第10章 麗子の憂鬱

 時は少し遡る。日時はあの事故当日。場所は沖中たちが運び込まれた救急病院のICUの中。外科医の坂井が救急部の岡田を前にして腕組みをしていた。
 「命は助かりましたけどね」
 「君の腕は大したものだよ」
 「またまた。そんなお世辞を言っても何も出ませんよ」
 「お世辞じゃないよ。君がいたからこそ助かった患者も多いんだから」
 「そうですかね」
 坂井は腕がいいのに自慢する男ではなかった。だから岡田は一目置いていた。
 「・・・・ところでどうします?」
 「どうって?」
 「ICUにいる間はいいですよ。男女の別がないですから」
 「あ、そう言うことか」
 ICUには10床のベッドがある。そのうちの9床が埋まっていて、松浦麗子以外に男が5人と女が3人いた。岡田は、松浦麗子のベッドを見遣った。松浦麗子は呼吸がまだ安定しておらず、気管内挿管されたままだった。人工呼吸器は補助呼吸にセットされていて、松浦麗子の呼吸が弱いときだけアシストするようになっていた。
 「いつ一般病棟に出られる?」
 「来週には」
 「来週か。差し迫った問題だな」
 岡田は口を真一文字に結び、腕組みをして考え込んだ。
 「そうなんですよ」
 「男部屋に入れるわけにはいかないな」
 「もちろんでしょう。あの容姿ですからね」
 手術のために衣服をすべて剥ぎ取られて全裸になったときでさえ、誰も松浦麗子が女ではないことに気がつかなかった。導尿をした看護婦が気がつかなければ、こんな問題は起こりえなかった。
 カルーセル麻紀が大麻所持で警察に逮捕されたとき男性用の監房に入れられたらしいが、松浦麗子は犯罪者ではない。外見が完全に女性である松浦麗子を男部屋に入れるわけにはいかないのは当然だと岡田は思った。
 「かといって女部屋に入れるのは同室者が嫌うだろうな」
 「一番いいのは個室に入れてしまうことですが」
 「差額ベッド代は誰が出す? 名前だけで身元がはっきりしないんだぞ」
 松浦麗子の書いた履歴書から会社が家族に連絡を入れてみたけれど、使われていない電話番号だったと言うことだった。
 「彼女が男だということを知っているものはどれくらいいる?」
 「手術室のメンバーとICUのメンバー、それにあなたくらいでしょうか?」
 「口止めをしておいて、女部屋に入れるか?」
 「・・・・それが無難でしょうかね?」
 「それ以外の方法は思いつかんが・・・・」
 「そうしましょうか」
 坂井は、この秘密を漏らしたら馘首だと脅しをかけて看護婦たちに口止めして、翌週回復した松浦麗子を一般病棟へ送り出した。

 松浦麗子は、憂鬱そうに窓の外を眺めていた。窓から救急車の入り口が見えた。ひっきりなしに救急車が入り、病人を中に運び入れていた。憂鬱なのは傷の痛みだけのせいではなかった。隠していた秘密が他人に知られたからだ。

