第19章 帰郷

 『恋人の執念、偽装殺人を解決』
 そんなタイトルの新聞記事が載ったのを、松浦麗子は満足げに見つめた。真田弘勝の飲酒運転は当然糾弾されたのだが、睡眠薬を盛られて意識が朦朧となった沖中愉司が中央線を超えたのが事故の直接の原因と判定がやり直された。
 (これで、真田さんに対する一方的な非難は消えるわ)
 一安心しながら、麗子はアパートでどうしようか迷っていた。会社から職場復帰しないかと連絡があったのだ。しかしと麗子は考えていた。
 (自分がホントの女じゃないことを知っている人間がいる街で暮らすのは危険が多すぎるのではないか? 別の土地に行った方がいいのではないか?)
 別の土地に行って女として働くには、履歴書が必要だ。誰か他の女性のものを手に入れなければならないのだが、麗子はまだそれを手に入れていなかった。
 (前に履歴書は捨てちゃったし、新しい履歴書を手に入れるまではしばらく働くことにしようかな?)
 迷ったあげく、麗子は会社に復帰することにした。

 以前と同じ生活が戻ってきた。会社の同僚も優しくしてくれるし、男性社員からも誘いを受けるようになり始めていた。
 (ずっとここにいてもいいな)
 そう思い始めた矢先、とんでもない記事が週刊誌に載った。

 『睡眠薬殺人事件解決のヒロインは、実はニューハーフ!!』
 匿名の看護婦の証言が長々と掲載された上に、麗子の写真がでかでかと載っていた。しかも、麗子という名前は当然のことながら偽名で、以前岡山にいたときに同僚の履歴を詐称したものだとまで書かれていた。
 さらに、元男性であることを隠して、男と関係を持ち、その魅力に取り付かれた男と結婚の約束までして貢がせていたとも書かれていた。
 会社には出て行けなくなった。アパートの管理人からは、早々に出ていってくれと汚いものを見るような目で言われた。
 顔写真が出た以上、どこに行ってももはや女として生きていけなくなった。麗子は絶望に打ちひしがれていた。
 (何の恨みがあるの? わたしが男だったなんてばらさなくてもいいのに・・・・)
 匿名という看護婦を呪った。しかし、どうしようもなかった。いくら呪ったところで、元に戻しようがないのだ。

 麗子は、普通の女としては生きていけなくなった。しかし、死ぬと言うことは考えなかった。
 (仕方がない。大阪か、東京に出て、ニューハーフを売り物にして生きよう)
 そう決めて引っ越しの準備を始めた。バッグに必要なものだけを詰めて、テレビやタンスなどは古物商に売り払った。
 そろそろ出ていこうとしたとき、アパートのドアがノックされた。
 「だれ?」
 「松浦麗子さんはこちらでしょうか?」
 聞き覚えのある女性の声がした。まさかと思いながら、麗子はドアを開いた。ドアを開いたまま、麗子は目の前にいる女性を見つめた。
 その女性は、麗子が年を取ったらそうなるだろうという顔をしていた。
 「ああ、やっぱり、健介なのね」
 そう言いながら、その女性は麗子に抱きついてきた。
 「母さん・・・・」
 松浦麗子こと石田健介の母だった。
 「康介が週刊誌を持ってきて、あなただって言うから、確かめに来たの」
 「康介が・・・・」
 康介は、ふたつ下の弟だ。
 「母さんと一緒に帰りましょう?」
 「でも・・・・」
 石田家は田舎にある旧家だ。戻ったらどんなことを言われるか想像がついていた。
 「他人の目が気になるのなら、最初から女になろうなんて思わなければいいんじゃないの? 健介! あなたは自分の信念を貫いて女になったのでしょう? もっと胸を張って。さあ、帰りましょう」
 この時、健介は母は強いなと思った。健介ばかりでなく、母も同じ好奇の目に晒されることがわかっているのに、健介を連れて帰ろうというのだ。
 健介とて帰りたくなかったわけではない。むしろ帰りたかったと言ってよい。しかし、家族に迷惑が掛かると思っていたから帰るに帰れなかったのだ。
 「何も心配しなくていいわ。さあ」
 健介は手をさしのべてきた母の胸にすがっておいおいと泣いた。

