バスの車窓から眺める外の街灯の明かりがまばらになってきた。そんな中に一際目立つネオンの明かりが通り過ぎていった。スーパー銭湯とカラオケが一緒になった施設の明かりだ。その明かりが消え去ると、あたりは一層暗く感じるようになる。
(次だな)
自宅近くの停留所が近づいてきて、沖中愉司は停車ボタンに手を伸ばした。ボタンを押そうとした瞬間、ピンポンと音がしてボタンに明かりがつく。同じ停留所で誰かが降りるようだ。カチカチとウインカーの鳴る音が聞こえ、バスがスピードを落とし始めたことを確かめると、沖中はスーツの内ポケットから定期券を取り出した。
座席から立ち上がろうとすると後ろの席から若い女が沖中のそばを通り過ぎて行った。香水の匂いがきつい厚化粧の女だった。
(そんなに化粧しなくても、結構美人だと思うけどな)
25,6だと思うその女の後ろ姿を見ながら、沖中は心の中で思った。
バスを降りて横断歩道を渡り自宅へと向かう。沖中のちょっと前を先ほどの女が歩いていた。不安そうな顔をして何度も振り返る。
(俺のことを痴漢か何かと思っているのだろうか?)
歩く方向が同じだけだろうに、そんなことを思われていると考えると沖中はちょっと不快な気分になった。
沖中の家から数えて4軒目の洋風の家の中にその若い女は駆け込んでいった。玄関が開き、母親らしい女性が顔を覗かせた。団地の清掃で見たことのある顔だ。沖中の顔を認めると、何だというような顔をして玄関を閉めた。恐らく娘が痴漢につけ狙われたとでも訴えて、母親が確かめに出てきたのだろう。
(痴漢に見えるのかよ)
むかついた。沖中は足を速めた。
我が家に近づくと、ジョンが嬉しそうな泣き声を上げた。沖中の足音を覚えているのだ。裏庭に回ってみると、ジョンが沖中に飛びついて沖中の顔をぺろぺろとなめた。
「こら! ジョン!! 止めろ!!」
ジョンを引き離すと、泣き出しそうな目をして沖中を見上げた。
「美津子! ジョンに飯はやったのか?」
キッチンに向かって叫ぶと、沖中の妻・美津子が勝手口から顔を出した。
「犬は一日一回なのよ。朝やったから、もういいのよ」
「そうか。じゃあ、ジョン、おやつをあげような」
沖中は勝手口からキッチンに足を踏み入れて、犬のお菓子を一個取り、ジョンのそばに戻った。
ジョンは嬉しそうに座り込んで、お手を出す。沖中はその手を取る。ジョンはお代わりを出した。その手を取って頭を撫でてやり、おやつの菓子をジョンに与えた。
「あんまり甘やかさないでね」
「わかってるよ」
沖中は、おやつを噛っているジョンを残して玄関へ向かった。
上着を脱いでネクタイを緩めていると、美津子がキッチンから顔を出した。
「そんなところに脱がないで部屋に持っていってくださいね」
不機嫌そうな声で美津子が言う。
「あ、ああ。・・・・ミチルは?」
「ミチル? まだよ」
「まだって、もう8時だぞ。部活はとっくの昔に終わってるだろう?」
「塾よ。毎週火木は塾だって何度も言ってるでしょう?」
美津子の声がますます不機嫌に聞こえた。
「あ、そうだったな」
「どうします? お風呂にします? それともお食事にします?」
「飯を先に食おう。飯食ったら、ちょっとひとっ走りしてくるから」
美津子はいい顔をしなかった。食事を先にするというのが気に入らなかったのではない。ひとっ走りして来るという夫の行動がイヤだったのだ。美津子は少しぶすっとしてテーブルに皿を並べていった。
沖中は夕食をすませるとTシャツにジーンズという出で立ちに着替えてキーボックスから車のキーを取った。
「気を付けてくださいね」
ちょっとトゲのある言い方の美津子の言葉に送られて、沖中は玄関を出て駐車場へと向かった。
駐車場には、真っ赤なシルビアが置いてある。メッシュタイプのホイルに扁平率55のタイヤを履かせてある。
運転席に乗り込み、エンジンをかけた。ツインの排気口から爆音が響く。住宅地の中ではあまり大きな音は立てられないので、そっとアクセルを吹かして駐車場を出た。