 イージーリスニングが微かに聞こえる真っ白な部屋で目を覚ましたとき、松浦麗子は喉に入れられているチューブの苦しさとひどいお腹の痛みを覚えた。目の端に看護婦の姿が目に入り、彼女がいる場所が病院の一室だとわかってホッとした。真田の運転する車が下ってきた車と衝突したときの衝撃を思い出すとき、生きているのが不思議だと思った。
 「目が覚めました? 痛くないですか? あ、そうそう。喉に管が入っていますから、まだ喋ることができないのよ。先生がもうすぐ抜いてくれると思いますけど、少し我慢してくださいね。痛かったら、手を握ってみて」
 松浦麗子は、手を握って痛みを訴えた。
 「そう? じゃあ、痛み止めをしますから、少し待ってね」
 看護婦は遠ざかり、しばらくして尻に注射された。
 (真田さんはどうなっただろう?)
 気になりながらも尋ねることができないまま、麗子は痛み止めのせいで眠りに落ちていった。
 数時間して目が覚めたとき、目の前に医者がいて、麗子の腹部を消毒していた。
 「よしよし、出血はない」
 そう言いながら満足そうに頷いていた。
 「目が覚めたかな? 気分はどうだい?」
 そう言ったあとに医者は舌を出した。
 「挿管していたんだね。そうだな、換気量は充分だから、今から抜いてあげよう。看護婦さん、抜管の準備だ」
 看護婦の返事が聞こえ、医者が口の周りに貼られたチューブを固定しているテープを取り除き始めた。
 「ちょっと苦しいかもしれないよ」
 ちょっとどころではなかった。チューブの中に溜まった痰を取り除くと言って細い管が入れられたとたん、息ができなくなり咳が出た。その咳のためにお腹の傷が激しく痛んだ。
 「さあ取れたよ。楽になったでしょう?」
 息は楽になったけど、痛みで麗子は打ちのめされていた。
 「しばらく深呼吸していたら、痛みはなくなるから」
 そう言って今度は痛み止めをしてくれなかった。彼女は我慢するしかなかった。痛みは次第に遠のいて行き、やがて彼女は眠りに落ちた。
 目が覚めてから麗子はICUの中を見回した。
 (真田さんがいない・・・・。まさか・・・・)
 麗子は看護婦を呼び止めて尋ねた。
 「わたしと一緒に車に乗っていた人は? 真田さんはどうなりました?」
 看護婦は、言いかけて言葉を飲み込み、ステーションの方へ戻って他の看護婦と何やらこそこそと話していた。しばらくして看護婦が戻ってきた。
 「察しはついていると思いますけど、真田さんはもうこの世にはいません。即死でした。苦しまなかったのがせめてもの救いです」
 看護婦が言うように察しはついていた。しかし、はっきりとその事実を聞かされ、麗子は大声を上げて泣いた。いつまでもいつまでも涙がこぼれ落ちた。

 それから三日後、経過がいいと言うことで一般病棟に移動することになった。外科の担当医である坂井が麗子のベッドサイドにやってきて、ちょっと言いにくそうに言った。
 「松浦さん、ひとつ言っておかなければいけないんだ」
 「なんでしょうか?」
 坂井は、周りを見回して、他の患者に聞こえないくらい小さな声で麗子に言った。
 「あなたには他人に知られたくない秘密がありますね」
 麗子はギョッとして坂井の顔を見た。
 「心配しないでいいよ。知っているスタッフには硬く口止めしてあるからね」
 だったらなんだと言うんだろうと麗子は思っていた。
 「これから移る部屋は女部屋なんです。あなた自身があなたの秘密をばらすことはないとは思いますけど、決して悟られないようにしてください。ばれたら、とんでもないことになりますから。いいですね」
 「もちろんです。これまで一度もばれたことはないんですから」
 「じゃあ、くれぐれもよろしく」
 ICUを出ていく坂井の後ろ姿を見ながら、麗子はハアと溜息をついた。性転換手術を受ける前ですら麗子は男だと疑われたことはなかった。手術を受けた後も、セックスした男の誰も気がつかなかった。
 (それなのに・・・・)
 相手は医者や看護婦なのだ。しかも、明るいところで彼女のその部分を見ているに違いなかった。
 (ばれたものは仕方ないか。口外しないと言ってくれているし、今まで通り女として振る舞おう)
 そうは思ったけれど、やはり憂鬱だった。女部屋に移動したあと、同室者たちが何やら話していると、自分のことを話しているのではないかと疑心暗鬼になった。
 (早く退院したいよ)
 麗子は同室者とひと言も話さず、いつもひとりぽっちでベッドの中に潜り込んでいた。

 抜糸がすみ、ドレーンと呼ばれる管が引き抜かれて傷は完全に癒えたけれど退院許可が出なかった。微熱が続いていたからだ。
 「脾臓も傷ついていて摘出したからね。脾臓を取った患者さんは、こんな熱が出ることが多いんだ。もう少し様子を見させてくれ」
 坂井がやってきてそう説明した。
 「これくらいの熱、何ともないです。できれば退院させてください。ここは居心地悪くて・・・・」
 居心地悪くての部分は小さな声で言った。
 「あのことが気になるのかな?」
 「え、ええ」
 「大丈夫だから、そう神経質にならないでいいよ」
 「でも・・・・」
 「ともかく、今のまま退院させるわけにはいかないんだ。なんとか我慢してください」
 そう言うわけで、麗子の憂鬱は解消されそうもなかった。

 事故から一ヶ月目になって、麗子はようやく退院を許された。
 「ありがとうございました」
 坂井が玄関まで見送りに出てくれた。あとで聞いたところによると、そんなことをすることは滅多にないそうだ。あるとすれば有名人が退院するときで、テレビの取材が来ているときくらいなものらしい。ともかく麗子は坂井に深々と頭を下げて病院をあとにした。

