第12章 浮かんだ疑問

 麗子は旅立つ準備をしていた。こうなることを予想して荷物はそんなに多くはない。衣服や化粧品などをバックに詰めればそれで終わりだった。
 (飲酒運転なんてさせなければ・・・・)
 何度そう後悔しただろうか? しかし、その日はふと事故直前の場面が目に浮かんだ。
 (あの時、・・・・あの時、真田さんの車は確かに何度か中央線をはみ出していた。だけど・・・・、ぶつかる寸前には左車線にいた。そう、確かに左車線にいた。相手の車が真正面に見えて、右にハンドルを切ったわ。ぶつかるのを避けるために。そしたら、相手の車も右側に曲がってきて・・・・そして、ぶつかった。そう、そうだったわ。真田さんがハンドルを右に切らなければ、いえ、相手の車が左車線に戻らなければ、正面衝突なんて避けられたはずだった)

 麗子は早速警察署に行き、その事実を報告した。
 「今頃そんなことを言われてもねえ。もう決済済みの事件だから」
 担当だった事故係の巡査はまったく乗り気ではなかった。
 「真田さんの名誉がかかっているんですから、もう一度調べてください!」
 「飲酒運転で事故を起こしておいて名誉も糞もあるか。何度も言うが、もう決済はすんでいるんだ!」
 声を荒げてそう言うと、まったく取り合ってくれなかった。麗子は、警察を動かすのは無理だと判断した。

 麗子は保険会社に出向いて、そのことを話した。保険会社としては、100対0が90対10にでもなれば、支払いが違う。まして今回は死亡事故なのだ。早速動き始めた。
 麗子には見せてもくれなかった事故検分書のコピーが手に入ったと連絡があったのは、それから一週間後のことだった。
 「タイヤの跡からすると、真田さんの車が右車線に出て、左車線を走っていた沖中さんの車に衝突したとしか判断できないねえ」
 何度見ても、そのように記載されてあった。
 「こんなの嘘よ」
 「しかし、その証拠がない」
 麗子は考え込んだ。
 「過労運転だった可能性は?」
 溜息をつきながら担当者は言った。
 「調べてみましょう。しかし、それがわかったところで、この検分書を覆せないですよ」
 「真田さんが100パーセント悪いんじゃないってことがわかればいいんです」
 「わかりました」
 あまり気がなさそうだった。確たる証拠は事故検分書がすべてなのだ。仕方ないだろうなと思った。
 翌日、保険会社の担当から電話が入った。
 《沖中さんは、営業マンなんですけどね。成績優秀で大抵6時に会社を出ていたそうです。あの日も6時少し前に会社を出ていますね。酒も晩酌に缶ビールを一本飲む程度、車で走り回るのだけが趣味のようです。過去に事故を起こした記録はなく、違反で検挙されたこともないようです。これはもう無理ですね。諦めてください》
 電話が切れた。
 (真田さん・・・・、諦めるしかないの?)
 ドラえもんの道具のように、見たものが映像化される機械でもあればいいと思ったが、そんなものは現実に存在しない。結局泣き寝入りするしかないと麗子は涙を流した。