 それから健介は母と共に仙台へと向かった。

 駅前の町並みがずいぶんと変わっていた。見覚えのある店がかろうじてそこが仙台だと健介に思わせた。しかし、それも実家が近くなってくると、近くに一戸建ての住宅団地が造成されたりしてはいるものの、見覚えのある風景ばかりに変わっていった。
 健介の実家の周りは、何世紀も置き去りにされたような佇まいを見せていた。健介は母とともに実家の前でタクシーを降りたった。
 「さあ、入って」
 母に促されたけれども、健介は入り口で躊躇っていた。
 「さあ!」
 怒ったように母が健介の手を引いて無理矢理家の中へと連れて入った。
 「荷物を部屋に置いてきなさい。お父さんが待っているはずだから」
 「お父さんが・・・・」
 父はどんな反応を見せるだろうかと健介は不安の表情を見せた。
 (怒られるだろうな。怒られるだけですむだろうか? 死ぬほど殴られるかも・・・・)
 何しろ健介は石田家の長男で跡継ぎだったのだ。父の怒った顔が脳裏に浮かんだ。
 「さあ、早く」
 「荷物はどこに?」
 「どこにって、あなたの部屋に決まっているでしょう?」
 「わたしの部屋がまだあるの?」
 「当たり前でしょう? あなたはこの家の・・子供なんですから」
 健介の母は、言い淀んで『子供』と言った。母は長男と言おうとして躊躇い言葉を換えたことが理解された。健介は、自分はもはや石田家の長男ではないことをあらためて確認した。

 廊下を進み自分の部屋の引き戸を開くと、そこは健介が高校1年の夏休みを終えて東京へ戻ったときのままだった。その部屋だけは時間が止まっていたように思えた。掃除だけは行き届いているようで、かび臭さも淀んだ空気の臭いもしなかった。
 健介はバッグを足元に置き、部屋を出て奥のトイレに行って用を足したあと、洗面所の鏡に向かって口紅を引き直した。
 鏡を見ながら母の言葉を思い出した。
 『他人の目が気になるのなら、最初から女になろうなんて思わなければいいんじゃないの? あなたは自分の信念を貫いて女になったのでしょう?』
 (後悔していないわ。父には毅然として対処しよう)
 意を決して健介は、父の待つ居間へと向かって歩いていった。

