第21章 残されたふたり

 美津子が浮気をしていて、沖中に眠気覚ましと言って手渡したコーヒーの中に睡眠薬を入れ、事故を起こさせたと知って、沖中は少なからずショックを受けた。
 (どうして美津子を疑わなかったのだろう?)
 よくよく思い返せば、あのころ美津子の方から求めてくることがなくなっていたし、坂を下っていくとき疲れてもいないのに急に眠気が差してきたのはおかしかったのだ。
 けれども、沖中は美津子を愛していた。美津子がどんな理由があろうと自分を殺そうとするなどとは考えてもみなかった。それに沖中は、娘になってしまった驚きと困惑の中で、娘として生きることに一生懸命だったから、そんなことを考える余裕がなかったのだ。
 怒りが沸いてきて、俺はここにこうして生きている、土下座して謝れと言いたかった。しかし、そんなことはとても言えなかった。何しろ今の沖中は、娘のミチルになっているのだから。
 美津子に後悔させるために、沖中は美津子の元へ面会に行かないことにした。愛する娘にそんな仕打ちをされれば、美津子は必ず後悔すると思ったのだ。

 美津子が後悔したのは確かだった。美津子が拘置所の中で自殺を図ったのだ。逮捕されて一ヶ月目の深夜のことだった。
 真夜中に掛かった電話に、沖中は眠い目を擦りながら出た。
 「もしもし、沖中ですけど」
 《沖中ミチルさんですね?》
 切羽詰まった声だった。
 「はい、そうですけど」
 《お母さんが自殺を図ったのです。すぐに病院へ来てください》
 「自殺を?」
 《そうです》
 「生きているんですか?」
 《病院で治療中です。すぐに来られますね?》
 「は、はい。すぐに行きます」
 死ぬかもしれないと言うときだ。行かないわけにはいかないだろう。沖中は、すぐに着替えを始めた。
 「どうしたの?」
 大介が起きてきて沖中に尋ねた。
 「お母さんが自殺を図ったんだって。病院へ行って来るわ」
 「そう。一人で行ける?」
 「一緒に行ってくれる?」
 「いいよ。着替えるから、ちょっと待って」
 ジーンズにTシャツを着て待っていると、大介は黒いノースリーブのワンピース姿で沖中の前に現れた。その頃の大介は、伸びた髪の毛を女の子風にカットしていた。眉も細くカットしていて、薄化粧をしていたから、そのワンピースがよく似合っていた。
 「タクシー、呼んだ?」
 そう言われて、車を運転するわけにはいかないんだと気がついた。
 「あ、忘れてた」
 電話をして、しばらくしてやってきたタクシーに乗って病院へと向かった。病院は、あの事故の時に運び込まれた救急病院だった。

 病院の受付で名前を告げると、ソファーに座っていた刑事らしい男が立ち上がって沖中たちのそばにやってきた。
 「遅かったね。すぐに集中治療室へ行こう」
 先に立ってICUへ案内してくれた。
 「ここでマスクと帽子をしてガウンを羽織って」
 言われたとおりに使い捨ての帽子をかぶってマスクをして、緑色のガウンを着てICUの中へ入った。
 一番奥のベッドの上に横たわった美津子は人工呼吸器を取り付けられていた。顔色は土色で精気がなかった。ベッドのそばに置かれた心電図は規則正しく動いていた。
 「娘さんをお連れしました」
 刑事が医者に言うと、医者が沖中に向かっていった。
 「落ち着いてよく聞いてください。あなたのお母さんがここに運び込まれたとき、心臓も呼吸も停止していました。必死に蘇生を行って心臓は動き始めましたが、長く酸素が行かなかったせいで、脳がひどいダメージを受けています。わかりますね?」
 「はい」
 沖中は頷いた。
 「朝になったら、もう一度検査してみますが、いわゆる脳死に陥っていることは間違いないでしょう」
 「脳死・・・・」
 「そうです」
 「回復しないんですね?」
 「おそらく。99パーセントはダメでしょう」
 脳死は美津子の死を意味する。こんな時、自分はどうすればいいのだろうかと沖中は思っていた。
 お母さんと泣いて縋りつくのが娘としては自然だろうとは思った。しかし、沖中はそうできなかった。自分の肉体を滅ぼした美津子に、もはや愛情がなかったからだ。
 沖中はベッドサイドに立ちつくして、美津子の顔をジッと見つめていた。