 麗子は事故現場へやってきた。何度か降った雨で事故の痕跡は薄れていた。わずかに残ったタイヤ跡は、事故検分書を裏付けるものだった。麗子は力無く山を下った。
 その足で真田の車を見に行った。無惨にへし曲がった真田の車が廃車置き場の隅に野晒しになっていた。そのすぐ隣に事故の相手である沖中の車がやはり放置されていた。運転席側はぐしゃぐしゃに潰れていて、運転していた沖中が即死だったことが如実にわかった。ほとんど壊れていない助手席側に回ってみて、沖中が娘を助けるためにハンドルを切ったことが理解できた。
 (だけど、あの事故はあなたが右車線を走ったのが原因なのよ。・・・・その証拠はわたしの頭の中にしかないけど・・・・。でも、どうして右車線を走っていたの? ただの暴走族じゃなかったんでしょう? 走るのが好きなただの中年男性だったんでしょう?)
 助手席の中を覗き見て、麗子はレジャーポットを見つけた。何故かわからないが、それを手に取れと言っていた。助手席のドアを開いて、そのポットを手にした。蓋を開いてみると中身が入っていた。コーヒーの臭いがした。
 (コーヒーか。眠気覚ましかしら?)
 ポットの中を覗いてみた。ポットの底に何やら"オリ"があった。
 (なんだろう?)
 得体の知れない力に動かされて、麗子はそのポットを持ち帰った。それから、覚えていた岡山の電話番号に電話した。
 「もしもし、冴子です」
 冴子というのは、麗子が岡山で名乗っていた名前だ。相手は、しばらく同棲していた男だった。
 《冴子! 君なのか?》
 「ええ」
 《今どこにいる? どうして姿を消した?》
 「ごめんなさい。・・・・あなたが嫌いになったわけじゃないの。わたしはあなたに相応しい女じゃないの」
 《どうしてそんなことを言う? おまえほど愛した女はいない》
 「ありがとう。でも、あなたと一緒にいられないわ」
 《なら、何故電話をしてきた?》
 「あなたにお願いがあるの」
 《お願い?》
 「そう。あるものを分析して欲しいの」
 《分析?》
 「そう。あなたの専門でしょう?」
 相手の男・沢渡慎仁はある薬品会社の研究室にいた。薬品の分析などお手の物だった。
 《ぼくの元に戻ってくれるって言うのなら、頼まれてやってもいい》
 麗子はしばらくの間考えた。リスクは犯したくなかった。いい思い出のままでいたかった。真田の件に深入りしても何のメリットもないことはわかっていた。しかし、このコーヒーの中身を分析しなければならないとの天の声がした。
 「結婚だけはできないわ。それでいいのなら」
 《わかった。君がそばにいてくれればいい。いつこっちに来る?》
 「明日にでも行くわ」
 何を馬鹿なことをやっているんだろうと思いながら、麗子は翌日岡山へと向かった。コーヒーの入ったポットを抱えて。

 バスで駅に行き、JRに乗って新幹線へ乗り継ぎ、岡山駅で降りたのは夕暮れ時だった。そのまま沢渡を訪ねるか、翌日にするか迷ったけれど、早く結果を知りたかった。沢渡に電話を入れた。
 「もしもし、沢渡さん?」
 《冴子か? 今どこだ?》
 「岡山駅前よ」
 《10分もあれば来られるな》
 その言葉を聞いて、待っていてくれたことを悟った。
 「ええ、すぐに行きます」
 麗子は駅前でタクシーを拾って沢渡の研究室へと向かった。

 薬品会社の前に着くと、沢渡が人待ち顔で待っていた。麗子の姿を認めると相好を崩して近づいてきた。
 麗子の顔をジッと見つめ、そして抱きしめた。強く。
 「慎仁、人が見てるわ」
 「いいんだ」
 薬品会社の関係者らしい男たちがニヤニヤしながら通り過ぎていった。数分たって、沢渡はようやく麗子から離れた。
 「どれだ?」
 「このポットに入っているわ」
 麗子はバッグの口を開いてポットを見せた。
 「すぐに取り掛かろう」
 沢渡は麗子の手を引いて研究室へ歩き始めた。

