山頂の駐車場から街の灯を見ながら、沖中はミチルとお喋りをした。勿論沖中がミチルの話を聞くのが大部分だ。友人の話、男の子の話、先生の話等々。おかげで沖中はミチルの学校生活のかなりの部分に精通するようになった。これこそ沖中が望んでいたものだと思っていた。
「松本のヤツ、いやらしいんだよ」
「松本って、英語の先生のか?」
中学生くらいの子供を持つ父親の大部分は、学校の教師の名前など知るものはいないだろう。沖中は、すべての教師の名前を覚えていた。
「そうだよ。教科書を読みながら、机の間を歩き回ることが多いんだけど、女の子の髪の毛を触ったりするんだよ」
「たまたま手が当たったんじゃないのか?」
「たまたまじゃないよ、あれは。絶対に確信犯だよ」
「それがホントなら、校長に言わないといけないな」
「わたしがちくったって言わないでよ」
沖中はミチルの方を見た。
「ちくったなんて言葉をどこで覚えたんだ?」
「学校でだよ。みんな使ってるよ」
「困ったものだ。ま、しかし、その松本先生には、それとなく注意して貰うように言っておこう」
「頼んだわね」
「そろそろ下ろうか? お母さんが心配するだろう」
沖中は、カップに入ったコーヒーをぐっと飲み干した。コーヒーは、出がけにミチルが用意したものだ。娘が炒れてくれたコーヒーはうまいなと沖中は思っていた。
「お父さんと一緒だから、大丈夫よ」
「それもそうだな」
車に乗り込もうとすると、パトカーが赤色灯を回しながら駐車場に入ってきた。ドアが開いて警官が降りてきて沖中たちの方へ近寄ってきた。
「こんばんは」
抑揚のない口調で年の警官が呟くように言った。
「あ、こんばんは。お疲れ様です」
「こんなところで何をしているのですか?」
懐中電灯で沖中とミチルを交互に照らしながら警官が尋ねた。
「夜景を見に来たんですよ」
「ほう、夜景をね・・・・。どういうご関係で?」
警察官はいったい何を疑っているのだろうかと沖中は心の中で思った。ミチルは、ジュニアのワンピースを着ている。背は平均よりも低く、中学生にすら見えない。そんな、子供にしか見えない女の子を相手に沖中が何かをしているとでも想像しているのだろうか? 不愉快になった。しかし、そこはぐっとこらえて答えた。
「ああ、この子? わたしの娘ですよ」
「娘さん。そうですか? そう言えばよく似ていらっしゃる」
「こんなところをパトロールですか?」
「暴走族が上がっていったという通報がありましてね」
警察官は、沖中の車を懐中電灯で照らした。
「ちょっといじってますけど、暴走族はひどいなあ」
「ま、あんまり飛ばしたりしないようにしてください。じゃあ」
いい年をしてこんな車に乗るなと言うような口調で言うと、警察官はパトカーに乗り込んだ。
パトカーはなかなか出発しない。仕方がないので、沖中はミチルを車に乗せると山を下り始めた。パトカーが付いてくる。だから、いつものようなスピードは出せなかった。
団地の入り口までパトカーは付いてきた。しかし、角を曲がったところでパトカーは走り去っていった。
「やな感じね」
車を降りるやいなや、ミチルが呟いた。沖中もそう思っていた。
ミチルは、ドライブ以外の時間でも沖中とお喋りしてくれるようになった。食事の時間などにふたりが話していると、美津子が嫉妬混じりに話の腰を折ることが結構あった。
「娘に焼き餅を焼くことはないだろう?」
「焼き餅なんかじゃありません!」
美津子はムキになって怒った。美津子の相手もしてやらねばと思う沖中ではあったが、美津子と話す話題などなかった。イヤ、敢えて会話しようとしなかった。美津子は、口を開くと愚痴ばかり言うものだから、沖中は聞きたくなかったのだ。
話をしなければ、夜の生活も次第に遠のいていく。しかし、淡泊だとは言っても沖中も男だ。それなりに性欲はある。月に一度くらいは、無性に美津子を抱きたくなる。中学になって夜更かしを覚えたミチルが寝静まるのを待って美津子に迫るのだが、そんなときに限って生理中だとか明日は早く起きなければならないとか言って断られた。当然のことながら、オーラルセックスなどもやってはくれない。
(女房がいるのにマスターベーションするわけにもいかないしなあ・・・・。そんなことをすれば、まるでアメリカンビューティーの世界だよ)