 居間は静かで人のいる気配がしない。健介は、廊下に両膝をついて両手で障子戸を開いた。居間にはふたりの男がいた。上座に座っているのは、健介の父・朔太郎だ。その向かい側、健介に背を向けているのは誰だかわからない。
 健介は、スッと居間の中に滑り込んで正座して両手をついて頭を下げた。父は健介の姿を認めたはずなのに無視したように杯を口元に運んだ。もうひとりの男が健介の気配に振り向いた。
 「なんだ? 母さんかと思ったら・・・・。君は誰?」
 健介は頭を上げて、その男を見つめた。父に似たその男、母さんかと思ったという言葉から、弟の康介だと思った。
 「康介?」
 「康介兄さんじゃないよ。伸介だよ。・・・・もしかして、健介兄さん?」
 健介は、ほんの一瞬戸惑い、そして頷いた。
 「ホントに健介兄さんなの?」
 伸介は、まじまじと見つめた。
 「女になったって言うのは、ホントだったんだね」
 健介は頷く。毛嫌いされるかと思ったのに、嬉しそうな顔をしてくれて健介はちょっと安心した。
 「信じられないよ。若い頃の母さんの写真にそっくりだ。ねえ、父さん?」
 「そんなやつは知らん!」
 父親はプイと顔を背けた。その時、母親が料理の載った盆を持って入ってきた。
 「知らないってことはないでしょう? 間違いなく、あなたの息子よ」
 「どこに息子がいる?」
 吐き捨てるように言って、杯をグイと上げた。
 「そうだったわね。娘だったわね」
 「儂に娘はおらん!!」
 健介の顔を見ないで、酒を注ぎ続ける。
 「そう言わないで、久しぶりに帰ってきたんだから歓迎してあげなさいな」
 「歓迎なんぞ、できるものか! 石田家の誇りを汚しよって!!」
 父は杯をテーブルの上にバンと叩きつけた。中に残っていた酒がテーブルの上に飛び散った。
 「女になることが、石田家の誇りを汚すことになるんですの?」
 「あ、当たり前だ! ・・・・情けない。石田家から、こんな情けない男が出るなんて・・・・」
 「どうして情けないのですか?」
 母は父に詰め寄った。
 「情けないから、情けないと言ってるんだ!! 女になんぞなりおって」
 「あなたの言い方を聞いてると、女は男に比べて劣るというふうに聞こえますけど、そうなんですの?」
 母は落ち着いた言葉で父に尋ねた。
 「そ、そんなことは言っていない」
 父は思わぬ母の攻撃に狼狽えている。
 「じゃあ、別に女になったっていいじゃないですか? 健介は男でいたくなかった。女になりたかった。だから女になった。それでいいじゃないですか?」
 「よくない! 世間様がどう言うか」
 父は杯をあおった。
 「あら? 結局世間がどう言うか、それが怖いんですね? あなたは。あなたがそんな意気地なしとは思いませんでしたわ」
 「なにい?」
 「そうじゃありませんか? 世間様がどう言おうと、あなたは今まで自分の考えを押し通してきたじゃありませんか」
 父は言葉に詰まった。
 「あなたが、健介をお認めになればそれですむことです。それに、これは石田家の問題です。他人様に、石田家のことに口出しをなんかさせてよろしいんですか?」
 父の旗色は完全に悪かった。反論する言葉が見つからなかったのだ。
 「ともかく、儂はこんなことは認めんぞ。出て行け。儂の前に顔を見せるな!」
 両手をわなわなと震わせて、父は健介を睨み付けた。
 「健介に出て行けと言うのなら、わたしも出ていきます」
 「な、何!」
 「あなたがそんなに度量の狭い人だとは思いませんでした。わたくし、お暇させていただきます」
 母は両手を畳みについて頭を深々と下げて、健介の手を引いて立ち上がった。
 「ちょ、ちょっと待て。どうしておまえまで出ていくんだ?」
 「あなたがこの子を守ってあげないと言うのなら、わたしが守ってやるしかないでしょう? この子はわたしがお腹を痛めて産んだ子なんですから」
 ありがたかった。ここまで自分のことを思ってくれる母が。その母に相談もなしに女になってしまったことが後悔された。健介は涙を流した。
 「わかった。儂の負けだ。座れ」
 「健介のこと、許していただけるんですね?」
 「・・・・仕方がない。しかし、この娘が健介だと言いふらすのは止めてくれ」
 父はやはり世間体を気にしていた。
 「そうね。そんなところで手を打ちましょう。遠縁の娘が遊びに来ていることにしましょう。それでいいわね、あなた?」
 「あ、ああ」
 父は目を伏せたまま杯をあおった。
 「健介、こちらに来て、一緒に食事をしなさい」
 母は手招きをした。康介も席を空けてくれたので健介は、頭を下げてテーブルについた。
 「さあ、健介。お箸よ」
 母は女物の箸を指しだした。
 「母さん、今の兄さんに、健介はおかしいよ。ねえ、兄さん?」
 「兄さんって言うのもおかしいわね」
 康介は頭を掻いた。
 「そうね。健介が生まれるとき、女だったら付けようと思っていた名前があるの。それでいいかしら?」
 健介は頷いた。
 「なんて名前?」
 康介が興味津々で聞きただした。
 「春菜って言うんだけど、いいかしら?」
 「母さん、どう書くんだよ?」
 「春夏秋冬の春に、菜っぱの菜て書くのよ」
 「春夏秋冬の春に、菜っぱの菜か。いいじゃないか。ねえ、にい、姉さん?」
 「え、ええ。いい名前だわ」
 健介は頷いた。
 「じゃあ、それに決まりだね」
 三人が和気藹々と話をしている間、父は苦虫をかみ殺したような表情をして杯を重ね続けた。