 翌日、正式に二度の脳死判定が行われ、美津子の脳死が確定した。
 「お気の毒です」
 医者は頭を下げ病室を出て行った。しばらくして、刑事と白衣を着た女性が病室に姿を現した。
 「ミチルちゃん、申し訳ない。わたしたちがもっと用心していれば」
 死を覚悟したものをどんなふうにしたら止められるというのだろうか? どんなに用心したとしても必ず決行していただろう。
 「いいんです。母は母なりにけじめをつけたんですから」
 そんな言葉に、ふたりは少し驚いたような表情を見せた。中学生の言葉とは思えなかったからだ。
 「うん。ところで、お母さんの遺書が見つかってね」
 「遺書ですか?」
 「そう。事件のあらましの告白と臓器移植の願いを書いたものだ」
 「臓器移植?」
 「罪を償う目的で、死後の臓器移植をお願いしますという内容だ。ただ、家族の承諾が必要なんだ。紹介しよう。この女性はコーディネーターの岡田さんだ。話をよく聞いてくれたまえ」
 「臓器移植のコーディネーターをしている岡田です。よろしく」
 白衣の女性は30過ぎくらいだろうか? 丸顔のお世辞にも美人といえない女性だ。ただ、仕事にかける真剣さが伝わってきた。
 「・・・・母が望んでいたのなら、わたし、異存はありません」
 「そうですか。ありがとうございます。これで何人かの人たちが助かります」
 嬉しそうに頭を下げる女性を見ながら、沖中はこれでいいんだと思った。
 (なあ? ミチル?)
 (ええ。わたしも異存はないわ)
 「刑事さん、母の遺書というのを見せていただくわけにはいきませんか?」
 「あ、そうだね。明日にでもお宅に持っていきましょう。ただ、事件の核心に触れている部分があるので、裁判に必要と言うことで証拠保全処置がなされているのです。コピーになりますが、それでもいいかな?」
 「ええ、結構です」
 遺書にどれほどのことが書かれているかわからない。しかし、美津子がどのように考えて、沖中を殺そうとしたかが少しはわかると思ったのだ。

 美津子の遺書は、走り書き程度のものでそれほど詳しくは書かれていなかった。ただ、浮気に走った動機はほんの出来心で、沖中を嫌いになったわけではない、愛してくれていた沖中に申し訳ないことをしたと書かれていた。涙のあとがコピーでもわかった。沖中は少しだけ安堵した。
 大久保のテクニックによってもたらされた、それまで経験したことのない快感に麻薬中毒のようになって、大久保から離れられなくなり、大久保が互いの配偶者を殺そうと言い出したので、大久保から離れたくないがために沖中を殺そうと計画したと書かれていた。
 (愛より快楽か・・・・。そんな女じゃなかったはずなのに・・・・)
 虚しいと思った。自分だけはそうならないぞと心に決めた。
 (当たり前でしょう? お父さん、わたしの体を使うんだから、愛だけに生きてよ)
 (わかったけど、両立するような相手なら、問題ないんだろう?)
 (それはそうだけど、性的快楽ってどんなものなの?)
 (今言わなくても、そのうちわかる)
 (楽しみにしてるわ)
 沖中にはそれ以上何とも言えなかった。

 その日のうちに美津子の体から、心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、角膜が摘出され、その翌日通夜、さらにその翌日葬儀となった。
 沖中の親族は当然のごとく通夜にも葬儀にもやってこず、美津子の親族だけがやってきた。夫殺しをしたと言うことで、寂しい葬儀だった。自業自得だが、そんな様子は本人は知らないわけだから、寂しい葬儀なんて関係ないのかもしれないと沖中は思っていた。