そんな日は、冷蔵庫からビールを取り出して酔いつぶれるしかなかった。
(大丈夫なんだろうか? うちの会社は・・・・)
沖中は、県内では中堅に当たる建設会社に勤めている。沖中が住んでいるような、戸建て住宅の団地造成をしたり、マンション建設などもやっている。最近は需要がやや上向きになってはいるが、自転車操業のような状態が続いていた。
そんな中、先月の末、東京に本社のある大手建設業者がマンション建設に参入してきた。都会のセンスを取り入れたそのマンションのモデルルームを偵察してきて、とても太刀打ちできそうもないとの観察が会社の中で飛び交っていた。その上、取引銀行が不良債権の処理で四苦八苦していて倒産も噂される状態だった。取引銀行が倒産と言うことになれば、銀行は何とか生き残れるにしても、会社の方は倒産を免れなくなるかもしれなかったのだ。
「沖中はいいよな。いつもノルマを果たせて」
同じ営業の松本学がぼやく。
「たまたまさ。この2ヶ月はよかったけど、今月は厳しいよ」
「しかし、その契約がうまくいきそうなんだろう?」
「あ、これか。ま、なんとかな」
半年ほど前、マンションを購入して貰った年寄り夫婦の紹介で契約が成立しそうだった。大阪の商社に勤めていて定年になった夫婦が、田舎暮らしをしたいと言うことでこちらのマンションを物色していたらしい。沖中の世話した老夫妻が、沖中のことを気に入ってくれて紹介してくれたのだった。
「沖中さん、3番に外線が入ってます」
「あ、ありがとう」
沖中は受話器を取って3番を押した。
「代わりました。沖中です」
《葛城病院の葛城だ》
「アア、葛城先生。いつもお世話になっております」
沖中は、受話器を耳に当てたまま頭を深々と下げた。相手に見えているわけでもないのにといつも思うのだが、自然にそうなってしまう。
「マンションの方はいかがでしょうか?」
この春、新任の医師が住むためのマンションを世話していた。
《気に入っていると聞いている》
「そうですか。それはよかった。お勧めした甲斐がありました」
《今日はひとつお願いがあってな》
「なんでしょうか? わたしでお役に立てることなら何なりと」
《息子が医大に行っているのは言ったかな?》
「はあ、先日お聞きいたしましたが」
《家から通うのが大変だから、医大の近くに部屋が欲しいと言ってるんだ。君のところに適当な物件はないかね?》
「医大のに近くにはあるのはありますが、息子さんが住むにはちょっと広すぎると思いますが」
《広くてもいいんだ。どうせ、うちのヤツが入り浸りになるだろうからな》
「3LDKなんですが、それでもよろしいでしょうか?」
《それくらいあればいいだろうが、息子の意見も聞かなければな》
「見取り図を、いや、よろしければ、現地にご案内いたしますがいかがでしょうか?」
《そうしてくれ。自宅に家内がいるはずだから、連絡してくれるかな?》
「承知いたしました。早速ご連絡いたします」
《それでは頼んだよ》
「ありがとうございました」
受話器を降ろして、沖中は小さくガッツポーズをした。
「また、いい話が入ったな」
松本がうらやましそうな目を沖中に向けた。沖中は、満足そうに頷いて葛城病院の自宅の電話番号を探してダイヤルし始めた。
沖中の目から見れば、かなり広いマンションだと思ったが、葛城病院の息子はちょっと狭いなと文句を言っていた。しかし、大学から近く、他にはいい物件がないと言うことであっさりと契約してくれた。時計はまだ3時を過ぎたばかりだ。沖中はほくほく顔で少し早めに帰路につくことにした。
「もしもし、美津子か? ぼくだ。今日は早く帰れそうだ。次のバスに乗るから、6時くらいには帰り着くと思うけど。先に飯にしてくれ。それから走りに行くよ」
美津子の機嫌はあまりよくなかった。夕食はいつも8時過ぎだ。予定が狂ったからだろう。
玄関を開けると、見慣れないスニーカーがあった。同級生が来ているなと思って上がろうとしてそのスニーカーが男物だと言うことに気がついた。
「おい! 美津子! 美津子!!」
リビングに入って美津子の姿を捜した。
「なんですか? 大きな声を出して」
「男の子が来てるのか?」
「ええ」