 「ただいま」
 「康介が帰ってきたわ」
 母が立ち上がって迎えに出ていった。健介は横座りしていた姿勢を正して正座し直した。康介と母が何か話しているのが聞こえてきた。
 がらりと障子が開いて康介が顔を現した。健介の顔を見ると、満面の笑顔を見せた。
 「やっぱり、兄貴だったのか」
 「ただいま」
 健介は両手をついて頭を下げた。
 「よく戻ってきてくれたね。嬉しいよ」
 「心配かけてごめんね」
 「いいさ。でも、女になっちゃったら、この家は継げないな」
 「当たり前だ!!」
 父が不機嫌そうに言った。
 「康介に負担が掛かることになるけど、いい?」
 「いいも悪いも、どうしようもないだろう?」
 「そうね」
 「儂は寝るぞ!」
 父は立ち上がって居間を出ていった。健介は殴られないですんだと、ちょっとホッとしていた。
 「なんだい? 怒ってるのか?」
 康介が父親の出て行った方を顎で刺しながら言った。
 「期待していた長男がこんなことになってしまったんだもの。怒るのは当然よ」
 母が答えた。
 「怒ったってしょうがないのに」
 「まあ、父親としては、ニコニコ笑って受け入れるわけにもいかないでしょう?」
 「それもそうか」
 簡単に受け入れる方もちょっとおかしいかなと健介は心の中で思っていた。
 「話は戻るけど、兄貴が行方不明のままだったら、俺が家督を継がなきゃならないんだから、兄貴が見つからなかったと思えばいいことなんだ」
 「それはそうだけど・・・・」
 「兄貴は気にしなくていいよ。覚悟はできてるんだから」
 「ありがとう」
 自分の我が儘がいろいろなところに負担をかけていると思うと辛くなった。
 「康介兄さん、兄貴はおかしいだろう?」
 「あ、そうだな。じゃあ、今から姉貴だな」
 「そうだよ。それから、康介兄さんが帰ってくる前に、これからの呼び名を母さんと相談して決めたんだ」
 「なんて決めたんだ?」
 「春菜という名前なんだ」
 「春菜? アア、母さんがいつも言ってた名前だな。女の子ができていたら付けたいって言ってた」
 母が頷いた。
 「それでね。健介兄さんが女になったなんて言えないから、遠縁の従姉が来ていることにしようってことになったんだけど、それでいいだろう?」
 「本来はきちんと公表すべきだろうけど、親父のことを考えれば、それがベストの選択だろうな。兄貴じゃなかった、姉貴もそれでいいね?」
 「ええ。戻ってこられただけで、充分だから」
 「じゃあ、そういうことで。アア、腹減った。飯、飯」
 母が飯を注いでやり、夕食が再開された。

 「ところで、姉貴。あそこはどうなってるんだ?」
 飯を食べながら、突然康介が口を開いた。
 「あそこって?」
 「あそこだよ」
 「ああ、あそこのこと。切っちゃったわ」
 健介は母の方を見た。体を傷つけたことをちょっと悪いなと思ったからだ。
 「切った。そうか、ないのか。あれも作ってあるのか?」
 健介はもう一度母を見た。母は素知らぬ振りをして箸を進めていた。
 「ええ、ちゃんと作ってもらったわ」
 「へえ。・・・・男とやれるのか?」
 母がふたりをじろりと見た。
 「母さんがいるのよ」
 「母さんさんだって、知りたいだろう? なあ、母さん?」
 母は複雑は表情を浮かべ返事をしなかった。康介は、ちょっと声を潜めて話を続けた。
 「やれるんだよな」
 「・・・・ええ」
 「やったことあるんだろう?」
 「どうしてそんなことを聞きたいの?」
 「単なる興味」
 「わたしが元々女だったら、姉にそんなこと聞くの?」
 「あ、まあ、それはないな」
 「じゃあ、聞かないでよ」
 「姉貴の場合はちょっと違うからな。聞きたいんだ」
 「そんなに聞きたいのなら、言ってあげるわ。やったことあるわ。それもひとりやふたりじゃない。結婚を申し込まれたことだってあるわよ。週刊誌に書いてあったでしょう?」
 「へえ。誰も気がつかなかったのか?」
 「気がつかないわよ。綺麗にできてるから」
 「見せてくれなんて、無理だよな」
 「当たり前でしょう? もう止め!! ご飯を食べましょう?」
 きっぱりと言われて、康介は諦めて箸を動かした。