団地の出口にある信号を曲がると、沖中はアクセルを一杯に開けて県道を駆け上っていった。
(この響きがいいなあ。日頃の鬱憤を晴らしてくれる)
沖中は、小遣いの大部分をこの暴走族まがいの車の改造につぎ込んでいた。ギアを切り替え、近くの山の頂上へ続く道を、タイヤを軋ませながら登っていった。
この時間、山頂から降りてくる車はいないし、もしいたとしてもヘッドライトの灯がその存在を示してくれる。だから、沖中は可能な限りのスピードを出して登った。
山頂の駐車場に車を停めて街の灯を眺める。昼間の喧騒が嘘のようだと沖中は思った。
「さて・・・・」
腕時計を見た。午後9時少し前だった。
(そろそろミチルが帰ってくる時間だ)
沖中は車に戻り、エンジンをかけた。アクセルを踏み込むと、タコメーターがレッドゾーンに入る。
何度かエンジンを吹かしたあと、沖中は坂道を下っていった。
団地に近づくと、車の騒音がしないようにアクセルを調節して車を駐車場へ入れた。
「ただいま。・・・・あれ? ミチルは?」
玄関にミチルがいつも履いているスニーカーがなかった。
「まだよ」
美津子は、テレビに夢中で、何やら煎餅らしきものを噛りながら振り向きもせずに答えた。
「まだって、もう9時半だぜ」
「そろそろ帰るわよ」
そう言い捨てて美津子は煎餅をバリッと噛る。こんな女にどうして惚れたんだろうと沖中は後悔の念を禁じ得ない。顔じゃなくて性格で選ぶべきだったと沖中は思った。
「そろそろって、そんな呑気なことを言っててもいいのか? 女の子がこんな遅い時間にうろうろしてちゃまずいだろう?」
「大丈夫だわよ」
テレビの前に立ちはだかった沖中を押しのけるようにして美津子が言う。
「大丈夫なわけがないだろう? おまえは心配にならないのか!」
「心配いらないって。そんなに心配なら、電話してみたら?」
美津子が指さした先には電話機があった。
「電話・・・・」
沖中は受話器を取り、目の前にぶら下がっているホワイトボードに書かれている電話番号を見ながらプッシュした。
《もしもし、なあに?》
ちょっと気怠いミチルの声が受話器から戻ってきた。
「ミチル! いま、どこにいるんだ?」
《何だ。お父さんか。角の本屋さんだよ》
「早く帰りなさい。もう9時半を回ってるぞ!」
《まだ9時半じゃないの》
「中学生の女の子がうろうろする時間じゃないぞ。早く帰ってきなさい!」
《・・・・わかったわよ。帰ればいいんでしょう》
ブツッと電話が切れた。
「なんだよ。人が心配してやってるのに・・・・」
受話器をガチャンと置いて、口を真一文字に噛み締めて沖中は美津子に向かって吐き出しように言った。
「もう子供じゃないんだから、あんまり干渉しない方がいいわよ」
「中学生は子供だ」
「そんなこと言ってたら、話をしてくれなくなるわよ」
相変わらず煎餅を噛りテレビを見ながら美津子は沖中に応じた。そんな美津子の態度に腹が立った。しかし、ここで喧嘩をしても口では敵わないことがわかっていたので、キッチンへ行って冷蔵庫を開くと缶ビールを取り出してリングプルを引きぐっと飲んだ。
「あら? お風呂には入らないの?」
そうだったと思ったが、沖中は答えず、美津子の反対側に座ってビールを飲み続けた。
早く帰れと言ったのに、玄関が開いたのは午後10時を回った頃だった。沖中は怒ってやろうとソファーから立ち上がって玄関に通じるドアをばんと開いた。
「お邪魔します」
ショートカットの可愛らしい女の子が沖中に向かって頭を下げた。名前は覚えていないが、顔に覚えがある。何度か遊びに来たことのあるミチルの同級生だ。その女の子に隠れるようにしてミチルが靴を脱いでいた。父親に怒られまいと友達と一緒に帰ってきたようだ。ミチルの思惑にはまってしまうのは口惜しかったが、ここで叱りとばすことなどできない。沖中はいらっしゃいと答えた。
ふたりが階段をとんとんと登っているのを眺めたあと、沖中はリビングに戻った。