 麗子は退院したその足で、真田弘勝の実家へ向かった。真田の実家は50キロばかり離れた田舎町にあった。田植えが終わったばかりの田んぼの広がる山あいに弘勝の実家はあった。
 「ごめんください」
 開け放たれた玄関の前で声をかけると、ややあって日に焼け腰の曲がった老婆が奥から出てきた。
 「どなたじゃ?」
 「わたし、松浦麗子と言います。亡くなった真田さんにお線香をあげさせていただこうと思いまして」
 「松浦麗子? 弘勝の車に乗っていたのはあんたかい?」
 老婆の表情が険しくなった。
 「え、ええ。そうです」
 「葬式にも来んで、今頃線香も何もないじゃろう?」
 「ずっと入院していて、今日退院したばかりなんです」
 「今日退院した? ふん、そうかい?」
 「お線香、上げさせていただけますか?」
 「弘勝はあんたのせいで死んだんじゃ。線香なぞ、あげて欲しくはない」
 「真田さんが亡くなったのはわたしのせいじゃありません」
 「いや、あんたのせいじゃ。あんたが弘勝に酒を勧めなければ、あんなことにはならなかったんじゃ」
 「わたしが勧めた訳じゃ・・・・」
 「言い訳はいらん! さっさと帰っちょくれ!」
 麗子を追い出すかのように玄関先まで出てきた老婆を見て、思ったより年が行っていないことに気がついた。真田の母親のようだと麗子は悟った。
 「お願いです。どうか線香を一本だけ・・・・」
 「だめじゃ!」
 あまりの剣幕に諦めて帰ろうとしたとき、納屋の方からがっしりとした若い男が出てきた。
 「何を騒いどるんじゃ?」
 男は真田によく似ていた。年格好からすれば、真田の兄に当たるのだろう。
 「こん人が弘勝に線香をあげたいちゅうんじゃ」
 「線香をあげに来た人を追い返すことはないだろう?」
 「こん人のせいで弘勝が死んだんじゃぞ」
 「はあ?」
 男は麗子を見た。麗子は男に向かって頭を下げた。
 「弘勝が死んだんは、あいつが飲酒運転をしたせいじゃろうが。何を血迷っとる?」
 「こん人が弘勝に酒を勧めんじゃったら、弘勝は死んじょらんのじゃ」
 「あ、あんた、弘勝とデートしとったちゅう人か?」
 「は、はい。松浦麗子と言います」
 「そうか。あんたか。弘勝が惚れるはずだな」
 見つめられて麗子は思わず下を向いた。
 「おふくろは、弘勝が死んでちょっとおかしくなっちょるんじゃ。儂はあんたのせいじゃとは思っちょらん。上がって線香をあげてくれ」
 「おまえがよくても儂がゆるさんぞ!」
 「おふくろは黙っちょれ。さあ、どうぞ」
 麗子は真田の母親の刺すような視線を浴びながら仏壇の前に座って線香をあげて手を合わせた。優しかった真田の顔が浮かんで涙がこぼれた。
 麗子は、それから真田の母親に向かって言った。
 「真田さんが死んだのは、わたしのせいです。わたしが強く引き留めればよかったんです。そうすれば、あんなことに・・・・」
 そう言うと、真田の母親の表情が急に緩み涙を流し始めた。
 「あんたんせいじゃない。あんさんせいじゃない。それはわかっちょるんじゃ。けど、誰かのせいにしたくて・・・・。すまんじゃった」
 そう言って頭を畳にこすりつけた。
 「お母さん。そんなふうにしないで下さい。わたしがみんな悪いんですから」
 「ふたりとももういいよ。松浦さんって言ったかな? お参りに来てくれたありがとう。弘勝も草葉の陰で喜んどるじゃろう。酒を飲んで運転したのは、弘勝が悪いんじゃ。だから、あんたも気にしないでくれ」
 「でも・・・・」
 「弘勝だって、あんたのせいにはしたくなかろう。じゃから、いいんじゃ」
 「すみません。そう言っていただけると少しは気が休まります」
 「暇があったら、またお参りに来ちょくれ。お願いします」
 頭を下げられ、麗子も深々と頭を下げた。