 沢渡はポットの中を覗き込んだ。
 「確かに何か沈澱物があるな」
 「そうでしょう?」
 「何を調べる?」
 麗子にもわからなかった。しかし、新幹線の中で考えていたことを口にした。
 「覚醒剤とか、そんなものかも」
 「覚醒剤ねえ。その可能性があるのか?」
 「わからないのよ。・・・・ともかく車の運転に支障が出るようなものが入っていないかどうか調べて」
 「・・・・わかった」
 沢渡は早速分析に掛かった。ポットの中にピペットを差し込んで、沈澱物を取り出していくつかの試験管に分配すると試薬を滴下した。
 「なるほど、なるほど」
 「なんなの?」
 「まあ、ちょっと待てよ」
 沢渡は、麗子がそばにいないかのように分析に熱中し始めた。麗子は部屋の隅に置かれていた椅子に腰掛けて沢渡の背中をジッと見つめていた。
 「およそわかったけど、最後の確認をしよう」
 30分ほどして沢渡は機械の中に液体を注入すると麗子の方を振り返った。
 「さて、結果が出るまで30分はかかるが」
 麗子は沢渡を見返した。
 「誰も来ない?」
 沢渡は腕時計を見た。
 「見回りはいつも午後10時だ。まだ2時間もある」
 麗子は、窓際に行ってブラインドを閉めた。沢渡はドアに鍵をかける。以前ふたりが一緒に暮らしていたとき、遅くまで働いていた沢渡のために麗子は夕食の弁当を持ってきてやっていた。そんなとき、時々人目を盗んでセックスにふけっていたのだった。
 ふたりは抱き合い、長い長いキスを交わした。やがて麗子は沢渡の前に跪き、ズボンのファスナーを降ろす。沢渡のそこははち切れんばかりになっていた。トランクスの中からそれを取りだし舌を這わせ銜える。その根本に麗子の唾液がゆっくりと流れ落ちていった。頭を前後に動かし続けると、沢渡の口から呻き声が漏れてきた。
 「冴子、おまえの中に、おまえの中に出したい」
 「いいわ」
 麗子は立ち上がって机に両手をついて腰を突き出した。沢渡は後ろから麗子の双球を揉みしだき、スカートの裾を捲り上げてショーツを降ろした。
 沢渡の指が麗子の敏感な部分を撫で回し、すっと濡れた陰穴へと差し込まれる。
 「はあっ・・・・」
 麗子は腰を振った。
 「早く・・・・」
 沢渡は麗子の女陰にいきり立ったものをあてがい、ゆっくりと押し上げた。
 「ああ、いい・・・・」
 腰に両手をあてがい、沢渡は抽送を繰り返した。麗子は両手をついたまま頭を振り、腰を左右に振った。
 「さ、冴子、行きそうだ」
 「行って。行って、早く・・・・」
 麗子の中で沢渡が倍になったような気がした。突き抜ける快感で、麗子は一瞬意識が途切れた。
 「はうう・・・・」
 沢渡の吐息が麗子の耳元に掛かった。
 「待って。抜かないで。このままわたしの中にいて」
 腰を引こうとする沢渡を制して、結合したまま麗子は余韻を楽しんでいた。
 「ああ、慎仁、慎仁。あなたがわたしの中にいるのね。アア、ずっとこうしていたい・・・・」
 麗子は貫かれる喜び、女としての喜びに浸っていた。
 「どうしてぼくの元からいなくなった?」
 耳元で沢渡が囁いた。
 「・・・・言えない」
 「言え!」
 沢渡は突き上げる。
 「ああっ!」
 「言わないか!」
 「だ、駄目。言えない・・・・」
 「これでもか!!」
 もう一度突き上げた。
 「ああ、慎仁、もう止めて。お願い。言えないの・・・・」
 涙を流し始めた麗子に、慎仁は諦めて引き抜いた。沢渡がズボンをあげている間、麗子は内股を伝い落ちていく粘液をティッシュで拭い取ってショーツをあげて服装を整えた。

 機械から電子が響いてきた。分析が終わった合図だ。沢渡は消沈した表情で機械の前に座って分析結果を見つめた。
 「どう?」
 ちょっと離れたまま麗子は聞いた。
 「やはりバルビツール系だ」
 「バルビツール系? なに? それ?」
 「睡眠薬の一種だ」
 「睡眠薬!」
 「そうだ。もう少し分析すれば、薬物が何であるかわかる。そこまで必要か?」
 「そこまでわかれば、あとは警察にやって貰うわ」
 「警察? 何かの事件なのか?」
 沢渡は、麗子が巻き込まれた事故のことを知らない。教えたら、押しかけられるかも知れないし、ドクターに接触されたりしたら、女でないことがばれてしまう。沢渡には、麗子は女であるという思い出だけを残して欲しかった。
 「大したことはないわ。・・・・ありがとう。無理を言ってごめんね」
 麗子は出口へ向かった。沢渡はその行く手を遮る。
 「ぼくが悪いのなら改める。どこが悪かったか教えてくれ!」
 膝をついて麗子の腰に手を回して沢渡は懇願した。
 「あなたの、あなたのせいじゃないの」
 再び麗子の目に涙が浮かんだ。
 「じゃあ、理由は何なんだ?」
 「言えない・・・・。わたしのことは諦めて。わたしは存在しない女なの。わたしは幻なの」
 「何が幻だって言うんだ。冴子はこうしてここにいるじゃないか」
 「わたしのことは諦めて。お願い」
 麗子は沢渡の手を振り切って闇の中へと駆け出していった。