 美津子が沖中愉司を殺したことがわかってからすぐに決まっていたことだが、家の登記が沖中ミチルに変更され、保険金その他もすべて沖中ミチルの名義となった。
 兄の沖中健司が、沖中を引き取ろうといったのだが、沖中は学校を変わりたくない、ひとりでもやっていけると言い張って、ひとりで暮らすことを承諾させた。働かなくても食べていけるだけのお金はあるのだから、問題はなかった。
 もちろん、法律的にはそんな我が儘は認められないわけだが、同じ市内に住んでいる沖中の両親、つまりミチルの祖父母に後見人になって貰い、そこに引き取られた形を取っていた。
 問題は、大介だった。
 「あいつの父親が元々悪いんだ。そんなヤツの息子と一緒に暮らすなんてとんでもない!!」
 「親と子供は関係ないわ」
 「関係ないとしても、男の子と一緒に暮らさせるわけにはいかない!」
 「彼はホモなの。女には興味がないの。だから、大丈夫よ」
 大介がホモだという言葉を聞いて、沖中の兄は目を丸くした。
 「よけいに悪い!」
 「わたしが誰と暮らそうと、伯父さんたちには関係のないことだわ。一緒に暮らすわ」
 沖中と大介は祖父母の保護観察下ではあったが、こうして一緒に暮らすことになった。

 (まるで女の子と暮らしているみたい)
 大介は、学校にいるときも家にいるときも常に女装していた。大介は料理がうまく、掃除や洗濯もそつなくこなした。女の子である沖中の方がたじたじとなるほどだった。1年前からそうなったといっていたけれど、生まれたときから女だったように沖中には見えた。だから、沖中は大介に対して危険を感じたことはなかった。

 大人たちの心配をよそに、ふたりは共同生活を続け、無事中学を卒業した。沖中は県内の有名進学校に合格した。ところが、大介の方は、同じ高校に通る実力があるはずなのに、不合格となってしまった。どうやら、大介がホモを公言し女装していることが問題となって不合格となったようだった。
 「いいわ。わたしには学歴は必要ないもの」
 そう言いながらも悔しそうな顔をしていた。そんなとき、オープンな校風の私立高校から打診があって、大介はそこに通うことになった。
 「男子の制服は着たくないんですけど」
 そんな大介の申し出は当然拒否されると思ったのに、何の抵抗もなく許可が出て、大介は大久保博子の名前で学籍登録して女子の制服を着て通学できるようになった。
 よくよく聞いてみると、その高校の3年生にやはりセーラー服を着て通っている男の子がいるとのことだ。

 高校に入ると、大介は朝晩錠剤を飲み始めた。
 「何飲んでるの?」
 「ん? これ? 女性ホルモン」
 「女性ホルモン!」
 「そう。これ以上遅くなると、女になれなくなっちゃうから」
 「ホントに、女になるの?」
 「もちろんよ。女に戻るんだから」
 「女に戻る?」
 「あ、うん。間違って男に生まれたから、元に戻るんだよ」
 そう言う考え方なんだと沖中は納得した。

 それまで、いくら女の子らしくしているとは言っても、男の子の体つきだったけれど、女性ホルモンを飲み始めて大介は急速に女の子らしく変身していった。
 夏休み頃には胸が膨らんでAカップほどになり、オイルパッド入りのブラをすると一応谷間らしきものができた。
 サポート力の強力なサポーターを使って、睾丸を身体の中に押し込み、ペニスを後ろに折り曲げて、その上に普通のショーツを穿いていた。
 そんな工夫をすると、下着姿でも大介はまったく女に見えた。
 「こんなこと、しなくてすむようにしなくちゃ」
 沖中に向かって大介はそう言って微笑んだ。