「こんな遅くにいいのか?」
「えっ? 何が?」
美津子はまだテレビに釘付けだ。
「あの娘だよ。もう10時10分だぞ」
「今から一緒に学校の宿題をするのよ」
「宿題はいいが、遅くなるぞ。帰りはいいのか?」
「わたしが送っていってあげるからいいの」
「向こうの親御さんは知ってるのか?」
「当たり前でしょう? 仲良しなんだから」
「そうか・・・・」
「お風呂には入らないの?」
「あ、うん。そうだな。そうするか」
最後の一口を飲み干して、沖中はバスルームへと向かった。
湯船に浸かりながら沖中は考える。小学生の頃はよくミチルと話をした。ミチルのことは何でも知っていると思っていた。しかし、中学に上がってからは、ミチルと話す機会が少なくなったなと思う。それに従って、ミチルのことがわからなくなってきた。
いま二階にいるミチルの同級生のことだって、名前も覚えていない。当然どこに住んでいるのかも知らない。他にどんな友人がいるのかも知らないし、担任の名前すら知らない。ミチルのことをこんなに愛しているのに、どうしてこうなってしまったんだろうと思う。
ミチルが異性としての父親を避けているとも言えるし、沖中自身が少女から女へと変貌を遂げつつあるミチルに近寄りがたいものを感じているせいなのかもしれない。
風呂上がりのビールをもう一本飲んでソファーの上でウトウトしていると、玄関に開く音がした。ミチルが女の子とお喋りをしながら駐車場の方へ歩いていくのが聞こえた。美津子の車のエンジンが掛かった。今から彼女を送っていくようだ。時計が11時半を告げていた。
翌朝、沖中がコーヒーを飲みながら朝刊を読んでいると、セーラー服を着たミチルが階段をばたばたと駆け下りてきた。
「遅刻しちゃう」
「まだ早いんじゃないか?」
時計を見ると、まだ午前7時過ぎだった。
「今日は朝練なのよ。お母さん、早く、早く!」
「お母さんが送っていくから、そんなに慌てないで座りなさい」
ミチルは、椅子に腰掛けたが、早く早くと言い続けた。
「そんなに慌てるのなら、もう少し早く起きなさい」
「だってえ」
愛くるしい目で見つめられると、わが子ながらドギマギしてしまう。沖中は新聞に目を戻して咳払いをした。
「早く食べなさい。すんだら、すぐに出るわよ」
「はあい」
美津子の並べた朝食をミチルは美味しそうに頬張った。
ネクタイを締めていると、美津子とミチルが慌ただしく玄関へ向かった。
「あなた。玄関の鍵を締めて出てね」
返事をする前に玄関のドアがバタンと閉まって、沖中は家に中にひとり取り残された。バス停まで一緒に行こうと思っていた沖中は、慌てて玄関へ向かった。
「お、おい! ちょっと待ってくれ」
鍵を締めて振り向いたとき、ふたりの乗った車が表通りに向かって走り出していくのが見えた。
「くそ!」
英語でシットだったっけと思いながら、沖中はバス停へ向かって歩き出した。
美津子と結婚した頃は、美津子のことばかりが頭に浮かんだ。今何をしているだろうかとか、昼は何を食べただろうかとか、夕食は何を作ってくれているのだろうかとか。
結婚して15年になろうとしている今、思うのはミチルのことばかりだ。セーラー服を着たミチルが、目を輝かして黒板を見つめている状景が浮かぶ。
そのミチルと以前のように話をしなければと沖中は思う。
(どうすればいいだろうか?)
一度切れた糸を継ぐのはなかなか困難だ。美津子となら、まず夜の生活を取り戻せばいいのだが、ミチルとはどうすればいいのか皆目見当も付かない。
(そう言えば・・・・)
美津子を抱いたのはいつだっただろうかと沖中はぼんやりと思った。不況で会社は四苦八苦していた。残業手当が付かないのに、サービス残業せざるを得ない状況だ。疲れて帰って、唯一の趣味である車で近くの山まで駆け上り、帰ると風呂に入ってビールを飲んで寝る。そんな生活の繰り返しで、美津子のことを振り返ってみることもなくなっていた。
(そろそろ抱いてやらないといけないかな?)