 ふたりに見送られてタクシーに乗り込み帰路についた。バスと電車を乗り継ぎ、アパートに帰り着いたときには日はとっぷりと暮れていた。
 一ヶ月間不在だった部屋の中にはカビの臭いが漂っていた。蛍光灯の灯が寒々とした部屋の中を照らし出す。真田の顔が浮かんで急に涙が溢れてきた。

 翌日、麗子は午前8時過ぎに職場へ顔を出した。
 「元気になってよかったわ」
 同僚である桜井嘉代子が抱きつかんばかりにして喜んでくれた。真田と仲のよかった今村論は、ふたりとも死ななくてよかったと言ってくれた。
 男子従業員にお茶を入れてやり、仕事の準備をしていると、桜井加代子が麗子に耳打ちした。
 「松浦さん、社長が部屋に来てくれって」
 「なにかしら?」
 主治医の坂井は、会社には麗子の秘密は知らせていないと断言した。だからそのことではないとは思っていた。しかし、何かしら胸騒ぎがした。
 「松浦ですけど」
 社長室のドアを叩いて名前を告げると社長自らがドアを開いて、外の様子をキョロキョロと窺って麗子を中に入れてドアを閉めた。
 「まあ、座ってくれたまえ」
 「は、はい」
 妙に丁寧な社長の態度に一抹の不安を覚えた。
 「他でもないんだが」
 そう言いながら社長は麗子の履歴書をポンとテーブルの上に放り出した。
 「それに書かれているすべてがでたらめのようだが、どうなっている?」
 沈黙が部屋の中を支配した。麗子は履歴書をジッと見つめていた。
 「名前は? 名前は本名なのか?」
 麗子は答えなかった。
 「名前も嘘なのか・・・・。君は仕事もできるし、職場にいてくれるだけで職場の中が明るくなる。できればここでずっと働いていて欲しい」
 「そうしていただくわけにはいきませんか?」
 「身元がはっきりしないとわかって雇うわけにはいかないんだ」
 「そうですか・・・・」
 麗子は肩を落とした。
 「何か事情がありそうだが、身元さえきちんとしてもらえれば、雇ってあげられるんだ。正直に話してみないかね?」
 正直に話してもやはり雇ってはもらえないだろう。
 「申し訳ありません」
 「だめかね?」
 「これまでいろいろとお世話になりました。社長には感謝しております」
 麗子は立ち上がって頭を下げた。社長はハアと溜息をついた。
 「病気療養のためということにしておくよ。いいね?」
 「ありがとうございます」
 事務所に戻ると桜井嘉代子が興味津々という顔を近寄ってきた。
 「なんだって?」
 聞かれることは予想していた。社長室から事務室までの道中で麗子は言い訳を考えていた。
 「職場復帰はまだ無理だから、自宅療養しなさいって」
 「へえ? あの社長がそんなこと言ったの?」
 麗子は頷く。
 「お給料は?」
 「傷病手当が出るんじゃないの?」
 「あ、そうか。そうだったね。・・・・どうするの? 今日はもう帰るの?」
 「安静にしろって言う心遣いだから、帰らなきゃ駄目でしょうね」
 「そうか。男たちががっかりするわね」
 「あなたがいればいいわよ」
 「またあ。心にもないことを。そんなところがあなたのいけないところよ」
 「本心よ」
 そう言って、麗子は帰宅の準備を始めた。

 男子従業員たちの目を盗んで会社を抜け出した。悲しくて涙が出た。
 (あの事故さえなければ・・・・)
 優しくしてくれる男と職場を一気に失った麗子は、悲しみに沈んでいた。
 (死んでしまいたい・・・・)
 アパートへの帰り道、麗子は本気で自殺を考えた。しかし・・・・。
 (どうやって自殺しよう。首つりは苦しそうだし、便やおしっこが垂れ流しになって汚いって言うし・・・・。ガス自殺は楽だって聞いたけど、爆発でもしたら大家さんに迷惑が掛かるわね。・・・・電車に飛び込む?)
 バラバラになった自分を想像したとき、身震いがした。
 (いずれにしても、自殺したんじゃ、解剖されるわね。そうしたら、わたしがホントの女じゃないことがわかって、下手をすれば興味本位の雑誌なんかに載るかも。そんな恥ずかしいことはできないわ。死ぬこともできない。今度はどこへ行こう・・・・)
 溜息をつきながら麗子はアパートへの道をとぼとぼと歩いていった。