「ええって、ミチルとふたりきりか?」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「そうれがどうかしたのって、おまえ、女の子と男の子がふたりきりなんて大丈夫なのか?」
「何心配してるのよ。ミチルはまだ中学生なのよ。何も心配することはないわよ」
「中学生だって、安心はできないぞ」
「大丈夫よ。それに、部屋のドアを開けたままにしておくように言ってあるから、妙なことはしないわよ」
「そ、そうか・・・・」
父親というものは、心配になるものだ。こっそりと階段を上がっていってミチルの部屋の様子を窺ってみた。話し声が聞こえる。どうやら学校の先生の悪口を言っているようだ。安心して沖中はリビングへ戻っていった。
「心配なかったでしょう?」
「あ、ああ。しかし・・・・」
「ミチルには、きちんとするようにしつけてあるから、心配しないでもいいわよ」
それでも沖中は心配げに何度か二階の方を見ていた。
それから30分ほどして階段を降りてくる足音がした。
「お邪魔しました」
沖中が降りてきた男の子に目を向けると、男の子はちょっと緊張した面持ちで沖中に向かって挨拶してきた。
「うむ」
沖中は、これも緊張したような表情で目で挨拶を戻した。その男の子は、バイバイとミチルの手を挙げてから玄関を出ていった。
「いい子でしょう?」
美津子がテーブルの上に夕食を並べながら言った。
「あ、まあ、そうだな」
「斉藤君は、学校の成績もトップクラスらしいわよ」
「ほう・・・・」
「ミチルがつき合っている男の子の中では一番かも」
「なに? そんなに何人もつき合っているのか?」
沖中は、ミチルの友人と言えば女の子だけしか知らなかった。だから、かなり驚いた。
「わたしの知ってる限りでは、3人はいるわね。そうそう、大久保君も最近来るようになったから、4人だわね」
「参ったな・・・・」
「何が参ったの?」
ミチルがリビングにやってきた。かなり短いフレアスカートを穿いていた。沖中はギョッとなった。
「そんな格好で、あの子と一緒にいたのか?」
「そんな格好って?」
ミチルはキョトンとした顔で自分の格好を眺め回した。
「おかしい?」
「ちょっと、短すぎるんじゃないのか?」
沖中は、目のやり場に困るといった表情で声を落として言った。
「そんなことないわよ。みんな、家ではこんなものよ」
「そうなのか?」
「お父さん、エッチなことを想像してたんでしょう?」
「ば、馬鹿なことを言うなよ」
「斉藤君は、まだ子供だから、そんなことを考えたりしないわよ」
「子供だからって、おまえと同い年だろう?」
「男の子と女の子とでは違うのよ」
美津子が横から口を挟んだ。
「そんなものか?」
「そんなものよ」
沖中の中には、再放送で見た『金八先生』の女子中学生の妊娠と言うショッキングな場面が浮かんでいたのだが、ミチルのあどけない顔を見ていると、そんな考えは吹っ飛んでしまった。
(ミチルに限って、そんなことはあるまいな)
その後もよくよく観察していると、男の子たちが遊びに来ているようだ。玄関先に数人で座っていつまでも話をしていたり、宿題を一緒にやったりしていた。
男の子たちは一様に幼く見えて、沖中が心配しているようなことはとても起こりそうもないようだった。しかし、沖中はそれとなく、沖中家にやってくる4人の男の子とをミチルに聞いてみた。
美津子が、成績がトップクラスだと言っていた斉藤茂は、同じ団地に住んでいた。沖中が越してきたのが5年前だが、その3年前からこの団地に住んでいるとのことだ。父親は公認会計士で会計事務所を経営していて、母親は専業主婦。父親には会ったことがないが、母親は見かけたことがある。かなりの美人で、沖中の隣の住人である木下が美人だ美人だといつも言っているのだが、沖中の好みではない。
木下の次男坊もミチルと同級生で、しばしば沖中の家にやってきていた。ミチルにもっとも気があると思われたが、ミチルの方にはその気がない。それは父親の木下が30代にもかかわらず禿げているからだ。禿は絶対イヤだと言っているミチルの気を変えるのは、よほどのことがなければ駄目だろう。
最近沖中家にやってくるようになったという大久保大介という子は、可愛らしい顔をしているがちょっと暗い目をした男の子だ。一年ほど前、母親が事故で死んだせいらしい。父親は車のセールスをやっていると言うことだった。