沖中はそれほどセックスに執着がない。美津子も要求してくることはない。しかし、夫婦である以上、まったくないというわけにもいかないだろうなと沖中は思った。
仕事を終えて沖中が帰宅したとき、玄関に何足かのスニーカーが並べられていた。サイズが小さく、そのいくつかにピンクのラインが入っているから、女物と思われた。
「誰か来てるのか?」
ジャージに着替えてから沖中は美津子に尋ねた。
「ええ。ミチルの同級生が来てるの」
「ほう、そうか」
時計は午後7時を回っていた。
「夕飯は食ったのか?」
「まだよ。これから」
「他の連中はいいのか?」
「そろそろ帰るでしょう? あなた、ミチルを呼んで。夕食ができたから」
「わかった」
沖中は階段の下から二階に向かって叫んだ。
「ミチル! 飯ができたぞ。降りてきなさい!!」
「はあい」
返事がして、ばたばたと何やら片づける音がし始めた。ドアがバタンと開いてセーラー服の女の子たちが降りてくる。
「お邪魔しました」
そんなふうに挨拶していく女の子たちに、沖中はちょっとはにかんだような笑顔を向けてて送り出した。
「お父さん、なにニヤニヤしてるのよ?」
ミチルが沖中の目を覗き込んだ。
「ば、馬鹿を言うな。ニヤニヤなんかしていない」
「ふふ」
ミチルは含み笑いを残してダイニングへ入っていった。そんなににやけているかなと、沖中は玄関に据えられている姿見を覗き込んだ。
「いかん」
ミチルの言ったことが正解だったと気づいて、沖中はこほんと咳払いをしてからダイニングへ戻った。
「お父さんったら、里沙のおっぱいばっかり見てたのよ」
ミチルが美津子に言いながら箸を動かしていた。
「お、おい。見てないぞ」
弁解がましく沖中は言ったが、ホントは、ミチルと同じ年令とは思えない、その里沙という女の子の胸に釘付けになっていた。
「お母さんもわたしもぺちゃぱいだから、憧れるのかなあ」
悪戯っぽい目で沖中を見ながらミチルがさらに追い打ちをかけた。
「止めてくれよ。ミチル、おっぱいは大きい方がいいってもんじゃないんだ。要は感度だな」
「あなた! なんてこと言うの!!」
ミチ子に睨み付けられて、沖中は小さくなった。ミチルがフフフと笑いをかみ殺していた。
「今日は車に乗らないの?」
「ミチルと一緒のことなんて久しぶりだから、先に飯にしよう」
「そうですか。じゃあ」
美津子が飯の入った茶碗を差し出した。沖中は、嬉しそうな目でミチルを見つめながら飯を頬張った。
夕食がすむと、珍しくミチルが沖中に話しかけてきた。
「ねえ、お父さん?」
「なんだ?」
沖中は笑顔を向けた。
「今から走りに行くの?」
「あ、どうするかな?」
「わたしも乗っけてくれない?」
「乗りたいのか?」
「うん」
願ってもないと、沖中は立ち上がってキーを手に取った。
「危ないわよ」
美津子が止めに入る。
「危なくなんかないさ。行くぞ、ミチル」
心配そうな美津子を尻目に沖中はミチルを連れて車庫へと向かった。
「シートベルトをしろよ」
助手席に乗り込んできたミチルに向かって言う。
「わかってるわよ」
エンジンをかける。
「わあ、外で聞くよりいい音だわ」
「そうだろう?」
沖中は胸を張る。
「行こう、行こう」
「よし」
車を発進させ、いつもの山に向かった。
いつもは見るものがいない。ただ、自分で自分のテクニックを褒める状態だ。しかし、今日はミチルがいる。沖中は、自分のもてる能力一杯のテクニックを使って山を上って行った。
「わああ。きゃああ」
ミチルは悲鳴と言うより歓声を上げながら、シートにしがみついていた。
「夜景が綺麗ね」
山の頂上から見下げる街の灯を見ながら、ミチルが感嘆の声を上げた。
「イヤなことなんか忘れてしまうだろう?」
「うん。明日も連れてきてくれる?」
「もちろんだよ」
沖中は嬉しさのあまり泣き出しそうになった。
その日以来、ミチルが塾で遅くなる日を除いて、沖中はミチルを助手席に乗せてドライブを楽しむようになった。