりだった。沖中としては、やはり自分から男に迫るなんてことはできなかった。
《まあ、男の自由にされて捨てられるよりはいいかもね》
「そうだね。ところで、亜由美の方はどうなってるの?」
《わたし? わたしはいろんな男とつき合って、一番いい男を捕まえるの》
「今、何人目?」
《何人目だったかな?》
沖中が知る範囲でも5人とつき合って別れていた。
《えっとね。いち、にい、さん・・・・》
電話の向こうで指を折っているようだ。
《今の彼が9人目かな?》
「9人! よくやるわね」
《理想の彼に出会うまで何人でもつき合うわ》
「今の彼は?」
《そうね。もう少し稼ぎがよかったら考えてもいいわね》
「稼ぎか・・・・」
《そうよ。結婚するのなら、共働きしないですむくらい稼ぎのある人じゃないと》
「結婚したら、仕事は辞めるつもりなの?」
《ええ、そのつもり。それに、ここは女が結婚したら辞めるって言う暗黙の了解みたいなものがあるからね》
「男女差別じゃない?」
《そうだけど、わたしは別に気にしていないわ。結婚してまであくせく働きたくないもの》
そう言う考え方もいま時の女性にもあるんだなと沖中は思った。
茂の気持ちを確かめられないまま、時間が過ぎ去っていった。茂の気持ちがわかったのは、二十歳の誕生日だった。
その日、お祝いにと街中にあるホテルのレストランでディナーを一緒にとることになった。
(部屋を取ってあるなんて言わないだろうな)
(だったら、当然ついていくわね)
(ちょっと待ってくれ、ミチル。心の準備が・・・・)
(準備などいらないわ。茂に任せていれば)
(茂に抱かれる。あの茂に・・・・。ミチル、それがおまえの望みか?)
(何度も言わせないで。いいわね。もし、誘われたら、四の五の言わないで茂の言うとおりにするのよ)
(・・・・おまえがそれを望むのなら仕方がないな)
(頼んだわよ。さあ、思い切りお洒落をして。下着も取り替えるのよ)
沖中はイヤイヤながらも、新品の下着を身に着け、タンスの中からお気に入りの真っ白なワンピースを取りだして着た。
ホテルに行くと、ロビーで茂が待っていて、沖中の姿を眩しそうな顔で見た。
「綺麗だ。ミチル」
「ありがとう。そんなこと言ってくれたことがないわね」
「あ、そうだったかな」
はにかんで下を向いた。沖中は、可愛い男だと思った。
「さあ、行こうか」
エレベーターに乗って最上階にあるレストランへ行った。窓際から見る夜景はすごく綺麗だった。ふと茂を見ると、茂が沖中の顔を穴が空くほど見つめていた。
「なによ。そんなに見つめると恥ずかしいじゃないのよ」
「ミチル、誕生日おめでとう。これは大したことないけどぼくからのプレゼントだ」
茂は沖中に小さな堤を手渡した。
「開けてもいい?」
「いいよ」
包みを開いてみると、シルバーの指輪が入っていた。いつぞや一緒に宝石店で見たティファニーの指輪だった。沖中が自分が贈るならこんな指輪だなと思って見つめていたものだった。
「素敵」
沖中はわざとらしく、左の薬指にその指輪を通した。ピッタリだった。茂はそんな沖中を笑顔で見つめていた。
前菜が運ばれてきてディナーが始まった。茂はいつものような軽口を言うこともなく、黙々とナイフとフォークを動かした。
コーヒーが運ばれてきた。コーヒーを一口飲んだあと、カップをテーブルの上に置くと、茂が躊躇いに躊躇ったあげく言葉を発した。
「じ、実はミチルに話があるんだ」
ついに来たと沖中は思った。
「卒業したら、ぼくと結婚して欲しいんだ」
(やったあ。お父さん、プロポーズされちゃったよ)
(そうみたいだな)
「なあ、いいだろう?」
(うんと返事をするしかないんだろう? ミチル?)
(当然よ。さあ、早く返事をして。待ってるでしょう?)
不安そうな顔をしている茂に向かって、沖中はひとつ深呼吸してから答えた。
「ええ。お受けします」
「やった!!」
その大きな声に、レストラン中のお客が沖中たちの方を見た。ふたりは慌てて小さくなった。
「でも、どうしてわたしのなの? わたしなんかでいいの?」
「ミチル、あの事故で変わったよね?」
「えっ? そうかしら?」
「全然目立たなかったミチルが、勉強や運動で注目されるようになったね」
「あ、それは・・・・」
理由なんて説明できるわけがないのだが。
「同じ団地に住んでいたし、ミチルは可愛かったから、それなりには気にしていたけど、あのとき以来ずっとずっと気になる存在になったんだ」
「勉強や運動ができる子が好きだってこと?」
「違うんだ。ミチル、あのとき以来、ちょっと男っぽくなったよね」
「あ、そ、そうかしら?」
「うん。ぼくは、今のミチルみたいな、ちょっとボーイッシュな子が好きなんだ」
「へえ。じゃあ、元のミチルじゃ、好きになってくれなかったの?」
「・・・・そんな気がするな」
(お父さんがわたしの中に入ってくれてよかったわ)
(参ったな・・・・)
「それにね。お父さんが亡くなり、その原因がお母さんにあったなんて悲しいことがあったのに、ミチルは賢明に生きてきた。ぼくはそんなミチルの姿に惚れたんだよ」
「わたしはただ・・・・」
そんなに賢明に生きたなんてつもりはなかった。若返った生活、決して経験できない女の子のとしての生活を楽しんでいただけだ。しかし、まわりから見れば、そのように見えたのかもしれない。
茂は沖中をじっと見つめる。沖中は恥ずかしくなってずっと下を向いていた。
そのまま、ホテルの部屋に誘われるのかと思ったら、茂はカラオケに行こうと言い出した。どうもそんな気はなさそうだった。覚悟を決めていた沖中はちょっと拍子抜けした。
その日、沖中のワンルームマンションまで沖中を送ってきた茂は、玄関先で辺りをキョロキョロと見回してから、躊躇いがちに沖中に唇を重ねてきた。それは軽い、軽いキスだった。
「寄っていかないの?」
(お父さん。すごい。自分から誘うなんて)
(体が震えてるよ)
「いや、今日は帰るよ。このままミチルの部屋に入ったら、ミチルを犯してしまいそうだ」
(期待してるのよ。ぐずぐずしないで入ってよ)
「ミチルのことは大事にしたいんだ。欲望の赴くままミチルを抱いたりしたくない。だから、今日は帰る」
そう言い残すと、茂は足早に階段を降りていった。
(茂は思ったとおりの男だわ)
(見直したよ)
(わたしの目に狂いはないわ)
(わかった。わかった)
(ところで、卒業したらっていつのことかしら?)
(それは茂が卒業したらって言う意味だろう?)
(茂が卒業するのは4年も先なのよ)
(そう言うことだな)
(4年もしたら、お婆ちゃんになってしまうわ)
(茂はそれでもいいと言うだろうな)
(あああ。4年先かあ)
4年先までは、何とか引き延ばせたなと沖中はホッとしていた。
(途中でどうなるかはわからないが)
沖中は茂に抱かれる場面を想像する。
(そうそう。いつそんなことになってもいいように覚悟しておきなさい)