最後のひとりは、笹本卓。沖中の目から見ると一番ハンサムで格好いいと思う。沖中がミチルなら笹本を選ぶと思っていた。ただ、中学生のくせにたばこを吸っているらしく、沖中をすれ違うとき、ヤニの臭いがした。水商売をしている母親の影響らしい。職業に貴賤はないとは言うものの、沖中も美津子も笹本が沖中家にやって来ることに、あまりいい印象は持っていなかった。
美津子の口から聞いたところによると、家に遊びに来る以外にも、ミチルと仲のいい男の子がたくさんいるようだ。
(ミチルが可愛くて、気だてもいい証拠だが、しかし、心配だなあ)
父親としての沖中の悩みはつきない。
「事故ったりしないでね」
いつものドライブに出かけようとすると、珍しくそんな言葉を沖中に向けながら、美津子がコーヒーの入ったポットを沖中に手渡した。
「大丈夫さ」
そう答えて、沖中は車のキーを片手に駐車場へと向かった。エンジンをかけてシフトをローに入れてゆっくりと団地を抜けていく。今日も団地の出口にある信号に引っかかった。
ギアをニュートラルにしてサイドブレーキを入れたとき、窓を叩くものがいた。横を振り向いてみるとミチルだった。
パワーウインドウのスイッチを押してウインドウを下げる。
「今から行くの?」
愛くるしい瞳が沖中を見つめる。俺の娘はなんて可愛いんだと沖中は思った。
「ああ」
「わたしも乗っけてって」
「いいよ」
嬉しそうな顔をして、ミチルは車の前方から助手席へ回って乗り込んできた。
「お父さん、信号、青よ」
促されて沖中はギアをローに入れて車を発進させた。車を走らせながら沖中は、男の子たちのことをどう思っているのか、ミチルに直接聞いてみようと思った。美津子の前では、沖中も聞きにくいし、ミチルも答えにくいだろうと思ったのだ。
山頂の駐車場に到着し、コーヒーを飲みながら、沖中はさっそくミチルに聞いてみた。
「ミチル?」
「なに? お父さん?」
「ミチルには、男の子の友達が多いみたいだけど、誰が一番好きなんだ?」
「ええっ? どうしてそんなこと聞くの?」
無邪気な顔をして沖中に聞き返してきた。
「心配だからさ」
「心配って?」
「あ、つまりだな。・・・・なんて言うかな?」
どう尋ねていいものやら、沖中は言葉に詰まった。
「なんか変なことしないか、心配なのね?」
「あ、まあ、そう言ったことだ」
「へえ、お父さん、心配してくれてるんだ」
「当たり前だ。おまえはわたしの大事な娘なんだからな」
「フフ。心配しないでいいわ。変なことなんてしないし、そんな変なことをするような男の子とはつき合っていないから」
「そうか。・・・・特別好きな子がいるって言う訳じゃないんだな」
「いないわよ。みんな子供なんだもの。わたしが好きになるのは、お父さんみたいな人よ」
そう言って、ミチルは沖中の腕に抱きついてきた。
「変な男についていったりするんじゃないぞ」
「わかってるわよ。お父さんやお母さんを泣かしたりはしないわ」
ミチルは思っているより大人だなとわかって沖中は安心した。
「あ、もう9時だわ。お父さん、もう帰ろう?」
「帰って勉強か?」
「今日は勉強はおしまい。9時から食わず嫌いがあるの。早く! 早く!」
食わず嫌いって何だろうと沖中は首を傾げた。運転席に乗り込みながら、どうやらテレビの番組らしいことを察して苦笑いを浮かべた。
坂を下り始めた。上ってくるライトはない。沖中は可能な限りのスピードを出して坂を下っていった。ミチルが横でキャアキャア叫んでいる。
坂を半分ほど下ったとき、沖中はなんだかおかしいことに気づいた。暗い海の底に引き込まれるような妙な感覚がするのだ。沖中は頭を振った。しかし、その妙な感覚は治まらない。酷くなっていくばかりだ。
「いかん! スピードを落とさなければ」
そう思うのに手足が言うことを聞かなかった。一生懸命足を動かそうとしてから、なんとか足がブレーキを踏む感覚が頭に伝わってきた。
そのとたん、前方に迫るライトの光が目に入った。
「ぶつかる!」
事故は避けられないと直感した。沖中は、自由のきかない手でハンドルを思い切り左へ切った。助手席のミチルだけでも助けようと思ったのだった。
激しい衝突音とショックが沖中の身体に伝わってきたあと、沖中は意識を失った。