 池田華奈と松本亜由美は、沖中とは別の女子校へ進んだ。学校は違ってもふたりは毎日のように遊びに来た。
 男の子たちは、テレビゲームをしたり漫画本を読んだりすることが多いようだが、女の子が集まると、ファッションやタレントの話ばかりだ。
 「タッキーより翼よね」
 沖中もこんな話題を提供できるようになった。
 「絵に描いた餅はねえ・・・・」
 いつもと違った華奈の反応に沖中は、オヤッと華奈の顔を見た。
 「なに、なに? それ、どういう意味?」
 「へへえ、できたの」
 「できたのって、彼氏が?」
 「そう」
 その顔からすると、自慢したくて堪らなかったようだ。
 「誰、誰?」
 沖中と亜由美が詰め寄った。
 「三浦先輩」
 「三浦先輩! テニス部の?」
 「そう」
 「どうやって、つき合うようになったの? テニス部とはぜんぜんツテがないでしょう?」
 沖中たちは中学時代、帰宅組だった。だから運動部とは付き合いがなかったのだ。
 「この前、学園祭があったでしょう? あのときに」
 「わたしに内緒で?」
 「内緒でって、亜由美は別の男の人とさっさとどこかへ行ったじゃないの」
 「あ、そうだった」
 亜由美は頭を掻いた。
 「じゃあ、亜由美も彼氏がいるの?」
 沖中が聞くと、亜由美はデレッとした表情になって小さく頷いた。
 「亜由美は男なんて作らないって言ってなかった?」
 「言った、言った」
 「予定は未定よ」
 「そりゃそうだけど」
 「じゃあ、彼氏がいないのは、ミチルだけね」
 そう言われて、ちょっと下を向いた。女になって2年以上がたつけれど、男とつき合うなんてまだまだそんな気分にはならなかった。
 「ミチルも早く彼氏を作りなさいよ。いいわよ。男の人とのキスは」
 「キスしたの?」
 「ええ。とっても甘かったわ。ねえ、亜由美?」
 亜由美は大きく頷いた。亜由美もキスしたことが明らかとなった。
 「キスもいいけど、男の人の厚い胸に抱きしめられるのは何とも言えないわ」
 うっとりとする亜由美に向かって華奈が眉を上げて尋ねた。
 「亜由美、ただ抱きしめられただけなの?」
 「ふふ。わかった?」
 「あんた。まさか!」
 「そのまさかなの」
 沖中と華奈は顔を見合わせた。
 「あんな大きなものが入るなんて思わなかったけど、結構入るものなのよ」
 「汚いって言ってなかった?」
 「お風呂でちゃんと洗って貰ったわよ」
 「痛くなかった?」
 「最初はね。でも、慣れたら気持ちいいんだ」
 「慣れたらって、何度もしたの?」
 「数え切れないくらいね」
 「信じられない・・・・」
 男とセックスなど絶対しないと言っていた亜由美が最初に処女を失おうとは思ってもみなかった。
 「華奈はすぐにでもやって貰えそうだけど、問題はミチルね」
 「わ、わたしは、まだいいわ」
 「まだって、そんなこと言ってたら、すぐに二十歳になって、すぐに行き遅れるわよ」
 話が飛躍しすぎのような気がする。それにしても、高校生が性体験なんて、沖中の時代では考えられなかったことだ。いや、沖中が気がつかなかっただけかもしれないが。
 「とにかく、まず彼氏を作ることね。ねえ? 華奈?」
 「そうそう。ミチルの彼氏作りの会を結成しましょう?」
 「賛成!!」
 「わたしにも好みってものがあるんだから、自分で見つけるわ」
 「そう? いつになることやら」
 「賭けしましょう?」
 「いいね」
 「勝手にして。今日はもう遅いから、サヨナラ」
 午後6時前だった。話を切るには丁度いい時間だ。じゃあねと挨拶をしてふたりは帰っていった。
 (ミチル? このままいくと、お父さんが男とつき合わなければならなくなるな)
 (そうね)
 (参ったな・・・・)
 (女になったからって、喜んで男とセックスする人もいるのに)
 (お父さんは、そんな趣味はないよ)
 (でも、そうしなきゃいけないわよ。お父さんは、わたし。わたしは子供を産んでみたいんだから)
 (わかってるよ・・・・)
 ミチルは女。女としての役目を心得ている。しかし・・・・。男に抱かれることを想像するだけで、沖中は鳥肌が立った。
 (早く、あの世に行ってしまえば、こんなことを悩まずにすむのに・・・・)